3月 29 2012
宗教のおかしさ②
このような堕落した僧たちの風潮を改めるため、明治維新の時に、この檀家制度は一度廃止されます。
しかし、それを仏教復興運動の名の下に僧たちが明治政府に圧力をかけ、復活させたものが今日ある檀家制度です。
この檀家制度の始まりをご理解いただけば分かりますように、檀家制度の中でやっている、先祖供養や父母の命日の供養、お寺参りや葬式など元々は、宗教に関係ない人たちによって強制的にやらされたものなのです。
それが信仰として正しいものなのでしょうか?
たとえば、葬式の時には必ず数珠を持っていきますが、この数珠など元は計算機であったはずです。(元々数珠はソロバンのように使われていました)
その計算機であったはずの数珠を、お寺参りや葬式の時に必ず持っていくようになったのは、そうしないと幕府から「キリシタン」と見られて処刑されるからです。数珠を持っていかないと処刑されるのなら、誰だって命はほしいですから、お寺参りや葬式の時は必ず数珠を持っていくということになり、それが代々続けば、そうすることが信仰として当たり前だと思いこんでそうしているだけで、実際それが正しい信仰なのかどうかとは誰も考えないのです。(現在で言うなら、お参りに行くのに電卓を持っていくのと同じなのです。どう考えてもおかしいでしょう)
現在の日本の多くの家でしている檀家制度も、元を辿れば徳川幕府がつくったものであり、そんな幕府がつくった信仰形態など正しいもののはずがないのです。
そればかりか、死後の年忌供養や祈祷、吉祥天、毘沙門天、あるいは寅さんなどで有名な帝釈天などのお賽銭を上げてのお参りも、実は寺の収入を増やす目的で始めただけで、なんら宗教的意義があって始めたわけではないのです。
こう書けば多くの人が驚かれるかもしれませんが、事実は事実であり、だから、お参りしても、それで何か効果があったのかといえば、ほとんどの人が何かのお陰があるわけでもなく、ただ気持ち的に満足すればそれでいいと、信仰とはそういうものだと思っている人が多いのです。(たまにお陰があったと喜んでいる人もいますが、それはお参りすることにより心が変わって、その結果よいことが起きたか、またはそうなる順序が始めからあり、そうなるべくしてそうなったかのどちらかでしょう)
しかし、本当の信仰とはそんなものではありません。
正しい信仰とは、心が向上し、天の奇跡が様々な形で現れてくるものであり(それによって神の存在や天上界の存在を実感できます。つまりそのような存在が遠いものではなく、すぐ近くに感じられるようになるのです)正しい祈りはきかれるのであって、祈りがきかれないのは、その祈りが正しくないのか、またはその信仰の仕方がおかしいのかのどちらかなのです。
おかしな宗教を盲信、狂信している信者のように、まったくの他力本願で神やあの世のことばかり言っているのも問題ですが、現代の多くの人々のように、唯物無神論で、この世のことばかり言って、まったく神もあの世も信じないというのも問題なのです。
今私たちはこの世にあるのですから、この世のことを考えるのはもちろんのことですが、私たちは神につくられ、あの世である、実在界から出てきているのですから、神のことを考えるのは当然のこととして、この世のこともあの世のことも両方考えて、生活していかなくてはいけないし、どちらかに考えが偏れば、それがこの世の生活をしていくうえで間違いの元となるのです。
間違いのない、正しい生活をするには、やはり正しい信仰は欠かせないのです。
今、私がしている正しい信仰(如来が語られた法を知り、それを実践する)と、これまでのような既存、新興宗教の間違った信仰の違いをいくつか書いておきましょう。
(前回、原発の話しを書きましたが書いた途端、岩手、宮城で震度五の地震が起きました。しかもこの地震、かなり広範囲〔北海道から静岡辺りまで〕にわたって影響があったようで、このような事実を見ても天は脱原発を望んでいません。やはり原発は残した方がいいと思います。何時まで経っても原発事故の結果ばかり言っていますが、原発事故が起きた本当の原因を〔共産主義〕反省しないとこの問題は終わらないでしょう。このまま原発の再稼働をしなければ、多分今年の夏は大変なことになると思います。〔多くの人が原発事故の原因の反省をまったくしてないからです〕ところで自民党は何をしているのでしょうか?原発の存廃の結論は先送りし、原子力政策のスタンスをはっきりさせないままですが、原発の再稼働は賛成か反対か、それくらいはハッキリさせた方がいいのではないでしょうか。〔この前のテレビで町村さんは、再稼働に賛成のような言い方をされてみえましたが〕いくら与党ではないからと、あやふやな態度を取るのは無責任でひきょうでしょう。ほんと最近の自民党って引きます)



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