5月 21 2010
園頭広周師⑧
園頭広周先生著「宇宙即我に至る道」より抜粋します。
<ソロモン群島ニュージョージア島での奇跡
ただ一回だけであったらそれは偶然といわれても仕方がない。だが中支の戦線で体験したことと同じことをニュージョージア島で体験することになったのである。
昭和十八年一月、ガナルカナル島へ転進することになっていた第六師団は、ガナルカナル島(以下ガ島と称す)の部隊が敗退してブーゲンビル島に撤退することになって、急拠予定が変更になり、ブーゲンビル島(以下ブ島と称す)に転進することになった。
(中 略)
七月十二日、私達の第二大隊はニュージョージア島の南東支隊長の指揮下に入るべしという命令をうけて夜半駆逐艦に乗船、その夜コロンバンガラ沖の海戦と称せられる海戦があって、日米両艦隊の射ち出す砲火を右手に見て全速力でニュージョージア島めがけて南下、夜の明けないうちに上陸しないと、米軍爆撃機の爆撃をうけるので地理不案内な中を上陸、裏ムンダのバイコロ地区に布陣する。
(中 略)
十九日米軍の爆撃が始まった。一兵も残すまいと絨毯(じゅうたん)爆撃をやる。この島は珊瑚礁(さんごしょう)でできているから深い壕は掘れないからほとんど身体はむき出しである。
(中 略)
ジャングルは全部薙ぎ倒されて上にはなんの遮蔽物(しゃへいぶつ)もない。集団で行動するとすぐ米軍の偵察機に見つかって爆撃されるので、敵の飛行機の隙間を縫って一人づつしか行動できない。本部の位置を決めてきますといって出て行った書記も、軍医も全部爆撃でやられて戦死してしまった。一人で本部の位置にいてもなんの指揮もできないので、こうなれば第一線の兵隊と同じ壕に入って指揮しないと仕方がないと、飛行機の爆音が聞こえなくなったので第一線に向かって壕を飛び出した。珊瑚礁だから爆撃の跡は大きく穴があいて海水が溜まり、その爆撃の跡の穴の渕にいくと足を取られて這い上がることもできなくなるので爆撃の跡の穴は遠回りしなければならない。五抱えも六抱えもあるような蔦(つた)や葛(かづら)のからみ合った大木が爆撃で根元から、或いは中途から倒されている。その大木の下にジャングルの潅木が押しつぶされている。その大木を越えて向こうへ進むのがまた容易ではない。第一線陣地に向かってなかなか一直線には進めないのである。倒されている大木を乗り越えようとしているところを米軍の偵察機に見つかってしまった。米軍の偵察機は高度を高く取って、そこからエンジンを止めて空中滑走していたのであった。
私は爆音がしなくなったので飛行機がいなくなったと思って壕を飛び出したのであったが、そうではなかったのであった。
突然、頭上に爆音がするので見ると偵察機はガ島の上空に待機していた編隊に信号を送っている。あの編隊が上空にくると自分一人をめがけて爆撃が始まる。だからどこか身を隠そうと思っても隠す所もない。こうなったら仕方がない。運を天にまかせようと中支の長沙作戦の時のことを思い出して幹の中途に爆弾が当たって根元の方だけ高さ五メートル位、根廻りは三人で抱きかかえられる位の大木の根元(ねもと)を背にして坐った。
「われ今、五官の世界を去って神の世界に入る。ここがこのまま神の世界である」
呼吸を整えて神の世界を念じ、神の世界は殺す者も殺される者もなく既に大調和であることを念じ、自分の坐っている背の高さよりも大き目の神の光が全身を包んでまん丸く輝いている状態を心の中に念じた。
「ここがこのまま大調和の世界である。われを殺そうとするものは、わが雰囲気の中に入ることはできないのである。」
(中 略)
私はこの時、自分が、神の光の中に包まれていることを想念し、信じた。神の心の中には「相手をやっつけて殺す」という想念はない。中国兵が射ち出す砲弾の中にも、アメリカ兵が落とす爆弾の中にも、「日本軍をやっつけて殺そう」という想念が包まれている。
自分が、神と一体である、神に守られているという想念を持つと相手をやっつけようとする想念とは波長が合わなくなってくる。
神の想念と、相手をやっつけようとする想念と、どちらが強いかというと、それは神の想念である。だから、神の想念の前には砲弾も爆弾も破裂しなくなるのである。
上空に遮蔽(しゃへい)するものはなにもない。やはり飛行機が気になる。見るとはや爆弾が胴体から離れて「シャーッ」と空気を切って落ちてくるのが見える。逃げたい、かくれたい、死ぬかも知れぬ。一瞬浮かんだ不安の想念をパッと切り捨てる。その瞬間に「神」を想念するのである。最初二、三発落とされた時はやはり死にたくない、このまま死ぬのは残念だ、助かりたいという本能的な死を回避しようとする心が起こって上空を見上げていたが、「もう死んでもいい」と腹を決めて目をとじたまま瞑想を続けた。爆撃を受けた経験を持った人でないとその物凄さはわからないが、「グワン グワン」というその爆裂音は実に物凄い。
私一人を目がけての爆撃が一時間位続いた。その時は五機編隊だった。先の編隊の爆撃が終わる頃にはつぎの編隊はその上空に待機していて、前の編隊機の爆撃が終わるとすぐつぎの編隊が爆撃するのである。ふしぎなことが起こり始めた。私の前に後ろに遠くに落ちるのはみな破裂するのに、私の近くに落ちてそれが破裂したら木っ端微塵に吹き飛んで死んでしまうというような近い所に落ちるのは、みな破裂しないのである。
南方の夜は早い。はや地上には夕闇がしのび寄ってきた。爆弾を落とす時には飛行機が急降下してくる。急降下してくるのは飛行機のエンジンの音と、空気を切る音でわかる。するとポロッと爆弾が胴体を離れてこちらめがけて一直線に落ちてくる。その度に「神に守られている」と想念するのである。
「グワーン」と一発目が目の前に落ちた。一瞬私は気を失っていた。爆風にやられたのである。ハッと気がついた。見ると腰から下は珊瑚礁の粉々(こなごな)になった白い土に埋(うず)まっている。「どこかやられているかも知れぬ」と思って両腕を、そして手で首の辺りを撫でてみたがどこも血は出ていない。爆弾の落ちた穴は二〇メートル位前にある。あそこに落ちた爆弾が破裂してやられなかったとはふしぎである。爆弾の破片はどう飛んだんだろうかと思って背にしていた幹を見ると、私の坐っている鉄甲の高さすれすれの所から上の方へ、びっしりときらきら光っている鋭い刃物みたいな破片がいっぱい突きささっている。もう五センチでも10センチでも下に飛んでくると私は頭か顔を砕かれ死んでしまっているところであった。
爆弾は全部落とし終わって、その爆弾が最後だった。私は死なずに健在であるのを見た編隊は、今度は二00メートルの低空で私めがけて機銃掃射(きじゅうそうしゃ)を始めた。五機が海岸の方へぐるっと廻っては機首を向けて突っ込んできて機銃を射ってくる。それがどういうわけかその弾丸は私の前五メートル位のところに射ち込まれて私の坐っている所までは届かないのである。私の頭の上には空(から)の薬莢(やっきょう)だけが「カラカラッ」と音を立てて落ちてくる。機銃掃射をしている間に闇は地上10メートルを覆った。上空だけはまだ明るい。それでも私がまだ坐っている。最後の一機はジャングルすれすれに五0メートル位の超低空で飛んで来て、風貌硝子(ふうぼうがらす)をあけて手榴弾を叩きつけてガ島の方へ引き上げて行った。
私はまた神に守られたのであった。>
園頭先生が神の実在を信じ、自分の体の廻りに黄金色の神の光の輪を想念して禅定されると、敵が攻撃してくる機銃掃射や爆弾が、園頭先生の体を傷つけることはありませんでした。
これはなにも園頭先生だけに特別このような現象が起きたということではなく、インドの古代史の中にも戦場で禅定し、まったく傷つかなかった兵士の話がでてきますし、戦国時代の武将で有名な上杉謙信も、自分は神に守られているということを証明するため、敵の前に座り込みそこで酒を飲んでいるだけなのに、敵が矢や鉄砲をいくら打ち込んでも、謙信に傷一つ負わせられなかったという話もあります。この場面はNHKの大河ドラマの中にも出てきましたが、謙信がなぜ神を信じていたかというのは、また機会があれば書きます。
このように神の実在を信じ神の力を信じていれば、誰にでも奇跡は起こるのです。
もし園頭先生が神の実在を信じて戦場で禅定中、途中で怖くなり逃げ出していたとしたら、機銃で撃たれるか爆死していたでしょう。なぜなら途中で逃げ出すという行為は、神を疑う行為であり神を信じきらないと奇跡も起きないからです。邪念があっては奇跡は起きません。
こういうことを知っておくと、たとえば野球の選手などがバッターボックスに入って、神の光の輪を自分の体の廻りに想念すれば、体の近くにボールが飛んでこようとデットボールにはならないということになります。デットボールの恐怖心がなくなれば、バッターはもっと打てるようになると思いますが、なかなかそのような心になるのも難しいと思います。
しかし、神を信じそのような想念をもって打席に入っていると、神に守られ奇跡が起きます。園頭先生のように鉄砲玉や爆弾が飛んでくるわけではないので、野球で命まではとられません。一杯一杯の心にならず少し余裕をもって、よけいなこと(邪念)など考えず、その時その時にベストをつくせばおのずと結果はついてくるでしょう。
話が横にそれましたが、園頭先生は神の実在を信じ、それを自分の体を通し証明せしめたまえと祈られた結果、戦場で大奇跡を体験されたのでした。



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