6月 05 2010
狼少女②
少女たちの好物は生肉や牛乳でニワトリの内臓などは、手を使わず直接食べました。水や牛乳などはピチャピチャなめ、また何か臭いの異常に気付いたり物や人間の存在を確かめようとするときは、いつも鼻を宙に上げてクンクンさせその方角を嗅ぎつけました。また食べ物を食べるときも必ず食べる前に臭いを嗅ぎ、そうした仕草は狼そのもののように見えました。
寒さや暑さといった感覚には鈍感で、夏でも冬でも裸で動き回ることを好み、衣服を着せようとするといやがり、ズタズタに噛み裂いてしまいました。大変寒い日でも何も身につけようとせず震えることもありませんでした。
シング牧師は、こうした彼女たちを何とかして人間社会になじませようと試みます。
そのためには彼女たちの夜行性と生活リズムを断ち切らねばなりません。そこでシング牧師は手始めに彼女たちを日のあたる場所に連れ出し、健全な昼の生活に慣れさせようと考えました。
しかし、すぐにシング牧師には少女たちが直射日光に堪えられないことが分かります。長時間日光を浴びると呼吸が苦しくなり物もよく見えず、目も開けていられない様子でした。
それでも数ヶ月もすると少しずつではありましたが、アマラとカマラはシング夫人には心を開くようになります。
最初、人間に対して嫌悪感しか持ち得なかったのに、心の変化が現れてきたのです。それは婦人の誠実さと母性愛から来るものでした。シング牧師はこの時、愛情こそが彼女たちの人間性を呼び起こすものだと確信します。
しかし、人間社会に連れ戻され一年ほど立った頃、二人の少女は赤痢にかかってしまいます。発病して五日間彼女たちは意識を失っていました。その間、ずっと彼女たちを看病し続けたシング牧師でしたが、何日か立つうちにカマラの方は次第に快方に向かっていったのですが、まだ小さく体力がないアマラの方は絶望的でした。
発病して二週間後、アマラはロウソクの炎が消えるように息を引き取ります。
アマラが死んだときカマラは死という意味が分からず、死んだアマラの側にピタリと寄り添い離れようとしませんでした。懸命にアマラの体をゆすったり起こそうとしました。しかし、何度それを試みてもアマラはピクリとも動きませんでした。そのうちにアマラの体が急速に冷たくなっていきます。その時、本能的にアマラの死というものを悟ったカマラは、初めて涙を流します。
それは人間であるがゆえに、愛する身内に対する哀れみの気持ちであったのでしょうか。カマラはアマラの死後数日間、食事もとらず引きこもったままでした。丸一ヶ月というもの一人っきりで部屋の隅でうずくまったままでした。
カマラはそれから八年後に死にます。
カマラはその間、他の人間たちにもなれ、上手ではないけれども直立歩行もするようになりました。子ヤギや子猫を優しく撫でるときの彼女は、笑顔に近い表情も見せました。
彼女は学習と努力によって、精神や人間性はずいぶん成長しましたが、その進歩は非常にゆっくりでしかありませんでした。死の間際、カマラは推定十六歳ほどでしたが、人間の成長としては三歳ほどでしかなかったといわれています。
(このアマラとカマラの話は、本当だとか嘘の話をでっち上げたとか言われますが、シング牧師という方は私財をなげうって貧しい村々に宣教と慈善活動を続けていられた方です。アマラとカマラの写真は何十枚も残っていますし、詳細な記録も残っています。当時のシング牧師を知る方々は、皆、口をそろえてシング牧師の誠実さを言われます。そのような方が、わざわざ嘘の話をでっち上げるとは私には思えません)
この事実は一体何を物語っているのでしょうか。
それは人間は人間として育てなければ人間にならないということです。人間として生まれても、狼に育てられれば狼のようになってしまうということです。
戦後、自由、平等の名の下に様々な教育がなされてきました。個人の自由の尊重、すべての人は皆平等であるなど一見正しそうに思えますが、個人の自由ばかり尊重し、それぞれが好きなことをやっていて、それで話がまとまるのでしょうか。
たとえば学校に行くのは個人の自由で、行きたければ行くし行きたくなければ行かない、と言っていたら、その人は勉強ができるようになるのでしょうか。会社に行くのも行かないのも個人の自由で、行く時間も個々で好きな時間に行っていたら、その会社は仕事になるのでしょうか。
親と子、先生と生徒が平等でしょうか?よく親と子あるいは先生と生徒は同じ目線で話せといわれます。友達のような親子、先生と生徒の関係がいいといわれるようになりました。(こういうことは戦前はいわれることはありませんでした)しかし、親と子が友達のようになって、それで子供が親の言うことを聞くのでしょうか?先生と生徒が友達のようになって、生徒が先生の言うことを聞くのでしょうか?
聞かないというのが、現在の家庭や学校を見ればよく分かります。個人の自由、すべては皆平等という考えで教育された人が多いため、自分本位で人の意見に耳を貸さない人が増えたのです。
親子が平等ということであれば、子供は自分にとって都合のいいことは聞いても、都合の悪いことは聞かないでしょう。先生と生徒の関係も同じです。
親は親としての権威、先生は先生としての権威がなければ子供はいうことを聞かないし、ちゃんとした教育もできないということです。先ほどの自由でもそうです。個人の自由を尊重しすぎるとまとまりがなくなり、結局何もできないのです。
自由にしろ平等にしろ秩序がなければ混乱するだけなのです。ある程度の個人の自由は認められても、決められたことは守らなければなりません。親と子が平等で親が友達のようになって、それで子供をしっかり教育できるのでしょうか。最近は子供の顔色をうかがい、子供が悪いことをしても叱りもしない親がいるといいますが、そんな親は最低です。自分が嫌われようと子供が悪いことをしたら叱りつける、それが親として当たり前のことですし教育でしょう。先生も同じです。生徒の良いところはほめ、悪いところは叱ってでも直す。これが当たり前のことなのに、このような生徒指導ができない先生も多いと聞きます。それでよい生徒が育つのでしょうか。
教育をしっかりやらないとまともな子は育ちません。教育の大事さ大切さをよく知ってください。



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