1月 29 2013
法を知っている者と知らない者の差
まだ誰もご協力いただけませんが、その意味が昨日初めて分かりました。そうして、その意味が分かった時、なぜ天が『法を説いてはいけない』といったのか、その意味も分かりました。
昨日までの私は、この法の正しさは多くの人が理解してくれたはずだし(ブログを読む人がどんどん増えていますので)それに、この法がどれだけ偉大かも次々に起きる奇跡により分かるはずだ、これだけ多くの人が、私のことを知るようになったのもその証拠である、それなのになぜ嫌がらせする人はいても、協力してくれる人はいないのだろうと、不思議でなりませんでした。
それは今始まったことではなく、ずっと前からの疑問であったのです。
本物の神の教えと分かったのなら、勉強するのが当然であって、協力するのが当然であると私は思うのですが、このブログを見ている人の多くは、それをやろうとしないのです。ただ、私のブログを読んでいるだけなのです。それがどう考えても不思議で、そのような考えがまったく理解できなかったのです。
では、興味本位で読んでいるだけの人が多いのかといえば、それもまた疑問で、興味本位ならなぜ毎日、このブログを読む人がこんなに多いのだろう(それは周りの人の反応で分かりました。それに若い子たちのブログを読んでも、私のブログを毎日読んでいるのではないか、と思える子がたくさんいたのです)興味本位でないなら、なぜもっと積極的に勉強しないのだろう、それに私の周りの人たちも、私にこれだけ現象が起きているのに、なぜ嫌がらせするのだろう(ねたみやひがみのはんちゅうを超えてますよね、祈って地震や大雨を降らせる者にそんなことしたら、最悪死ぬかもしれないと思わないのでしょうか?私なら余計なことしませんが…)また、そのような人たちが出てくるのは仕方がないことかもしれないが、これだけ多くの人が私のことを知ったにもかかわず、なぜ協力してくれる人が誰もいないのだろう、と疑問だらけだったのです。
いろいろな心の段階の人がいるので、嫌がらせする人がいるのは仕方がないかもしれませんが、解せないのは協力者も皆無であるということです。なぜ、協力する人が誰もいないんだ?それが不思議でなりませんでした。先ほどもいったように、いろいろな心の段階の人がいるのです。心の低い人はともかく、何で心の高い人も協力してくれないのだろう、私のブログを読んでる人は心の低い人ばかりなのか?
そのようにも思いましたが、しかし、心の低い人ばかりがこのブログを読む(それはすなわち法に縁を持つ)というのもまた解せない話です。
何か足りないことがあるのであろうか、法の偉大性がこの人たち分からないんだろうか、と考えていた時です。フッとあることに気づきました。
それが何気なく考えていた「法の偉大性」ということです。
私が協力をこのブログで呼びかけて、誰もそれに反応しなかったのかといえばそうではありません。数人の方ではありますが、寄付してくれた人もありますし、賛助会員になってくれた人もいます。しかし、この私に協力してくださった方は、すべて法をご存知の方ばかりでした。(園頭先生の弟子であったとか、自分で高橋先生や園頭先生の本を読み、法を理解していられる方ばかりだったのです)ということは、高橋先生や園頭先生の起こされた奇跡や説かれた法のことも、よくご存知の方ばかりということになります。(ということは法の偉大性もよく分かっていられる、ということになります)
ところが、現在私のブログを読んでいる人の大半は法を知らないのです。ということは、高橋先生や園頭先生の本を読んだこともなければ、その起こされた奇跡や法の大事さも知らない人がほとんどなのです。(ということは法の偉大性も分からない、ということになります)
原因はそこにあったのです。
つまり、私に協力してくれた人は、法の偉大性も、その法を説く人の大事さも、すでによく分かっている人たちなのです。(だからすぐに協力してくださったのです)それに反し、私がいくら呼びかけても動こうとされない方たちは、どの人もあまり(というか中には全然)法を知らない人ばかりなのです。
それでは、私がいくらここで呼びかけても動かないはずです。法を知らない人たちは、法の偉大さがまるで分からないからです。法の偉大さが分かっていないので、私が何をいおうとまたどんな現象を起こそうと、もうひとつ深く理解できないのです。
そのような人たちは、高橋先生のことも知らなければ、園頭先生のことも知らないのです。それに、釈尊やキリストは知ってはいますが、それは神格化された釈尊やキリストを知っているに過ぎず、その説かれた法の偉大さを知ってる人は誰もいないのです。(それはつまり釈尊やキリストが偉大であったから、あのような奇跡が起き、後世にその名とその教えが遺った、と思っている人ばかりで、釈尊やキリストが説かれた法が偉大であったから、後世に名を遺し教えも遺ったとは誰も思っていないわけです)
それでは私が何をいっても、またどんな現象を起こそうと理解できないわけです。法の偉大性を理解していないわけですから。
つまり、私のブログを見ている大半の人が、私のことを神の使いとは思わず、得体の知れない奴が、得体の知れないこといい、得体の知れないことをしている、と思っているわけです。正しい教えを知らず、その法の偉大さが分からないからです。だから、法を知っている人(それは法の偉大さを知っている人)以外の人が協力してくれないのです。
それが分かった時、なぜ天が私に「法を説いてはいけない」といったのか、そのわけも分かりました。
それは、まだ法を十分理解していない人に、次々に法を説いてしまっては、その法の理解が深まらず、すべて法を浅くしか理解せぬまま知識だけしかついていかないからです。それではいけないのです。
法は実践しないと、本当の意味は分かってこないのであって、その法を実践してもらうためには、ある程度の法の証明をしたのであれば、その次にやることは、その法の偉大性を多くの人に知らせることなのです。そうして、より深く法を知ってもらい、実践してもらわねばならないのです。
私は、それを飛ばしてしまったのです。次々に法を伝え、現象を現せば多くの人は、この法が本当の神の教えであるということを理解し、協力してくれて、自然に拡がっていくであろうと思い込み、次々と法を伝えて現象を現してしまったのです。
その結果、やることが早急すぎて誰もついてこれない、というのが現状のようです。
私が今やらなければいけないことは、法の証明ではなく、法の偉大さを多くの人に教えなければいけなかったのです。その法の偉大さが多くの人に分かれば、それを実践することの大事さも分かり、それを説いている人の必要さもわかって、自然に布施をしてくれるようになったはずですが、あまりにやることが早すぎで、私のやっていることを深く理解している人がほとんどいないようです。(法を理解している人たち以外は)
これから少しの間は、釈尊、キリストが説かれ、そうして高橋先生と園頭先生が説かれた、この法がどれだけ偉大であったのか、ということを重点的に書いていきたいと思います。
そうして、ここに書いている法の偉大さが多くの人に理解できた時、初めてそこから法は拡がり始めるのではないか、と思います。
それまでは誰の協力を得られなくてもやるしかありませんね。



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