2月 02 2013
如来はなぜ最初から悟っていないのか
釈尊はインドのカピラ族の王子として出生され、二十九歳で出家されて三十五歳で悟られます。キリストも同じで、ヨハネにバプテスマ(洗礼)を受けられた後、福音を伝えられるようになり奇跡を現されるようになったのです。
このような事実を見て思うのですが、如来といわれる方々は、なぜ最初から悟っていないのでしょうか?如来が生まれた時から悟られているなら、もっと多くの人を救えるはずですし、もっと、その教えが多くの人に伝わっているはずです。どちらにしても如来が悟りを開くのであれば、できるだけ早くから悟られた方が、より多くの人が救えて、より多くの人に法が伝わるのです。なぜ、こんなに何十年も(釈尊は三十五歳、キリストも三十を過ぎてから、福音を述べ始め奇跡を起こし始められたのです)経なければ、如来は悟りを開かれないのでしょう。(または奇跡を現すようにならないのでしょう)
それは次のような理由があるからです。
人に正しく神理を伝える使命を持った者は、その時生まれていく社会状態にあった指導ができるように、いろいろな人生体験を経て、その体験の元に悩める人を指導ができるように、そういう環境を自ら選んで生まれます。従って、ある程度、この世(この時代)の修行をしてからでないと、その時代に即応した指導ができませんから、悟りを開くまでに、それ相当の時間がかかるのです。
この世に生まれて目が見えるようになり、音が聞こえるようになり、物に触れて、これは何であるかということが分かるようになり、そのようなことを認識していく過程は皆同じであって、そこから成長するに従いいろいろな環境条件によって、次第に潜在意識の中にある智慧が啓発されていきます。この潜在意識の中にある智慧の啓発度が、普通の人と如来、菩薩といわれる人とは違うのです。(ということは如来、菩薩といわれる人が法に出会うと、その教えへの理解度は格段に早いということになりますが、皆さんずいぶん遅いです〔笑〕)
つまり如来が生まれてくる時代は、その時代その時代により、地上の状況がまったく違っています。(数千年に一度しか、この世に現れないのですから当然そうでしょう)そうであるなら、その時代にあった説き方をしなければならないので、その時代のことを体験し理解するまでに時間がかかるというわけです。
例えば、高橋先生が釈尊として出世された二千五百年前のインドは、カースト制度があり(現在でもありますが)身分制度が強すぎてあまりにも不平等な世界でした。(これはキリストの時代でも同じです)だから人間皆平等を説かれたのであり、逆に今生はあまりに自由平等をいい過ぎて、たががはずれた秩序がなくなったような世界でした。だから、それほど自由で平等ということをいわれず、中道の心が大事であると“八正道”を強調していわれたのです。
このように如来が生まれる時代時代によって、説き方が違っているのは、その時代にあった説き方をしているからであり、本質的には如来の教えは皆同じなのです。
しかし、如来だけでなく、過去世の記録は誰も皆持っているものであり、それは自分の心の中にあるのです。潜在意識の中にすばらしい自分自身の体験(智慧)の記録が眠っているのです。
それを表面意識に現すには、ある程度厳しい環境に置かれないと現れてはこないのです。だから、高橋先生も園頭先生も軍隊のような、目の色が変わるくらいの厳しい体験を経験されたのです。
高橋先生や園頭先生でもそうなのです。それなのに私たちが甘い環境にいて、自分自身の心の中にある、すばらしい過去世の智慧が啓発されると思いますか?今のような、ちょっと叩いたくらいで大騒ぎしているような環境では、すばらしい智慧は絶対に現れては来ないのです。
あまりに無茶な環境なら大いに是正すべきですが、そうでもないなら、やはりよく関係者が話し合い、そこで解決すべきではないかと思います。今回の柔道の体罰問題など、女子の柔道選手にあまりに過酷な条件で練習させるのは、もちろん無茶な部類に入りますので、それは改善すべきですが、ここまで話を大きくするような問題だったのでしょうか?その問題を提起した女子柔道選手たちも、ここまで大きな問題にする気があったんでしょうか?こんな問題になってしまえば、もうオリンピックの招致などおぼつかなくなるのです。こんなに大騒ぎになったのは、決してその柔道選手たちの本意ではなかったように思いますが、そこはどうなんでしょう。(それに外国との対比もどうかと思います。外国は手は飛んでこないかもしれませんが、かわりに鉄砲玉が飛んできます。〔銃社会ですからね〕それよりはよほどましですし、やはり、その国その国の伝統はあります。何でもかんでも他国と同じにする必要はないと思います)
どちらにしても、あまりに甘い世界ではすばらしい自分の智慧も現れてきません。この世は心の修行の場と考えるのであれば、少々の厳しさは忘れてはならないと思います。



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