2月 10 2013
如来を知り法を知ることの困難さ
前回のブログの続きをもう少し書きますが、例えば釈尊の時代やキリストの時代を考えてみてください。
釈尊やキリストと同時代に生まれていても、釈尊やキリストを本物の如来と考えていなかった人もいましたし、釈尊やキリストから離れた場所に生まれた人など、釈尊やキリストを知らずに一生を終えた人もいたのです。
たとえ如来と同時代に生まれても、如来がこの世に生まれたことを知らず、また、その有り難い法や奇跡を知るチャンスがあっても、知ろうとしなかった人がいくらでもいたのです。それほど、この世で如来と出会い、その法を聞くことは難しいことなのです。(よほど条件が合わないと、如来や、その説かれた法に出会うことはないのです。前に私は、如来の法と出会うことの難しさを「一眼の亀の浮木の穴」という題でこのブログに書いたことがあります)
しかるに、このブログを読んでる皆さん方は、パソコンを起動させて、このブログを読むだけで法が分かり、奇跡まで体験しているのです。(そこらじゅうで現象が起きていますので)おまけに私が、本物の如来は高橋先生と園頭先生だと、このブログに書いたものですから、本物の如来も誰か分かるわけです。(ということは、両先生の書かれた本を読めば、如来の法もすぐ分かるということになります)
釈尊やキリストの在世当時など、釈尊やキリストが本物の如来と分かっても、その法を聞くだけでも大変だったのです。
もちろん当時はパソコンなどありません。ビデオやテープもなければ法を知っている人もいません。法を知るには直接如来とお会いし聞くしかなかったのです。その直接如来とお会いすることも、遠方にいるなら、如来のいられる場所まで行くのに何日もかかりました。(当時は飛行機や電車などの乗り物はありません。歩いていったのですから)行く途中には危険な場所もたくさんあり、当時は法を聞くだけでも命がけだったのです。
しかし、如来と同時代に生まれた者たちは、如来と同時代にこの世に生を得た以上、如来とお出会いし、その法を聞くことは、やらなければならない最低限の使命であるし、その有り難さを自分自身で悟り行わなければならなかったのです。
それほど有り難い(有ることが難しい)ことを、簡単に知ることができて、奇跡(現象)など体験できる人は、ほんの一握りの人なのに、それも体験できて、そんな自分の永い輪廻転生の間に、数回あるかどうか分からないような奇跡の体験を、連続でしていて、それでも感謝の心を持たず、不平不満ばかりいっているのですから、それは神も怒ります。
現在のように、恐ろしい現象が次々に起きてきても仕方がない、ある意味、当然の結果であるといえるのです。
このブログを読んでる皆さん、信じられないような不遜なことをしているのです。永い輪廻の歴史を見ても、これだけ不遜な人たちが固まって地上に出ているなど、反対の意味で奇跡なのです。(奇跡的な鈍さという意味です)
あまりに今起きてることの重大さ有り難さを、多くの人が理解されていないのではないでしょうか。
こういう体験は何事にもかえがたいのです。そういう奇跡の体験をしているのに、それがあまりに簡単にできてしまっているため、その価値が分からないのです。
現在の皆さんが異常な態度(ちょとこれまでの歴史では考えられないような態度)をとり続けているため、異常な現象が起き続けています。(昨日もサイレンよく響いていました)
異常な現象を収めるには、異常な態度を改めるしかありません。神に対し、もう少し謙虚で従順な態度をとられたらいかがでしょうか。



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