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3月 02 2013

狂信、盲信者と無神論者

11:19 AM ブログ

何でもかんでも、神様といえばすぐ信じてしまい、疑い一つ持たずにはまり込んで盲信、狂信している人たちも哀れですが、時代が神の心を現す時代(正法の世)となっているのに、いつまでたっても神を信じず、神の運動をしようとしない人たちも哀れです。結局それではどちらの人たちも不幸になるからです。

しかし、このような両極端な人たちは昔からいました。釈尊在世当時もそのような人はたくさんいたのです。

特にシャリー・プトラーなど、そのような人たちを見て哀れさを深め、最後に釈尊の弟子となって悟りを得るのです。

久しぶりにシャリー・プトラーの話を書いてみましょう。

シャリー・プトラーは八歳から師がついて、インドの古典であるヴェーダやウパニシャードを学びますが、たちまちにして、そのような聖典を暗記してしまい、各派の宗教哲学まで研究し、十六歳の頃には学識は師を超え、その名声は近隣に鳴り響いていました。

わずか十六歳で、天才の名をほしいままにしていたシャリー・プトラーではありましたが、しかし、その心の内は、様々な苦悩により疑問ばかりがつのる毎日でした。

熱心に信仰をしている人たちもいますが、その反面、信仰などそっちのけで仕事だけして、あとは遊んでばかりいる人もいる、しかし、その熱心に信仰している人たちも、祭祀をつかさどるバラモンだけが羽振りをきかせて、盛大な儀式を行っているだけで、人の本当の救いである心と霊の救いを説く人はいませんでした。

自分が勉強したヴェーダ聖典やウパニシャード聖典との、あまりの違いに愕然とする日々が続いていたのです。

当時のインド人はお祭りが好きでした。日を決めて各部落でお祭りの集会をするのですが、あまり信仰心が深くない人たちは、そのような祭りがあれば必ず参加して踊り狂っていました。

いくら天才の名をほしいままにしていたシャリー・プトラーも人の子です。他の十六、七の子たちと同じように、浮世の歓楽をむさぼりたいという強烈な欲望が胸の中にはありました。

そのような子らと、今、目の前でやっている踊りの輪の中に入り、自分も皆と同じように踊り狂えばどれだけ楽しいであろう、祭りを目にするたびに、シャリー・プトラーはそのように思っていましたが、その一方で、インド哲学の真髄に触れた理性は、それは破滅の道であることを知っていて、その思いを否定しようとします。しかし、否定すればするほど皆と一緒に踊りたいという、激しい欲望に襲われるシャリー・プトラーでありました。

その悩みに翻弄され、この二つの相容れない自己矛盾、自己分裂の結果、いつしかシャリー・プトラーもその祭りの人となっていたのでした。楽しそうに踊り狂っている人たちがいる。自分もあんなに夢中になり、何もかも忘れて踊れたらどんなに楽しいであろう、そう思い皆のマネをして踊りの輪の中に加わり、踊り狂ってふざけてみたシャリー・プトラーでしたが、その心はたちまちむなしくなり、激しい嫌悪感に襲われるのでした。

いたたまれなくなったシャリー・プトラーは、踊り狂っている人の輪からはずれ、誰もいない森の中の木の下に座りました。笑いさざめく声、太鼓や笛の音がかすかに聞こえてきます。その場所でしばし考えていたシャリー・プトラーに、次のような考えが浮かびました。

「人はいつかは死ぬのである。今、この山に集まって歌い踊っているあの人たちも、あと百年もすれば誰一人生きている者はいないのである。では、あそこにいる人たちは何のための人生なのか。死んだらどこに行くのか、そんなことも考えないで、ただ歌って踊って楽しんでいるが、それが人生にとって何ほどの価値があるのであろうか。今はああして浮かれている人たちも、この祭りが終われば、また人を憎んだり恨んだり愚痴ったりして、少しも人としての進歩のない堕落の道を歩むのである。なんとバカな時間を過ごしていることか」

うかうかと人の波に浮かれて、祭りの踊りの輪の中に入ってしまった自分が悔やまれて仕方ありませんでした。

こうして、そのようなことをしていても、意味がないと悟ったシャリー・プトラーは、正しい教えを求め疑問追求の毎日を送ることになります。

そうして、最後に自分の本当の師である釈尊に巡り合い悟りを得ることになるのです。

この当時と今とでは人の心も環境も違っていて、一概に比較はできませんが、その本質である“神の心を知る”という目的は、昔も今も変わっていないのです。

シャリー・プトラーの時代も間違った教えが横行し(肉体行などその最たるものでしょう)盲信者、狂信者もたくさんいたのです。その反面、そんな神を求めることなどほどほどにして、遊びほうけている人もたくさんいました。(現代の日本とさほど変わりませんでした)

しかし、そのような両極端はおかしいと、疑問追求、疑問追求と毎日のように正しいものは何かを知る努力をした結果、シャリー・プトラーは自分の本当の師である釈尊と巡り合い、その疑問も解消され悟ることができたのです。

今の生活に、ただ流されているだけでは進歩も成長もありませんし、まったく疑問一つ持たず、盲信、狂信していてもやはり進歩しません。

正しいこととは何か、という疑問を持つことは当然として、そのための努力も惜しんではならないということです。

盲信、狂信をしていても真実は分かりませんし、今の生活だけに満足していても真実は分かりません。やはり現状に満足するのではなく、疑問追求の心を忘れてはならないと思います。

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