3月 21 2013
真の努力
私たちは、何万回も何十万回も何百万回も輪廻転生を続けている魂であり、ある時は武将に生まれ、ある時は百姓に生まれ、またある時は政治家に生まれ、ある時は社長に生まれたりして、様々な国に生まれていろいろな体験の中で、魂を磨き神の心を学ぶのです。
私たちは決して社長になるためだけに、あるいは有名なタレントやスポーツ選手になるためだけに、生まれてきているのではなく、そのような体験を通し自分の心を向上させるために、今そのような立場にあるのです。
たしかに、そのような立場になるために、それぞれの人がそれぞれの努力をされたという、その努力は評価されても、そのような立場がその人の目的の地なのではなく、あくまで過程であるということです。
その人はそのような立場になって、初めて自分の本当の修行が始まるのであり、そのような立場になってどれだけ神の心を具現することができるか(慈悲と愛と調和をどれだけ実践できるか)そこからが本格的な自分の心の修行となるのです。
それなのに、そのような立場になっただけで慢心し、増上慢(ぞうじょうまん)な態度を取っているようでは話にならないのであって、この世の地位や立場が高い人が心の高い人なのではなく、人はそのような自分で決めてきた立場、立場で、自分の心を磨くよう計画して生まれてきているのです。立場の高低で人としての貴賤の差などまったくないのです。
そうであるならば、現在の自分が社長という立場にもしあるのであれば、会社のこと社員のことを家庭や家族と同様に考えて接することができれば、その会社には奇跡が起きるでしょう。(私は前に神の愛とは親子の愛と書いたことがあります。そのような親子の愛を、社長が社内で実践されるのであれば、その会社に神の光が下り奇跡が起きるのです)
また、社員は社員で自分の立場を考え、社長にへりくだった態度で望むことは当然のこととして、何をいわれても感謝の心を忘れず仕事を続けるのであれば、その人に奇跡が起きるでしょう。そのような仕事を与えてもらってありがたい、そうしてそれで報酬をもらって自分が生活することができてありがたい。そのような心を忘れないのであれば、その人に奇跡は起きるのです。
このような心を忘れず、自分の生活を続けていくのであれば、その人の生活はそこかしこで奇跡が起き、何か運がいいとか、ついている、という形で自分の本当の進むべき道がついて、幸運な人生を歩むことになりますが、社長という立場になっただけで、傲慢になり自分は一番偉いと勘違いして、人の意見は聞かない、失敗は許さない、自分の命令に背くものは首などど、愛も慈悲もない態度を取り続けているのであれば、やがてその人はその座を追われ、哀れな末路をたどらなければならないのです。それは社員も同じでしょう。不平不満ばかり口にして、不足ばかり思っていては幸せな人生など送れないのです。
また、そのような態度を取り続け、仮に一生を社長という立場で終わったとしても(社長をすると決めて生まれてきた人は、どういう立場をとっても、社長のままで一生を終わるという人もいます。自分がそう決めてきているからです。社員も同じです)自分がした無慈悲な態度を死んだ後、徹底的に反省させられることになるのです。
社長であれ、社員であれ、また有名人であれ、その人のファンであれ、その立場立場で人それぞれの心の修行をしているのです。その立場で周りにどれだけ愛を出すことができるか、それが自分の心の修行となるのです。
“男子三日会わざれば刮目して見るべし”という言葉がありますが(この言葉は男と三日も会わなければ、目をこすってよく見ろ、注意して見ろという意味ですが)三日で人は変わらなくても、半年一年もすれば、前よりはよほど進んだ慈悲の深い人となっていなければならないのです。
いつまでたっても(例えば、慈悲も愛も感謝の心もなく、不平不満ばかりいって、人のことを怒ったり、ねたんだり、ひがんだりばかりしている)同じようなことを続け、同じ失敗を繰り返しているようでは、この世に生まれてきている意味もないのです。
自分が短気なようならできるだけ怒らないようにする、人が何かすればすぐひかんだりねたんだりするようなら、人のやることなど気にしないようにする、人の上に立つ立場になっているのに、下の者の面倒見が悪いようなら、できるだけ下の者の面倒を見るようにする、そのように、自分が不得手なものを得手になるように努力する、これが自分の心の向上につながり、心を広く大きくする、神の心にまた一歩近づくことができる、真の努力ということであり、世間体に受けがいいことばかり(自分の人気が上がるようなことばかり)努力していても、そんなものは何一つ心の向上にはつながらないということを知るべきでしょう。
真の努力とは変な打算がない、自分の人格向上を目指し、人のためになることだけをする、そのような努力こそ、本当に自分自身のためになり、自分の心を神の心に近づけることになるのです。
そのためには、いつまでたっても同じことを同じように続けているのではなく、自分のためだけでなく、世のため人のためになるには、どのようなことをすればいいかを常に考え行うことです。
そのような考え、これっぽっちもないという人が多いように思います。(へたすれば自分のことも考えず、ただ毎日を過ごしているだけの人もいます。何のための人生でしょうか)
しかし、よいことをしていれば奇跡が、悪いことをしていれば(それは進歩のない人生も含みます)災いが、すぐに現れる時代となっています。
そのような時代だからこそ正しい人とそうでない人はよく分かるのです。奇跡が次々に現れる人こそ正しい人であり、真の努力を続けている人といえるのです。



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