3月 30 2013
本物の神と仏
七草粥に“仏の座”という名の草がありますが(仏様の円座ににているから、こう呼ばれるらしいのですが)しかし、仏と呼ばれる人は、いわれていることが立派なだけでなく、それにふさわしい行為が伴わなくてはならないでしょう。
神と仏は違います。
神とは天地を創造された全知全能の唯一の神をいうのであり、仏とは、その神の心をもっとも知られ、全能の神と同等の力を与えられた人間をいうのであり、本物の神とは全能の神のことであり、本物の仏とは神と同じ心と力を持つ人間をいうのです。
しかし、現代の人々はこの神と仏をごっちゃにしている人も多く、そこかしこに(あちこちの宗教教団の教祖から個人に至るまで)神と呼ばれる人が存在していますが、そう呼ばれている人たちは、ゴッドの神ではなく人間の上(かみ)に過ぎないのです。(人間が神に昇格することはありません。〔人間が神に昇格してしまったら、元々いられた神はどうなるのでしょうか?〕神は唯一の神であり人間はどこまでいっても人間です。また、仏像やお札を神のようにいう人もいますが、そのようなものは、ただの木の固まりかペーパーの紙〔かみ〕でしかないのです)
しかし、自分を神などと呼ばせている人に(または自称している人に)本物の人間の上などいるはずもなく、そんな人は神でも仏でもなく、すでに悪魔に憑かれてしまっている人か詐欺師にしか過ぎないのです。
仏といわれている人でも、お経を上げてもっともらしいことを話しているだけの人とか、あるいはやたら滝行などの肉体行をやり、少々おかしな現象を現して悟っているなどといっている行者など、とても仏としての資格はないのです。
なぜなら、正真正銘の仏であった釈尊やキリストはそんなことをされなかったからです。
キリストがお経を上げられたでしょうか? 釈尊が肉体行をして悟りを開かれたでしょうか?(釈尊は肉体行は間違いと気づかれて悟られたのです)
では、キリストがされなかったお経など上げる必要はないし(釈尊の時代にお経などありませんでした)釈尊が肉体行は間違いとすでにいっていられるのですから、わざわざその間違いといわれる肉体行など、する必要もありません。
そういうことをせずに、神の教えを説き、その力を現す人こそ本物の仏であるのです。それがまさに高橋先生であり、園頭先生でした。
高橋先生も園頭先生もお経など上げず肉体行などもされず、ご自身で悟られ(だからといって何も苦労なしに悟られたわけではなく、もちろん今生での修行はされました)神の教えを説いて、多くの奇跡を現されたのです。
このような方々を本物の“仏”というのであり、過去に仏と呼ばれた釈尊やキリストと同じことをされたのです。
しかるに今生は、釈尊やキリストがされていなかったことをしている人たちを、神仏と呼び、多くの人がそのような人たちが語っている言葉を信じています。しかし、そのような釈尊やキリストが、されなかったことをしている人たちの言葉を、決して信じてはならないのです。なぜなら、そのような間違ったことをしている人たちの言葉には、必ず間違いがあるからです。(釈尊やキリストがされなかった、間違ったことをしている人たちなのですから、当然間違ったことをいっているのです)
護摩供養などをして(これも肉体行です。この護摩供養やら滝行などもそうですが、そういうことをすると、精神が統一されていいと思っている人も多いのですが、残念ではありますが、このようなことをして精神が統一されることはありません。そのような気になるだけで実際には精神によいことではないのです。〔だから釈尊は肉体行をやめられたのです〕逆に、心を無にしてこのようなことをしていると、おかしな霊が寄ってきて、それに憑かれる可能性の方が大きいのです。〔だから肉体行をしていて気が狂う人も多いのです〕護摩を燃やす火の熱さや滝にうたれている水の冷たさを我慢することで、我慢強くはなるかもしれませんが、それ以外で精神的にいいことなど何もないのです。それどころか肉体行などしていれば精神的に非常に危険なのです)今話題になっている坊さんなどもそうですが、明らかに仏がする行為からは逸脱しているでしょう。(あの人のしていることや、あの朝鮮総連中央本部の落札額など明らかに異常です。護摩供養などやっていること自体、間違っているのですから、ご自身がやられることも間違ったことをされるのでしょう)
聖書に「天の使い来る時は誰も知るものなし」と書かれています。
この時代、誰が本物の仏か、一人一人が見極めなければいけないのです。そうしなければ物心両面で大きな損をすることになるのです。



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