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5月 05 2013

如来の心

11:16 AM ブログ

昨日のブログに、園頭先生が多額の布施をもらっていたと書けば、その部分だけとって、高橋先生は布施などもらっていなかった、だから園頭先生は間違ったことをしていた、とすぐ思うダメ弟子たちもいますので(視野の狭いダメ弟子が多いですから。まだその人たちこのブログ読んでますし〔苦笑〕)もう少し詳しく布施のことを書いておきましょう。

高橋先生は布施などもらわれたことがないと、視野の狭い弟子たちはいいますが、そんなことはありません。高橋先生は人の愛を素直に受けられる方でした。それは次のような話からもその事実が分かります。

ある人が高橋先生の講演会に来られて、高橋先生がいられる控え室に十数個のおにぎりを持ってきました。そうして高橋先生に「これ食べてください」と渡されたのです。

高橋先生はもちろんそれを受け取られたのですが、なんと高橋先生は、そのおにぎりを一人で全部食べてしまわれたのです。

普通であれば、おにぎりを持ってきた人が「これ食べてください」といわれたら(二つや三つくらいならともかく十数個もあるんですから)それは「みんなでお食べください」という意味だとすぐ分かるはずですが、高橋先生はそのように思われず(その人がおにぎりを持ってきた時、控え室には高橋先生お一人しかいませんでした)自分に渡されたのだから、自分が一人で食べないと、そのおにぎりを持ってきた人に悪いと思われ、一人で十数個ものおにぎりを無理して食べられたそうです。

如来の心とはこのようなもので、相手が出された愛はすべて受け取られるのです。

それに、このような話が残っているのですから、高橋先生も布施されればそれをもらわれていたはずです。ダメ弟子たちがいうように、法を説いてお金をもらってはいけないなどナンセンスで、それは高橋先生が方便でいわれていたに過ぎません。

その方便をまともに受け取ってしまうのですから、このような弟子たちが、いかに底の浅い心の持ち主か分かります。これでは正しい法も説けないでしょう。(従ってこのような人たちに奇跡が起きてこないのも道理でしょう)

このような人たちは、お金や物など受け取らず、神の教えを説いている人が正しい人と、一面的にしかものを見ることができないのです。

園頭先生は、このような偏った見方しかできない人を「清貧礼賛型」の人たちと戒めていられました。

キリストも同じです。「頭から灰をかぶったような祈りはするな」といわれていたのです。

キリストは、頭から灰をかぶったようなしかめっ面で、さも私は神に敬虔な祈りをしています、というカッコだけつけて、肝心の心はまるで神の心を分かっていない、そんな形だけの祈りをしている人が多かったため、そのようにいわれたのです。

結局「清貧礼賛型」の人たちとは、このキリストがいわれている人たちと同じなのです。

このような人たちは、私はお金や物などもらいません、ただ、従順に神の教えを皆さんに伝えています、というカッコだけつけて、実は全然神の心(それはすなわち如来の心)が分かっていないのです。

如来の心は、物をもらうからいけないとか、いいとかいうレベルの話ではないのです。昨日も書きましたが、如来は人に愛を出すのはもちろんのこと、人から出された愛もすべていただかれるのです。

そうであるならば、人の出してくれた愛は、それが金であろうが物であろうが、または自分の手伝いをしてくれたことであろうが、すべて、喜んでいただかれるのであり、その出してくれた愛に形があろうがなかろうが、何も関係ないのです。

如来は相手の愛をいただくだけであって、それが金であろうと物であろうと心だけであろうと、一切そのようないただくものに執着などないのであって、だから、何でもいただかれるのです。

金だからいけないとか、心だからいいとか、そのような問題ではなく、相手の愛はすべていただく、それが如来の愛であり、そのような金や物にこだわっているのは、逆にそのようなものに執着があるから、そんなことを気にするのであり、そういうものに一切執着がなくなれば、そんな小さなことにこだわらなくなるのです。ただ、相手が出してくれた愛は素直に受け取る、それだけなのです。

その証拠に園頭先生は、多額の布施をもらわれてはいましたが、後で、布施した人が仕事などで行き詰まり、その布施した金を返してほしいといわれれば、すぐに返されていたのです。

園頭先生が金の亡者なら、一度布施された金を返したりされるでしょうか?

如来の心(神の心)とは、このようなもので、物であろうが心であろうが、一切そのようなものにはこだわらない、ただ、愛を出してくれれば、そのような愛を出してくださった人の心に感謝され、何でも喜んで受け取られました。それは、いただいたものに喜んでいられるのではなく、その如来に布施したいという、その人の心を喜んで受け取っていられたのです。

如来に布施をするのであれば、その布施した人が得られる徳は計り知れません。そのことを如来は我がことのように喜ばれたのです。

お金がいいとか、物がいいとか、心がいいとか、そんな小さなことに喜んで如来は布施をもらっているのではなく、相手の如来を思う心(それはすなわち神を思う心)それをことのほか喜ばれ、その布施をもらわれていたのです。

ですから、お金をもらってはいけない、心ならいいなどと、そんな小さなことにこだわっている人など、如来の心をまるで分かっていないのです。

如来のお心とはこのようなもので、常に相手のことを思い、自分のことなど二の次なのです。布施をもらうのでも、相手のことを思われもらわれているのです。

自分の小さな心と如来の心を少し比べられてはいかがでしょうか。

そうすれば、自分がいかに視野が狭いか、よく分かるのではないでしょうか。

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