>>ブログトップへ

6月 29 2013

祈りの意味

11:07 AM ブログ

また、何か起きましたか?

昨日ブログを書かなかったのは(どうせ誰も布施などしてくれないでしょうから)何か起きたら書こうと思ったからです。(一昨日は微妙でしたので)

高橋先生に直接祈っているのです。誰も協力しようとしなければ、ただではすまないのではないかとも思い、そうしたのですが昨日は凄かったですね。夜の帰り道だけで十人近くの人が私のことを待っていて、嫌がらせのようなことをされました。(ということは、他の道にも私を待っている人がいるんでしょうね、最近の私はいろいろな道を通って帰りますので…さすが、この辺りでの私の人気AKB以上なだけはあります……不人気といった方がいいのでしょうか?)

昼は昼でトラックの運ちゃんとか凄いですし、昨日だけでも何人祈ったか分かりませんね。しかし、そのような人たちにいっておきますが、高橋先生に直接祈っています。その覚悟だけはされた方がいいのではないでしょうか。(何が起きるか分からないということです)

高橋先生に祈っていますので、何が起きるか分からないのですが、何か変ですね?いつもと感じが違うようにも感じますが(気のせいですか?)トラックの運ちゃんなど私が祈ると顔を引きつらせる人が多く、何か前以上に態度がおかしいのです。(「ブシュ」とふかすだけふかし、大急ぎで走り去っていく人もいますが、そんなことしても全然意味ないですよ。〔笑〕祈ればその祈りは即座に天に通じます。〔天はすべてその人のことを知っています〕その人がどこに逃げようと、正しい祈りはきかれることになります。私がその運転手の顔を見ようが見まいが関係ないのです)

前以上に何か起きてませんか?まさか次々にあちこちで何か起きだしたんじゃないでしょうね…それで嫌がらせする人が増えたとか…それはないですか、だって、そんなに現象が起きてるなら、嫌がらせする人が逆に減らないと変ですもんね。(次々に現象が起きだして、それでもまだ私に嫌がらせするなど、そこまでまともな判断できない人いないでしょう、子供ではあるまいし。〔笑〕普通はやらなくなりますよね、そんなに次々に何か起きだしたら)

ということは、ただの私の気のせいですか?何か感じが違うような気がしますが…ワンパターンでもいけないので、皆さんいろいろやり方変えられるんでしょうか?

しかし、昨日でもあれだけの人がワザワザ待っててくれるのです。何か起きてるんでしょうね、きっと。(起きてませんか?)

さっきもしてましたが、昨日でも救急車のサイレンがよく聞こえました。

よく考えてみれば、昨日の救急車のサイレンでも、その病人が出た家は(近くの人でしょうから)当然私のことを知っている人たちということになります。

私のことを知っている人たちから急病人が出ているということは……(これだけ嫌がらせされるのです。私が陰で何いわれてるか想像できますので)ということは、私の悪口ばかりいってると、病気になるかもしれないということになります。(十中八九、この辺りの人私の悪口いっています…態度で分かります)

そういうことが、やはり起きてると想像できますが、いかがでしょうか?(何も聞いてませんが)

もし、そうであるなら、私に対し嫌がらせなどやめられたらどうですか、協力された方がよいことが起きるのではないでしょうか。逆に協力しないからそういう(悪い)ことが起きるとは思わないのでしょうか?

ずっと悪いことが起き続けているように思いますが、そうではないのでしょうか?では少し考え方を変えられたらいかがでしょう、そうしないと、いつまでも悪いことは続くように思います。

昨日祈っていて、あることが浮かんだのです。

それは「私はこんなにあちこちの人を祈っていてよいのだろうか」という疑問でした。

すると、しばらくしていろいろなことが心に浮かんできました。そのいろいろなこととは次のようなことでした。

『法を知っているのに、それを行わないことは悪である。おまえは間違った祈りをしているわけではない。おまえの祈りは、その人の心にとって何一つ悪いことではない。だからおまえはもっと祈ればよい。それがおまえの徳となるからだ』

つまり、法を知りながら、それを勉強しようとしないことは、それは悪を犯していることと同じなのだから、それをその人に知らせるためにも、祈ればいいのであって、私は「その人を正しくお導きください」と祈っているのですから、その正しい導きとして祈った人に現象が現れても、それがどのような現象であろうと、その人の心のために(注、体のためではありません)なるのだから、気兼ねなく祈ればよい、そのような悪を犯している人を祈ることは、自分の徳となるのだ、ということでした。

このような思いが心に浮かんできたということは、それは私のやっていることに間違いはないのであって、また、祈らなければ法の流布などできないのですから、祈って、祈って、祈りまくらなければ、法は拡がらないということになります。ですから、これからもドンドン祈ろうと思っていますし、何か現象が現れているなら、それは私の祈りが正しい証拠でもありますし、私に祈られるのがいやなら、私に祈られ現象が現れるようなことをしなければいいのであって、それには心を入れ替えるしかないのであって、その心を入れ替えるには、この法を勉強するしかないということです。

ですからこれからも、何か私にちっかいをかけたと思った人は即座に祈ります。(疑わしきは祈ります)それが、その人のために一番なるからです。祈られるのがいやなら、私にちょっかいをかけなければいいのであるし、自分の心を成長させたいと思うなら、私に協力すればいいのです。

法を知りながら、それを勉強しようとしないことは悪です。

これだけの現象が次々に現れているのです。(ということは、それはすなわち神の命であるということです)

神の命には従われるほかないのです。

0コメント

Trackback URI | Comments RSS

コメント記入

Spam Protection by WP-SpamFree


あなたは人目の訪問者です。