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2009年6月

6月 12 2009

輪廻転生

相変わらず仕事が暇で、ブログばかり書いています(笑)いつまでこのブログが書けるか
分かりませんが、書けるあいだは書きます。

私は前に人が生まれ変わるという、輪廻転生は仏典や聖書にも書かれています、と書きま
したが、仏教は輪廻転生を認めていますので、仏典に輪廻転生のことが書いてあっても、
不思議ではありませんが、人の生まれ変わりなど認めていない、聖書の中にそのような
記録が残っているのでしょうか……?残っています。ただしそれが輪廻転生の記録である
と、聖書を読まれる人は気づいてはいませんが。
その輪廻転生が書かれた部分とは、一体どの部分なのか、それが使徒言行録の2の部
分です。

<五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくる
ような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家じゅうに響いた。そして、炎のような舌が分か
れ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせ
るままに、ほかの国々の言葉で話しだした>


キリストの弟子達は、キリストが亡くなると命をかけて、福音を伝えていきます。そのとき多く
の奇跡を起こしますが、ここに起きた奇跡はその一つです。
エルサレムにキリストの弟子達が集まっていると、突然弟子達に聖霊が降り、弟子達が他
国の言葉で語り始めます。ここにいるキリストの弟子達はガリラヤ人ばかりなのに、色々な
国の言葉で語りだしたのです。
エルサレムには色々な国から、信心深い人が集まってきていましたが、自分達の故郷の言
葉を弟子達が話しているので、皆、驚いてしまいます。ペテロがこのあと説教し、この不思議
を見た多くの人達が、洗礼を受けペテロ達に従っていくのですが、これはどういう現象でしょ
う?

この現象について、聖書に詳しい記述はありませんが、たとえば外国語をまったく勉強してい
ない人が、いきなり色々な他国の言葉で語りだしたら、驚いてしまいますよね。
ところが、これと同じ現象が科学の分野で現在進められています。それが退行催眠です。

ある男性は、退行催眠により、自分の過去の人生でヴィキングであった時のことを思い出し、
当時の言葉で、当時のことを語りました。その言葉を専門家に鑑定してもらったところ、現代
のアイスランド語のもとになった古い北欧語で、ほとんどがヴィキングが使用した、海に関す
る語句であり、本当にヴィキングが、当時使っていた言葉であることが分かりました。
すでに数千、数万という人が、退行催眠で過去の人生を思い出し、色々な国の当時の言葉
で当時の模様を話しています。日本でも何人もの精神科医や大学教授が、人間の死後の
生存に関する様々な研究を行い、死後生存を裏付ける、多くの有力な経験的証拠を発表し
ています。
人の過去の人生は、同じ国にばかりに生まれているのではなく、色々な国に生まれ変わっ
ている、ということが分かってきていますが、先ほどのキリストの弟子達に起きた現象は、
これであったのです。

キリストの弟子達は過去世(過去の人生)を思い出し、過去の言葉で話をしたのです。そ
れが他国の色々な言葉となって、弟子達から話されました。ただしここで弟子達が過去世
を思い出したのは、退行催眠などではなく霊の力でと書いてありますが。

人間の(特別、人間だけではありませんが)死後生存は、科学でも証明されようとしています。
ということは、霊の存在も認めざるを得ないと思いますが…実は霊の存在も科学では、すで
に認められています。このことはまた次回に譲るとしまして、輪廻転生はすべての人が体験
しているということを、知ってください。私達はお釈迦様の時代、あるいはモーゼやキリストの
時代に肉体を持っていたかも知れないのです。そのことを現在の私達は忘れているだけな
のです。このことは近い将来科学で証明されることでしょう。ここであまり詳しくは書けません
が、私達一人一人が過去から未来にかけて、生き通しの生命であるということを知ってくださ
い。それは質量保存の法則を知るならば、理解できるはずです。
この地球上の質量は、増えることも減ることもなく、永遠に同じ質量が保たれている。これは
人間にもあてはまるのです。

人はこの世だけの人生で、死んでしまえばすべて終わり、だから好き勝手に生きればよい。
そんな考えで、おかしな人生を歩んでしまえばどうなるか、その人は死んだそのあとで大変
な後悔をすることになります。お釈迦様やキリストが語った真理は科学であった、といずれ
証明されることでしょう。だとしたら、お釈迦様やキリストがいわれるような、心の在り方をした
方がよいと思います。



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6月 11 2009

キリストと十字架

昨日書きましたモーゼと並ぶ人物に、新約聖書にでてくる、イエス・キリストという方が
おられます。キリストを知らない人はまずいないでしょうが、キリストもモーゼに負けず
劣らず、多くの奇跡を起こし人々を救っていきます。
しかし、キリストは最後は十字架にかけられ命を落とすことになります。
多くの人を癒し、福音を説いて正しい道へ教え導いたイエス・キリストが、なぜ最後に
十字架の刑に処せられ、命を落とすことになったのでしょう。多くの奇跡を起こし、神の子
とまでいわれた神通力の持ち主が、十字架にかけられ殺されたというのは、どういうこと
でしょう。それには次のような意味がありました。

キリストは十字架にかけられることを、すでに知っていました。だから最後の晩餐の時に、
「あなたがたのうちのひとりが、私を裏切ろうとしている」といったのです。それを聞いた
ペテロが「たとえほかの者が裏切っても、私は裏切りません」と答えます。キリストは
ペテロに「あなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないという
であろう」といい、ペテロが虚言をはくことも知っています。
ペテロは「私はあなたとともに死ぬことになろうと、あなたを知らないなどとは、いいません」
とやっきになって答えますが、ペテロはキリストがいわれたとおり、ユダが連れてきた祭司
や大勢の群衆にキリストが捕まると、キリストのことを、三度知らないといったのです。

すべてを見通していたキリストは、十字架の刑から逃げようと思えば、逃げることはできまし
た。しかし、キリストは十字架の刑を自ら選ばれたのです。それは、そうしなければキリスト
は、このときこれ以上福音を説くことが、できなかったからです。
これまでキリストは多くの奇跡を起こし、多くの人を救いました。しかし、光が強ければ影も
また強くなるの言葉通り、キリストに反発する人も多かったのです。いつの時代でもそうです
が、どれだけ奇跡を起こそうと、あんなものはただの手品だ、言葉巧みに人をだましている
詐欺師だ、などとケチをつけ反発する人はいます。この時代も、そのような人が多かったの
です。またキリストの激しい気性もあり、キリストに敵対する人も多かったのです。

そのためキリストは、多くの人に福音を知らせるためには、十字架にかけられ自分が死ぬこ
とで、身をもって愛を人々に示す以外方法がなかったのです。しかし、キリストは神を疑う
ことはありませんでした。というと、では、キリストが十字架にかけられての最後の言葉は何
だったのか?という疑問がでてきます。

新約聖書のマタイ伝にはキリストの最後の言葉は「わが神、わが神、どうして私をお見捨て
になったのですか」と書いてあります。ところがルカ伝では「父よ、私の霊をみ手にゆだね
ます」と書いてあります。キリストのことを書いた福音書なのに、キリストの最後の言葉がそ
れぞれ違っているというのは、どういうことでしょう?
それはキリストのことを書いた福音書は、キリスト自身が書いたものではないので、書いた
人の主意や私見が、かなり入ってしまうということです。
つまり福音書を書いたキリストの弟子達が、仮にその場にいたとしても、キリストの最後の
言葉を聞いていたかどうか分からないし、聞いていたとしても、その場の雰囲気や自分の心
の在り方により、聞き方や書き方が違ってくる、ということです。二つの福音書の言葉が、ま
ったく違っているのがそのよい証拠です。

このときのキリストの最後の言葉は「神よ、人々を見捨てたもうな、そのなす所を知らざれば
なり」です。

キリストの最後の言葉に象徴されるように、イエス・キリストというお方は、亡くなる寸前まで
自分を十字架にかけた人達もふくめ、すべての人を神に祈ったのです。自分を裁判にかけ
十字架にかけた人、あるいはむち打ち嘲笑った人もふくめ、すべての人をです。これこそ
神の愛、真の愛の心といっても過言ではないでしょう。
太陽の光が善人であろうと悪人であろうと、平等に与えられているのと同じように、神の使い
であったイエス・キリストの愛は、すべての人に平等に与えられていたのです。右のほほを
ぶたれたら左のほほをだせ、といわれたキリストの愛の心が痛いほど分かります。

キリストが十字架にかけられたことにより、キリストの弟子達は目覚め、キリストの教えは
世界中に広がっていくことになります。キリストは自らの身をとして、愛の心を世界中に伝え
ました。なぜキリストが多くの奇跡を起こし、また二千年たった現在でも多くの人々の信仰を
得ているのか、キリストの愛の深さを知るならば、おのずと理解されてくるはずです。

キリストにせよモーゼにせよ神の愛を実践され、慈悲と愛の塊の心と不思議な神通力を持
たれた偉大な方々でありました。現代の人々も、このような偉大な方々の心を知るというこ
とは、大事なことであるといえましょう。








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6月 10 2009

預言者モーゼ

私は前回、闘争心丸出しの心では奇跡は起きない、と書きましたが、聖書を読みますと
特に旧約聖書のほうなど、神に逆らった人たちがずいぶん殺されています。
旧約聖書の中で、モーゼの大奇跡で有名な偉大な預言者モーゼでさえ、多くの国々の
人を殺して、カナンの地に進んだことになっています。旧約聖書の中には、ほかにも何
人かの預言者が登場しますが、モーゼはその中でも、一番の人物といっても過言では
ないでしょう。それほどの人物が多くの人を殺したのでしょうか?

モーゼは主ヤハウェーに命ぜられ、エジプトの六十万の民とともに、カナンの地をめざし
ます。その時エジプトの王から、六十万の民を去らせるため十の奇跡を起こします。その
十の奇跡を始まりとして、モーゼは数々の奇跡を起こし、民を導いていきます。四十年
の歳月をかけて、モーゼは六十万の民をカナンの地まで導いていくのですが、そのカナン
に行くには途中、多くの国を通らなければなりません。その多くの国々を通る時、モーゼに
逆らった国や、モーゼの一行を通そうとしなかった国の人々を、モーゼは戦って殺します。

戦国時代の武将というのなら、逆らった国の人々を殺しながら進んだ、というのも分かりま
すが、偉大な預言者であるモーゼが、このようなことをしたのでしょうか?

事実は違います。
偉大な預言者モーゼは一人の人も殺していません。ヤハウェーは怒りの神と聖書には書
いてありますが、ヤハウェーは人を一人殺すも百人殺すも同じこと、といわれていました。
モーゼはヤハウェーから偉大な力を与えられていました。天変地変さえも起こせる力を与
えられていたのです。それはあの海を真っ二つに割った大奇跡でも証明されています。
モーゼは、なぜカナンの地に行くまで四十年もかかったのでしょう。実際のカナンの地は
六十万の民を連れているとはいえ、数年で行ける距離にありました。それが四十年もかか
ったのはなぜでしょう。

それは、モーゼはカナンの地にいくまでの土地に住む先住民族に、時間をかけながら神の
教えを説き、奇跡を起こし、調和しながら進まれたからです。
凶作の地方には雨を降らせてその地を豊作にし、多くの人々の衣食住を安定させ、わかり
やすく神の教えを伝えました。先住民の中には先祖からの教えをかたくなに守り、モーゼの
教えに耳を貸さない者もいました、しかしモーゼは、そのような者にも辛抱強く教え続け、そ
の者が理解するまで、その地にとどまったのです。モーゼの教えを聞かないからと、力づく
で従わせるようなことなど、モーゼはけっしてしていません。であるからこそ主ヤハウェーは
モーゼに偉大な力を与えられたのです。もしモーゼが多くの人を殺していたとしたら、それ
は神の使いなどではなく、悪魔の使いになってしまいます。ヤハウェーは人を殺せなどという
指示など、けっしてだしていません。

聖書は人から人へと言い伝えのように伝えられていったもので、話がところどころかわってし
まっています。特にモーゼの時代の出来事は、モーゼが亡くなって数百年後にやっと文字と
して遺されたもので、話がかわってしまった部分が多いのです。聖書に文句をつけるわけで
はありませんが、旧約聖書の中のモーゼと私がここに書いたモーゼと、どちらが預言者モー
ゼとしてふさわしいかは、読まれる人の判断にお任せします。

モーゼは、このような偉大な聖者であったからこそ、三千年も前から偉大な預言者として、
名を遺しているのです。
聖書学者などがモーゼの大奇跡を、これは比喩的に記して、大衆に分かりやすく伝えた
ものだ、などと奇跡を信じていない人もいますが、ご自分がそのようなことを、まったくでき
ないからと、否定してしまうのもどうかと思います。奇跡の部分がフィクションなら、なぜ数
千年も聖書が語り継がれているのでしょう。奇跡を起こせない人が、奇跡を否定する根拠
はどこからでてくるのでしょう。狭量な考えは捨て視野を広げたならば、奇跡が起きてくる
やもしれません。

モーゼの大奇跡は実際に行われました。それはモーゼが愛と慈悲の塊の人物であった
からです。しかし、奇跡というものは何もモーゼの専売特許ではありません。
誰でも奇跡は起こせるのです。ただし、愛と慈悲の心を持ち調和した世界を築くならば、
という条件がつきますが。




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6月 09 2009

大天災と奇跡

聖書の中にはいろいろな物語がでてきます。アダムとエバ(イヴ)から始まって、人が
増え始めると、ノアの箱舟現象が起こって人が減り、そうしてまた増え始めると減ると
いうことも書かれてあります。
このような現象は、私達人類の歴史とも不思議と一致します。人類の歴史も人が増えると
大天災が起こって急激に人が減り、また増えると減るということを繰り返しているからです。

人類の歴史を見る限りでは、なぜ人が増えると大天災が起こるのか分かりませんが、聖書
の中には、大天災が起こる理由が書かれてあります。

ノアの箱舟で有名なノアの時代、地上の人口はもう十分に増えていました。しかし、人々は
汚れきり、考えることといえば悪事ばかりでした。そして世の中も暴力に満ちていました。
神は地上に人間をつくったことを後悔し、すべての人間を地上から消そうと考えます。ただし
ノアの一族だけは神を敬い、行いも正しいので救おうとされます。そうしてノアは神の言葉に
従い大きな箱舟を作り、ノアの一族とすべての生き物をのせます。その七日後、神は地上
に大洪水をおこします。この大洪水で、ノアの箱舟にのっていた以外の地上のすべての
生き物が死に絶えます。


アブラハムという心清き人がおりました。この人の前に旅の僧の格好をした、三人の主から
の御使いが現れます。この三人とは七大天使であるミカエル、ガブリエル、ラファエルです。
三人の御使いはアブラハムにいいます、「ソドムとゴモラの罪はひどく重い、という叫びを
聞いた。だから私は町に下ってそれを確かめるつもりだ」このころソドムとゴモラの町は
快楽とはてしなく続く肉欲と同時に、すべての欲が絡み合っていました。ソドムとゴモラの
町は地獄に等しく悲しく壮絶な光景であったのです。しかし、三人の御使い達はアブラハム
に、ソドムとゴモラの町に十人の正しい者がいれば、その十人のために町を滅ぼすことは
しないと誓われます。翌朝アブラハムが丘の上に立ち、ソドムとゴモラの町の方を見ますと
町は跡かたもなく消え去り、地面からはちょうど竈の煙のように、無数の硝煙が立ち上って
いるだけでした。

この聖書の物語は何を物語っているのでしょうか?それは大洪水が起こった原因、ソドムと
ゴモラの町が滅びた原因、それらはすべて人がつくったということです。
ノアの時代、ノアの一族以外で心正しき人がたくさんいたならば、大洪水など起こりません
でした。ソドムとゴモラの町の人々に正しい人が十人いたならば、ソドムとゴモラの町は滅
びませんでした。ノアの時代の人々にせよ、ソドムとゴモラの町の人々にせよ、自分達の
滅びる原因をつくったのは、心と行いが間違っていたからであり、自分達の心がそうした
のです。神や御使い達が人々を滅ぼしたように、聖書には書いてありますが、自らの心が
それを招いたということを知るべきです。

聖書の中には、どのような心になったとき奇跡が起きて、どのような心になったとき大天災
が起きるのかが書かれてあります。現在の私達は奇跡を起こす心の人が多いのでしょうか、
大天災を起こす心の人が多いのでしょうか。もし、奇跡を起こす心になれば、奇跡はすぐに
でも起きるのです。

たとえば私は前にプロ野球選手の話を書きましたが、あのような勝負の世界に生きる人達
にも、私は闘争心を前面にだすようなアドバイスはしておりません。それよりも野球選手に
とって、一番大事なものに感謝しなさいとアドバイスしたのです。相手と喧嘩する心と調和
する心、どちらが強いのかといえば、断然調和する心の方が強いのです。喧嘩する心の
方が強いように感じますが、それは違います。野球でいうなら、自チームに感謝するのは
当然のこと相手のチームにも感謝することです。野球は相手がいて初めて野球になるの
です。バッターはピッチャーがボールを投げてくれて野球になり、ピッチャーはバッターが
立ってくれて野球になります。バッターが立ってくれなければ、ピッチャーがどれだけボー
ルを投げても、それはただのキャッチボールにしかすぎません。
であるならば相手チームは敵なのでしょうか?敵ではありません。周りに敵など一人も
いないのです。相手チームの選手は自分の野球のレベルを上げてくれる、同じ野球仲間
であるということです。そのように調和する心がでてまいりますと、奇跡が起きてきます。
奇跡を起こす心とは大調和の心なのです。勝負の世界は相手に打ち勝つ心や、負けず
嫌いの心が大事だといわれておりますが、一度調和する心になられてみるとよいでしょう、
結果がどのようになるかは、自分が一番よくわかるからです。

聖書にでてくる救世主といわれる方々は、闘争心丸出しで奇跡を起こされたわけではあり
ません。神を信じ人を愛する、愛と調和の心で奇跡を起こされたのです。一人一人が愛と
調和の心を持つことにより、自分自身を救い、そのような小さな救いが、ひいては世界を
救っていくことになるのです。どのような心になった方がいいかは、申しあげるまでもない
でしょう。








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6月 08 2009

神の存在

世界でナンバーワンのベストセラーとはどのような本でしょうか。それは皆さんよくご存じ
の聖書です。ということは世界の人々が一番読んでる本が、この聖書ということになり
ます。聖書は旧約と新約に分かれていますが、旧約聖書の第一巻「創世記」の冒頭に、
この世の始まりが次のように書いてあります。
<はじめに神は天と地とを創造された地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、
神の霊が水のおもてをおおっていた。>

科学では、この世の始まりを、宇宙はビッグバンから始まったと言っています。そして、
宇宙が発生する前の、ビックバンが起こる前には、時間も空間もエネルギーも物資も
何もない「無」であったとのことです。
科学と宗教の違いとは何でしょうか?簡単にいえば原因と結果がはっきりしているもの
を科学といい、原因がはっきり分からず、単に結果だけいうものを宗教といっています。
水はどうしてできたのか?科学的に言うなら水素と酸素を化合することにより水になる、
といい、宗教的に言うなら、それは神がつくったとか教祖様がつくった、という言い方に
なります。

旧約聖書ではこのあと神は「光あれ」といわれ、昼と夜をつくって一日目が終わり、空と
水をつくって二日目が終わり、三日目に海と地、四日目に太陽と星、五日目に水の中の
生き物と鳥、六日目には地の獣と人をつくり七日目に休まれます。
このように旧約聖書には、この世のすべてのものは神がつくられたと書いてあります。

では科学は、この世のすべてのものは、どのようにしてできたといっているのでしょう?
私の勉強不足なのでしょうか、科学ではこの世(大宇宙)はビッグバンから始まった、
としかいっていません。ビッグバンといわれるほどの大爆発が起こったのなら、それが
起こるだけの、超巨大なエネルギーは、どこからかかったのでしょう?そして、そこから
時間や空間、星となるための物質はどのようにして現れたのでしょう?このような宇宙が
できる、最初の原因については、現在の科学ではまったく説明されておりません。
これで科学といえるのでしょうか?宇宙がどのような理由からつくられているのか、今の
科学ではさっぱり分からないのです。

宇宙がつくられたのなら、つくられるだけの理由があるはずです。宇宙は何か巨大
な力が、目的を持ってつくられたから存在し、つくられてなければ存在していません。
それは我々人間も同じです。つくらたからあり、つくられなければない。簡単な原理
です。
ではその何かとは何か…この秩序整然とした大宇宙を見るとき、私達人間の科学力
などはるかに凌駕した、超巨大な力を感ぜずにはいられません。なぜ大宇宙の星々は、
まるでコンピューターに制御されているかのごとく、正確に運行されているのでしょう?
なぜ大宇宙の星々はそれぞれ自転し公転しているのでしょう?大宇宙の星々を常に
動かしている莫大なエネルギーは、どこからかかっているのでしょう?

この大宇宙を見るならば、大宇宙を動かしている、不思議な意識(目的)をもった超
巨大エネルギーの存在を、科学といえども認めないわけには、いかないのではないで
しょうか。この超巨大なエネルギーを宗教では、神と呼んでいるのです。神という呼び
方がいやなら、超巨大意識でも超巨大エネルギーでも、なんでもいいでしょうが、この
大宇宙にそのような超巨大な力が常に働いているというのは、否定できない事実であり
ます。

現在の科学は神の存在は否定するし、宇宙ができた目的もわからないし、他の動植物
や私達人間がなぜこの世に現れたのかさえも、まったくわかりません。宗教をばかにす
る人も多いですが、科学ではこのような問題は一つも解明できないのです。

聖書のなかには、偉大な力を持たれた救世主が何人も登場し、神通力を駆使して多くの
人を救います。この救世主が説く真理の中に、さまざまな疑問の答えがでてきます。
人はどうしたら幸福になり、不幸になるのか、聖書が世界で一番売れているのは、売れる
だけの理由が何かあるのでしょう。

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