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2012年12月

12月 31 2012

除夜の鐘と百匹目の猿

今年も今日が最後となりました。早いというより、いろいろ起きた年だったというのが、私の率直な感想ですね。

今年最後くらい愛のある安らぎのあるブログを書きたいのですが、どうもそうはいかないようです。

今晩遅くから年明けにかけて、あちこちのお寺で除夜の鐘がつかれます。その鐘の音で、面白いことを高橋先生がされたことがありますので、その話を少し書いてみましょう。

あるお寺の坊さんが、真摯に祈りながら鐘をついていたそうです。それを見ていた高橋先生が、その坊さんのつく鐘の音に乗ったらどこにいけるのか試されたそうです。(もちろん肉体ではなく、幽体離脱をして幽体でです。音も光のエネルギーですからね、そのエネルギーの上に霊体でなら乗れるそうです)

すると、その坊さんのついた鐘の音は、そこら辺をぐるぐる回っただけで、しばらくすると消えてしまったそうです。また、ある坊さんが上げるお経にも、高橋先生は乗られたことがあるそうですが、その坊さんの唱えるお経も、そこら辺をぐるぐる回っただけで消えてしまったそうです。

つまり、この坊さんたちは外から見ると、いかにも敬虔に熱心に鐘をついたり、お経を上げたりしていましたが、その祈りはまるで天に届いていなかったのです。(ということは、どれだけ祈ろうがその祈りはきかれない、ということです。天に届かないのですから)

ところで、私はここ数日間パソコンで、いろいろな有名な女の子のブログをチェックしていました。なぜそんなことをしていたのかといえば、もちろん法に縁のある子がどれくらいいるのか知りたかったからです。

そうしたら、私の勘違いもあるかもしれませんが、ずいぶん多くの子が私のブログを読んでいるように感じました。(十代の子まで読んでるように感じましたが、十代の子まで読みますかね、私のブログ?)

どれくらい、私のブログを読んでる子がいるのかはっきり分かりませんが、かなりいるのではないかと思えました。

このブログを読んでる人で「百匹目の猿」という現象を、ご存知の方もいられると思います。

この百匹目の猿の現象とは、ある猿山に数百匹の猿がいたのですが、その中の一匹が芋を洗って食べるようになりました。しばらくすると、それをまねする猿が一匹、二匹と出てきたのですが、その芋を洗って食べるのをまねする猿が、九十九匹くらいまでは、ずいぶんゆっくりしたスピードで拡がっていたそうです。

それが百匹を過ぎた辺りからでしょうか、一変にその“芋を洗って食べる”という現象が、その猿山全体の猿に拡がってしまったのです。

なぜだか分かりませんが、百匹を過ぎた辺りから、そのような行為の拡がるスピードがとたんに上がったのです。それも信じられないくらいにです。不思議なことですが、しかし、不思議なことはそれだけにとどまりませんでした。

その猿山の近辺にある同じような猿山でも、その行為(芋を洗って食べる)が伝わり、あちこちの猿が同じことをしだしたそうです。

近辺にある猿山とはいえ、その距離は数百キロも離れていて、もちろん猿同士の交流などまったくありませんでした。それなのに一変に他の猿山でも、多くの猿たちが同じように芋を洗って食べるという行為をしだしたのです。

つまり「百匹目の猿現象」とは、少しずつ拡がっていた行動が、ある一定の臨界値を超えると、とたんに、まるでテレパシーでも使ったかのように、大きく拡がる現象をいうのです。

私のことは、今年名古屋だけでも数百から数千(あるいはもっと多く)の人が知ったのではないでしょうか。(だから嫌がらせをする人が増えたのですが)ということは全国的に見ればどれだけの人が私のことを知ったのか分かりません。

では、ソロソロこの「百匹目の猿現象」が起きても不思議ではないのではないでしょうか。

そういうこともあり、一体どれくらいの有名な子が私のブログを読んでいるのか(または噂を聞いているのか)を調べていたのです。私が調べたのは女の子だけです。(男まではさすがに無理です。それに男にあんまり合わされても気持ち悪いでしょう〔笑〕)

私の噂が、テレパシーのように皆に伝わるということはありませんが、有名な子が私を知ったのであれば、そういう子の周りには多くの人が集まります。そのような子から発信されれば、私のことが百匹目の猿現象のように、拡がらないとも限らないのです。

もし年が明けて、私のことを多くの人が知り支持する人が増えれば、今度は攻守ところをかえ、私に嫌がらせした人が、皆から攻められるということにもなりかねません。(いずれはそのようになると思いますが)

今日の除夜の鐘が鳴るまでが期限です。その鐘をつく坊さんは天までその鐘の音が届きませんが、私がつくなら届くでしょう。(祈りがきかれているのですから)

そのような者に嫌がらせをしたのです。謝らなくてもいいのでしょうか?

何度も言いますがよくよくお考えください。

追伸…何か最後まで殺伐としたブログになってしまい残念です。しかし、法が拡がっていない現在、そのような内容になるのも致し方ないと思われます。

しかし、今年の最後にずいぶんきれいな子たちが、私のブログを読んでいるということが分かり、それはそれで愛をいただけたようでよかったです、元気が出ましたから。(残念な子、全然愛を出そうとしませんから)

もう今年も終わりです。そうであるならば、今年(あるいは過去に)あった嫌なことや心についた傷などあったとしても、そんなものは全部捨てて忘れてしまうことです。(そのようなことを心に残しておけば、それが不幸の種となり幸福な人生を歩めないからです)何か嫌なことをされたことがあるなら、その嫌なことをした相手を許してやり、忘れられない人がいたとしても、どうしてもその人と一緒になれないのであれば、その人の幸せを願いその人を忘れてしまうことです。そうして新しい人を見つけることです。

そのような愛ある心になることが結局自分自身を幸せにするからです。

女性は、そのようないろいろな悩みをもっている人も多いでしょう。しかし、新しい年がこれから始まります。そうであるならば古い自分は捨てて、新しい自分を誕生させるのです。そのような過去にこだわらない、きれいな愛ある心で新しい自分を誕生させた時、初めて本当の幸せな道がついてきます。

来年は心身ともにきれいな女性を目指していただきたいものです。そのような資質のある人が私のブログを読んでいる子たちにはたくさんいると思います。どうぞ(女性としての)高い目標を持ち進んでいっていただきたいと思っています。

今年はどうもありがとうございました。来年もまたよろしくお願いいたします…加藤さんも頑張ってね。(何かつけたしみたいです〔笑〕)

最後に、神と天上界のエル・ランティー様はじめ諸如来、諸菩薩、光の天使の方々には大変お世話になりました。ありがとうございました。また、来年もよろしくお願いいたします。

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12月 30 2012

あと一日ですが…

どなたも詫びいれてきませんがよろしいんですか?天上界の上の方々カンカンです。(釈尊、キリスト、モーゼ、七大天使といわれる方々です)大丈夫ですか?そんな方々怒らせたままで。この世もあの世も関係なしに大変なことになりますよ。(何度もいいますが、いい加減なことここに書きません、そんなこと書けば奇跡も起きなくなるからです)

名古屋はこれだけ大ごとになったんです。一体、救急車がどれだけ走り回ったと思いますか、数え切れないくらいです。(最近はまた聞こえ始めましたけどね、昨夜もさっきもサイレンしていました)

ということは、それだけ多くの病人が出たということです。大変なことですよね、これ。その責任の自覚をもう少しもたれたらどうでしょうか?(全部私のせいにしてそれで終わりですか。これだけのことが起きたのです、あとで大変な責任を取らされますよ)

反省された方がいるなら、その人だけでも詫びられたらいかがですか。会社では何食わぬ顔をして、変わらない態度をとっていればいいのです。私に詫びたことなどバカ正直にいう必要などないのです。「おまえだけ何でそんなことをするのか」と皆に攻められ、仕事がやりづらくなるというなら黙っていればいいのです。

嘘も方便です。(癌患者に本当のことをいうか、いわないか、あれと同じです)周りの雰囲気がもっと変わってきたらいえばいいのであって、今いえば、自分の立場も悪くなり、不調和になると思えばいわない方がいいのです。そんなこと関係ナシにいってしまう方が智慧がないのです。

神はそのような嘘は許してくださいます。

それよりも「自分は悪いことをした」と反省する心が大事なのです。そんなことしなくていい、などといっている人はまだ心が発達していないのです。(だから反省の大事さが理解できないのです)その人が上の方であろうとなかろうと、それと心の高低は何の関係もないのです。(心の高い低いに関係なく上にいく人は行きます。それは生まれる前に、そのような場所で〔たとえば社長や部長や課長で〕自分の心を磨いてきます、と決めて生まれてきているからです。そのように決めてきた人は普通に努力していれば、その地位にいけるのです。そのような使命をもって生まれてきているからです。心の高低とはまったく関係ありません)

心の低い人の意見に従えば百パーセント不幸になります。絶対にそんな意見に従ってはならないのです。(それが自分の判断、つまり心の勉強なのです)

何度もいいますが、すでに時代は変わっているのです。ですから、正しいことをしていれば、それを裏付ける現象が現れてきますし、間違ったことをしていれば、それを裏付ける現象が現れてきます。

それは私の周りだけでなく、自民党などを見ても分かるはずです。自民党の政策が正しいと裏付ける現象が次々に起きています。それに比べて、民主党はひどいものでした。(恐ろしい現象が次々に起きました。政策がまるでダメだったからです)

民主だけではありません。あの未来の党なども、私がいったとおりあっという間に分裂です。(まったく未来がありませんでした)結局、あの未来の党の党首は、選挙のためだけに利用されたに過ぎなかったからです。(そんなこと誰でも分かっていたから、あの党に票が集まらなかったのですが…もう剛腕といわれる人の神通力も消えましたね。それにしてもあれだけ露骨にやるでしょうか。あれでは未来に票を入れた人詐欺にあったも同然です)あの剛腕といわれる人も時代に合わないのです。(典型的な末法の政治家だからです)もう消えていかれる方でしょう。

このように、完全に時代が変わっているから、正しいことをすれば正しいこと(それを裏付けるような出来事)が起き、間違ったことをすれば間違ったこと(次々に恐ろしい現象が起きたり、何かうまくいかなくなり、意見が合わなくなって分裂したり、追い出されたり)が起きてくるのです。

だから正しい事をした者勝ちなのです。正しいことをしなければ自分が損をするだけなのです。自分が置いていかれるだけなのです。どれだけ人のせいにしようと言い訳しようと無駄なのです。

来年になれば、このような現象はもっと顕著に現れてきます。(それはそうです。時間が経てば経つほど正法の世は深まっていきます。これから最終ユートピアに向かっていくだけだからです)もう後戻りは許されないのです。そんなことをすれば堕ちていくだけなのです。

これからの時代は、全速力で正しい方向に向かわなければ失敗します。立ち止まることも後戻りすることもできないのです。所詮それは悪でしかないからです。(神の心に向かって進むことだけが善だからです)

あと一日あります。よくよくお考えください。

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12月 29 2012

あと二日です

最近祈って、息を吐きながら手を振ると、その手の先から細かい光がパッと広がるのが分かります。その光を心のよい人が受ければよいことが起きてきますが、悪い人が受けると、その悪いことの反省を促されるようなことが起きてきます。

釈尊やキリストが、善人にも悪人にも同じように光を与えていた意味が、その光が分かるようになって初めて分かりました。

ずいぶん、その光を受けた人が私の周りに多いように思いますが、誰も詫びてきませんが本当によろしいんですか?

なぜ多くの人たちが私に嫌がらせを始めたのか知りません。いろいろ噂が拡がったからでしょうが、その噂が全部正しかったのでしょうか?またそのようなことをした、自分たちの判断が正しかったのでしょうか?噂の真相も確かめず、自分たちの判断が正しいかどうかも分からず、そんな生意気な奴はやってしまえと、子供と似たような感じで嫌がらせをされたのではないでしょうか。

少し考えてみてください、自分の子供が、あるいは自分の親が、大勢でよってたかって一人の人に嫌がらせを始めたら、あなたはどう思われますか?近年いじめが問題になっていますが、そのことが原因でその人が自殺しようものなら、そんなことをした親や子を持つあなたはどう思われるでしょうか。

どういう理由があるにせよ、自分の親や子が原因で人が死んだのです。よい気持ちをあなたが持つはずもなく、そんなことをした親や子を、なんということをしたのか、と叱りつけるのではないでしょうか。(まさかよくやったと褒められる人はいないはずです)

それが当たり前の人としての行為でありますし、そうするべきでしょう。

そのような、人に叱りつけられる恥ずべき行為を、あなた方はしたのです。

それで詫びようともせず平然としていられるとしたら、あなたはともかく、そんな親や子をもった家族はどう思うでしょうか?さぞ悲しい思いをすることでしょうね。そんな人を人と思わないような行為をして平然としている親や子を見て。

もうあなた方がした行為は多くの人が知っているのです。(このブログに散々書いたからです)それで誰一人詫びなかったと、またこのブログに書くのであれば、これほど恥ずかしいことはないのではないでしょうか。

人としての常識をもっているのであれば、詫びるのが当然の行為であるし、それをしないというのであれば、これほど非常識なことはありません。そのような非常識な人間と、これからずっと思われるのです。それでもよろしいのですか?

それに私になぜ嫌がらせをしたのか、その理由も分かりません。私はあなた方に嫌がらせなどしたことがないからです。(それ以外の人にもありませんがね、嫌がらせなど。それが人として当たり前のことでしょう)

もし、私が祈り何か起きたから、それが気に食わず嫌がらせをされたというなら、それこそお門違いでしょう。なぜなら私は神の命でそれをしているだけだからです。

私がたくさんの人が憎くてそれをした、というのであれば、嫌がらせをされても仕方がないでしょう。しかし、私は神の命により、多くの人がこの世のことしか考えず、生まれる前に約束した神の心を知り、それを多くの人に伝える、という使命をまったく果たそうとしないから、その一番大事な使命を思い出し果たしてもらうため、祈っていただけだからです。(私の祈りで不幸になった人がいたとしたら、それはその人が自分の使命を思い出そうとしないから悪いのです。どのような不幸が襲っても恨めない、それだけ大事な使命であるからです。それに何度もいいますが、何が起きても祈りをしなければならない、私が一番辛いのです。私からいわせれば、そんなことをしているお前が悪いと、嫌がらせなどしている人など私よりずっと気楽なのです)

だいたい自分の私怨だけで祈り、そんな大きな現象が出るわけないでしょう、大きな現象を起こすには天上界のたくさんの光の大天使の力が必要なのです。自分の心が正しくなければ、多くの光の天使が力をかしてくれるはずありません。祈って大きな現象が現れたのは、私の心が正しかったからです。逆に恐ろしい現象が次々に現れたということは、間違った心で、間違ったことをした人がたくさんいたからです。

どちらが正しく、どちらが正しくなかったのか、その起きた現象がそれを証明しています。どれだけ自分は間違っていないと言い張ろうと、現実を見れば一目瞭然なのです。それを多くの人は認めたくないから、それは全部おまえがしたのである、おまえのせいである、と責任転嫁しているだけなのです。

いつまでも気づかない人が悪いのです。もう時代が変わっているのです。それさえも気づかず、悪いことが起きれば全部私のせいにして、自分たちの心は一切変えようとしない、そんな心ではもう生き残れないのです。

一体、誰のお陰で、神の存在やあの世の存在に多くの人は気づいたのでしょうか?

そのような恩を恩とも思わず、逆に仇などと思っている人に、よいことが起きてくるはずがないのです。

しかし、先ほどの話に戻りますが、どれだけ悪いことをした親でも、あるいは子でも、では多くの人は、その親を見捨てるでしょうか?その子を、お前は悪いことをしたからもう知らん、勝手にどこにでもいけ、などという親がいるのでしょうか?ほとんどの人は、そのような考えは持たず、もうそのようなことをしてはいけないと許されるはずです。

この親子の愛こそ神の愛なのです。

神はどれだけ間違ったことをしている人も許します。それに気づくまで辛抱強く待ち続けていられます。

しかし、そのような神の心に甘え、いつまでも進歩しなくてよいのでしょうか?

あと残り二日です。神の愛に応えるためにも反省ができた人は詫びてください。

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12月 28 2012

年内限りです

最近また救急車のサイレンをちょこちょこ聞くようになりましたが、大丈夫でしょうか。

昨日は金山に行ったんですが、まだシュシュやってるバスの運転手がいますが(ずいぶん小さな音で)コソコソやろうと大きい音をたてようと同じことです。同じ罪に問われるのですから、やるなら堂々とやったらどうでしょう。(その方がまだ潔いでしょう)

マァ、そんな反省のない連中はほっといて、繰り返しになりますが、考えを変えられた方がもしいるなら、詫び入れなくてよろしいんですか?詫び入れないと、せっかく反省されても、罪が許されるわけではないのですから、いつかなにか起きますよ。(脅しでも何でもありません。現実に今でも起きているのですから…救急車のサイレンが聞こえてるということは、そういうことでしょう)

年内に詫びいれられるなら、私も一緒に神に詫びてあげます。(どうぞこの人の罪をお許しください、と)しかし、どうしても詫びをいれないというなら、年明けから「どうぞそのような人たちをより厳しくお導きください」と祈ります。(そのままにしておいても、その人たちのためにならないからです)

そのような祈りは当然きかれます。(それはそうです、相手のことを思い祈るのですから)そうなれば何が起きてくるか分かりませんよ、私にバカなことやった人たちは。(現在もやってる人いますが、起きてるでしょう何か、現在進行形です。別に私は面白がって祈っているわけではありません。そういう人たちが何時までたっても同じ位置にいて、進もうとしないから祈っているのです。人のために祈るのです。だからきかれるのです、祈りが)

あれだけ救急車のサイレンが鳴り響いたのです。(それだけの奇跡が起きたということですので、それ相応の罪を犯しているということです。心当たりのある皆さんは)悪いことはいいません。素直に詫びられた方がいいのです。

今現在、大きな会社に入っているとか、親方日の丸の下で働いているとかいっても、すべての人に寿命はあります。どれだけ大きな組織にいようと死ぬ時は一人なのです。一人であの世に帰れば、このままでは恐ろしい世界に往かなければならなくなるのです。ここに嘘や脅しなど書きません。そんなことを書けば奇跡など起こらなくなるからです。つまりここに書くことは、すべて人のためになることだけなのです。

私に詫びることなどないといっている人など、人一人救うこともできないのです。そんな人の口車に乗れば、その人と一緒に地獄に堕ちていかなければならなくなるのです。

自分自身で判断されないと、後で大変な目に遭うことになるのです。よくよく考えられた方がいいでしょう。

少し状況を考えられただけでも、それは分かるのではないでしょうか。大勢の人がたった一人の私に嫌がらせをしているのです。これが正しいことでしょうか?仮に私が悪いことをしたとしても、大勢でよってたかって嫌がらせなどすれば、そんなことをした人も同罪と思われるでしょう。(それは子供のいじめ問題など考えても分かるはずです)

普通の人でもしないことを、この名古屋に住む大勢の人がしたのです。それも悪いことをした者にそれをしたのではなく、よりにもよって、唯一本当の神の教えを伝えている者にです。(これでは神も許しません)

そんなことをしておいて、詫びも入れず許されると思いますか?誰がどう考えても、そのまま知らん顔をしているだけで、許されることではないのです。当然神もそんなことをした者を許されるはずがありません。

しかし神は、人に反省という慈悲を与えてくださっています。どんな罪を犯そうと、それを心から詫びられ、二度とそのような罪は犯さないと誓うのであれば、神はその人の罪を許されます。

どうされますか、年内に反省されるというのであればその罪は許されます。しかし、どうあっても、おまえなどに詫びられるか、自分は悪いことなどしていない、と開き直られるのであれば、来年からまた恐ろしい現象があちこちに起きてきます。

幸い(?)このブログ、ずいぶんきれいな女性たちが、たくさん読んでいるということが分かりました。(ということは、あなたたちの悪事、全部その子たち知ってるということになります。本当にかっこ悪いです)

そのような女性たちに“ダサい”と思われる方がいいのか、それとも男らしく詫びられ“潔い”と思われる方がいいのか、どちらがよろしいのでしょうか?

今、名古屋は注目されています。(かどうかは知りませんが書くの自由だし〔笑〕)あまりかっこうの悪いことはされない方がいいと思います。今後どのように展開していくか分からないからです。

(何度もいいますが、年内〔あと三日です〕に反省し詫びいれられるなら、私も一緒に神に詫びます。私の不徳もあって、そのようなことをされた人もいるはずですから。しかし、年内に詫びいれないというのであれば〔それはもう反省する気がないとみます〕本格的に年明けから祈ります。詫びてきた人をあれこれ詮索しません。詫びられたい人は気軽に詫びいれてください)

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12月 27 2012

反省を知らない者の愚かさ

安倍内閣が発足しました。まさにそうそうたるメンバーで、オールスター総出演といったところでしょうか。懸案事項を一気にやってしまおうという、安倍総理の気概が感じられます。

しかし、別の総理をはさんでの再登板は、安倍総理が戦後二人目とのことですが、全然知りませんでした。(もっと何人かの方がみえるとばかり思っていたものですから)この時点でもう歴史に名を残されましたね安倍総理は。(笑)

すでに歴史に名を刻まれたのですから、より頑張っていただかねばなりません。期待しましょう。(未来の党は早くも分裂だそうですが、まったく分かりやすすぎますね、呆れてしまいます)

せっかく正法の世にすべき安倍内閣が発足したのに、肝心の法の流布はちっとも進展しません。あまりの遅さに情けなくて涙が出ます。(涙)

それにしても参りましたね、この硬直状態は。これだけ皆さん法に対して、感謝の心も行為もないとなると私もやりようがありません。仕方がないので、もう少し辻説法の話を詳しく書きましょう。

今でいう辻説法は、もちろん釈尊在世当時もありました。釈尊も他の弟子たち同様、辻説法をしながら布施をもらわれていたのです。

いくら釈尊とはいえ、いろいろな場所で説法をされるのですから、中には釈尊のことを知らない人もいて、釈尊が説法をされても布施してもらえない時もありました。釈尊でも、何も布施してもらえなかった時など、一日食事をされなかったこともあったのです。

しかし釈尊は、自分が何ももらえかったからとはいえ、弟子たちが布施してもらった物を、それをよこせと横取りすることなどありませんでした。今日は法に縁のある人と出会えなかったのだなあと、その日の説法を反省し、静かに瞑想にふけられていたのです。

釈尊でさえ布施していただけない時があったのですから、私のような者が、そんなにしょっちゅう布施してくれといっているわけではないのです。

もう何年も前から私はこのブログを書いています。このブログには神の教えが書かれてあるのですから(それはすなわち辻説法をしていることと同じなのですから)毎日のようにこのブログを読んでいる人は、せめて年に一度か二度くらいはお気持ちだけで結構ですから、布施していただけませんか、といっているだけなのです。(いってはいけませんが、それが法を聞いている者の、当然のしなければならない報恩の行為でもあるからです)

しかし、そのような申し出さえ多くの人は拒否しているのです。そればかりか自分の考えと合わないと、嫌がらせまでしてくるというのですから、もう目も当てられません。

自分がおかしいと思うのであれば、私がいう申し出を受け(年に一度か二度の布施)そうして、ここのところはおかしいのではないかと、堂々と直接私に意見をいうなり、コメントをするなりすればいいのですが、そういう筋は一切通さないのです。

ただで見るだけ見て、気に食わないことを書けば、嫌がらせだけはキッチリしてくるのですから、これでは子供とかわりません。といより礼儀も何もあったものではないのですから子供以下です。こんなことを続けていれば当然ではありますが、よいことは起きてきません。私の周りで異常なことが起きているのも、ある意味当然のことではないでしょうか。

ずいぶん私に対して失礼なことをしているのですが、そんなことはやっている人たちは少しも思わないのです。一人の人間として、ずいぶん恥ずかしいことをしているということに気づかないのです。

そうして何か悪いことが起きれば、あいつが悪い、あいつのせいだ、といってまた嫌がらせをしてくるのです。

これで救われるのでしょうか。こんな(子供以下の)ことをしていて、悪いことが起きれば私や神のせいにしているから、私はそんな人たちを「バカだ」といったのです。

釈尊は世の中で一番悪い人は“知るべきことを知らない人である”といわれました。

そのような知るべき礼儀を知らず、この世に生まれ絶対に知らなければならない“法”(本当の神の教え)を唯一伝えている私の価値が分からない、そのような人ほど愚かな人はいません。

釈尊でさえ反省はされていたのです。釈尊の境地に遠く及ばない私たちが、それを忘れてしまうようでは、救いようがないバカということになります。

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