11月 30 2013
大東亜戦争の意味
昨夜もよくサイレンが聞こえてきました。今日も朝からよく聞こえてきます。この辺りの人まったく態度を変えようとしないし、では、態度を変える人が出てくるまでは、このサイレンも止まらないのでしょう。
本当に恐ろしい話です。(こういう異常な現象が次々に現れていて、それでも心と行いを少しも変えようとしないのです。これ以上恐ろしい行為はないのではないでしょうか。だって正面から神の心に逆らって〔無視して〕いるのですから)
マァ、責任転嫁ばかりしていては、神の心も人の心も分からないでしょう。少しでも理解してもらえるようになるまで待つしかありません。
ということで、前回の続きをもう少し書いておきましょう。
園頭先生のご著書「正法と現代宗教」から抜粋します。
<さて、一四七九年(文明十一年、蓮如上人が山科に本願寺を建立した頃)イスパ二ヤ(以後スペインと書く)とポルトガルは、ローマ法王の仲裁によってアルカソバァス条約を結ぶが、この時ローマ法王は、ポルトガルに対して、日本を植民地にするよう許可を与えた。
これを機に、スペインとポルトガルは、片手に聖書を、片手に鉄砲を持って、侵略を開始した。
スペインはアフリカから中南米へ、そうしてフィリピンへと侵略の手を伸ばし始めた。
それぞれの民族が、数千年の歴史の下に築きあげた、大切な独自の文明と文化を破壊した。キリスト教の猛威は、すべてを破壊し尽くし、現地住民を否応なく、ヨーロッパの風習に従わせた。マヤとインカの文明は消滅し、スペインはこの国の財宝をことごとく本国に持ち帰った。
フィリピンにカトリック信者が多いのも、約三百年間スペインが統治したからである。
ポルトガルはアフリカからインド洋へ出て各地を植民地にし日本侵略の拠点を中国のマカオ、寧波に置き、そこからまずカトリックの宣教師を送り込んだ。
ポルトガル人たちは、猫なで声で異文化の贈り物を持ち込んで大名をオルグした。その結果平戸、天草、大分から山口をはじめとし、キリスト教は、はしかのように日本中に伝染していく。
それ以前にもポルトガルとの接触はあった。種子島に漂着したポルトガル人が持っていた銃が、日本に初めて鉄砲を伝来させたことである。この銃を見て、薩摩で鉄砲をつくり、さらに織田信長も鉄砲をつくらせた。
豊臣秀吉は最初堺の商人に海外貿易を許していた。当時、内地で志を得なかった武士達が海外で貿易したり、時には略奪したりしたが、彼らが集めた情報が秀吉の耳に入った。
日本の歴史家は、秀吉の朝鮮出兵は、老いぼれの権力支配欲が引き起こしたものといっているが、フィリピンを占領したスペインは、明の侵略を狙い、明はまた朝鮮半島の支配を狙っていた。当時の朝鮮は少しもその危機に気づいていない。秀吉が明に修好の使節を送っても受けつけずに、追い帰した。朝鮮出兵は、当時の日本としては自衛戦争、祖国防衛のための戦争であったのである。>
十五世紀から始まった大航海時代とは、即ちヨーロッパ人(スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、アメリカなど)による、アジアやアフリカ大陸などへの大侵略の時代であったのです。
ヨーロッパ人たちは狙いをつけた国々に、最初にキリスト教の宣教師を送り込みます。
そうして、その国の人々に平和を説き、武器を捨てさせると、その次に軍隊を送って、次々にアジアやアフリカの国々を侵略して行ったのです。(キリストの教えを、侵略の道具として使うのですから恐ろしい話です。その時の略奪や殺戮の凄まじさを書いた本はいくらでも出ています)
十五世紀から二十世紀にかけての時代とは、それほど凄まじい時代であったのです。
少しでも気を抜けば、あっという間に西洋諸国に侵略される、そんな時代であったのです。
戦国時代でさえ、天下人である秀吉や家康はそれにいち早く気づき、朝鮮(韓国・北朝鮮)や明(中国)に使節を送り、それがかなわないと分かると、すぐに兵を送って自衛戦争を行っているのです。(そのまま手をこまねいていては、日本も西洋諸国に侵略されることが目に見えているからです。ですから〔それがやれるやれないは別にして〕朝鮮、明を協力させ、西洋諸国に立ち向かおうという戦略、戦術です)
それがもっと時代が進んだ大東亜戦争時に、日本が何もしないで、日本にこもっていてそれですむと思われるでしょうか。
そんな考えはあまりに当時の状況を知らなすぎる、甘すぎる発想でしかないのです。(というか当時の状況をまったく理解していないといわざるを得ません)
ですから、中国に進出したのも(日本軍が中国にいたといっても、それは租借地にいただけです。何でそれが侵略になるのでしょうか?他の西洋諸国もいたではありませんか)自存自衛の戦略なら、韓国、台湾を植民地にしたのも戦略です。(韓国、台湾をしっかりとした国にして、日本とともに西洋諸国に立ち向かうためのです。だから、日本の金をつぎ込んでも、韓国、台湾を発展させようとしたのです)
結局、秀吉がしたことと同じような戦略をとらなければ(アジアの力を結集しないと)西洋諸国には立ち向かえないと、日本は分かっていたのです。
しかし、そのような戦略もうまくいくことはありませんでした。次々に日本は、アメリカをはじめとする西洋諸国に追い込まれていきます。
そうして日本はついに起ちあがることになります。それがあの大東亜戦争です。
あの戦争は日本の自存自衛と、西洋からのアジアの国々の植民地支配の解放のため、大東亜解放のため、そうして先ほどいいました、アジアの力の結集である大東亜共栄圏の確立のために戦った“大東亜戦争”という呼び名が正しいのです。
このように当時の状況、そうして戦略、戦術を考えるのであれば、あの大東亜戦争を侵略戦争などとはいえるはずがないのです。
大東亜戦争の本当意味を、多くの日本の人々は、もっとよく知らないといけないのです。