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2015年6月

6月 13 2015

動物たちの心

それにしても意識してやっているんでしょうか?

毎回やることが違うからです。何が違うのか?魚たちのパフォーマンスがです。(あれはもうパフォーマンスの域に達しています。〔笑〕)

昨日堀川に行くと、いつも歩く堀川のすぐ脇の道が水であふれていました。そこは潮が満ちてくると水に浸かって歩けなくなるのですが、昨日はそんな感じでした。

しかし堀川を見ていると、どうも潮が引ている感じだったので「もうしばらくしたら歩けるな」とも思って、その道に降りて行く通路の途中で川をしばらく見ていました。(堀川のすぐ脇の道の方が魚がよく見えますから、その道を歩きたかったからです)

そうしたら、また小さな魚が私の前に集まってきたのです。

「何だ、お前ら来たのか」とか話しかけながら見ていると、その集団は十数匹くらいでしたが、そのうちにあちらにも十数匹、こちらにも十数匹と小魚の集団が寄ってきて、あちこちでピチピチ、パチャパチャ始まりました。

私のすぐ前に来てパチャパチャやっている集団もあります。

しかし、この道はもう水が引きかけているのです。

「オイオイ、お前らそんなにこっちに来て大丈夫か?戻れなくなるから早く向こうの川の方に行け」と私が心配しているのに、川の方に行くどころか、この小魚たち私が近くに寄って行っても逃げようともしません。

「危ない連中だな」とかいいながら、私もその場面を動画に撮っていました。

動画を観てもらえれば分かりますが、その場面を撮り始めた時には、その道には水があふれていましたが十数分後、その動画を撮り終える頃には、その道に水はなくなっています。(鳥が、さっきまで小魚が泳いでいた道をトコトコ歩いている場面で、その動画は終わりますので違いがよく分かると思います)

本当に潮が引きかけている道に、小魚がたくさん集まってきたのがよく分かると思いますが、その後のことです。

私が、とろこどころ水が残る潮が引いたいつも歩く堀川の脇の道に下りて、逃げ遅れた小魚はいないだろうなと、キョロキョロその辺りを見ていましたが、どうやら逃げ遅れた魚はいないようでした。(よくあんな潮が引くギリギリまでこちら側にいて〔最後は小魚の背びれが水から出ていたくらいですから〕一匹も逃げ遅れなかったなとちょっと感心しましたが)

そこからを堀川を見ると、またすぐ近くに小魚がたくさん水面まで出てきていて、それがずっと続いています。

「また、たくさん出てきたな」と思い、出てきているのを無視するわけにもいかないので「お前ら元気か」と声をかけながら、その堀川の脇の道を歩いていました。

そうしたらです。その小魚がたくさんいるなかの数十匹の集団が急に飛び跳ねだしたのです。

その辺りにいた小魚が一変に跳ね出すのですから、それはそれで迫力がありました。(小魚数十匹が一斉に凄い勢いで跳ね出したものですからね。驚きました)

あんなの始めて見ましたが「凄いな」と興奮しました。(もちろん動画に撮りました)

何でこうもやることが毎回違うのか、だから私は最初に、この魚たちのやることはもうパフォーマンスの域に達していると書いたのです。(笑)

見ていると毎回違うことをやるからです。意識してそういうことをしているのか、それとも意識せずにそんなことをしているのか、それは分かりませんが、とにかく私は外に出て行くだけで、もうそこは自然の動物園であり水族館であるのです。(ある場所のすずめたちも同じようなことをしているからです。毎回やることが違うというすずめたちがいるからです)

人が仕込んだわけでもないのに、勝手にパフォーマンスをする動物たち、本来、人と動物たちとの関係はそのようなものなのかもしれません。

ほっておいても動物たちは人を癒してくれる(現に、犬や猫などそのような存在であるのですから)そのような存在なのかもしれませんが、そのような動物たちの心を人が分かってやれないのです。

だから、動物たちは人を喜ばそうと思っても、それが素直に出来ない、その前に自分たちが襲われるのではないか、そのような恐怖心が先に来てです。

そのような心を持っている人が多いからです。だから動物は人が来ると逃げていくのです。そのような動物に対する愛のない心を恐れてです。

しかし、本当は動物たちは(どのような動物であろうとです)人の味方であり、決して敵ではないということです。

人の心が愛と調和に満たされれば、どんな小さな動物も、どんなに気の弱い動物もみな喜んで人に寄ってくるのです。(現に私にはそのようなことが起きているのですから、これ以上の証明はありません)

このように私は、外に出て動物たちを見るのが毎回楽しみでもあり癒しでもあります。

毎日、今日は何が起きるのかなと楽しみに一日が始まるのと、同じ、今日は何が起きるのかなと思うことでも、誰かがまた病気をするのではないか、また悪いことが起きるのではないか、と思うことでは、その思いは天と地ほどの差があるのです。

神に従えば楽しみが、神に逆らえば恐怖が、毎日のように起きてくることになります。(その両極端な現象が、私と私の周りには起きています)

神に従われてはどうでしょう。そうすれば、これまでには考えられない奇跡の出来事が次々に起きてくるからです。

(何度もいいますが、そこらにいる動物たちが、このようなパフォーマンスを行うなど誰が知っていたでしょう。誰も知らなかったんではないでしょうか。神の心を勉強していると、これまで起きなかった奇跡的な現象が次々に起き出すのです。まだまだ、そのような奇跡はこれから起きると思いますが、皆様方がしている体験と、私がしている体験ではずいぶん違うのではないでしょうか。このような奇跡の体験まで出来るのが、神の心の勉強するということなのです)

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6月 12 2015

愛と調和の大事さ

九州では記録的な雨になっているようですね。

川の水があふれ道路が冠水し土砂崩れも相次いでいるとか、まだ梅雨は始まったばかりです。これでは先が思いやられますね。

日本の異常気象も大変ですが、お隣の韓国ではMERS(マーズ・中東呼吸器症候群)が猛威をふるい大変なことになっているようです。

日本も大変ですが韓国も大変ですね。

このMERSが、日本に入ってきでもしたらもっと大変なことになりますが、去年のデング熱もあります。感染症には気を付けなくてはいけませんが、その感染症でも流行っているのでしょうか?

感染症で、次々に人が病気になるというのなら話も分かりますが、感染症でもない病気が流行っているのなら、それはウイルスでそうなっているのではなく、神の力でそうなっているのです。

反省しない限り、その病気は止まりません。自分たちのこれまでの心と行いを反省し神に詫びられたらどうでしょう。

それ以外、救われる道はないからです。(毎日恐ろしいことが起きているのに〔何か起きると朝早くに教えてくれる人がいるものですから。わざわざでかい音を立ててです〕それでも意地になって同じ態度を続けています。本当に哀れです)

近くで明らかに異常な態度を取っている会社があります。そういうところがあると、このブログもそのような話題にしかなりませんね。(早く明るい話題ばかり書きたいです)

しかし、人が起こそうが、神が起こそうが、基本的には、そこにいる人の心がよければ、そのような不幸なことは起きません。(起きても早くに収束します)

いつまでたっても悪いことが続いているのは、そこにいる人の心が悪いからです。どんな時でも悪いことが起きたら反省を忘れてはいけないのです。(ところが誰も反省しようとしません。だから悪いことが長引くのです)

韓国も、いつまで反日教育など続け、ことあるごとに日本にいちゃもんをつけてくるのでしょう。そういうことをしていては、国内にいいことが起きるわけがありません。

ソロソロ、そのような政策を転換したらどうでしょう。日本と調和するのであれば奇跡も起きてくるからです。(どこと調和してもそれは同じですが)

韓国は現在、国内も大変な状況で、お隣の国(北朝鮮)もかなり危ない状況にあります。

これ以上日本とケンカしていても、よいことは起きてきません。(これ以上日本とケンカしてはもっと悪いことが起きだしますよ)

もう反日教育などの愚策はやめて(愚策ですよね。こんな教育をしていたら日本と調和など出来っこないからです)日本と調和するような政策に変えられたらどうでしょう。

そのような時が来ているように思うからです。(最近の韓国内に次々に起きる不幸な現象は、それを教えているように思えます)

不調和なままなら、そこに神の力が働くことはありませんが、調和するなら、そこに神の力が現れ奇跡も起きてきます。

もし、国を栄えたいと望むのであれば、不調和なままで政策を進めるより調和して進めた方が断然よいのです。その後に起きてくることがまるで違ってくるからです。

何においても、不調和より調和です。

愛と調和がそこにあるなら、必ずうまくいきますし、予想以上のよいことも起きてくるのです。

現在は、どこも愛がなく不調和でしかありません。そのようななかで決めているから悪いことしか起きないのです。また、よいことがあってもそれが長続きしないのです。

愛を持って、調和することの大事さをもう少し真剣に考えられてはどうでしょう。そうすればそこに必ず奇跡が起きるからです。

現在、不幸なことが起き続けているのは、そこに愛も調和もないからです。

愛と調和があるなら、そこに天変地変は起きません。またおかしな病気が流行ることもないのです。

現に、そのようなことを起こせる者がいるのです。(私の周り、そのようなことばかり起きています)そのようなことが起こせるのであれば、それを防ぐこともまた可能なのです。

人の心と行いを愛と調和に変えれば、そのようなことがすべてよい方向に動くのです。(病気が早く治ったり、水不足のところに雨が降ったりとかです)

現在、逆のことばかり起きているのは、そのような愛と調和がない人が多いからです。

愛と調和の大事さをもう少し理解していただけないでしょうか。それがあるのとないのとでは起きてくることが大きく違ってくるからです。

私の周りでは不思議な奇跡が起き続けています。その者のいうことを少しは聞かれたらどうでしょう。

そうすれば、その者と同じ奇跡も起きてくるからです。

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6月 11 2015

法を学ぼうとしない罪

東海、関東甲信も梅雨に入りましたが、すでに九州などは凄い雨になっているようですね。(今日も熊本など避難勧告が出ているようですが)

このブログを見ていながら、自分のことばかりやっている人がほとんどです。(本当に神のかの字も思わない、少しも協力しようともしない、そのような人が多いようです)

それでは、このような状況になるのも仕方がない話でしょう。(おまけに、このブログを書くのをじゃましている人たちまでいるのですから。それで天罰を食らっていても、それも私のせいにしているんですから言葉もありません)

このブログを見ている人たちの罪は重いといわざるをえませんが、私は昨日、名古屋港に行ってきました。

久しぶりに名港水族館(名古屋港水族館)の魚たちも見たかったからです。

これまで、あまり撮らなかった魚たちを動画に撮りましたが、どの魚もそれなりに可愛いのですが、アザラシやイルカ、ペンギンなど相変わらず可愛らしいですね。

その名港水族館を出てからの話です。

名港水族館は名古屋港にあるので、水族館を出るとすぐに海が広がっているのです。その海側にも公園がつくってありますので、その公園に行き海に向かって「お前らいるのか」と呼びかけました。

するとです。これまではどれだけ海に呼びかけても無反応でしたが、昨日は呼びかけるとすぐに魚が跳ねたのです。

「あれ、今日は跳ねるのか」と思い、動画を撮りながら呼びかけると、何のことはないすぐ近くでわりと大きな魚が何匹も跳ね、魚が岸近くまでたくさん寄ってきているのが分かりました。

この前(一ヶ月くらい前だと思いますが)来た時とはずいぶん様子が違いました。これまでは、名古屋港でいくら叫んでも魚は跳ねなかったからです。

結局、昨日は名古屋港のあちこちでずいぶん魚たちが跳ねていました。こんなことはこれまで起きなかったことです。

そういえば庄内川や堀川の時も感じましたが、最近は、起きる奇跡が大きくなっているようなのです。

というか、起きる奇跡が段々大きくなっていくように感じるのです。(だから起きる災いも大きく〔激しく〕なっているのでしょう。また何かというか、次々に何か起きているようですが、もう、そのような危ないことはやめたらどうですか?どれだけ責任転嫁をしても悪いのはあなたたちの方だからです。悪いことはあなたたちにしか起きないからです)

こういう結果が出るのも当然といえば当然でしょう。私一人が法の流布を一生懸命行っているのです。ということは、一人で徳を積んでいるということになり、その徳が現象として現れてきているのでしょう。

だから起きる現象が段々大きくなっているのです。

いま私が大きな現象を祈ったら、さぞ大きな現象も現れると思いますが、この状況で(ただでさえ異常気象が次々に起きているのに)私が大きな祈りをしたら、本当に日本が潰れてしまいます。

さすがにそれはしませんが、このまま法を知っている人が無視や嫌がらせを続けるなら、どちらにしても日本は潰れてしまいます。

そのような心をいい加減反省されてはどうでしょうか?それをしない限り自分も日本も救われないからです。

間違っているのは、そのような態度をし続けている人たちなのです。

このような不幸が次々に起きている日本で、奇跡が次々に起きている者もいます。

少しは、その者のいうことを聞かれ協力されてはどうでしょう。

奇跡が起きている者のいうことを聞かない限り、奇跡は起きて来ないからです。

追伸…イスラム国の勢いがなかなか衰えません。空爆を散々受けても、大がかりな自爆攻撃(一人や二人がそれをするのではなく、爆弾を積んだトラック三十台が突っ込むとかです)で勢いを盛り返しているようです。

宗教が絡む戦争は本当に難しいですね。命をなんとも思わなくなるからです。むしろ命を捨てた方が天国に行けると思いこんでしまうからです。

日本でも島原の乱が有名ですが、この時は幕府側の兵力が十二万四千人に対し、一揆側の兵力はわずか三万人余りでした。

圧倒的な勢力の差があり、しかも幕府側はみな戦闘を専門としていた武士の集団です。(一揆側はもちろん農民ばかりです)それなのに、三ヶ月の戦闘で幕府側は一万数千人もの死者を出したのです。

農民を相手に、武士の集団がこれだけの大損害を受けたのですから、徳川幕府が宗教による結束をどんなに恐れたかは想像にかたくありませんが、その同じ恐れを対イスラム国を戦う(アメリカなどの)有志連合は持っているのではないでしょうか。

このままでは有志連合、イスラム国ともにどれだけの死者を出すか分かりませんし、最悪「イスラム国」という国が、本当に出来上がってしまうかもしれないのです。

こんな間違った宗教に縛られた、人の命をなんとも思わない、そんな国が出来上がってもよいというのでしょうか?(そうなったら、世界中でテロの恐怖に毎日怯えなければいけなくなるかもしれないのです。現在でもすでにそうなりつつあるからです)

このような間違った宗教にも法(正しい本当の宗教)なら対抗できます。

私のように祈って奇跡が次々に起きる、そのような人が十人でもいれば、その十人が祈れば、そのような国(イスラム国)の内部や外部から次々に現象が現れ、その国はよい方(または崩壊)に導いていかれるからです。(それは日本を見ていれば分かるのではないですか?様々な現象が起こりよい方に導かれています…あまりよい方ではありませんか?それは日本の人々の心が悪いからです)

武器など使わずとも、正しい宗教があれば、世界を平和に出来るのです。(ただし滅ぼすことはできません。間違った祈りが聞かれることはないからです。正しい祈りしか聞かれないからです)

もう法を拡げなければ、世界が滅ぶかもしれない状況でもあるのです。(異常気象もありますし)

いつまで同じ場所で同じようなことをしているのですか?日本だけではなく、世界の危機まで刻々と迫っているというのにです。

(それにこの辺りは、イスラム国だけではなく北朝鮮も何かやばい気がしますし)

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6月 10 2015

次々に起きる不思議な出来事

また昨日は堀川で凄いもんを見ました。何でこうも毎回違うものが見られるのか、本当に不思議でもあり、ありがたい話でもありますね。(笑)

昨日、堀川に行くと川一面に細かなさざ波がたっていました。

何か川の様子が変だなと思い、川の中をのぞくと、なんと川一面の水面近くまで多くの小魚が上がってきて泳いでいるではありませんか。それはそれで凄い光景でした。(昨日は比較的水がきれいでしたので、本当によく見えました)

「凄い数の魚だな、なにこれ」とかいいながら堀川の川沿いを歩いていたのですが、その川一面に小魚がいる状況がずっと続いているのです。ですから、どれくらいの小魚が水面に上がってきていたのか分かりません。もう想像できないくらいの数の小魚たちです。(昨日は、午前中くらいまで雨が降っていたので水の中が酸欠にでもなって、それで上がってきていたんでしょうか?それにしては元気でしたが)

その小魚たちに声をかけると、喜んで跳ね回っているのもいます。

これだけ多くの小魚を一変で見ることも初めてでしたが、その目に見える多くの小魚たちが、私が声をかけると跳ね回ったり、あるいは遠くにいた小魚の一団が、わざわざこちらに泳いできて私の前で泳ぎ回ったりしているのです。

それどころか、まだ底から上がってくるのもいます。そういう光景もまた不思議でしたね。(小魚とはいえ、これだけ数が多いと迫力ありますし)

昨日は、このようにどえらい数の小魚を見たのですが、その光景も不思議ですが、何でそこらの川にいる魚が、私の声に反応して喜んで泳ぎ回っているのでしょう。

こういう現象を生物学者はどのように説明するのでしょう。ぜひ一度意見を聞いてみたいものです。(笑)

科学の領域を超えた(科学では説明できない)大きな力が作用しているように思えてなりませんが、そのような何か大きな力が私の回りでは働いているようです。(別にこれは私だけではなく、誰にでも働いているのでしょうが、その力を味方につけるか、つけないか、それだけのことでしょう)

一昨日は庄内川に行っていたのですが、小雨が降っていました。

さすがに雨が降っていると小魚は水面まで上がってこないのですが、大きな魚は関係なしにあちこちで跳ねているようでした。それに私の近くを泳いでいる鯉もいて、それが顔を出したり近くで跳ねたりしていました。

魚によっては一メートル近く高く跳ねるのもいて、迫力がありました。大きいのは大きいのでやはり迫力がありますね。

庄内川で雨が降っている時など、川に向かって声をかけるより、その歩いている川岸に声をかけます。

なぜそうするのか?

庄内川の川岸には、石がいっぱい敷き詰められているところがあるのですが、その場所にはたくさんのカニがいるからです。

雨の日に、その場所で私が声をかけると、そのカニがたくさん出てくるからです。(雨の日じゃないと出てきませんね。すでに出てきているのもいますし。だから晴れた日は、そこにカニがいるのかどうかも分かりません。全然出て来ないからです)

マァ、カニはたくさん出てきても、私が近づいて行くと逃げてしまいますが、それでも可愛いですよ。そういうあちこち歩き回るカニを見ているとです。(笑)

私が川など行けば(もちろん、すずめやらムクドリ、カラスや鳩などはどこに行っても飛んできますので)このようにたくさんの動物たちが出てきて、心を癒してくれます。

そうして不思議な光景も見せてくれます。その一部でも(あくまで一部ですけどね)皆さんにも見ていただきたいと思い動画に撮っていますが、その動画がもう少しでまた出来てきます。

その動画を観て、私のいっていることが嘘ではないと理解していただきたいと思います。

今回の動画は、カモメがいるのに、その横で平気で跳ねている魚とか(普通こういうことが起きるでしょうか?)静かだった川が(堀川ですけど)私が声をかけると、あちこちで次々に魚が跳ね出し、終いにはそこらじゅうで魚が跳ね回っている場面とか、犬や(これは家の飼い犬なんですが)可愛らしい態度を取る野良猫とか、呼んでいると寄って来る川の魚たちとか(これは荒子川での出来事です)わりと面白い(不思議な)動画がいくつか撮れていると思います。(あっ、小魚も撮れていますが、その時撮った小魚はたいした数ではありませんでした。その時は凄い数の小魚だと思っていたのですが、その後、次々にもっと多くの小魚を見たものですから、いま思うと、その時撮った小魚がずいぶん少なく感じるのですが、それでもわりとたくさんの小魚は映っていると思います)

また、そのような動画も観て、この法の偉大さを少しは感じてもらいたいと思っています。

法を知れば知るだけ不思議なことが周りに起きてきます。(私に嫌がらせをする人に、おかしな災いなど起きていることも含めてですが)

少しは法を知る努力をされてはどうでしょうか。

そうすれば、これまでとは全く違う、幸せな人生が歩けることになるからです。そうしてそれは、この世だけではなく死後の生活も保障されることになるからです。

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6月 09 2015

神の国に入ることの難しさ

昨日も書いたのですが「神の国に入るはいかに難しいか。富める者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が、かえってやすし」とキリストがいわれている通り、神の国(天国)に私たちが入ることは、それほど簡単なことではないのです。

それなのに、これだけの災いを神から与えられ、それでもまだ多くの人は神を思おうとしないのです。そのような人たちが神の国に入るのはまず無理であるということです。

本当に心を変えようとしません。なぜこれだけ頑ななのか呆れてしまいますね。

昨日もどこかの会社は何か起きたようなのです。夕方帰ってくると明らかに雰囲気が変でしたし、死にそうな顔をして出てきた従業員までいたからです。

それなのに、今日も朝から(明らかに腰は引けているのですが)同じようなことをやっています。

これでは今日もまた何か起きるのではないですか?反省の態度がまるでみられないからです。

何で反省しようとしないのでしょう。悪いことが起きているのに(それも次々とです)それでもまだ反省しようとせずに同じことを続けている、これでは起きてくることは変わりません。そのような態度がいけないと分かるまで、その恐ろしい現象は起き続けるのです。

態度が間違っているからです。(しかも大きくです)それだけ法の流布をじゃますることはいけないことだからです。

いっても分からないんですから、こればかりは仕方ありませんが、自分たちが滅びる前に気づいてほしいものです。

しかし、本当に同じことばかり書いています。(私も少しあきてきていますが)なぜ、皆さんこれだけの災いが起きていて、それでも態度を変えようとしないのでしょう?

本当に不思議です。(間違ったことをしているから災いが起きているのに、その自分たちの間違いを絶対認めようとしない、傲慢というほかありませんね)

今日も関東で震度4(栃木)の地震がありましたが、関東の皆さんはどうでしょう。

地震の巣といわれているくらい危ない場所もあるのです。(茨木南部ですが)前にも書きましたが、今のままでは本当に危ないのです。

現在の日本は神を思う人があまりに少ないのです。

それは死ぬ間際になっても、神のかの字もいわない人が多いということでもその事実が分かります。

芸能人が癌になって死ぬ間際まで仕事のことをいっていた、本当にあの人は立派な人です、などという報道の仕方をどこもしていますが、そのような報道の仕方は間違いなのです。

あのような死に方をした人はみな地獄に堕ちているからです。(地獄に行く人を立派な人とはいわないでしょう)

亡くなられた人が不憫で、それで気を使いそのような報道の仕方になるのかもしれませんが、そんな報道をすれば、それが立派な死に方であると多くの人が思ってしまいます。

報道の仕方も、これからはもう少し考えた方がいいのではないでしょうか。その報道の仕方一つで、多くの人を救うことも出来れば地獄に堕とすことも出来るからです。

そのような、この世に執着を持ったまま死ねば地獄に堕ちるのですが、では、どのような心で死ぬのがいいのか、それを書いておきましょう。

それにはキリストが昇天された時のことを書くのが一番いいでしょう。あれだけ世界の人々に大きな影響を与えて(もちろんそれは後世の人も含めてです)亡くなられた人もいないからです。

キリストは、数々の奇跡を現して福音を説きたくさんの人々を救われました。しかし、最後は十字架の人となり生涯を終えられます。

多くの人々の心を福音を説かれることで救われ、そうして肉体さえも癒しの奇跡で救われたキリストが、その救った人たちに最後は十字架にかけられ殺されるのです。

普通の人であれば「あれだけ救ってやったの」と恨みもするのでしょうが、キリストは違いました。

それはキリストの最後の言葉で分かります。キリストは昇天される寸前に次のようにいわれたからです。

「神よ、人々を見捨てたもうな、そのなすところを知らざればなり」

こう叫ばれキリストは昇天されたのです。

キリストは、最後の最後まで少しも人を恨まず(もちろん、この世に執着されることもなく)自分を十字架にかけた人たちも含めたすべての人々を神に祈ったのです。

「神よ、この者たちを見捨てずお導きください。この者たちはまだ知るべきことを知らないのです」

死ぬ間際になっても、キリストは自分のことより人のことを神に祈られているのです。ちょっとレベルが高すぎますが、私が、死ぬ間際くらい神のことを思わなければいけない、といったことが少しはお分かりになるでしょうか。

死ぬ間際に、このような心になるならば、私たちはみな神の国(天国)に入れるのです。

もちろん、キリストと同じ心に私たちがなれるわけありませんが、この死ぬ間際のキリストの心は参考になるのではないでしょうか。

人を恨むわけでもなく、この世に執着されるわけでもなく、最後まで人々のことを神に祈る、これこそ私たちが死ぬ間際に思っていなければいけない心であり、神の国に入ることが出来る唯一の心であるのです。(最後まで人のことを思え、というのも無理かもしれませんが、自分のことくらい思えるはずです。最後の最後はキリスト同様、神に祈ることが出来ないといけないといっているのです)

死ぬ間際にそのような心であればいいのなら、死ぬ間際だけそのような心になればいいのではないか、と短絡的に思う人もいるかもしれませんが、普段、人の悪口ばかりいって、怒ったり恨んだり平気でしている人が、死ぬ間際になって、このような安らかな心になれるわけがないのであって、だから私は、いまから神の心を勉強していないといけませんよ、そうしないと神の国には入れないのです、といっているのです。

普段から神に祈って安らかな心になっていなければ、死ぬ間際に、そのような心になれるわけがないからです。(死ぬ間際など、特にそのような執着の心や恨みつらみの心が出てくるのです。〔これでこの世の終わりと分かるからです〕だからこそ、よけい普段からそのような安らかな心になっていないと、そのような心が死ぬ間際に出てくるはずがないのです)

神の国に入るには、生きている間もそうですが、死ぬ間際まで神を思う安らかな心を持っていないと入ることが出来ないのです。

金、地位、名誉、そのようなことばかりに執着していてはいけないと、私がくどいほどいう理由も少しはお分かりいただけるのではないでしょうか。(もちろん、怒りやねたみ、ひがみなどの心はもっといけませんが…そういうことばかり思っている人がこの辺りは多そうです。態度で分かります。残念です。そのような人たちはみな地獄行きです)

いつまでも人を恨んでいても仕方ないでしょう。(それもほとんど責任転嫁の逆恨みだし)キリストは救った人にまで裏切られましたが、それでもそのような人たちを恨むことなく、最後はその人たちを神に祈って亡くなられたのです。

もちろん、この世の金や地位や名誉に執着されたわけでもありません。

少しくらい、このキリストの心を見習われたらどうでしょうか。

人はいつ死ぬか分かりません。安らかな心、神を思う愛ある心にすぐにでもならないと神の国に入ることは出来ないのです。

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