>>ブログトップへ

2016年1月

1月 06 2016

陋習(ろうしゅう)を破れ

しかし、新年二日目からすでに全開バリバリですね。(暴走族じゃないんですから。〔苦笑〕)

いつまで人のせいにして八つ当たりしているのでしょう。哀れなものです。

人のせいにいくらしたところで、困っているのは自分たちなのです。怒っていても仕方ないのではないでしょうか。

「恐ろしいことが起きているので助けてください」なのではないでしょうか。

それ以外もう救われる道はないと思うからです。(行ったのか行かなかったのか知りませんが、お参りやお祓いもまるで効果がなかったようです)

それほどお困りなら救われる方法を書いておきましょう。(私は慈悲深いですから)

その恐ろしい現象を止めたいのであれば、これまでやった嫌がらせなどの悪いことをよく反省することです。そうして、もうこれからは嫌がらせなどしませんと、神に誓われることです。

そうして、私に「うるさくしてすいませんでした」と謝りに来て(そういうことは、文句をいいに行くとちょこちょこしていますがうわべだけです。心から悪かったと思わないといけないのです)「いつもブログを読ませてもらっています」と感謝して布施されることです。(布施の金額ですか?もちろん多ければ多いほどいいです。〔笑〕)

それをされるなら私も「どうぞこの人たちをお救いください」と神に祈ります。

そうすれば、その災いは起きなくなるでしょう。私が祈ると何か奇跡が起きるからです。

他の人たちも同じだし(最近は運転手だけではなく、いろいろな会社の人たちまで変ですから)どこかの中学生たちも同じです。どれだけ私から逃げたところで神からは逃れられないのです。(すべて見通されています)

どこにいても、心が悪い限りは、恐ろしい現象は現れてきます。もう反省するしかないのです。

反省し布施されたらどうでしょう。そうすれば、その恐ろしい現象は止まると思うからです。(中学生や小学生まではいいですが。そのかわり小、中学生は心を入れ替えよく勉強することです)

もう本当の信仰をしないと危ない時代になったのです。偽の信仰をしていてはダメどころか、どんな悪いことが起きるか分からない時代となったのです。

だから、そのような偽の信仰をしている人たちに次々と災いが起きているのです。

それを皆さん方は、みな私のせいにして嫌がらせを続けているのです。

反省するのは当然のことなのではないでしょうか。

自分たちが悪かったにもかかわらず(偽の信仰をし続け、無神論を信じ神を神とも思わなかったのですから)その間違いを認めようとせず、その自分たちの間違いで起きてきた天罰を、みな私のせいにして、そのせいで起きてきた天罰まで私のせいにして、まだ嫌がらせをし続けているのです。

どれだけ罪を重ねるのですか?悪いのは最初からあなたたちの方であったのにです。

最初から自分たちが間違ったことをしていたのです。

無神論をいっている人は論外ですが、信仰をしているといっている人でも、私のような奇跡が起きる人がいたのでしょうか?(私以外で、私のように鳥や魚が寄って来る奇跡を現した人は見たことありませんが…)

熱心にお経を上げている人がいますが、それだけ熱心にお経を上げて、それで奇跡が起きたのですか?

一生懸命仏像を拝んでいる人がいますが、それで奇跡が起きたのでしょうか?

誰一人私と同じ奇跡など起きている人はいないではないですか。(私など毎日奇跡が起きています)

それなのに、どうして、そのような信仰がおかしいと思わなかったのですか?

自分の信仰に疑問一つ持たず、昔から、多くの人がそのようにしているから、それは正しい、ただそう思っていただけではないですか。

なんでそんな考え方が正しいのでしょうか?

それは思考停止というのであって、それは正しい考えではないのです。

普通であるなら、昔から信仰といわれているやり方をしていても、なにもよいことが起きない、では、この信仰といわれているやり方はおかしいのではないのか、このようなことが本当の信仰ではないのではないのかと疑問を持ち、正し信仰とは何かともっと考えないといけないのです。

しかし、そのような努力など一切しようとせず、ただ昔からこうしているから、このやり方でいいのだと、思考停止をしたまま、何も起きない(不幸が起きていることも多いようですが)信仰とは名ばかりのエセ信仰をし続けているのです。

それは悪いことではないのでしょうか?

神に背いていることにはならないのでしょうか?

多くの人々は、そのような神に背く行為を未だにし続けているのです。(自分の怠慢〔たいまん〕で偽の信仰をし続けているのですから、これだけ神に背く行為もありません)

これほど悪いことをし続けていて「自分が悪くない」など、どの口がいうのでしょう。とんでもありません。この日本の人々は、大変な罪をつくり続けているのです。(おまけに無神論の人も多いときています。もう目も当てられませんね)

だから、日本中でサイレンが響いて来たのです。(この前のウナッシーさんのコメントを見ると、静岡でもサイレンが聞こえているようですが)

日本中で神の業が次々に現れだしたのです。いつまでたっても神に背く行為を日本の人々が続けているからです。(この現象を、私一人のせいにしているというのですから、この辺りの人たち凄まじいですね)

もうこれまで通りの(間違った)ことをしていては、次々に病気になるのです。そういう時代となったのです。

それなのに、声を上げなくていいのですか?

病気になるのが分かっていて(神の業が現れることが分かっていて)それでもこれまで通りのことを続けていてよいのでしょうか?

私はよいとは思えません。気づいた人が声を上げるべきだと思います。

そうしないと、日本のどれだけ多くの人が恐ろしい病気にかかるか分からないからです。

これまでの陋習を破らないといけない時期に来ています。

もう何も意味がないことを続けていても、災いが起きるだけなのです。

それなのに何もしようとしないのですか?

それでは、そのような人もまた災いを受けることになるのです。

2コメント

1月 05 2016

反省の大事さ

今日から、この辺りの会社も仕事始めのところが多いようです。

朝方、少々うるさくしていましたが、今のところは静かですね。どこかの会社もです。(多少はやっていますけど。〔苦笑〕)

でかい塀もつくったことだし、少しは心も変えられたらどうでしょう。そうすれば災いも減ってくると思うからです。

災いばかりではなく奇跡を起こす方法は、そのように心を変えるしかないのです。

今年もたくさんの人が初詣に出かけているようですが、毎年、毎年、多くの人が初詣に出かけ「今年はよい年でありますように」とか「今年はよいことがありますように」とか祈っているのに、よい年であったためしがありません。(去年も異常気象やおかしな事件や事故などで多くの人が不幸になりました)

それだけ多くの人が毎年、年の初めに幸せを祈っているのです。そうであるなら、もっと不幸な人は減らないといけないはずですが、一向に不幸な人は減る気配がありません。

では、そのような祈りは意味がないのではないか、と思われないでしょうか。

もし、そのような祈りがきかれているのなら、これだけ多くの人が幸せを祈るんですから、もっと日本全体がよくなってもおかしくはありません。

しかし、よくなるどころか、特にここ数年は天変地変が激しくなって、災難を受ける人が増えているのです。

そのような天変地変が増えているということは、そのようなことは逆に神を怒らせているのではないですか?

もし、神に喜ばれているのなら、天変地変は減るはずだからです。

どうですか、何かおかしくないですか?

初詣は欠かさず行っているという人も多いのかもしれませんが、では、そういう人たちに何か奇跡でも起きたのでしょうか?

それだけ年の初めには、お寺や神社にお参りしているのなら、さぞ神や仏も喜ばれ、奇跡の一つや二つ起こしてくれてもよさそうなものですが、毎年、初詣に行っても、奇跡的なことが起きた人はほとんどいません。

それどころか不幸になった人もいるのです。(初詣の帰りに交通事故で死ぬ人もいるくらいですから)

多くの人が、それだけまじめに参詣しているのに、なぜ神仏は願いを叶えてくれないのでしょう?

願いを叶えてくれないどころか、そのような初詣に行ったばかりに不幸になる人もいるのです。

なぜ参詣している人たちが、かえって不幸になっているのでしょうか?

このブログを読んでいる人ならもうお分かりだと思います。

心を変えないからです。心を変えようとせず、祈っているから神仏は願いをきいてくれないのです。

むしろ、そのようなことをしている人たちを不幸にするのです。それがその人たちの気づきとなるからです。

考えてみてください。

心を変えようとせず、ただ祈っているだけということは、心が汚いまま、そのような都合のいい祈りをしているだけということになります。(まさか、自分の心がきれいだ、などと思っている人はいませんよね。何の奇跡も起きないのにです。心がきれいなら、釈尊やキリスト同様、奇跡が次々に現れてきます)

そのように祈っている人たちが、心が汚いということは神仏にはすぐに分かります。

そうであるなら、そのような自分の汚い心をきれいにもしないで、神仏に「よい年にしてくれ」とか「よいことを起こしてくれ」といくら祈っても、神仏は『まず先に自分の心をきれいにせよ』といわれないでしょうか?

それはこの世の人でも同じでしょう。

自分が悪いことばかりしているのに、それを直しもしないで、自分によいことをしてくれといったところで、誰もそんなことは聞いてくれません。

まず、お前が悪いことをやめろ、と誰でもいうはずです。

神仏もまったく同じなのです。

自分がやることをしっかりやっていないのに(まず自分を正す、自分の心をきれいにする。〔反省〕)神仏がそのような人の祈りをきくことはないのです。(ただし、これから反省すると誓って祈るのであれば、その祈りがきかれることもあります。それもすべて、その人の心次第なのです)

だから、多くの人が幸せを祈っても、その祈りがきかれないのです。多くの人が、自分の心が汚いまま祈っているからです。

ただの他力本願になっているからです。(こういうことを考えましても、他力本願で祈りがきかれるはずがないと分かります。そんな自分勝手な祈りもないからです)

だから、反省しないといけないと私はくどいほどいっているのです。反省しなければ、心はきれいにならないからです。

心のきれいな人ばかりで幸せの祈りをするなら、その願いは本当に叶うのです。

釈尊やキリストのような心の人が百人も千人もいて、そうして「今年はよいことがありますよに」と祈られたら、本当にその年はよいことが起きると思われないでしょうか?

釈尊が一人いるだけでも多くの奇跡が起きるのです。

では、そういう人が百人も千人もいるなら、どれだけ多くの奇跡が起きるか分かりません。

そういう心の人がたくさんいて「今年はよい年でありますように」と祈りば、その年は多くの奇跡が起き、本当によい年となるということです。

今のように、心を少しもきれいにせず、祈っていることの無意味さが少しはお分かりいただけるでしょうか。

多くの人は、そういう意味のないことをこれまで長々と続けて来たのです。

変わりませんか、今年からです。(「過ちては改めるに憚〔はばか〕ることなかれ」です。「過ちを改めざる、これを過ちという」です)

心のきれいな人が増えるのなら、今年は本当に、よいことが起きる年となります。

それには多くの人が自分の悪いところを反省する、それだけのことなのです。

それだけするなら本当によい年となるのです。

人のためではありません。自分のために反省するのです。

しかし、その自分でする反省は、結局、多くの人のためにもなるのです。

追伸…そういう反省を全然しようとしないから、今年も(去年や一昨年同様)やばい年になるのです。

小さいことをいつまで気にしているのですか?(この大宇宙から見たら、私たちの周りで起きていることなどどれも小さなことです)

そのような小さな心が災いを招いているのです。その災いは決して人のせいではありません。

自分が自分で、その災いを招いたのです。(自分の心が汚いばかりにです)

法を説いている者に嫌がらせなどもってのほかなのです。そんなことを続けているから、災いが起きるのです。

法を説く者に従った者にはちゃんと奇跡が起きています。(それもほんの一部従っただけでです)

法を説いている者によいことをされてはどうですか?

そうすれば、災いどころか、奇跡が次々に起きるようになるからです。

2コメント

1月 04 2016

心の向き

今日から仕事始めのところが多いのでしょうか?

しかし、この辺りの会社はまだ休みのところが多いですね。このままずっと休んでくれたら有難いのですが(ほんと、静かでいいです)そういうわけにもいかないでしょう。(笑)

仕事始めの前に、この辺りの会社の人たちは、今年は悪いことが起きませんようにと、お祓いにでも行った人が多いのではないでしょうか。(あまりにも悪いことが起き続けていると思うからです)

マァ、どちらに行かれてもそれは自由なのですが、ただ、どこに行ってお祓いをしても多分、今年も悪いことは起きると思います。

そんな無駄なお祓いなどされるより、心を入れ替え、これまでのことをよく反省し、私に布施などされてはどうでしょう。(このブログもよく読まれていることですし)

そうすれば恐ろしい災いも今年は起きることはないと思うからです。(心の向きが変わるからです)

それをされてはどうでしょう。それが一番の災いの起きない方法であるからです。

マァ、それこそいうだけ無駄ですかね。そういう無駄な話はこれくらいにして、今日から国会が始まるそうですね。(ずいぶん早いです)

参院選の話題が早くも新聞に出ていますが、今年から国会議員の方々も少々心を入れ替え、あまりくだらない議論を長々と続けるのは、なしにしてもらいたいものです。(例えば、細かいことになん癖つけてのけなしあいのようなです)

そういうことは時間の無駄でしかないからです。

国会での正しい議論を期待します。そのような正しい議論が続くのであれば、国会にも奇跡が起き、そのような政策を行えば日本にも奇跡が起きるからです。(もう、どこにでも、誰にでも奇跡が起きる時代となったからです)

この半年間の国会での議論を注視しましょう。

もしこの間、全然奇跡的なことが起きなければ、そんな国会議員はダメだということで(心が悪すぎです)今度の参院選を衆参ダブル選挙にしてもらい(安倍総理お願します)国会議員、総入れ替えみたいなことをしてもよいと思うからです。(総入れ替えは出来ないんでしょうが、大幅な入れ替えです。出来るだけ現職を落とすような票の入れ方を有権者がすればいいのです)

とにかくもう口でいいことをいうだけで、心が悪いような人が国会議員をやられていては国民が迷惑です。

これからは、自分たち有利の政策ばかりでなく、そのような国会議員の心まで有権者は観た方がいいでしょう。そうしなければ、心そっちのけで口でいいことをいっているだけの国会議員の地元などには、どんな災いが起きるか知れないからです。

そのような心が現れる時代となったからです。(だから、その議員の地元に奇跡が現れるようなら、そこの国会議員はよいということになります)

それだけ心の影響が強く現れる時代になったということですが、そういえば、去年の年末の紅白歌合戦は(二部制に移行してから)最低の視聴率だったそうですね。

国民的番組である紅白歌合戦がこれではいけないでしょう。なぜこうなったのかお分かりですか?

マンネリとか、歌手の顔ぶれとか、いろいろいわれているんでしょうが、やはり神への感謝が足りないからです。

去年の後半(十一月くらいからですが)奇跡的なことが起きた人が続出しました。

あれはなぜだかお分かりのはずです。そのような人たちはみな神に(そうして神がつくられたものに)感謝したからです。

そうしたら次々に奇跡が起きたのです。

では、紅白をつくる側も、そうして、その紅白に出る側もなぜそれをされなかったのですか?

それをされるのであれば(そのように心の向きが変わるだけで)何らかの奇跡が起き、視聴率も最低などということにはならなかったからです。

あの紅白の人たちが神に感謝され、そうして「神よ、どうぞ私たちを正しくお導きください」と祈ればよい案がたくさん出てきて、歌手の人たちにも奇跡的なことが起きて、異様な盛り上がりとなることも可能であったのです。

そのように祈るだけでも天が導いて下さるからです。

嘘ではありません。あの奇跡的なことが起きたスポーツ選手の人たちも、その程度のことしかやっていないと思うからです。(少し心を変える程度のことくらいしかです)

しかし、それでも奇跡的なことが続出したのです。

では誰であっても、少しそのような心になるだけで奇跡は起きると思われないでしょうか?

少し正しいことをするだけで十分奇跡は起きるのです。それだけ心を神に向けるということはよいことであるからです。

逆にいうなら、それだけ神にソッポを向いているということは不幸なことなのです。神から力をいただけないからです。

しかし、その神の方に心を向け、神の力を少しでもいただけるのであれば、それだけでもう奇跡的なことが起きるのです。それだけ神の力とは偉大であるからです。

ですから、もっと多くの人が神に頼ればいいのです。そうれば多くの人に奇跡が起き、幸福になれるからです。(ずいぶん低迷しているテレビ局もあるようですが、少し神に祈られたらどうですか?それだけでもよい兆しが現れてくるからです)

しかし、それもこれも自分の心をまず変えないといけないのです。心を変えないと神を思う心にはならないからです。(無神論のままでは神などとても思えませんから)

これくらい書けば、私が心のことをなぜこれほどいうのかお分かりいただけると思います。

心を神に向けるだけで奇跡は起き、そうして、その心をきれいにするなら、きれいにすればするだけ、その神の力は大きくいただけることになるからです。(だから、釈尊やキリストは、祈って大自然を動かしたり、様々な奇跡が現れたりしたのです。あのような偉大な方々は、心が完全に神の方を向いていて、そうして誰よりも心がきれいであったからです)

心の向き、そうして心をきれいにすることの大事さが、少しはお分かりいただけるでしょうか。

心の向きを少し変えるだけでも奇跡は起きます。

その心の正しい向きを教えているのが、この法なのです。

2コメント

1月 03 2016

功徳を積む

やっとひどい二日酔いも収まってきたようです。(苦笑)

こんなにひどい二日酔いをしたのは何十年ぶりでしょう。(さすがにもうそれほど飲みませんから)本当に年末年始はひどい目に遭いました。

説き足らない部分をほっといた私が悪いのですが(それにしても、もう少し優しく教えてほしいものです。〔笑〕)今年の目標はより多くの人から布施をもらうことです。(もちろん金額ではありません。それがこの世とあの世の違いです)

その目標が達成できないと、また今年の年末は何が起きるか分かりません。(怖)

出来たら早めにその目標は達成したいものです。(笑)

しかし、やっと神の存在に気づき始めた人も出てきたようです。(ようやくですが)では、布施の大事さも理解していただかねばいけないでしょう。

それが一番神が喜ぶことであり、また自分にとっても一番の功徳となるからです。

その布施の話ですが、去年の年末くらいでしたか、一千万円の寄付を福島かどこかにしたプロゴルファーがいたようですが(よいことを教えてくれた人には一銭も寄付しないんですね。〔苦笑〕)こういうことはもちろんよいことです。

よいことではありますが、これがもし売名という心が少しでもあるなら、その価値は下がります。

寄付をするのであれば、真から「困っている人のために」という心のみで行うことです。そうしなければ功徳は得られないからです。

そういう意味では、このように表に出さず、裏で寄付を行っている人もいることでしょう。そのような人こそ、真に功徳を積んでいる人といえるのです。

このような功徳を積むことを意味がないと思っている人もいるかもしれませんが、とんでもありません。

このよう功徳を積むことは、この世的にいえば、これ以上の投資はないのであり(しかも先に行けば確実に得をするです)株などに投資するより、よほどよいことであると自覚すべきなのです。

政府はずいぶん投資を勧めているようですが、株への投資などは、その株を勉強するために行うのであればよいのですが、株で儲けようとして投資するのであればやめておいた方がいいでしょう。

大してお金がない人が株をやり、一時は儲けることが出来ても、最終的には損をすることになるからです。(株は超金持ちしか儲からない、元々そのようにつくられているからです)

そんなものに投資するより、功徳を積まれた方がいいでしょう。そのような心の投資の方が確実に得をえることになるからです。(功徳を積むなら、その功徳は天に積まれて行きます。キリストは「天に蓄えられたものには盗人も近づかず、虫に破られることもない」といわれていました。だから功徳は絶対に減ることのない、増えていくばかりの投資であるのです。その功徳が後々自分を救うのです)

金を一生懸命稼ぐのもいいでしょう。しかし、金はあの世に持っては行けません。では、その金をどうするのですか?(明日死ぬかもしれないのにです)

何かあった時のためにためておく、確かにそのように貯金しておくのも大事なことです。しかし、必要以上に貯金などすれば、それは執着につながります。

自分の稼いだ金は自分の為だけに使う、自分で稼いだ金なのですから、それはご勝手にということですが、それではあまりに狭量なのではないでしょうか。

その自分で稼いだ金も、そのような稼ぐ場所があり、稼がせてくれる人がいて、そうして稼げるものであるからです。決して自分一人で稼げるものではないからです。

そうであるなら、その自分で稼いだ金を自分のためだけに使うというのは、考えが狭いのであって、その金の使い方が問題なのではないでしょうか。

自分で稼いだ金を、自分の為だけに使うのではなく、その一部でいいですから、人のために使う、そのようなことで功徳を積むことが出来るのであり、そのような心こそ、一番大切なことであり(生きている間はもちろんのことですが)自分が死んだ後、天上界に行ける道であるということです。

お経を上げたり、仏像を拝んだりすれば救われるのではなく、そのような功徳を積むことが一番自分が救われる道なのです。(そこはお間違いのないように。奇跡が起きている私がいうのですから間違いないでしょう)

その功徳を積むことが一番出来る方法が、法を説く人への布施なのです。(それは釈尊しかり、キリストしかりでしょう)

法を説く人が一番多くの人を救えるからです。だから、法を説く人に布施することが一番功徳を積むことになるのです。

現に私のブログを読み、心が救われた人はたくさんいるはずです。奇跡が起きた人もいるはずです。

それはすでに、そのような人たちを救っているということなのであり(もっというなら、災いが起きている人も救っているんですけどね。心の部分だけ観れば)そのような結果だけ見ても、これまでとは違うということは分かるはずです。(本当の神の教えを説く人と偽の教えを説いている人との違いはです。起きてくることがまったく違っているからです)

では、そのような結果に対する報恩の行為はしないといけないのであり、そのような法を説く人への報恩の行為は、そのまま自分の功徳を積むことにもなるというのですから、法を説く人への布施はこれ以上の得なことはないのです。(この世的にいえば、年末と年始の大安売りが一緒に来たみたいなものですから。〔笑〕)

もう少し考えを広げられてはどうでしょう。

そうすれば、望外の徳が得られることになるからです。

(また、災いを防ぐ手段にもなります。今年は去年以上に災いが現れるそうです。〔法に逆らっている人はです。この辺りの人相当やばいです〕功徳を積むことは、そのような災いからも身を守れるのです。怒ってばかりいないで、功徳を積まれたらどうでしょう。〔このブログを読むだけ読んでいるのですから〕)

0コメント

1月 02 2016

今年やらなければいけないこと

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今年は元日早々教えられました。今年やらなければいけないことをです。(ほんと、早いです。〔苦笑〕)

何か年末からおかしかったのです。

去年の年末に、白鳥公園に行くと、そこにいた親子と嫌がらせをした、してないでケンカになって、大きな声でいいあいになりました。(そういうことはたまにあるんですが。〔苦笑〕)その後、胃が痛くなってきて、その痛みが夕方まで取れませんでした。

何か変だなと思っていたのですが、大晦日には昼間にお茶をこぼしてべちょべちょになり、夜は夜で紅白歌合戦を観ながら、焼酎を飲んでいたのはいいんですが(水割りを週に一、二度くらい飲んでいますので)飲みすぎてしまって、その後(ゆく年くる年を見ていたくらいでしょうか)気持ち悪くなって、トイレでゲーゲー吐きまくりました。

今年は、除夜の鐘をトイレで吐きながら聞くという最悪のスタートを切ったのです。(笑)

「今年は出足最悪だな」と元日の昨日は思っていました。(あのウナッシーさんのコメントを書いている時も二日酔いで凄く気持ち悪かったです)

年末から正月にかけて悪いこと続きです。「去年なんか間違ったことしたっけ?」と去年のことを寝ながら振り返っていました。

あれだけ奇跡も起きて(災いも起きたんですけどね)それで間違ったこともないだろうと思っていたのですが、その時、フッとあることを思いだしたのです。

その思いだしたこととは、先月は毎月払っていた借金の返済を払い忘れていた、ということでした。

「アチャ、借金の返済まで忘れているよ。こりゃ本当に最悪だわ」と思っていたんですが、しかし、何かおかしいのです。

何がおかしいかって、この払い忘れた借金の返済のことです。

この借金の返済を、私はもう五年も六年も続けているのです。(昨日、今日始めたような返済ではありません)そうして、これまで一度も払い忘れたなどということはありませんでした。

ところが先月は、その返済をすっかり忘れていたのです。

いくらなんでもおかしいでしょう。これまで毎月、月末になれば借金の返済はしなければいけないと覚えていたのです。

少なくとも二十日過ぎれば必ず一度や二度、借金のことは思いだしていました。それが先月は逆で、二十日くらいまでは借金の返済を覚えていたのですが、二十日過ぎたらまったく忘れてしまっていたのです。

「こういうことがあるのか?」と益々不思議でした。

年も年だから物忘れが激しくなったのかな、とも思いましたが、どちらにしても、こうお金が入ってこないと借金の返済もままなりません。

体調は悪いし、借金の返済は忘れるし、お金も入ってくるあてはないし、何か今年は最悪のスタートだなと思っていました。

何で法の流布をやっていて、これだけスタートが悪いのか、と少し落ち込んでいたんですが、なぜ、このような悪いことが年末から年始にかけて立て続けに起きたのか?

その理由を、私はその夜に知ることになったのです。

二日酔いも昨日の晩にはだいぶよくなって、晩飯も少し食べました。(朝食と昼食は気持ち悪かったので抜いたのですが)

晩飯を食べたのは食べたんですが、まだ体調がよくありません。それで少し早めに寝たのですが、寝る前に少し祈ったのです。

「神よ、そして天上界の皆様方今年もよろしくお願いいたします」と今年初めてのしっかりとした祈りをしたのですが、その時でした。

そういう祈りをしたとたん、胸の辺りにぽっかりとある言葉が浮かんできたのです。

その言葉を知って、私になぜ年末から年始にかけて悪いことが続いたのか、そうしてこれまで毎月、払い続けていた借金を払い忘れたのか、その意味が分かりました。

それもすべて、天上界からの導きであったのです。

そのぽっかり浮かんできた言葉とは『布施をもらわないといけいない』ということでした。

私は、その言葉を知ってハッとしました。確かに私はこれまで布施をしっかりもらっていなかったからです。

だから、これだけ今も困っているのですが「そうか、それが悪かったのか」とその時初めて分かったのです。

私は去年まで、あまり布施のことばかり書いてもいけないと思い、それほど布施のことを書きませんでした。

しかし、たまに布施してくれということは書いているのですから、それくらい書いておけばそれで十分であり、そう書いているのに布施してくれないのは、それは布施してくれない人が百パーセント悪いのであって、こちらのせいではない、と思っていたのです。

ところが、そうではなかったのです。

毎日、このブログを読んでくれている人は百人近くいるのに、それなのに、布施してくれる人が一人か二人しかいないということは、それは伝える側に責任があるのであって、布施の大事さをしっかり説いていない、布施に対する説明不足であるということなのです。

その足りない部分を五年も六年も放置していて、それはむこうせいと思っているのは、ただの責任転嫁なのであり(私もやっていました、責任転嫁をです)その説き足りない部分を年末から年始にかけて教えられたのです。

だから年末から悪いことが続いたのであって、もっというなら、先月忘れた借金の返済もそうでしょう。

絶対に忘れないことを忘れていた(金に対するです)そのような順序をもらったのも、天上界が私の説き足らない部分を知らせるためであったのです。

それを、その浮かんできた言葉によって知ったのです。

よく考えてみれば、もう、法を説き始めて五年も六年もたつのです。そうして、天は私の求め(祈り)に応じて次々と奇跡を現してくれました。

それなのに、私は布施の一つもまともにもらえないのです。(去年でも布施をもらったのは、ウナッシーさんをはじめ賛助会員の方々と、電話で相談を受けた一人、二人の人からだけです)

それでは天も怒りますし、その布施をもらえないということは、私がダメになるだけではなく、そういう報恩の行為をしない人もダメになるのであって、そういう中途半端な法の伝え方をしていては、結局、法を知った人まで不幸になるのです。

そこが足りなかった、そのこれまで説き足りなかった部分を、今年の元日に知らされたということです。

ということで、今年は布施の大事さを、もっとしっかり伝えていこうと思っています。

布施する大事さをしっかり伝えないと、法を説いている私も、その法を聞いて奇跡が起きた人たちも結局、不幸になるからです。(お蔭だけもらって報恩の行為がないからです)

今年も初詣に行く人は多いのですが、そういうところでお賽銭を上げて「今年はよい年になりますように」といくら祈ってもお蔭などありません。

しかし、法を説いている人に布施するなら(布施しなくても奇跡が起きているのですから)確実にお蔭はあります。

今年の初めに一番よいことを実践されたらどうでしょう。(法を説いている人に布施することが一番よいことです。それは釈尊やキリストに布施することと同じだからです)

そうすれば、今年は本当によい年になるからです。

2コメント

« Prev


あなたは人目の訪問者です。