9月 30 2016
法則を知らない不幸
今日は前のバカ会社が静かそうなのでブログを書きます。(この一日、二日で何があったのでしょうか?私はいなかったものですからよく分かりません)
それにしても本当にあちこちで怒っています。
昨日、一昨日と朝から出ていたのですが(一昨日は東山動物園、昨日は男子プロゴルフの東海クラシックを観に行きました…どちらも早めに出て来たんですが)不思議と家から離れれば離れるほど静かになり(出て行った辺りでも辻説法はしましたので、その辺りの様子は分かります)家に近づけば近づくほど怒っている人が増えるのです。
何ででしょうか?
私の家から遠い人たちは、少し冷静に見えるから、いま起きていることの異常性が分かり、いくら何でもこれだけの現象が一人の者に出来るはずがないと冷静に理解出来、家から近い人たちは、冷静さがなくなっているため、その起きている現象の異常さが分からず、何でもかんでも悪いことが起きると私のせいにして怒っているからでしょうか?
マァ、こういう考えがどこまで当たっているのか分かりませんが、あたらずと雖(いえど)も遠からずでしょう。
やはり私とよく顔を合わせれば合わせるだけ感情的になる人は多いと思うからです。
感情的になればなるほど、冷静な判断は出来なくなります。冷静な判断が出来なくなるなら、必然的に間違った判断をする人は増えます。
では、遠くの人より、この辺りの人の方が不幸になる人は増えるということになります。そういう間違った判断が不幸を呼んでいるからです。
いい加減、法則を理解していただけないでしょうか。そうすれば、なぜ自分たちに不幸ばかりが起きるのか、それも理解できるからです。
因果応報、善因善果、悪因悪果という法則は絶対なのです。
必ず誰に対しても作用することであり、それは大人から子供までみな同じなのです。年寄りはかわいそうだから作用しないとか、小さな子供はまだ分からないから作用しないとか、そういうことは絶対にありません。
みな一様に正しく作用するのです。(ただし「親の因果が子に報い」ということはあります。そこも正しく知らないといけないのです)
その法則を知っているのならば、自分たちに起きている災いを人のせいにすることもないし、そのような災いが起きたのなら、その災いが自分たちに起きなくなる方法も分かるのですが、その法則を知らないばかりに(または知っていても、それが作用しているとは思わないばかりに)同じような災いが自分たちに何度も起きているのです。
自分たちに災いが起きているのは、自分たちに原因があると理解できないからです。(あるいは理解出来ていても、それを認めたくないという人が多いのかもしれませんが)
いま運転手連中がなぜ次々に病気になっているのか?それはあのサイレンの原因を自分たちがつくったからです。(その理由は何度も書いているので書きませんが)
多くの人を自分たちが病気にしたため、いま自分たちが次々に病気になっているのです。
因果応報です。
では、その周りの人たちもなぜ病気になる人が多いのか?
それは、その運転手連中の口車の乗って、あのサイレンをすべて私のせいと思いこみ、私に少しも感謝せず、怒って嫌がらせを繰り返しているからです。(つまり騙されているということです)
この辺りの多くの人は私の顔を見ると、すぐに嫌がらせをしてきます。そのような怒りの心と行いが、災いを呼んでいるのです。(騙されて悪いことをしていてよいことが起きるわけがありません。早く騙されていることに気づかないといいことは起きてこないのです)
これも因果応報ですが、では、なぜ私が病気もせずにピンピンしているのか?
それは私が誰一人病気になどしていないからです。だから未だに健康でいられるのです。
もし私が誰か一人でも恨みに思い、その人を病気にするよう祈るなら、その祈りは即座に私に返って来て私も病気をしているはずです。(私はよいことも悪いことも返って来るのが早いですから)
しかし、私が未だに病気などしていないのは、私は人を病気にするような祈りなど一度もしていないからです。
これも因果応報なのです。
この法則だけは嘘も隠しも出来ません。必ず正しく現れるのです。(だから、次々に病人が出ている〔だからいつもより静かなんでしょうが〕どこかの会社などいかに自分たちの行いが悪いか分かります。私は人を病気にする祈りなど、ただの一度もしていないからです)
なぜ、私に鳥が寄ってくるような愛ある奇跡が毎日のように起きているのか?
それはそれだけ多くの愛の行為を私は人々に行っているからです。だから、その愛の行為が(人からは愛されませんが)今度は鳥や他の動物から愛されるという愛の行為として返ってきているのです。
その愛の行為とは、もちろん多くの人の心を救っていることです。
私は、このブログを読んでいる人たちだけではなく、私を憎み、嫌がらせをして来ている人たちの心まで救っているのです。
そのような私の評判と辻説法でです。(悪評でも私のことを知るなら心は救われます。〔いくらかでも唯物論から唯心論に変わってです〕また辻説法などは、私に嫌がらせをしてくる人たちにしているのですから、そういう人たちが、そこで自分たちの間違いに気づくということも多々あります。現に私の辻説法を聞いて嫌がらせをやめたという人もたくさんいるからです)
ここまで多くの人の心を唯物論から唯心論に変え、そうして、多くの人がしている間違いも(私に対する嫌がらせ)正しているのです。
これ以上の愛の行為はありません。
だから、動物たちから毎日のように愛される(愛の行為を受ける)という愛の現象が次々に現れているのです。
それだけの愛の行為を私は毎日のように行っているからです。
これもまた因果応報であるのです。
このように、因果応報、善因善果、悪因悪果という法則をよく理解しているのであれば、私になぜよいことばかりが起き、私に嫌がらせをしている人たちに悪いことばかりが起きるのか、それもすぐに理解出来るのです。
ずべて自分たちの行いに原因があるからです。
しかし、多くの人が、この因果応報や善因善果、悪因悪果という法則を知っているにもかかわらず、なぜ不幸になるのか?
それはこういう法則を頭で知っているだけで、甘くみているからです。
こういう法則があることは知っていても、全部が全部、自分にかかってくるわけではないだろうとです。
だから自分には甘く人には厳しくとなるのです。そういう法則を甘くみているからです。
また多くの人は人の悪はよく見えても、自分の悪をよく見ることが出来ません。
そういう甘さが自分たちを不幸にしているのです。自分たちは知らず知らずのうちに多くの悪を犯しているからです。(それとこれくらいのことはいいだろうという考えの甘さからです)
だから、本当は自分に厳しく人には甘くにした方がいいのです。その方が自分は幸せになれるからです。(法則によってです)
このような因果応報、善因善果、悪因悪果という法則も含めてです。
そういう悪の基準、善の基準をよく知らないということが一番の問題なのです。だから、こういう時代(心の時代、自分たちがやったよいことも悪いこともすぐに返ってくる時代)になると悪いことばかりが起きるのです。
正しい心の基準を知らないからです。
だから、表面上だけよい顔をしていればそれでいいだろうとか、これくらいのことはいいだろうとか、この程度のことで何でこんなひどい目に遭わないといけないのだ、などという甘い考えが出てくるのであり、表面上もよければ心もよい、そういう人にならなければいけないし、悪いことは人には絶対にしないという強い心を持たなければいけないし、悪いことをしたら、どんな悪いことが返ってきても仕方がないという潔さを持たなければいけないし、だからよいことをするのであると、そう思い、それを実践しなければいけないし、そういう善の実践が出来ている者だけに奇跡が起きるのです。
だから、そういう善の実践をするのなら、奇跡は起きるのだし、その善の実践が多ければ多いほど奇跡もまた多く現れるということです。
そういう諸々のことを考えればです。これからは心の時代が深まっていくのです。
では、これだけ正しい心の基準が分からない人たちに危険な時代はありません。だからこれだけ危険なことが起きているのです。(この辺りだけではなく、各地で起きる激しい天変地変や不慮の事故や事件など)
正しい心の基準が分かっている人が少ないからです。だからそういう不幸に遭う人が多いのです。
そのような不幸は正しい心をしているのであれば、すべて(すべてです)防げる(逃れる)ことが出来るからです。
心の時代になればなるだけ(心の時代が深まれば深まるだけ)正しい心の基準を知らないといけなくなるのです。
つまり法に帰依しなければ、これからの時代、危なくて仕方がないということです。
それでもまだこの法を無視するのですか?
ずいぶん危ないことが好きなのですね。(苦笑)