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2018年11月

11月 20 2018

本当の愛

前回、間違った信仰のことを書いたのですが、お経を上げるだの、お参りするだの、仏教系の信仰ばかりでなく、ではキリスト教はどうなのでしょう。

キリストの教えであるキリスト教も、今いわれているキリスト教と、この正法神理から見たキリストの教えとではどう違うのか?

その違いを書いておきましょう。

正法誌の1986年、五月号より抜粋します。

<高橋信次先生のことば

愛とは何かというと、大抵観念的、抽象的に、或いは幻想的に考えがちだ。

近頃は、肉体的、性的行動が愛だと思っている者も相当にいる。愛とは何かというと、助け合うことであり、他を生かすことである。

この地上界は自分独りで生きることは出来ない。常にいろいろな複数の関係の中で相互に働きかけ合いながら他を生かすことによって成り立っている。

地上界(現れの世界)は意識界(あの世)とは異なり、相互作用によって生かされていることは否定しようとしても否定することは出来ない。

他を生かすとは自分の身を他に供養することである。私たちは動物、植物、鉱物を口に入れることによって生きている。つまり、それらの身の供養がなければ、私たちは一日として生きることが出来ない。魚や野菜、飲料水は、これみなことごとく生命を持ち、私たちにその身を投げ出している。私たち人間関係についても、様々な職業、仕事を通して他を生かしている。

この地上に混乱が絶えないのは、これに欲望がからみ、欲に心が奪われるからである。他を生かす、助け合う愛の行為に心が定まれば、明日にでもこの地上は仏国土となろう。

愛というとイエスがすぐ浮かぶ。イエスが十字架にかかったのは、愛の行為を示すためであった。他を生かすための死は愛の極限だからである。

イエスは愛を説き、人々にそれを求めた。愛は慈悲という神の心を行為によって現すことなのだが、当時の人たちはそれをいくら語っても理解してくれなかった。

死は間近に迫ったが、それをさけようとすればいくらでもさけられた。だが、イエスはあえてそれをしなかった。愛の証はその身を供養(死)することによって果たされるからだった。

十字架の人となったときイエスは、罪人を含めて地上の人たちに、神の恵みと赦しを求めている。イエスの愛はかくして全世界に伝わるが、この言葉によってイエスが全人類の罪を背負ったと喧伝されることになる。そうしてイエスを信じる者は救われるとなってしまった。

イエスを信ずるとは、愛を信ずることである。愛を信ずれば、愛の行為がなければ観念の遊戯になってしまう。愛は行為だからである。胸にいくら十字を切ったところで救いにはならない。イエスの行為をみればわかるはずである。また、信は念を生み出し、念は行為につながってくる。

それゆえ、愛を信ずるならば、行為が生まれてくる。行為のない信などというものはないのである。

解  説

愛とは全面帰投である。相手を生かすためには自分のすべてを相手に投げ入れて、相手と一つになり、相手の喜びを自分の喜びとして自分がなくなることである。

愛とは自他一体の感情ともいわれる。自分と他との区別がなくなり、自分が相手であり、相手が自分であり、自分と他とが一つの思いになることである。

(中  略)

キリスト教信者はキリストの肉体の復活を待望しているが、そのことよりも大事なことはキリストが説かれた本当の「愛」の意義の復活である。

「イエスは愛を説き、人々にそれを求めた。

愛は慈悲という神の心を行為によって現すことなのだが、当時の人たちはそれをいくら語っても理解してくれなかった」そのためキリストは逃れようとすればできられたのを磔(はりつけ)にかかられたのである。そのことによって「愛の真義」を分かってもらいたいという最後の願いであった。

キリストは「わが軛(くびき)は汝らを安らかならしめん」といわれた。わが教えを信ずれば心が安らかになるというのである。人の心を安らかにするのは、憎しみや怨みではなくて「愛」のみである。

愛は全面帰投であり自他一体であるから、愛とは相手と一つ心になって相手を生かし相手のためになることである。愛という言葉を使う時は自分がなくなって自分も相手にならなければいけないのである。自己愛、利己愛、自我愛が、愛という言葉を使っていても失敗に終わり不幸な結果を生むのは、自分のために人を奉仕させようとする愛とはまったく正反対の心があるからである。

「十字架の人となったときイエスは、罪人を含めて地上の人たちに、神の恵みと赦しを求めている。イエスの愛はかくして全世界に伝わるが、この言葉によってイエスが全人類の罪を背負ったと喧伝されることになる。そうしてイエスを信ずる者は救われるとなってしまった」と書かれているが、そのように喧伝したのはパウロである>

以上、正法神理から見たキリストの愛を書いたのですが、ずいぶん違うのではないでしょうか。

キリスト教でいっている愛と法(正法神理)でいう愛とではです。

今のキリスト教はそこまで深く愛(全面帰投)ということをいっているのでしょうか?

キリスト教の信者の人たちの中には、そういっているという人もいるかもしれませんが、その人がいう全面帰投の愛とは、神に対する愛であり、それはすなわち自己愛にすぎないのです。

「神(キリスト)よ、我を救いたまえ」という自分が救われたいがためにキリストに全面帰投しているだけであり、それは正法誌の中にも書かれてありますが(自己愛、利己愛、自我愛は失敗に終わるとです)それではダメなのです。

自分ではなく誰に対しても、そのような愛を持たなくてはいけないのであり、だから、キリストは、自分が十字架にかけられるということを知っていたにもかかわらず(天上界から知らされていたからです。だから、キリストは逃げようと思えばいくらでも逃げることが出来たのですが)あえて逃げることはせず十字架にかけられたのです。

神の奇跡を現し、多くの人々を癒されたキリストが十字架にかけられるのなら、その衝撃は世界に伝播するからです。(インターネットがなかったこのような時代といえどもです)

そうなれば、キリストが説かれた教えも同じように伝播されていきます。

自分の教えが世界に拡がるのなら、多くの人々が救われるとキリストは知っていられたため、あえて自分の身を捨てられたのです。

自分の教えを知って救われていく人々のため、自分の身を供養されたのです。

そのキリストが思われた通り、今日ではキリストの教えは世界中に拡がり、どれだけ多くの人がキリストの教えにより救われたかしれません。

これこそ究極の愛であり(世界中の人々のため自分の身を供養する〔神に捧げる〕)このようなキリストの究極の愛(愛の真義)を、キリスト教の人たちは学ばなければいけないのです。

それにもかかわらず、今のキリスト教の人々は、キリストが十字架にかけられることにより、全人類の罪を背負った。だから、キリストを信じる者は救われる、などというパウロの言葉をそのまま信じ、本当のキリストの愛に気づかずにいるのです。

キリストが十字架にかけられることよって全人類の罪を背負ったのなら、それ以降の人々は、苦しむ人が出てこなくならなければおかしいはずなのに、キリストが十字架にかけられた以降も苦しむ人はたくさん出てきています。

そうして、そのキリストを信じているはずのキリスト教の信者の中にも、苦しむ人が出ているのに、キリストが全人類の罪を背負っただの、キリストを信じれば救われるだの、どう考えても、そんな教えはおかしいと、間違っていると、分かりそうなものですが、何でそれがいつまでたっても分からないのでしょう。

キリスト教の人々はです。

このようなバカげたことは、すべてパウロがいったことであり、キリストがいわれたことではないのです。

そこを間違ってはいけないのです。

本当にキリストがいわれた言葉と、パウロがいった間違った教えがごっちゃになっているのが現在のキリスト教であり、だから奇跡が起きないのです。

正しい教えと間違った教えが混ざっているからです。(それは今の仏教も同じですが。釈尊が説かれた正しい教えと、その後の弟子たちが説いた間違った教えがごっちゃになっています)

だから、正しい教えを学ばないといけないのです。(正しい教えとは、本当に釈尊がいわれたこと、キリストがいわれたことだけを実践している教えということです)正しい教えを学ぶなら、確実に奇跡は起きてくるからです。(それが私が説いている教えです)

キリストの教えを学ぶなら、キリストの真の愛を知らないといけないのです。

愛の真義を知らないといけないのです。それこそ、キリストが自分の身を供養されてまで人々に伝えたかったことであるからです。

これまでの宗教と、私が説く正法神理はこれだけ違います。(同じ愛を説くだけでもです)

「この時代、もうこの教えを学ばないと救われない」といっている私のいうことが少しはお分かりいただけるでしょうか。

(この正法の世は、それだけ愛深く、慈悲深くならないと救われないということです)

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11月 18 2018

末法の信仰

次々に起きているようですね。どこかの会社などです。

昨日でも朝から騒いでいましたからね。急に騒ぎだすので何か起きたとすぐに分かります。

だからいってやるのです。「詫びをいれて、感謝して布施すれば(その現象は)すぐに止まる」とです。

しかし、一切態度を変えようとしません。(相変わらずでかい音を立てて嫌がらせをし続けています)それでは、恐ろしい現象はずっと出続けるでしょう。

あの会社の人間がいなくなるまでです。(ずいぶんひどいことをしていますからね。この連中はです。〔私だけではなく回り中に迷惑をかけてです〕全然その自覚はないようですが)

別にどこかの会社だけではないでしょう。ブシュブシュやっていく運転手連中も同じなのです。

私に詫びを入れ、感謝して布施しなければ、恐ろしい現象は止まらないのです。

皆、私のブログを見ているからです。(本当の神の教えを知らされているからです)それなのに嫌がらせしかしないからです。

昨日も(土曜日とはいえ)走っているトラックは少なかったですね。(こちらは静かでよいのですが)夕方などほとんど見なかったくらいです。

これほどの現象が現れてきても、それでもまだ神を認めて、本当の神の教えを勉強しようとはしないのでしょうか。

このままではまだまだ恐ろしい現象は現れます。特にこの辺りなどです。

この辺りの人たちは、皆、神の教えを知らされているにもかかわらず、少しも感謝せず、嫌がらせを平気でして心が汚いまま、反省のない生活をし続けているからです。(まあ、元々はその心が汚いのがすべての不幸の原因なのですが)

これから正法の世がドンドン深まって行きます。それなのに、そんな心と行いのままでは必ず天罰はくだるでしょう。

そういう時代になっているからです。

もう本当の神の教えを信じ行われてはどうでしょう。

無神論はもちろんですが、これまでのような信仰をどれだけしたところで、もうそのような信仰では起きている恐ろしい現象は止められないからです。

これまでの信仰は間違っていたからです。

これまでの信仰では少しも心をきれいにしないのです。では、止められないですね。この起きている現象はです。いま起きていることは、その心に原因があるからです。

どこかにお参りに行くだけで、あるいは寺などでお経を上げたり座禅をしたりしているだけで、それで心がきれいになると思いますか?

多くの人はそれが正しい信仰だと思い、そのようなことを続けて、それで心が軽くなった、気分がよくなったなどと思っているのでしょうが、それはただの思い込みなのであり、実はまったくそうなってはいないのです。

実際は、そういうことをしても心が軽くもならなければ、気分もよくはならないということです。そのような行いに何の意味もないからです。(だからそれは自己満足にすぎないということです。意味のないことをしていて、心が軽くなるわけも、気分がよくなるわけもないからです)

そのようなことをしている人たちも(お寺や神社など行くとよくお参りに来ている人が多いですから)こちらでは次々に病気になっています。

では、これ以上の証拠はないのではないですか。そういうことをしていても次々に病気をするのなら、そんなことをしていても何の意味もないとです。

それが正しい信仰であるのなら、こういう時であるなら、何がしかのご利益が出てこないといけないからです。

しかし、こんな非常事態にもかかわらず何のご利益も現れないのです。これ以上、このような信仰が間違っているという証拠はありません。

これが現実なのです。こちらではもうそのような間違った信仰の馬脚まであらわれてきているのです。

そういうことをしていても、実際は全然心が軽くなってはいないからです。それが正しい信仰で、そういうことをすれば(お参りやお経など上げれば)本当に気分よく心が軽くなったのであれば、その人にそのような災いが現れることはないからです。

しかし、こちらではそういう人たちにも災いが現れている。ということは、こちらで起きている現象は、そのような信仰がまるで意味がなかったということも、同時に(罰が当たるということだけではなくです)教えているのです。

お経やお参りをしているだけでは心はきれいにならないのです。禅定をしてこれまでの自分の行いをしっかり反省しないといけないのです。

そうしない限り、自分の心はきれいにならないからです。

だから座禅もいけないということです。正しい禅定ではないからです。

無念無想などといって、少しでも動けばひっぱたかれるのであれば、そちらばかりに気がいって無念夢想どころではありません。

それに無念無想では(何も考えようとしないのでは)反省など出来ないではないですか。

心静かに禅定しながら、これまでの自分の悪かったところを反省する、それをしないと心はきれいにならないのです。(だから私は反省しないといけないとくどいほどいっているのです)

今の信仰はそのようなことを一切していません。(反省禅定などしていませんよね。どこもです)だから、そのような信仰をしている人たちにもこちらではボンボン罰が当たっているのです。

正しい信仰をきいているのに(私から)それを無視して、間違った信仰をし続けている人たちばかりであるからです。

そのような末法の信仰(間違った信仰)をどれだけしていても、通用しない、逆にそんな間違ったことをすればするほど罰が当たる、もうそういう時代になっているのです。

だから、このような恐ろしい現象が(こちらだけでなく)日本中で起きているのです。

多くの人たちが心と行いだけではなく、間違った信仰までし続けているからです。

そのような諸々のこと(大間違い)を考えるならです。

神の怒りは大変なものであると理解でき、この大変な事態に気づいて、早く心と行いを切り替えないといけないと分かるはずです。

それともまだ分かりませんか?自分たちの大間違いがです。

無神論も間違いなら、今までして来た信仰も間違いであったということです。

何もかも間違えているのですから、これだけの罰はくだるのです。

早く心を変えないといけないのです。この正法の世に合わせてです。それがどれだけ難しいことであってもです。

時代はドンドン進んで行くからです。

それだけの(皆さんが大間違いしているだけの)神の業がすでに日本には現れているからです。それを多くの人たちはただ無視しているだけなのです。(または、他のもののせいにしてごまかしているだけ)

この正法の世に合わせて心を切り替えることが出来るのなら、私たちのように次々に奇跡が現れるようにもなります。

私はいっているだけではないのです。自分たちでちゃんとそのようなこと(奇跡)を現しているのです。

では、私のいっていることは正しいということになりますが、それにもかかわらず、くだらない反発ばかりして、自分たちの行いを頑として変えようとしない、そんな人たちばかりです。

だから、いつまでたっても不幸が続くのです。

しかし、そんな間違った態度を取り続けていては救われる道はありません。

凄まじい現象がすでに日本中に現れています。

この教えに帰依されませんか?

もう心と行いだけではなく、これまでの信仰まで、しっかりと変えていかなくてはいけない、そのような時がすでに来ているからです。

追伸…唯物無神論の人たちだけではなく、間違った信仰をし続けている人たちまで変えないといけない。

もう本当に大変です。

しかし、そこまで変えないと、この恐ろしい状況は変わってこないのです。

今のまま考え方を変えようとしない人たちには、まだまだこれから、恐ろしい現象は現れてきます。(もう認めてはどうでしょう。その通りのことが起きているのですから)

いつまでも(自分は関係ないと)無関心を続けている場合ではないのです。いつまでも無関心を続けている人が多ければ、この国はもう滅ぶしかないからです。

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11月 16 2018

変わる現象

やはりずいぶんすいていますね。

昨日は、一昨日とは逆方向に行ってみたのですが(だから白鳥公園の方です)ほんと、どの道路も前以上にすいていました。

一号線もすいていましたからね。先週とは全然違います。わずか数日で何でこうも変わったのでしょう?

本当に不思議です。というか、不気味です。

だって、この感じで車が減っていったらと思うと、ちょっとゾッとするからです。

やはり前に書いた通りのことが起きているのではないでしょうか。

だっておかしいでしょう。災害大国といわれていた日本が、もう一ヶ月以上も災害らしい災害が起きてこないなんてです。

それまでは次から次に災害が起きていたのです。それが先月から急に起きなくなったのです。

多少は起きているみたいですけどね。各地でです。しかし、先月の初めまでは一~二週間もしないうちに必ずどこかで激しい現象が現れていたのです。(台風やら大雨やら異様な暑さや寒さやら地震やらです)

それがここ一ヶ月は災害らしい災害が起きない。しかし、今回のように車がまた一段と減ってしまうというようなことは急に起きだした。

ということは、起きる現象が変わり始めたということではないのですか。たまたまでは、こんなにタイミングよくこんなことが起きてこないと思うからです。(私が起きる現象が変わったと書いたとたんにこういうことが起きるのです。これ偶然でしょうか?)

実際そうなのではないでしょうか。だから一ヶ月以上も激しい現象が起きてこないのです。そうして車が一段と減り始めたのです。

起きる現象が変わってきたからです。大きな現象から個々に現れる現象へとです。(前に書いた通りのことが起きています)

だから、この辺り走っている車がまた一段と減り始めたのです。個々に現れる現象が増え始めたからです。(だから、病気になる人たちが前以上に増えだしたということです)

今年、エルニーニョが発生したとかいわれていますが(エルニーニュが発生すると異常気象になるといわれますが)多分、いつもの年のような激しい異常気象は起きないのではないかと思われます。(多少の異常気象はあるにせよです)

先ほど書いた通り日本に起きている現象が変わってきているからです。

こういうことでも分かるのではないですか。日本が特別災害大国ではないということがです。

日本は災害大国ではなく罰当り大国なのです。

罰当りな人が多いから、これまでこれだけ多くの災害が日本に起きていたのです。

その罰の当たり方が変わってきたから、最近は災害があまり起きなくなったのです。

それとも今は一時災害が止まっているだけとでもいうのでしょうか?いまだ神の教えを信じようとしない人たちはです。

しかし、それは時間が過ぎれば分かることでしょう。日本に起きている災害が減り、逆にこの辺りで起きている奇妙な現象が各地で増えてくれば、私のいうことは嫌でも多くの人が認めざるをえないからです。

しかし、もしそうだとしたら危ないですよ。特にこのブログを見ている人たちはです。

だって、私は何度もいっているでしょう。本当の神の教えを知らされているのなら、感謝しないといけないと(もちろんそれは報恩の行為も含めてということです。報恩の行為がない感謝など感謝とはいいませんから)そうしないと罰が当たるとです。

しかし、その感謝をしない人たちばかりなのです。

このブログを見ている人たちはです。(本当にこのブログを見て感謝している人など、ほんの、ほんの一握りの人たちだけですから)

では、罰当りな現象が大きな現象から個々に現れる現象に変わってきたというのなら、これまで罰が当たっていない人たちにもボンボン罰が当たり出すということになります。(そういう個人に当たる罰がもっと早く現れてくるようになったからです)

だから、このブログを見ている人たちは特に危ないといっているのです。

超罰当りなことをもうずっと前から続けている人が多いからです。

特にこの辺りの人たちなど、私のブログを見ている人が多いにもかかわらず、その私にまったく感謝などせず、嫌がらせを繰り返しているなどという(もはや犯罪に近い)超おバカな行為をし続けている人たちがたくさんいます。

そういう人たちは本当に危ないでしょう。一気にそのような人たちに現象が現れてくるかもしれないからです。それだけ罰当りな行為もないからです。(実際に今日など朝からすでにどこかの会社に次々に現象が現れています。〔今、確認もしました。間違いないそうです〕個々に起きてくる現象が完全に増えていますね)

ソロソロ私のいうことを信じたらどうですか。そうしないと、今度こそ大きな不幸が、多くの人々に、現れてくるからです。(それも自分が悪いんですが、それを全部、私のせいにしますから。この辺りの人たちなどです)

信じる者は救われるといいます。

いい加減(我ばかり張っていないで)素直にこの教えを信じませんか?(そうして行いませんか?)

ずいぶんこのお教えに救われている人も多いはずだからです。

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11月 15 2018

常識を超える現象

もう大変なことになってきましたね。本当に何か大変なことが起きているようです。(これはもう宇宙からの侵略者によって起されていることかもしれません。〔苦笑〕それだけ大変なことが起きているからです)

何が大変かって、昨日もそうでした。庄内川からの帰り(夕方、五時~六時頃)歩いていると横の道路はガラガラなのです。

そこは少し前まで夕方になれば車で渋滞していた道路でした。

それが最近は段々走る車が減っていき、昨日は夕方だというのに本当に走ってくる車が少なかったです。

昨日などあまりに車が少ないものですから、歩いてくる人のほとんどが引いていました。

こういうことは初めてですね。この近所までこれだけ皆が引いていたことなどです。

これまでは、この辺りでは少々走っている車が少なくても怒っている人がほとんどで、引いている人は少なかったのです。車が減っていようが何だろうが、私の顔を見ればおかまいなしに怒って嫌がらせしてくる、そういう人が多かったのです。

しかし、昨日はいつもの逆のような状態でした。怒っている人より(ほとんどそういう人はいませんでした)引いている人が断然多かったのです。

一昨日は名古屋港まで行っていたのですが、その帰りのことです。

名古屋港から築地(地下鉄の築地口駅があるところです)まで歩いてくると、少し前までは、その辺り(築地口の交差点)の道路はトラックで一杯だったのですが、最近は本当にトラックが減って、一昨日はまた(こちらも)一段とすいていたのです。

その築地から道路に沿って歩いて行ったのですが、ずっとすいていてトラックもほとんど走ってこないのです。

その道路の通りには大きな工場がたくさんあるので、当然トラックは多くなると思うんですが、そのトラックが走ってくるのが多いはずの道路が、トラックがほとんど走ってこないというのです。

その道路の歩道を歩いている人たちは、皆そのことを知っています。もうみんな引きまくっていました。

この道路が(もう昔から、この道路はトラックがたくさん走っていましたから)これだけトラックが減るとは誰も思っていなかったはずだからです。

その辺りを歩いている人たちは、引いているだけではなく、頭を下げている人もあちこちでいたようです。

何しろ私が「いつまでも神も神の教えも無視していて本当に大丈夫ですか?車激減していますよ」とか「いつまでも神を信じようとしない、本当の神の教えも信じようとしない、唯物無神論の心の汚い皆さん、滅びても元気で」などということを、いい回りながら、帰ってきたものですから、ただでさえ、車が減っているところにもってきて、そのような辻説法をされたら、引いている人たちがよけい引いてしまいます。(苦笑)

それで、頭を下げる人もあちこちでいたようなのです。(あまり私が見ていないところで頭を下げているので〔こういう人ばっかりです〕よく分からなかったんですが、なんとなくは分かるものですから)

しかし、実際にそうだから、私はそういっているだけであり、別に脅しているわけではありません。

今のまま、心も入れ替えず、そのままの生活を続けるなら、これだけ車も減っているのです。

まず、何か起きて来るでしょう。もうトラックが減っているというより、車自体が減っているようであるからです。

ということは、もうたくさんの人たちに何か起きているということになります。そうでなければこれだけ車は減らないはずだからです。

だから私は書いているのです。「何か大変なことが起きている」とです。

何が起きているのかは知りませんが、これだけ車が減っているのです。よい事は起きていないでしょう。よい事が起きていて、ドンドン車が減っていくなど考えられないからです。(例えば、皆にお金がたくさん入ってきて、普通の日に一斉に旅行に行ってしまったなどということは考えられないでしょう)

しかし、悪いことが起きているのなら(例えば、病気になるにせよ、けがをするにせよです)そういう人たちが仕事が出来なくなって、そうして車が減っているということは十分考えられることであるからです。

ひどい病気やけがなら普通の日に休むのも仕方がないのですが、それにしてもです。なんでこれだけ車が減っているのでしょう。(トラックは特に顕著ですが、一番混むはずの朝や夕も車が激減していますから)

これでは、次々に病気やけがをする人が出ているということになりますが、しかし、そういうことがありえるのでしょうか?

次々に多くの(それも大変な数のです)人たちが、例えば病気になっているなどということがです。

しかし、現実に車が減っているのは事実であるのだし、少なくとも私の周りではそういう(次々に病気になる)人たちが出ています。

そういうことがもしドンドン起きだしているのなら大変なことでしょう。

一体どうすればいいのでしょうか?(やはり宇宙人の侵略ではないでしょうか?それくらい常識外れのことがこの辺りでは起きているからです)

では、どうするのか?ということになるのですが、どうするのですか?このブログを見ている人たちなどです。(本当に名古屋は〔名古屋だけではないのかもしれませんが〕そのようなことが起きているのです。他の地域の皆さんならどうされますか?)

こういう普通では考えられないようなことが起きだしたのです。そうであるなら、もう神頼みしかないのではないですか?

それ以外で、このような不思議な(奇妙な、面妖な、奇異な、どういっていいか分かりません。こんなことこれまで起きたことがないからです)現象を止める手立てはないと思うからです。

もう私たちの常識を超えたような現象が現れていると思うんですが、他のやり方があると思う方はどうぞそれをおやりください。

科学でも経済でも何でも結構です。この辺りで起きていることが、それで解決できると思うならやってください。(この世の常識を超えたことが起きだしているのに、この世の常識の範囲内ではたして解決できますかね?)

しかし私は、そういう常識を超えていることが起きてきていると思っているから、これを止める手立てはもう神に頼る以外ないといっているのです。

だから「いつまでも神を無視していてよいのですか?」といっているのだし「本当の神の教えを説いている私には(これだけ災いが起きていても)奇跡が次々に現れています。この教えを勉強しなくてよいのですか?」といっているのです。

この教えを勉強し、実践して奇跡が現れている私には(幸い)災いは現れていないからです。

そうして、その奇跡が起きるのなら、災いが起きないだけではなく、そのような災いが起きている人たちにも奇跡が起きて救われていくと思うからです。

しかし、そのような私に現れている奇跡は、自分から率先してこの教えを学んで実践しないことには現れないのであり、災いが現れている人たちが救われたいのであれば、自分から積極的にこの教えを学び実践する以外ないのです。

申し訳ありませんが、この教えは自力であるからです。(自力本願です)

自分たちがそれでよいと思っていても、よくないことはたくさんありますし、いってはいけませんが、これからの時代は、これまでのような考えの(唯物無神論のような考えの)人たちではもう通用する時代ではないのです。

それを超える(常識を超える)現象が次々に現れる時代にすでになっているからです。

だから(常識内の考えの人たちばかりだから)これだけ災いが起きているのであり(もちろんそれはこの辺りだけではなく、日本全体を見てもです)これだけ災いが起きているということは、それだけ間違った考えでいる人が多いということなのです。

正しい考えているのであればよいことが起きてくるのです。

その正しい考えが進めば進むだけ(正しければ正しいだけ)よいこと(奇跡)は起きてきます。

そのよいこと(奇跡)が起きているのは(しかも次々にです)私だけなのです。

では、私の考えに従いませんか?それ以外で救われる道はないからです。

もう次々に恐ろしい現象が現れています。これまでの常識ではもう通用しないのだということを早く理解してください。

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11月 13 2018

愛の実践

今日の中日新聞に、例の中央省庁の障害者の雇用水増し問題で、厚生労働省は同省の職員の処分を見送るという方針を固めたと書いてありました。

厚労省以外でもこの問題の関係者の処分を公表しているところはなく、厚労省がいっている「道義的な責任はあるが、処分に値する違法行為はなかった」とする考えと、同じような考えのところばかりなのでしょう。

省庁はです。

この前ウナッシーさんのコメントにもありましたが、お上からしてこれです。

ずいぶん障害者の人たちは軽く見られているのではないでしょうか。(あの強制不妊手術の件もそうですが)

これが普通の人たち(健常者)なら、大問題になっているところでしょうが(差別だとかいってです。そのように大騒ぎする人たち〔左系の人たち〕が必ずいますから)障害者の人たちの場合、あまり騒がれません。

こういうのを本当の差別というのではないでしょうか。

先ほど厚労省がいっていることを書いたのですが、しかし、これからは、その道義的な責任が大きく問われる時代になるのです。

そのような道義的なことがしっかり出来ないと、次々に罰が当たる、そのような時代にです。

というか、すでになっているのです。

だから、現在の日本はこれだけ災いが集中して起きているのです。お上からして道義的なことが出来ていないからです。(官だけではなく政治家だってそうですもんね。道義的なことが出来ていない政治家はたくさんいます。というか、そういう問題が多すぎませんか?最近は特にです)

人の肉体しか見ていないから、このような差別が生まれるのであり、障害者であろうとなかろうと、同じ人間であることには変わりがないのですから、健常者と同じように扱うのは当然のことであり、また、そのような人たちが近くにいたのなら、人一倍、愛をかけてやるのがこれもまた神の子の人間としては当然のことなのです。(お互い様でしょう。自分もいつそうなるのかしれないからです)

そう口ではいっていても、実際には口だけの人が多いから、ウナッシーさんのコメントにもありましたが、障害者の人たちが不満に思うことがたくさん出てくるのであり、そういう差別的な行いを(普段から)しているから罰が当たる人も多いのです。

いま現在、日本中で悪いことがこれだけ起きているのも、普段から愛を実践する人が少ないから起きているのであって、自分たちの行いを反省して、もう少し愛を実践するなら、日本にこれだけ起きている悪いことも段々へってくるのです。

この辺りの人たちもそうです。

相変わらず朝からお怒りの人たちも多いのですが(ほんと朝からよくやります)悪いことを人のせいにして怒る前に、自分たちの行いはどうなのでしょう。

そのように怒っている人たちは愛の実践を何か行っているのですか?

少なくとも私にはしていませんよね。そういう人たちから私は嫌がらせしか受けていないからです。

しかし、私はそんな嫌がらせをしてくる人たちまで救っているのです。(このようなブログを通してです。そういう人たち全員がこのブログを読んでいますから)

そうして、祈りもしていますし(その祈りを嫌がる人もいますが、それは自分が悪いことをしているから嫌がるのです。いいことをしていたら私の祈りを嫌がるわけがありません。私は正しい祈りをしているだけだからです。ウナッシーさんがそのよい例です)説法もしています。

電車に乗っていても年寄りに席を譲ったり、障害者の人が乗ってくるなら、気を配ったりだってしています。

私は普段から、そのような愛の実践をしているのです。

そういう普段の行いが、自分自身に返って来ているのであり(だから、私には鳥や魚が寄ってくるような愛の現象が現れるのです。普段から愛を出しているからです)そのような愛の実践をしていない人たちが(愛の実践どころか、人に嫌がらせをしているのですから悪の実践しかしていないではないですか)よいことが起きるわけがないのです。

怒るようなことが起きるのは、自分が人に怒るようなことをしているから、そういうことが起きてくるのであり、それは人のせいでも何でもなくすべて自分のせいなのです。

自分たちの罪を人のせいにしている暇があるなら、自分の行いを反省し、行いを変えませんか?

その方がよほどよいことが起きてくるからです。

どちらにしても、もう自分の行いを変えない限り、にっちもさっちもいかないというような人たちが(悪いことしか起きないという人たちが)この辺りにはたくさんいるようです。

そういう人たちは自分の行いを変えることです。普段から、愛の実践を行うことです。

そうすれば、よいことは黙っていても起きてくるからです。

いつまでも怒っているだけ、差別しているだけ、では進歩はありません。(もう危ないのです。そういう進歩のない考えでいつまでもいてはです)

愛の実践を行ってはどうでしょう。

それが人だけではなく、自分自身をも救う道であるからです。

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