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3月 02 2021

逆恨みと愛の行為

もう大騒ぎですね。

昨日は凄かったですからね。大きな現場など特にです。私が歩いていると、どこの現場からも大きな音が響いて来ます。

昨日は五、六ヶ所ありましたかね。マンションやら何やらつくっている大きな現場がです。そこがどこももうずいぶんな怒りようなのです。

ガンガンガンガンガンとか、ゴンゴンゴンゴンゴンとか、どこの現場からも響いて来てにぎやかなことです。

「どうした。死んだ奴がまた出たのか」とか「癌が止まらないのか」とかきいていましたが、もう止まらないんでしょう。死人や病人がです。

これ、マジな話で書いていますからね。冗談でもなんでもありませんから。(そうですよね、昨日、騒いでいた現場の皆さん)

だからもう本気できいてはどうでしょう。私のいうことをです。本当に恐ろしいことがこの辺りはたくさん起きているようだからです。

もう理解してもらえないでしょうか。布施するしかないとです。

そのような愛の行為を行う以外ないのです。自分たちが救われる道はです。

「お前のせいでこうなった」ではないのです。逆恨みしていた自分たちが悪いのです。

だって、逆恨みでしょう。何で神理をきかされている側が怒って嫌がらせをしてくるのでしょう。そんなバカな行いないではないですか。だから、それだけ恐ろしい現象も起きてくるのです。

それだけ恩を仇で返す行いもないからです。

多くの人たちがそんな(大間違いな)ことをしているから、多くの人たちに天罰がくだるのです。(神理をきいたら感謝して布施しないといけないのですよ。それを怒りの嫌がらせです。なんでそんな正反対なことをしているのでしょう? それではひどい天罰もくだります)

では、その天罰は自分たちのせいであり、私のせいであるわけがありません。

だから逆恨みしているといっているのです。そういう私に対して怒って嫌がらせしてくる人たちに対する、それ以外の言葉を私は知らないからです。

皆さん方がどれだけそれを認めなくてもです。私の周りにはこれだけ多くの愛ある現象が現れているのです。口でいっているだけではないのです。そういう愛ある現象が実際に現れているのです。しかもたくさんのです。(それを動画にまで撮ったくらいですから)

では、これだけ私が愛の行為を行っているという証拠はないではないですか。愛の行為を行っているから、愛の行為が返って来ているからです。

私が人を病気にしているのなら、自分に病気が返って来ないといけません。しかし、私に病気は返って来ず、愛の行為だけが現れているのです。

では、私が愛の行為だけしか行っていないこれだけの証拠もありません。それを何で認めようとしないのでしょう。このブログを見ている多くの人たちはです。

私は正しい愛の行為だけを行っているから、愛の行為だけが自分に返って来ているのであり、それに対し、回りに災いばかりが起きている人たちは、それだけ自分たちが間違った行為をしているから、それだけ多くの災いが自分たちの回りに現れて来ているのです。

それだけのことなのです。(そのような原因結果、作用反作用の法則は絶対ですから)

それなのに、何でその自分たちの回りに起きている悪いことを私のせいにして怒っているのでしょう。だからそれは逆恨みだといっているのです。

その災いは私のせいではなく、自分たちが間違った行いをしているせいで起きていることであるからです。

それが事実であり正しいのです。だから私には奇跡が起き、私を逆恨みしている人たちには災いが起きているのです。

逆恨みしている人たちが間違っているからです。

だから逆恨みしている人たちが間違えて誤解しているだけなのであって、私は悪いことなど何もしていないのです。むしろ人以上によいことをしているのです。

だって私はです。このブログを通して神理を世に伝えているだけではなく、そのような逆恨みしている人たちから受ける嫌がらせを別に恨みも怒りもしません。表面上は怒った態度を取りますが、一時は怒っても、すぐにそのような恨みや怒りは心から抜いてしまいますし、それにわざとそういう態度を取っているということもあります。

怒ったような態度を取らないと、相手は調子に乗ってもっと嫌がらせをしてくるということがあるからです。相手の悪を助長させない意味でも怒ったような態度を取ることがあるからです。(例えば、子供相手の時などです。怒鳴りつけてやることもありますから。〔笑〕)

しかし、心から怒っているわけではありません。叱っているだけなのです。心に悪をためないのです。そのような行為も相手のために行っていることであるからです。

そういうところも違うのです。怒りや恨みを心にためていると、それもまた災いを呼ぶ要因となるからです。

だから行いも違うなら、心の在り方も違い、人に対し愛ある行為しか行わない。だから愛ある現象がこれだけ周りに現れてくるのです。(その私に対し嫌がらせをするなら、それをして来た人にその嫌がらせをした悪がストレートに返ります。そういうのを見て私がその嫌がらせをしてきた人を病気にしているなどという誤解が生まれるのでしょう。しかし、それは自分の悪がすぐに自分に返ったにすぎないのです)

そうでなければ、それだけの愛ある現象が自分の周りに現れてくることはないのです。

それだけ善い行いをしていなければ、それだけの善い現象は自分の周りに現れては来ないからです。

だから、このブログを見ている多くの人たちがどれだけ認めなくてもです。私は、そこらの人たちなどより何倍も何十倍も愛ある行為を行い、また正しい行いを実践しているということです。

だから、これだけの愛ある現象が私の周りには現れてくるのです。

そういうことを知らないのです。ただ、このブログを見ているだけで実践が出来ていない人たちはです。神理の実践を行わなければ、そのようなことは分からないからです。

だから、それが分っている人は(私がどれだけ愛の行為と正しい行いをしているのかがです)このブログを長く見ている人たちの中でも、ウナッシーさんと、あと二、三の人くらいではないかということです。

それ以外の人たちはただこのブログを面白がって見ているだけか、または逆恨みして見ているだけの人たちであるということです。

だから、布施の一つも出来ないのです。私に対するです。

何でお前程度の者に金など出さなければいけないのかと、そう思ってです。しかし、そのような人たちは、人を見る目がない最たる人たちであるということです。

私ほど愛ある行いと正しい行いをし続けている者もいないからです。それを知らないだけなのです。多くの人たちはです。しかし、愛と正しい行いをし続けているから、私の周りには常に愛ある奇跡が現れているのです。

申し訳ありませんが、それだけの愛ある現象が周りに現れてくるだけでも、どれだけ正しく愛ある行為を続けなければいけないか、自分で試してみるといいでしょう。

そんなに簡単に現れてくるものではないからです。そのような現象もです。大変な時間と実践が必要であるからです。私くらいの愛ある現象が自分の周りに現れてくるだけでもです。

まあ、神理を見ているだけで実践が伴(ともな)わない人たちにそれをいくらいっても仕方がない話ですが、しかし、もうそのような愛の行為を行わないと自分の命まで危なくなるという究極の状況がこちらには現れて来ました。

いつまでも逆恨みばかりしているのではなく(本当に逆恨みしていてはもう危ないのです)少しくらいの愛の行為を行いませんか。

その愛の行為だけが自分たちが救われる唯一の道であるからです。

(どこかの会社の連中など今日も怒ってちょこちょこ嫌がらせをして来ていますが、非常に危ないです。そのような行いはです。この会社の人たちほど私に対して逆恨みしている人たちもいないのですから、早くそれを反省し、感謝の布施くらいされることです。〔悪人ではなく〕善人の私にです。それ以外ないからです。その毎日起きている災いを止める方法はです)

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3月 01 2021

傲慢な心と謙虚な心 神理の有難さ

だから、怒ってばかりいても仕方ないでしょう、といっているのです。

前回のようなブログを書けば、まあ、この辺り、怒っている人ばかりです。怒って天罰が止まればいいのですが、よけい起きて来ますからね。

怒れば怒るだけ天罰はくだります。だから神理を散々知ってしまった以上です。(ずいぶん考え方も変わったでしょうし。神理によってです)感謝の布施くらいすればいいのです。

少しの報恩の行為で天罰など起きなくなるからです。

しかし、それを頑なに拒むなら、こういうことになるのです。すさまじいまでの天罰がくだるというこのようなことにです。

それをどれだけ私のせいにしていたところで災いを食らうのは自分たちなのです。(私ではありません)

では、もう少し真剣に考えてはどうでしょう。自分たちの行いをです。その行いを少し変えればそれですむ話であるからです。

だって少しでしょう。私に対し、ただ怒っているのではなく感謝の布施をすれば、そうすれば少なくともこの辺りで起きている災いは止まるのです。それをしないからいつまでも起きてくるのです。その災いはです。

よく考えてみればそれだけの話なんですから少し行いを変えるだけの話でしょう。(どこかの会社の皆さんもお分かりですか? 今日もずいぶんお怒りのようですが、そのような態度を少し変えればそれで止まるのです。その毎日起きている災いはです)

それがなぜ出来ないのか? それをなぜいつまでも私のせいにし続けているのか?

それは自分たちが傲慢であるからです。だから自分たちの考えを変えることが出来ない。どれだけ災いが自分たちに起きてもです。それでも自分たちの考えを変えることが出来ない。

傲慢な人たちばかりであるからです。だから自分の考えを変えることが出来ないのです。

その傲慢な心が自分の考えを変えることじゃましているからです。

園頭先生が正法誌に次のようなことを書いていられます。

<昭和四十八年五月、東京のあるところで「人間・釈迦」の著者高橋信次先生の下で、私は自分の過去世を思い出していた。その時、初対面のK氏が、私の前にパッと両手を差し出し、五体を伸べて挨拶したのが、五体投地(ごたいとうち)の礼であった。突然、目の前に身体を投げ出されたのでびっくりしたが、それは奴隷階級の人たちが、目上の人に対する絶対服従の心の表現であったのである。私たちがたとえばお釈迦さまの前に出たとすれば、どんな礼の仕方をするかといえば、静かにひれ伏すだけということになる。自分より少し目上の人に対する場合、初対面の場合は、その方の周囲を三べん回って、左ひざを立て、右ひざは地について合掌するのである。それがインドの昔の礼の仕方であった。それが今は五体投地が正式の礼になってきたのは、お釈迦さまの法に絶対に帰依随順(ずいじゅん・従って逆らわないこと)する真心をあらわすものとしてされているのである>

五体投地の礼は比叡山でも行われていますが、インドの人たちは法の前ではこれほどの(五体投地の礼をするほどの)態度で相対しているそうです。

つまりそれほど法というものを大事にされているのです。インドの人たちなどです。

そうであるなら日本の人たちは、そのお釈迦の本当の法に(もちろんこの正法神理のことですが)なんと日本で巡り合っているのですから、そこまでの態度を取れとはいいませんが、せめてそれくらいの心で(五体投地の礼をするくらいの)この正法神理に相対されてはどうでしょう。

そうすればいま災いが起きているどれだけ多くの人たちが救われるか知れないからです。

だから要はその心なのです。

そんなお前のいうことなどきけるか、というそのような傲慢な心が災いを呼んでいるのであり、そうではなく、そんな有難い教えを教えていただきありがとうございます、なのです。

そういう謙虚な心がないといけないのです。そのような謙虚な心が自分を救うからです。

しかし、今の人たちは、傲慢さはあっても(人一倍です。〔苦笑〕)謙虚さはまるでありません。そのような心が多くの災いを呼んでいるのです。

傲慢な心では悪いことしか現れては来ないからです。

それが証拠に、もはやこの辺りで起きているような災いだけではなく日本全体を見るなら大変な数の災いが起きています。(最近は震度3以上の地震が多いですし全然火が消えない山火事などもそうです。ここまで火が消えなくてはもはや災い以外の何ものでもありません)

なんでこれだけ多くの災いが起きているのですか? しかも次から次へとです。

それはいま現在の日本に傲慢な人が多いからです。だからこれだけ多くの災いも現れるのです。

何度も書きますが、傲慢な心のままでは悪いことしか起きて来ないからです。

だから、これほどの現象が現れる神理を知っていても鼻にもかけない、傲慢な人が多いからです。

普通であるなら、これほどの現象が現れて来たのなら、恐れ入って(自分たちにはまるで起きないのですから、そんな現象などです)こちらの話を真剣にきけばいいのに、絶対にきこうとはしない。

傲慢だから人の話に素直に耳を傾けるなどということをしないのです。多くの人がです。

だから災いも全然止まらない。止まらないどころかドンドン増えていく。傲慢なままで、その心を変えない人が多いからです。

だから何でこんなことが起きてくるのか訳が分からないため(傲慢で真剣にこちらの話をきかないから)全部それを人のせいにして、その考えを変えようとしない。

それで益々、災いが起きてくる、そのような考えは間違っているからです。

しかし、そのような自分が間違った考えでいることも分からない。すべてそれは傲慢な心が原因であるからです。

だから持たないといけないのです。謙虚な心をです。インドの人たちの何分の一でもいいからです。法に(神理に)対してはです。

別に私に五体投地の礼までして、そうしてこの神理をきけとはいいませんが、そのくらいの謙虚な心は持たないといけないのです。

これほどの現象が起きているからです。これほどの現象が現れる有難い教えは他に存在しないからです。

傲慢な心のままでは何も入って来ないし、何も心に入れなくては何も変わらないのです。だから起きてくることも変わらない。

心が傲慢なまま、まったく変わらないからです。

その傲慢な心がすべての原因なのです。災いが現れてくるです。

だから少しくらい謙虚になってこの正法神理に耳を傾けてみませんかといっているのです。そうれば救われる道もついてくるからです。

園頭先生がいわれていますように、インドの人たちは(お釈迦さまの)法の前には五体投地の礼までして従うことを誓うのです。

いま現在の日本には、そのお釈迦様の本当の教えが現れています。(だからすさまじい現象が現れてくる)

そうであるなら少しは謙虚な心で、そのお釈迦さまの御教えであるこの正法神理に耳を傾けてみてはどうでしょう。そうすれば必ず救われるからです。

そうしないともったいないでしょう。これほどの教えなど早々現れるものではないのですから。この地上にもです。

しかし、そのような有難さも分からない。傲慢なままではです。傲慢ということは自分の目や耳を自分でふさいでいることであり、それではどれだけ有難い教えが近くにあっても分からないのです。

自分の目と耳を自分でふさいでいてはです。それだけ傲慢な心は自分に害をなすのです。

だから、謙虚さが大事なのです。謙虚な心は逆に自分の目と耳を大きく開かせることになるからです。

このような有難い教えが世に出ている時は、謙虚でなければ、その教えをきくことは出来ません。

いつまでも傲慢な心のままでは絶対に災いは止まりません。謙虚な心になることです。謙虚さこそ自分自身が本当に救われていく道であるからです。

これほど有難い教えに巡り合うことは稀なのです。

その神理の有難さをもう少し理解されませんか。謙虚な心になってです。

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2月 28 2021

本当の神の教えと偽の教えの違い すでに当たっている天罰

昨日も夜まで怒っていましたね。どこかの会社などです。

もう天罰が止まらないんでしょう。だからいっているのです。詫びを入れて感謝して布施しろとです。

それ以外では止まらないからです。その起きている天罰はです。

それにしても凄いですよね。だってずっと止まらないんですよ。起きる現象が(天罰が)です。

凄いと思いませんか。どこかの会社だけではなく、そんな現象が起きている会社や現場がこの辺りにはたくさんあるからです。

ということは、そんな現象が現れている人がこの辺りにはたくさんいるということになりますが、一体どこから出てくるんでしょうね。これほどの(現象を現す)エネルギーがです。(それだけのエネルギーがかからなければそんなことは起きませんから)

よく考えてみれば不思議な話です。

まあ、それが神の力なんですが、ところで昨日など私は、前はよく通っていたんですが最近は全然通らなくなった道を久しぶりに歩いていたのです。

その道にある、ある会社は創価学会の人がやっているようで(例の政党のポスターが貼ってありますので)その会社の横を歩いていると前はよくシューシュー音を立てられ嫌がらせをされていたのです。

しかし、ある時からそのような嫌がらせをしなくなりました。私も嫌がらせをしてくるたびに「祈るからな」といってよく祈っていたのできっと何か起きたのでしょう。

そうして昨日、久しぶりにその会社の横を通る時に「オッちゃん生きてるか」などといいながら歩いていったんですが、そうしたらまたガーガー音を立てて来ました。

それで「祈るからな」と声をかけたんですが、そうしたらパタッと音がしなくなりました。

「なんだ題目を上げても天罰は止まらないか」「もうどちらが正しい教えをしているかは明らかなんだから、そっちもこの教えに帰依しろよ。もう真剣に考えた方がいいぜ。間違った信仰などいくらしたって意味がないからな」などといいながら歩いていきました。

もう自分も体験しているんですから、どちらが正しい教えなのかは分かりそうなものですが、それでもやめられないんでしょうか? 間違った教えをです。

ずいぶん情けない話です。そういう人たちは私と直接対決して、そうして負けているんですから(祈りの勝負で)そうであるなら、私のいうことをきくべきでしょう。

いつまでもくだらない嫌がらせなどしていないでです。

そういう人があちこちにいます。(私は嫌がらせをしてくる宗教団体の信者たちによくいっていましたから。祈るからなと、そうして、そちらは何人で祈ってもかまわないからそっちも祈れと。しかし、祈っても、そっちに何か起きてくるようなら頭を下げてこちらの教えに従えと、です)

そのような宗教団体の信者たちは、早く、自分たちの負けを認めて帰依してほしいものです。この本当の神の教えである正法神理にです。

結果はもう明らかであるからです。私は、そういう宗教団体の信者たちをどれだけ祈ったか知れませんが、しかし、私には一切何も起きずに、そのような多くの宗教団体の信者たちにはいろいろ(天罰が)起きているようであるからです。

では、一方的な勝利なのではないでしょうか。こちらのです。そうであるならきいた方がいいのではないですか。私のいうことをです。

こちらが本当の神の教えを実践しているから、これだけ一方的な結果が現れているからです。

そのような結果が物語っているのです。この正法神理こそ正しい本当の神の教えであるということをです。

これが本当の神の教えと偽の教えの違いなのです。

本当の神の教えは祈れば必ず何か現象が現れてくるのです。しかし、偽の教えは何も起きません。どれだけ多くの人が、どれだけ祈ってもです。

間違った教えを信仰していては、どれだけそのような人たちが祈っても神は何も応えてはくれないからです。神は正しい教えでなければ応えてはくれないのです。

だからそれだけ結果が違ってくるわけです。(悪魔が憑いている場合は起きて来ますけどね。祈るとおかしな現象がです。それも起きたり起きなかったりいろいろです。悪魔は気まぐれだからです)

だからそれは他の人ばかりでなく、その信仰をしている自分自身にもいえることなのです。どれだけ正しい信仰をしていても、その人が間違ったことをするなら、自分自身にも天罰は現れてくるからです。

最近はそういうこともなかったんですが(ということは、最近はあまり悪いことをしていないということです。私はです。〔笑〕)しかし昨日、久しぶりにそれらしいことが起きましたので、そのことを書いておきます。

昨日私は、その辺りを回っているついでに洗濯にもいっていたんですが、その洗濯しているコインランドリーでのことです。

私は洗濯をしたコインランドリーで、洗濯し終わると、その場で洗濯物をたたんで、そうして持って帰るのですが、その洗濯物をたたんでいた時のことです。

昨日の洗濯物は何か分かりませんが、小さなごみがよくついていたのです。

それで今日は小さなゴミが多いなとか思いながらたたんでいたんですが、その小さなごみを最初はごみ入れに捨てていたんですが、そのうちにあまりにごみがたくさんついていたため、いちいちごみ入れに捨てるのがめんどくさくなり、小さなごみだからいいやと思って、そのごみを自分の回りに捨て出したのです。

そうしてしばらくしたらです。洗濯物をかごから取ろうとした瞬間、バチッと少し強めの静電気が起きたのです。

「いて」と思ったんですが、その時に気づきました。やはり小さなごみとはいえ、回りに捨てたのはまずかったなとです。

こういうことが私はすぐに起こりますからね。これだからやれないのです。悪いことを私はです。(苦笑)

神理を実践すればするだけ悪いことが出来なくなるのです。悪いことをすれば、すぐに天罰が現れてくるからです。

本当の神の教えと偽の教えの違いはこういうところにも現れてくるのです。

つまり、本当の神の教えを信仰するなら、常に正しく導いてもらえるということです。このように自分の周りにも起きてくる現象によってです。

だから神理を説いている私にでも起きるのです。天罰はです。そうして私を世話している母親にでもです。間違ったことをするならすぐに天罰がくだるのです。(私の祈りをじゃまなどすれば歯が痛くなったり、歯ぐきからの血が止まらなくなったり)

では、このブログを見ている人たちに起きないはずがないでしょう。嫌がらせをしてきたり、私のいうことを一切無視して長年布施もせずにこのブログを見続けている人たちに天罰がです。(感謝もせずこのブログを見続けている子供などにもです)

だからもう起きているのです。そういう人たちに天罰はです。

それに気づいていないだけなのです。このブログを見ている多くの人たちがです。なぜなら、いきなりひどい天罰など起きないからです。

天罰は最初は小さな天罰が何度も起き、それでも分からなければもっと大きな天罰が起き、それでも分からなければ、それこそ命にかかわるような天罰も起きてくるのです。

つまり、段階を踏んで出てくるということです。天罰はです。うんもすんもなくいきなり大きな天罰がくだるなら反省する間もないからです。それでは天罰の意味がありません。(それではただの罰でしかないからです)

だから天罰は段々大きくなってくるということです。その天罰に気づいて自分の行いを直さなければ(正さなければ)です。

だからもう周りに、それと分からないような小さな天罰が何度も起きているのです。そのような私のブログを布施もせずに長年見続けているような人たちにはです。

それに気づいていないだけなのです。このブログを見ている多くの人たちはです。

そうして、それでも気づかないと、もっとひどい天罰が起こり、それでも気づかない人には、例えば、癌になったり、コロッと逝ったりするわけです。(ただ、嫌がらせをしてくる人にはこの限りではありませんが。いきなりひどい現象が現れてくる時もあります。その人の心次第です)

だから気づかない人が多いのです。このブログを見ている人たちでもです。たまたまそんなことが起きたとしか思わないからです。

例えば、先ほどの静電気の話でも気づきますか? もし、そんなことが自分に起きてもです。

静電気など冬になれば、何かさわった時に起きるのは普通であり特別なことではありません。だから、自分が何か悪いことをしていて(その自覚が自分にあるかどうかも分からないし)そんなことが起きても、それを天罰だと認識出来る人の方が少ないのです。

しかし、私がその洗濯していた時の静電気を天罰だと認識せずに、その洗濯物をたたみ終わるまで、そのような行為を続けていたとします。(回りに小さなごみを捨て続けていたとします)

するとその後、もっとひどいことが起きてくるのです。天罰を天罰と認識していないからです。

それと分かって、その悪いことを反省しない限り、その天罰は現れ続けるのです。

それと同じことがこのブログを見ている人たちにも起き続けているということです。このブログを見ている多くの人が、その自覚がないだけでです。

ただ、そのような天罰は特別この教えを信仰していなくても起きては来ますが、本当の神の教えを信仰している方が、より早くそのような現象は現れてくるということです。

だから、本当の神の教えを信仰した方がいいのです。その方が早く悟れるからです。自分の間違いなどすぐに気づいて直すことが出来るからです。

こういうメリットが本当の神の教えを信仰するならありますが(人によってはそれをデメリットとしか感じない人もいるのでしょうが。〔苦笑〕)だから、このブログを見ている人たちで、もうそれと(天罰がくだっていると)認識出来るようなことがすでに起きている人は感謝の布施をされた方がいいのです。

そうしないと、もっとひどい天罰が起きてくるからです。必ずです。

そのような態度が間違っているため、そのような天罰が起きているからです。その態度を改めない限り、天罰は必ずくだるのです。

だから、様々な天罰がすでにくだっているということです。このブログを見ていて、私のいうことを一切無視している人たちにはです。

だからいっているのです。くどいくらいです。感謝して布施した方がいいとです。このブログを長年見続けて一切布施しない人たちには必ずどこかで天罰がくだるからです。

それをいつまでも無視しているのならひどいです。(こちらなど死人まで出ているくらいですから)

このブログを見ている多くの人たちは早くその天罰に気づかないと、後で死ぬほど後悔します。

気持ちだけでもいいので感謝の布施をされませんか。

せっかく本当の神の教えを知ったのです。少しくらい実践しなければ、神理を知った意味もないからです。

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2月 27 2021

止まらない不幸 布施の効用

栃木県足利市の山火事は、火を消しても消してもあちこちに飛び火して、そこからまた燃えだしてキリがないようですね。

やはり雨が降らないと消えないようです。この山火事はです。

昨日は雨は降らなかったようですね。近くくらいまでは降っていたようですが、残念ながら足利市まで雨は降らなかったようです。

もう少しだったんですがやはりきかれませんでしたか、私の祈りはです。

これくらいの祈りなら心ある人たちが数人で祈ればすぐにきかれるのですが、この状況ではそうなるでしょうね。

もう少し雨雲が上に上がればそこに雨は降ったのに、という惜しい状況にです。

私に布施して一緒に祈ってくれる人が何人も出てくるならこれくらいの祈りは(どこどこに雨を降らせることくらいです)すぐにきかれます。

早く目覚める人が出て来てくれることを願ってやみません。そうしないと不幸は止まらないからです。

だからこちらも不幸が止まらないようです。そのように目覚める人が全然出て来ないからです。

どこかの会社などももう凄いみたいですね。

今日も朝からバタバタ騒ぎっぱなしのようですし、昨日でも夜遅くまで騒いでいたし、コロッと逝く人まで出たようです。昨夜はこちら側の電気をつけっぱなしで帰ったようですからね。そういうことをする時は出ているのです。コロッと逝く人がです。

とにかくこの会社など朝から晩まで天罰が止まらないのです。

にもかかわらず、いつまでも平気で怒っています。怖くはないのでしょうか? 恐ろしい天罰が次々にくだっているのにです。

それなのに怒っている場合なんでしょうか。そんなことをしている間にも人が次々に病気になっているのにです。

そのようなところはここだけではないでしょう。昨日も烈火のごとく怒っていたところがありましたが、その起きている現象は怒るようことなんでしょうか?

怒るのではなく恐れないといけないのではないですか。

神の業を畏れもせず怒っているようでは、もうどれだけそのような神の業が現れてくるか知れないからです。(どれだけ傲慢なのかということでです)

現にその通りのことが起きているのです。災いが止まらないのです。そのようなところはです。

どれだけ恐ろしいことが起きたら分かるのですか。自分たちのその間違った態度がです。そういう態度だからドンドン起きてくるのです。

災いがです。

二、三日前にウナッシーさんからまた布施をいただきましたが、それをすればそのように起きている(激しくです)災いも止まりますが(少なくともずいぶん減ると思いますが)それでも嫌なんですか。

布施するくらいのことがです。

病気で死ぬよりよほどいいと思いますが、別に病気になろうが死のうがかまわないと、お前に頭を下げて布施するよりはよほどそっちの方がいいと本気でそう思っているんでしょうか? この辺りの多くの人たちはです。

本気ですか? 本当に出ているんですよ。この辺りは病気になって死ぬ人がです。しかもたくさんです。あまりに神理に逆らう人が多いからです。

本当に危ないのです。いつまでも神理に逆らっていてはです。というより、そのような心がいけない。

いつまでも責任転嫁しているのではなく、いま起きている恐ろしい現象の本当の原因を真剣に考えてはどうでしょう。同じことを繰り返しているだけでは同じことしか起きて来ないからです。

もうドン引きしているところも多いのですが、そういうところはどうなんでしょう。布施くらいしたらです。(そういう別な態度も取ったらどうですかといっているのです。態度を変えないと起きてくることは変わらないからです)

そうすれば、そこに起きている災いは止まるからです。心からの布施をするならです。

しかし、何もせずにいてただドン引きしているだけでは絶対にまた出ます。その恐ろしい現象はです。

しばらく静かだったが、また怒り出しているところも最近はあちこちにあるからです。だからドン引きして静かにしていても同じなのです。やたら怒っているところよりはマシというだけであって、それでは止まらないからです。

災いはです。

だからドン引きしていたところでいつまた誰が病気をするか分からないのですから、そうであるならした方がいいでしょう、といっているのです。布施くらいです。

その布施をするならまず大丈夫であるからです。

心からの布施が出来るなら、自分の心もずいぶん安らぎ、心が安らぐなら安心も得られます。

してはどうですか。感謝の布施くらいです。そうすれば本当に救われるからです。

しかし、今のまま態度を変えないのであれば自分もいつ病気になるか知れず不安でならないのです。そんな不安一杯の心が楽しいのですか?

金を出すのではなく心の安らぎを得るということなのです。愛ある布施をするということはです。

そこを間違えてはならないのです。多くの人は表面上のことだけしか見ませんが(金を出すとか、頭を下げるとかです)感謝の布施をするということは心の安らぎを得るということであり、その心が安らぐことで多くの災難から身を守ることが出来るのです。

心が安らぐことで神の光が、その安らいだ心から現れて来て(心は神と直結していますから)その光が自分を守るからです。

だから、まずです。まずその心の安らぎを得ないことには危なくて仕方ないのです。だから危ないこともこれだけ起きる。心に安らぎがない人ばかりであるからです。特にこの辺りはです。

そういう意味でも布施は大事なのです。布施のような愛ある行いを人に対してするということは、これだけ心が安らぐ行いもないからです。

それは自分で試してみれば分かるはずです。自分が人に対し怒っている時の心の中はどうでしょう。それに対し、自分が愛の行為を人に対し行った時の心の中はどうでしょうか。

一体どちらが心が安らぎますか? 試せば分かるはずです。どちらの心が安らぐかはです。

まあ、怒っていて心が安らぐ人などいないのですから、感謝の布施をする方が自分の心が安らぐのは誰だって分かるはずです。

その心の安らぎが強ければ強いだけ神の光は自分の回りに現れて来ます。

だから布施をするなら(心の安らぎを得るなら)安心だといっているのです。

それだけ神の心に叶う行いもないからです。そうであるなら、それだけ神から守られる人もいないはずであるからです。

だから、心からの布施が出来る人にはちゃんと奇跡も起きるということです。ウナッシーさんがよい例だからです。

だから、そういう心になれない人は仕方ありませんが(私に布施などしようものなら腹が立って仕方ないとです)もう出来る人はです。(心からの布施がです)

してください。それ以外ないからです。これだけ現れて来た災いから逃れる術はです。

しかし、もうこれだけ災いが現れて来ては、出来るとか出来ないとかいっている場合でもないでしょう。

出来ないなら出来るよう、自分の心を一歩前に進めることです。一歩でダメなら二歩、三歩と進めることです。同じところにいてはもう危ないだけであるからです。

いつまで同じところにいるのですか? 同じところにいては同じことしか起きては来ないのです。

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2月 26 2021

すべての原因

栃木県の足利市の山火事は鎮火のめどが立たないらしいですね。

今日は全国的に雨になりそうですので山火事鎮火の恵みの雨になるかと思いきや、なんと西日本に雨を降らせている雨雲は、東に移動するに従い南に下がって、関東の辺りを通過する時には関東の南の海上を通過していくだろうという予報が出ています。

つまり、西日本で雨を降らせた雨雲は東日本に移動していく頃には南の海の辺りにまで下がってしまい、関東には雨が降らないと天気予報ではいっているのですが、これだけ運の悪い話もありませんよね。

普通なら西日本に雨が降るなら、その雨雲はそのまま東に移動し関東にも同じように雨を降らせるはずであるからです。

しかし、今回のような関東の辺りでひどい山火事が発生し雨がほしい時に限って、その雨を降らせる雨雲が南に下がって関東には雨が降らないというのですから。

本当に運が悪いのですが、何でこんな運が悪いことが起きているのかはもちろんお分かりでしょう。このブログを見ている人たちであるならばです。

しかし、それではあまりに気の毒ですので(何も知らない足利市の人たちがです)昨夜は祈っておきましたが(あの辺りに雨が降るようにです)果たしてきかれますかね。私の祈りがです。

これだけ神理を無視し逆らっている人たちが多くてはです。

今日も朝からどこかの会社など大変お怒りのようです。(よく電話もかかって来ているし…それでまた怒っているし)

昨日も夜まで大変そうでしたが、そのようにやたら怒ったりドン引きしたりしている人たちばかりです。こちらはです。

そのような怒ったりドン引きしたりしていることは、私に詫びを入れ感謝して布施するなら止まります。(逆をいうなら、それをしない限り絶対に、絶対に、絶対に止まりません)

早く感謝して布施されることです。そのような災いを止めたいのであればです。

しかし、昨日でも嫌がらせをしてくる人や車(バスやトラック)が多かったですね。そういう人たちは、すでに今頃天罰がくだっている人も多いと思います。

ほんとよくやるわと思います。現代人と書いてバカと読むのでしょうか? 何で罰が当たるのが分かっていて、そんな罰当たりなことし続けているのでしょう。

意味が分かりませんが、そのような災いの(天罰の)すべての原因は、その自分自身の行いにあるのです。

そのような行いさえ変えれば災いは止まり、よいこと(愛あること)が起きて来ます。

くだらない意地をいつまではっているのでしょう。神理を見ていながら感謝もせず嫌がらせをしている自分たち(のそのような行い)が悪いのです。

早く、そのことを反省し感謝して布施されることです。そうすれば、その災いは止まるからです。しかし、そのような行いを直さない限り残念ではありますが、絶対にその災いは止まりません。

実際、その通りのことが起きています。行いなのです。すべて行いの違いが起きてくることの違いなのです。

昨日でも私は歩いていると、あちこちから様々な鳥たちが出て来て、私の周りを飛び回りピィピィ鳴きまくっていました。(少々うるさいんですが、かわいいものです)

昨日は天気もよく暖かかったため鳥たちも嬉しかったのか、たくさん私の周りを飛び回っていました。暖かいと鳥たちも元気がよくなるようです。

このような愛ある現象が私の周りにはしょっちゅう起きていますが、それもまた自分の行いが原因なのです。

これだけ愛ある神理を毎日ブログで発信していれば、その発信した愛は全部自分に返ってきます。

それが自分の周りに愛ある現象となって現れているのです。

自分の行いを変えさえすれば、自分の周りに起きていることは変わります。

愛ある行いをされませんか。それが自分が幸せになれる一番の方法であるからです。

(どこまで不幸が続けば、自分たちの行いの間違いに気づくのですか。もう分かり切っているのです。自分たちが悪いのはです。だから自分たちに悪いことが起きる、自分たちの行いが悪いからです。にもかかわらず反省出来ない。ほんと哀れというほかありません。しかし、そのような間違った行いを正さない限り災いは続きます。早く直してください。その分かり切った自分の行いの間違いをです)

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