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4月 04 2017

浮気の対処の仕方

昨日、出先から帰ってきた時のことです。

家についてすぐ、急に風が強くなったかと思ったら雨が降りだしました。

その後、結構降ったのですが(昨日は各地で、そのような通り雨とか雷が多かったようですね)心がけがいいせいでしょうか、幸い私は濡れずにすみました。(ほんと、ずいぶんタイミングがよかったですよね。家についてすぐに雨が降りだしましたから。ねぇ、ご近所の皆さん。〔苦笑〕)

正しい信仰をしていると(普段から正しい生活をしていると)このような運のいいことも起きます。(運は天が支配していますから)

少しは私を見習ってはどうでしょう。怒ってばかりいないでです。(私のせいばかりにしていないでです)

マァ、そういう機嫌の悪い人たちはほっときまして、最近は有名人の不倫がずいぶん話題になっています。(ゲス不倫とかいわれてです。〔苦笑〕)

そういう不倫をされた時はどういう態度を取ればいいのか、法の視点から少し書いてみましょう。

いま話題になっている大物芸能人夫婦を例に書きますが、この夫婦はおしどり夫婦といわれ、ずいぶん仲がいいことで知られていて、そうしてお互いが病気になった時も(お二人とも癌か何かになったんですよね)互いに協力し合ってその病気を乗り越え、そうして現在も(特に旦那さんの方など)芸能界で大活躍されている、皆が憧れる夫婦の鏡のようなご夫婦であったそうですが、その旦那さんである夫の不倫が最近発覚しました。(週刊誌か新聞かに書かれたようですが)

マァ、その不倫関係がどこまで正確に伝わっているのかは別にして(そういうことは当事者以外、分からないことですから)マスコミでいわれていることが仮に正しいとしますと、この夫は奥さんが癌で苦しんでいる時に、外で女をつくって不倫していたそうですね。

だからなんてひどいことをしているのだと、普通であるなら非難囂々(ごうごう)世間からボロカスにいわれてもおかしくはないのですが、この夫が大物芸能人で(ハリウッド映画にも出演されているみたいで)それでマスコミも、何かいいたくてもあまり批判も出来ないという状況のようです。(苦笑)

だから私がかわりにボロカスいってあげようというのです。マスコミが腰を引いて何もいおうとしないからです。(私は芸能界も何も関係ないですから。〔苦笑〕)

しかし、勘違いしないでください。私がボロカスいうのは法の上に立っていうのですから、世間の人たちとは当然意見が違います。

それはご了承ください。

まず、このような夫の浮気が発覚すると世間は夫が悪いと一番にいいます。

しかし、法は違うのです。

法では、このような夫の浮気が発覚した場合、それは妻が悪いと一番にいうのです。

夫が浮気をしたその原因は「妻の愛が足りなかった」その一言に尽きるからです。

この大物芸能人夫婦はずいぶん仲のよいことで知られていたようですが、本当に仲がよかったんですか?

特に夫の方に不平不満はなかったのでしょうか?それもずいぶん大きなです。

そうでなければこういう不倫の仕方はしないからです。

マスコミのいうことを鵜呑みにするならば、この夫は奥さんが病気で苦しんでいる時に(しかも癌ですから)他に女をつくって浮気をしていたのです。

いくら何でもこのような浮気の仕方は尋常ではありません。奥さんが死ぬか生きるかという時に他に女をつくって遊んでいたというのですから。

ということは(これほど妻を裏切る行為もないのですから)何かよほど普段から妻が気に食わないことをしていないと、夫はこういう当てつけのような浮気はしません。(この夫がよほど冷たい人というのならまた話は別でしょうが、そんなことはないんでしょう)

では、妻の日頃の行いに問題があったのではないですか。

しかも非常に大きなです。

残念ではありますが、こういうことが起きたことがその何よりの証拠なのです。

いま騒がれている、マスコミのいうことを鵜呑みにするならばこういう推測が出来るということですが、この大物芸能人夫婦はともかくです。

このような夫が浮気をしたという時は、普段から妻が夫に対し、しっかり愛を出していたのかということをまず反省すべきなのです。

もし、妻の愛が夫にあふれているのなら夫は絶対に浮気などするはずがないからです。

だから浮気をされるような妻は、普段夫に対しどういう態度を取っていたのか、それを反省すべきなのです。

世間でいうように浮気した夫が悪いというのではなくです。それでは何の心の成長もないからです。

自分の罪を夫に擦り付けているだけだからです。

家事育児はしっかりやれていましたか?そうして性の問題はどうでしょう。

男は外で仕事をすればするほど性のエネルギーが足りなくなります。(だから疲れている時ほどしたくなるのです)そういう時に好きにさせるかさせないかで、男の働きは全然違って来るのです。

そういうことまでしっかりやって、そうして男を送り出すなら男は浮気などしないし、わざわざ外に女などつくらいないのです。

外に女をつくるのもそれはそれで大変だからです。(大変ですよね。外で女などつくれば手間も金もかかって。〔笑〕)

しかし、家庭でそのようなエネルギー補給が出来ないとなると、では、男は外でエネルギー補給をするしかありません。

だから外で女をつくるのです。性のエネルギーは男にとって大変大事なエネルギーであるからです。(この大事さが女性は今一わかっていないようです)

よく仕事が出来る人が、よく外で女をつくるのもこのような理由からです。男は大きな仕事をすればするほどエネルギーの補給が必要であるからです。

だからよく仕事が出来る人に限って外に女をつくるのです。エネルギーの補給が妻だけでは足らないからです。

マァ、性の理由だけではありませんが、そのような普段からの妻の在り方一つで、夫の浮気はいくらでも防ぐことが出来るということです。(だから例えば、手がいくらかかるからと子供を一として夫を後回しにするとか、仕事を優先して夫のいうことをきかないとかです。そういうことがいけないのです。夫婦になったのなら常に夫を一としないといけないのです。その順序を守らないから夫は浮気するのです)

だから、夫が浮気をした場合は妻が反省しなければいけないと私はいっているのですが、これが逆の場合はこの限りではありません。

なぜなら、男(夫)は女(妻)がいくらでも変えることが出来ますが、女は男ではなかなか変えることが出来ないからです。

それは業の違いということはいつも書いていますので、ここではこれ以上書きませんが、では、妻が浮気をした場合、夫はどうすればいいのでしょうか?

その場合はなかなか難しいのです。最初から、そのような貞操観念がない妻などもらわなければいいのですが(苦笑)しかし、もらってしまったものはもうどうしようもありません。

そのような時は愛を持って許して神に祈ることです。

そうすれば、その妻に様々な現象が現れ神がそのような妻を導いてくださるからです。(そういう妻は夫のいうことなどきかないでしょうから。〔苦笑〕しかし、神のいうことをきかないのであれば、そのような不貞な妻は最悪死ぬことになります。それほどの罪をその妻は犯しているからです)

キリストは次のようにいわれています。

「立ちて祈る時、人を恨むことあれば許せ、天にいます汝らの父は汝らの過ちを許したまわんためなり。

汝ら自ら心せよ。もし、汝の兄弟が罪を犯せば、これを戒めよ。もし悔い改めなばこれを許せ。

もし一日に七度汝に罪を犯し、七度『悔い改める』といいて、汝に帰らばこれを許せ」

キリストは、いつまでも人を恨んでいてはいけないといわれているのです。

なぜなら神はすでに私たちの罪を許していられるからです。(私たちは神から観たらどれだけ罪を犯しているのか分かりません。しかし、神はそのような罪をすべて許していられるのです。だから神がすでに許している罪を私たちがいつまでも根に持っていてはいけません。私たちが恨んでいる人の罪など神から観ればごく小さな罪でしかないからです)

だから、一度や二度(キリストなど一日に七度裏切っても七度悔い改めるというのなら、その罪を許せといわれているくらいですから)浮気をしたからと、それですぐに離婚とかいうのではなく、また、その浮気をいつまでもいうのではなく、自分も悪いところがあったと反省して、そこからまた夫婦調和した生活を続けないといけないということです。

それが神の心であるからです。

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4月 02 2017

本当の信仰とは

ですから、仏壇にしろ(その仏壇にろうそくを灯して線香をあげることにしろ)お経をあげることにしろ、寺に行って仏像を拝むことにしろです。

そのようなことに宗教的な意義はなかったのであり、だから、そのようなことをどれだけやっても、それで奇跡が起きるわけでもなければ悟れるわけでもないのです。

そのような行いは信仰でもなんでもなかったからです。

だいたい、仏壇に毎日線香をあげて祈る人はたくさんいます。それにお寺や神社が好きで、そのようなところをよく回ってお参りする人もたくさんいます。(毎日のように近くのお寺など行って、賽銭を上げてお参りする爺ちゃん婆ちゃんもいますから)

しかし、もしそれが正しい信仰であるなら、そのようなことをしている人たちの中から、奇跡が起きる人がたくさん出て来ないといけませんが、そういう習慣のある人に次々に奇跡が起きているなどという話はきいたことがありません。(この辺りなど、そういうことをしている人にも悪いことが起きています)

このような事実が、すべてを物語っているのです。

残念ではありますが、そのような行いは正しい信仰ではなかったということです。正しい信仰どころか、そのような行い自体、まったく信仰ではなかったということです。(だって、お寺に賽銭を上げてお参りすることは、今風にいえばホテルに行って、そこで賽銭を投げて、ホテルの中に飾ってある写真に向かって祈っているのと同じことなのです。そういうことを信仰とはいわないでしょう)

別にこれまでのことをすべて否定するわけではありませんが、事実を知らなければもう危ない時代になりました。(気分転換でそういうことをするというのは別にかまいませんが、そのような行いは、お蔭もなければ功徳にもならないということは理解しないといけないのです)

本当の信仰をされてはどうでしょう。そうすれば奇跡も起きて最終的には悟りが開けるからです。

信仰とは何もそんな特別なことをしなくてもいいのです。日常生活の中でやれていけることであるからです。

特別な場所に行かなくても、祈りはどこにいても正しい祈りならきかれるのであって(地球自体がすでに神につくられた神殿であるからです)要は心の問題なのです。

その心を正しくするか、しないか、それだけなのです。

その心を磨くことが信仰なのであり、心を磨くことなど、どこにいても出来るのですから、では、普段から自分がその心がよくなるよう行いを正せばいいのです。

そのような心と行いを正すことは日常生活の中で十分やれます。だから私は信仰など、どこでも出来ますと、そのような心と行いを正すことが信仰なのです、といっているのです。

実際にそうであるからです。私はそのような生活の中で次々に奇跡が起きるようになったからです。

その自分たちの生活を、出来るだけ神の心に合わせるということを続けていけばいいのです。その神の心に合わせた生活、それが本当の信仰だからです。

神の心を知るなら、常に神に感謝して祈りなど普通にしますし反省もします。普段の心がけも愛と慈悲の心を持って調和に努め、そうして、このような神の心を伝えようと努力もします。

そのような心と行いの積み重ねが信仰をしているということであり、そのようなことを続けていれば奇跡も起き出すのです。

また、それがまったく出来ていない人を無信仰な人というのです。

普段から神のことなどまったく思わず、神の心を知ろうともせず、自分本位の生活を続けている、そのような人を無信仰な人というのですが、そういう人ばかりでなく、最初に書いたようなことばかりをしている人(仏壇やお寺などへのお参り)そういう人もまた無信仰な人といえるのです。

何度もいいますが、仏壇やお寺などへのお参りは信仰でもなんでもないからです。本当の信仰とは普段の生活の中にあるからです。

それが分かっていなかった。だから熱心に信仰していると思われている人でも不幸になったのです。

本当の信仰とは何ぞやということが分かっていなかったからです。(だから奇跡も起きなかった、みな本当の信仰をしていなかったからです)

これまでの多くの人は、仏壇に毎日祈ることやお寺や神社など行って祈ることが信仰であると思ってきたのです。

だから、それをすればお蔭もあるだろうし功徳もあるだろうと思い込んでいたのです。だから普段の生活は二の次にして、そういうことばかりに(お寺や神社回りに)精を出す人もいたのです。

そういうことさえしていれば自分は救われると思ってです。

しかしそれはまったくの間違いだったのです。そんなものは信仰でもなんでもなかったからです。

本当の信仰とは、その普段の生活を正す、それであったからです。

こうなると現実逃避は出来ませんね。あの信仰をしているといわれている人たちの中にも、そのような神仏の名を借りて現実逃避している人たちが案外多いと思うからです。

私は神仏に使えているのだから、普段の生活がちゃんと出来ないのは仕方ない、などといってです。

しかし、その普段の生活が信仰であるのであれば、普段の生活をおざなりになど出来ません。

ではまず、普段の生活を正す、しっかりする、それから始めないといけないということになります。

その普段の生活の中に神仏は存在しているからです。

本当の信仰とは、仏壇を拝むことでも、お寺や神社にお参りに行くことでもなく、普段からの生活を神の心に合わせて正すということだったのです。

間違った信仰をいつまでもしているのではなく、本当の信仰に目覚めませんか?

そうすれば本当の幸福が得られることになるからです。

追伸…だから、普段から人の悪口ばかりいっていたり、人に嫌がらせなどしている人は悪いことが起きるのが当然なのです。

その普段の生活が信仰であるからです。(信仰の場でそんなことしたらいけません。それでは罰が当たります。〔苦笑〕)

だから普段の生活で愛を出すなら奇跡が起きるのです。それがそのまま正しい信仰となるからです。(何で私に奇跡が起きているのか分かりますか?正しい信仰をしているからです。〔笑〕)

愛とは相手の気持ちになって考えることをいうのです。

それを実践されませんか。信仰の場(普段の生活の場)でです。

そうすれば奇跡は起きて来るからです。

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4月 01 2017

仏壇やお経、仏像、寺の間違い

前回のブログに仏壇に線香などあげても功徳にならないと書きましたが、何でこのような行いは功徳にならないのか?その理由を書いておきましょう。

亡くなったご先祖様が祀ってある仏壇にろうそくを灯(とも)して、線香をあげ、先祖を思ってお経をあげる、現在の日本の人々からすればこれだけよい行いもありません。

このような行いが功徳にならないわけがないと多くの人は思うでしょう。

しかし、このような行いは実は信仰でも何でもないのです。多くの人は、このようなことが信仰であると勝手に思い込んでいるだけなのです。

この仏壇にろうそくを灯して線香をあげてお参りする、このような風習の始まりはインドの釈尊在世当時のことです。

その当時、釈尊が説法をされる時は夜が多かったのです。

なぜ夜が多かったのかといえば、昼間は働いている人が多く、昼に釈尊が説法をしてもなかなかきける人が少ないということで、必然的に皆の仕事が終わった夜に釈尊はよく説法をされたのでした。

その釈尊が説法をされる時は夜とはいえ多くの人が集まりました。

当たり前のことですが、ブッダ(覚者)の説法は誰だってききたいからです。(また当時のインドは信仰深い人も多かったからです)

その時にです。真っ暗な夜に多くの人が一ヵ所に集まってくるのですが、もちろん当時(二千五百年前)のインドに電気が通っているわけではありませんから、歩いてくる道も真っ暗なら、その説法をする場所も真っ暗です。

しかし、いくら何でも真っ暗な中で釈尊の説法をきくわけにもいかないし(釈尊のご尊顔も拝したいですし)だいたい真っ暗では人とぶつかったり物につまずいたりして危なくて仕方ありません。

それで誰もが手にろうそくを持って、ろうそくの火を頼りに釈尊が説法をされる場所まで歩いて行ったのです。

そうして当時のインドは、蚊はもちろんですがいろいろな毒虫などがたくさんいました。(毒蛇などもです)それで誰もが体に、そのような毒虫除けの薬草を塗っていたのですが(今でいう防虫スプレーみたいなものです)その薬草がとても臭かったのです。

それで、そういう薬草の匂いを消すために誰もが香を持って、その香をたきながら釈尊の説法をきいていたそうです。

香がなければ臭くて仕方なかったからです。(あまりに周りが臭くては釈尊の説法もしっかり耳に入らないでしょうから。〔笑〕)

この片手にろうそくを持ち、もう一方の手に香をたきながら釈尊の説法をききに行った、当時のインドの人たちの習慣が日本に伝わって、そうして、仏壇にお参りする時にろうそくを灯して線香をあげるという風習になったのです。

当時のインドの人たちは、確かにろうそくと香をたきながら釈尊の説法をきき、またお参りもしたのでしょうが、しかしそれは必要にかられてそのようにしていただけで、それに宗教的な意義があったわけではありません。

今は電気もあれば、自分の体が異様に臭かったり、そういうやたら臭い人が周りにたくさんいるわけではないのです。(そういう人がいるというなら線香でも香水でもつけてくれて結構です。元々、香とはそのような匂い消しであるからです)

だから、現代にろうそくをつけたり(元々ろうそくは今の電気のかわりですから。暗いところを明るくするためにあるものですから)線香をたきながらお参りする必要はまったくないのですが、そのような当時必要にかられたためにやっていたことが、現代に伝わると、あたかもそれが信仰であるかのように多くの人たちは思い込んでいるのです。

しかし、そのような行いはまったく信仰とは関係ないものであり、そのようなやり方ではなく、要はそのしている祈りが(そのお参りする時の心の在り方が)正しいかどうかなのです。

そのように正しく祈り、行うことが本当の信仰なのであり、昔ながらのやり方をすることが信仰ではないのです。

これは、お経を上げたり、仏像やお寺にお参りすることも同じで、それが信仰であると多くの人は思い込んでいます。

しかし、これもまた大きな間違いなのです。

お経は前からいっていますが、釈尊の説法が書かれたものであり、では、それをいくら唱えても意味がないのであって、そのお経に書かれてある釈尊の説法の通りの心と行いを実践して、はじめて信仰しているといえるのであり、そのような正しい心と行いが功徳となって奇跡が起きるのです。

また寺や仏像も同じで、元々寺とは、僧たちの宿泊所であっただけであり(今の旅館や民宿、ホテルのようなものです)仏像も釈尊を直接見ることが出来なかった人たちのために、釈尊はこういう方であったと皆に知らせるために木や石に刻んで像として示しただけであり、仏像は今でいう写真のかわりであったのです。

つまり、いま信仰と思い込んで多くの人がやっていることを現代風にいいかえるなら、ホテル(寺)に人を集めて釈尊の写真(仏像)を飾り、釈尊の説法(お経)を一生懸命唱えているだけであり、そのような行いが信仰といえるのでしょうか?

こんなことはとても信仰とはいえないのです。(マァ、そういうおかしな信仰もないことはありませんが常識的に考えてです)

お経を上げることの間違いは先ほども書きましたが、ホテルでえらい人の写真を一生懸命拝むことが信仰なのですか?

それで功徳が得られるのでしょうか?

昔ながらのやり方をしているから、何かそのような行いが(お経を上げ、お寺に行って仏像を拝む)信仰をしているかのように思えますが、実際それを現代のやり方に直してみるなら、そんなものは信仰でも何でもないと分かるのです。

昔の人たちがそれを見るなら、そういうことを信仰だなどといっている方が笑われるのです。

だから私は、そのようなことをいくらしても意味がないし功徳も得られないといっているのです。

それは信仰ではないからです。

正しい信仰とは何か?それを知らなければいけない時が来ています。(本当に正しい信仰をしないと罰が当たりまくりです。この辺りは特にそれが顕著です)

早く目を覚まされてはどうでしょう。

目が覚めるのが遅れれば遅れるだけ災いが現れて来るからです。

(どれだけ自由を求めても、最後には自由を捨てて従わなければいけないものがあります。それが法〔神理〕なのです。神理に従わない自由もありますが、その自由は苦痛となり不幸となって自分に跳ね返って来ます。その苦痛と不幸な現象がいま次々に現れているのです。多くの人が神理に従おうとしないからです)

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3月 30 2017

本当のご利益

ほんと呆れますね。もう、そこらじゅうで怒っています。

歩いている人は、ずいぶん引いている人が多いようですが(引きながら怒っています)あちらの家、こちらの家で私が歩いていると怒って雨戸を閉めています。(別に台風が来ているわけでもないのにです。〔苦笑〕)

この近所の人たち、やたら怒っている人とやたら引いている人とに極端に分かれているようですが(マァ、引いている人も腹の中では怒っているんでしょうが)本当に大丈夫でしょうか。

なんか大変なことが起きていませんか?もう多くの人の態度がずいぶんおかしいからです。(前の会社も朝からやたら怒っていると思ったら急に静かになるし、運転手連中も変ですね。市バスの運転手など、ずいぶん顔が引きつっている人が多いし頭を下げてくる人までいます。どうしたんでしょうか?)

メチャメチャ起き出したんじゃないですか。恐ろしい現象がです。

だからそんな極端な態度になっているんでしょう。

違いますか?

だとしたら、いつまでも責任転嫁をしていても危ないだけです。起きていることを真剣に考えないと、死ぬことになるかもしれないからです。

それほどの現象が起きていると思われるからです。

いってはいけませんが、それもご利益なのです。本当の神の教えのです。

奇跡もご利益なら天罰もご利益です。

その本当の神の教えのご利益が特にこの辺りはたくさん現れているのです。

この辺りの人たちも神の教えを実践していることには変わりがないからです。(ただし、神の教えに逆らう方の実践ですが)

この神の教えに関わり、その神の教えに対して何らかの行いをしているからご利益が現れるのです。

この教えに関わらなければ、これほどのご利益もないはずだからです。

もちろん、もう多死社会になっていますので、それなりに現象は現れますが、それでもこの辺りほどの現象は現れないでしょう。(何かそちらはすさまじそうですし、私は私で、あらゆる生き物が寄って来ますし)

この辺りに、これだけ次々に様々な現象が現れているのは(私だけではなく)この辺りの多くの人が神の教えに関わりを持ったからです。

だから、そのご利益が現れているのです。

この教えに従うと奇跡が起きるということも確かにご利益でしょうが、この教えに逆らうとこのような悪いことが起きるということもまたご利益なのです。

そういうことも起きなければ正しい教えに逆らうことの間違いも分からないからです。

この辺りで次々に悪いことが起きているのは、それだけ正しい教えに逆らう人が多いからです。

だからそれだけ悪いことが起きるのです。それもこの法のご利益であるからです。

だからこの辺りで悪いことが起きている皆さんは、正しい教えに逆らうと、これだけ悪いことが起きますということを証明してくれているのです。

そういう意味ではありがたい存在ですね。少なくとも後世の人たちにはこの教えの正しさがよく分かると思うからです。(今の時代の人たちには分からないかもしれませんが。その今、起きていることの本当の正しさが分かるのは五十年から百年は先だといわれますから)

くだらない我をいつまでも張って責任転嫁ばかりしているから、いま起きている正しいことが分からないのです。

いま現在、大変なことが起きているのです。

まだ分かりませんか?この教えの正しさがです。そうして自分たちの愚かさがです。

正しい教えに関わっているからこれだけのご利益が現れるのであって、そうであるなら、この教えに従わない愚かさは分かるはずです。

この教えに従い実践すればするだけ(それだけ悪いことが起きているのなら)それだけの奇跡も現れるはずであるからです。

これまでの既存の宗教でも新興宗教でも、これだけご利益のある教えはありませんでした。

そのような教えはすべて間違っていたからです。だから何も起きなかったのです。

間違っているものにご利益はないからです。

どこどこのお寺に行くと運勢がよくなる、あそこのパワースポットに行くとパワーがもらえる、すべてそれは嘘なのです。

本当に運勢がよくなり、パワーがもらえるのなら、その後、何がしかのよいこと(奇跡)が起きないといけないからです。

現に、そういうところに行った、そうして運勢がよくなった、パワーをもらったということを書いている人はたくさんいますが(有名人のブログなどに)その後、こういうよいことが起きた、このような奇跡が起きた、などと書いている人はほとんどいません。

皆無といってもいいくらいです。

なぜでしょうか?何でそれほどのよい場所に行って、祈ったり何なりしておきながら何も起きないのでしょうか?

それはその場所には何の運勢がよくなるようなこともパワーもないからです。

そういわれているだけで、実際はご利益がもらえるような場所ではないからです。(だからそういうのも詐欺にあっているようなものなのです。パワースポット詐欺です。〔苦笑〕)

それは既存の宗教でも同じなのです。

既存の宗教が何の力も持たないということは、この前起きた、あの栃木の雪崩事故でも分かるのです。

ニュースでいっていましたが、あの雪崩で亡くなった高校生の中に、毎朝、仏壇に線香をあげてから学校に行く高校生もいたそうです。

しかし、そういうことをしていない高校生が生き残り、そういう功徳を毎日積んでいるはずの高校生が亡くなったのです。

なぜでしょうか?おかしいのではないですか。

普通であるなら、そういう普段から功徳を積んでいる人が助からないといけないはずだからです。

そういう時こそ、そのような普段から功徳を積んでいる人に神のご加護(ご利益)があって当然であるからです。

しかし、実際には逆のことが起きているのです。

功徳を積んでいるはずの人が亡くなり、功徳を積んでいない人が助かっているのです。

なぜでしょうか?

そのようなこと(線香をあげるようなこと)は何の功徳にもなっていなかったからです。(これが現実なのです)

だからその高校生は助からなかったのです。

もし、そのような行いが功徳になっているのなら、そのとき助かったであろうし、普段からもう何らかの奇跡が現れていたはずであるからです。(私のようにです)

本当の功徳を得られるようなことをしているのなら、何らかの奇跡は現れるのです。

正しい教えを実践するなら、そのようなご利益は必ずあるからです。

本当にやっていることが正しければ、もう周りに何らかの奇跡が次々に現れる、そういう時代になっています。

そのような起きて来る現象で自分のしていることは正しいのか、それとも間違っているのかを判断してください。

口で嘘はいくらでもつけますが、その起きて来る現象に嘘はないからです。

これほどご利益がある教えは他にありません。(起き続けている現象がその何よりの証拠です)

そうであるなら、一刻も早く皆この教えに帰依されてはどうでしょう。

それが一番、安心、安全を得られる道であるからです。(最近はよく、この安心、安全という言葉が出てきているようです。せっかくですから使わせてもらいました。〔笑〕)

追伸…病気が治る治らないということでもそうです。

最近、有名人のブログなど見ると、癌などなっている人が多いですね。(本当に多いですね。それだけ癌になる人が多いということでしょうか?)

それで今はよくなったが、いつ再発するか心配だとか、早く健康になりたいとか書いていますが、もし本気でそう思うのであればです。

この教えをやらない手はないでしょう。何回も書いていますが、これだけご利益のある教えはないからです。

この教えをしっかり実践できるのであれば、様々な奇跡が現れ、まず癌が再発することはありませんし(それを中途半端にしかできず)仮に癌が再発したとしても、それなりに救われて行きます。(癌の痛みがとれたり、死後の安らぎを得られたりです)

しかし、この教えを知っていながら、それでもやろうとせず、それで癌が再発して死ななければいけなくなるようなら、これだけ悔いが残ることはありません。(死んだ後、死ぬほど〔もう死んでいますが〕後悔しますよ。地獄でです)

もし、そういう人でこの教えを知っている人がいるのであれば、そういう人こそ一刻も早く、この教えに帰依された方がいいでしょう。

それが早ければ早いほど神の奇跡が現れやすくなるからです。

手遅れになってからではもう救いようがないからです。

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3月 28 2017

心が一番の問題

この辺り最近特に様子が変です。(マァ、前からといえば前からなんですが…)

昨日でも歩いていると、やたら怒っている人たちが多いところがあるかと思うと、広い公園に人っ子一人いなくて(その公園はこれまではいつも私が通ると子供がたくさん遊んでいました)その辺りは公園だけではなく歩いていても人が誰もいなくてシーンとして、まるでゴーストタウンのようでした。

怒っている人が多いところもあれば、誰もいないところもあり、私が通るところは何か知りませんが、そのような両極端なところが多いのです。

本当にずいぶん私は嫌われているようですが、何で悪いことが全部私のせいなのでしょう。(ほんとテレビドラマじゃないんですから、普通そんな極端な態度、みながみな取らないでしょう。〔苦笑〕)

私の何が悪いというのですか。

祈りですか?

しかし、私の祈りは嫌がらせをして来る人に対し「この人を正しくお導きください」と祈っているだけなのです。

嫌がらせという悪い行為を行って来るから、私はそれを正しい祈りで返しているだけなのです。

何でそれがいけないことなのでしょうか?

悪いことをしているのは嫌がらせをしている人たちの方なのです。(大人であろうと子供であろうとです。だから悪いことが起きるのです)早くそれに(間違った自分たちの心と行いに)気づいた方がいいでしょう。

そのような間違った心と行いに、いつまでも気づかないとコロッと逝くかもしれないからです。

そういう現象が(どうしても分からない人はあの世に引き上げられる)そこかしこで現れはじめているからです。

それはウナッシーさんのコメントを見れば分かるはずです。

ウナッシーさんのご近所だけでも今年に入り、次々に人が亡くなっているのです。

しかし、そのような恐ろしい現象はあくまでウナッシーさんのご近所だけであって、もっと広い範囲を見るならもっと起きているでしょう。(当然この辺りはもっともっと起きているはずです。悪いことをする人が〔自覚がないだけで〕多いからです)

だから多死社会になっているのです。

昨日でもそうでしょう。あの栃木のスキー場での雪崩事故などひどいものです。

八人が亡くなり四十人が重軽傷を負ったのです。

いくらスキー場とはいえ、この時期にあれだけの大雪になるのは珍しいとのことですが、そういうところに集団で高校生が行ってまとめて雪崩に遭うのです。

これ以上、運の悪い話はありません。

しかし、そういう運の悪いことが起きてしまうのです。心の在り方を無視しているからです。

その運は自分たちの心が呼ぶからです。(それはこれまで何度も書いていますが)

だから、何よりも先にまず心をきれいにしないといけないと私はいっているのです。

そうすれば少なくとも、そのような悪いことが起きることはないからです。

一見すると、なぜ、あんなよい人にあんな悪いことが起きたのか、と思うようなことが多々ありますが、それはその人の外見(そとみ)だけでそう判断しているのであって、心の中は分かりません。

そのようなよいと思われている人に悪いことが起きるその原因は、その人の心の中にあるのです。

どれだけ善人のような人であっても、心に不平不満をたくさんため込んでいたり、あるいは表面上は善人でも心の中が悪人である人(例えば、表には絶対に出さないが、心の中では人のことをボロカスいって、人が何人死のうが関係ないなどと思っているような人、こういう人は実際は悪人なのです)こういう人には悪いことが起こります。

そのような心が災いを呼ぶからです。

だから当然、悪いことをしている人たちも悪いことは起きるのですが、しかし、案外悪いことをしている人たちよりも、悪いことをしていない人たちの方が悪いことが多く起きているような印象がありますが、これはその通りなのです。

悪いことを実際にしている人たちよりも、悪いことをしていない人たちの方に悪いことが起きることが多いのです。

それはなぜか?

行いはよくても心の中が凄く悪いという人が案外多いからです。

悪いことをする人は、実際にその悪いことを行いますので、それほど悪いことを心にため込まないのです。

その心の差が悪いことが多く起きる、起きないの差となって現れるのです。

もちろん、悪いことをすればそれが自分に返ってきます。だから悪いことをした人は当然不幸になるのですが(警察につかまったり、仮にこの世で逃げおおせたとしてもあの世で地獄に堕ちてです)しかし、心の中に悪をどれだけため込むのかということが一番問題なのであり、その度合が、この世にいいことが起きる、起きないの違いとなって現れるのです。(この辺りの人たちは心も悪ければやっていることも悪い〔法を説く人への悪は一番悪いことですから〕だから、どこよりも悪いことが起きているのです。一番悪いことを実践しているからです)

すべて心の問題なのであり、その心さえ正しくしているのであれば悪いことが起きることはないのです。

ところが現代の人はそれをまったく知りません。

表面上だけよければそれでいい、心の中は関係ないと思っているのです。それがいけないのです。

だから不幸になるのです。その心が一番問題であるからです。

これまで問題にしてこなかった、その心が一番問題になる時代が来ていますが、その心を問題にしてこなかった人たちは、心が問題となる時代になって、では、その心の正しい在り方が分かるのでしょうか?

これまでそんなことをまったく考えて来なかった人たちがです。

私は正しい心で正しい行いをしているから奇跡が起きているのです。

このような時代になって、それでも次々に奇跡が起きている、その起きていることの大きな違いを少しは理解されてはどうでしょう。

その違いが、今後の人生を大きく左右することになるからです。

その大きな違いに気づかない限り、自分たちの不幸は止まらないのです。

追伸…新横綱の稀勢の里が奇跡の逆転優勝を果たしました。

ずいぶん多くの人が感動したでしょう。場所中にあれほどのけがをしていながら、それでも最後の最後に逆転優勝を果たしたからです。

このような奇跡の逆転優勝、そうして新横綱での優勝は二十二年ぶりであり(何か奇跡の連続ですね)稀勢の里からも「最後はもう自分の力以上のものを感じた」「場所中には見えない力を感じた」などの発言が相次いでいるのですから、これはもう神の力が働いていたといわざるを得ませんね。いや凄いです…といいたいところですが、本当にそうなんでしょうか?

私は今場所、稀勢の里に神の力が働いたのかどうなのかは疑問ですね。

なぜなら神の力が本当に働いたのなら、あんなけがはしなかったと思うからです。(あの日馬富士との一戦でのけがはずいぶんひどいんじゃないですか?)

場所中も(もちろん新横綱のプレッシャーはあったのでしょうが)やっと勝っている印象でしたし、あのけがといい、そのあと千秋楽で二連勝出来たのは、何か横綱になったので意地だけで勝ったように見えました。

とても神の力が働いているようには見えなかったのです。(先場所の千秋楽のようなです。同じ千秋楽でもずいぶん印象が違いました)

だから非常に無理をしているようにしか私には見えなかったのですが(だから大丈夫ですかね。あのけがはです。最後に無理をしたものですから、後々の相撲に響かないか心配です)本当に見えない力を得たいのであれば、それは相撲の稽古だけでは身につきません。

心を磨かなければいけないのです。

横綱は心を磨いているのでしょうか?

その心は、この法の実践以外で磨く方法はないのです。

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