>>ブログトップへ

1月 28 2016

大きな使命

今度は先生つきですか?いろいろなパターンがあるのですね。(笑)

しかし、先生も一緒になって嫌がらせをしてくるというのですから、それでは重い罪がよけい重くなります。早く反省し、詫びを入れたらどうでしょう。

それが一番の救われる道であるからです。(悪いのは自分たちなんですから、それが当たり前でしょう。学校の先生がその現象を止めることが出来るのですか?残念ではありますが、その現象は、あなたたちが大嫌いな私しか止めることが出来ないのです)

庄内川の帰りのことなんですが、最近は帰る小学生の一団に先生がついて来ているようです。

ところが、この小学生たち先生がついて来ていても、それでもコチョコチョ何かしてきます。(おまけに先生も一緒になりやってくるのですから呆れます)そうかと思うと、私の顔を見ると逃げていく小学生もいます。

最近はまた一段と変わった態度をとり始めましたが、一体どうしたのでしょうか?

どこかの会社もやたら怒っていますが(昨夜も凄かったです。今日も朝から怒っているし)おまけに今日など、この会社にプロパンガスをかえに来る業者までやたら怒っていました。(私の家の前を通る時、わざわざトラックでブシュとやって行きましたから)

だから、朝からその業者に向かい辻説法です。朝も早くから私もよくやります。(笑)

それにしても皆さん(あちこちでなんですが)最近は特に態度がおかしいのですが、本当に今のままで大丈夫なんでしょうか?

それはこの辺りだけではなく(今も九州の断水など続いていて皆さん困っていますが)全国で(もっというなら全世界で)起きている異常気象もそうですし、サイレンが増えていることもそうです。

救急車の出動件数は毎年増え続けています。軽症やいたずらで増えているだけならいいのですが(そういうのは昔からありましたしね)重症患者が増えているのなら深刻です。

それに浜松のように火葬場の一週間待ちなどというところもあります。(多分そのようなところは浜松だけではないと思いますが)

明らかに、起きていることが一昔前とは違っているように思えるのですが、本当に今のまま何もしなくて(何も変えようとしなくて)よいのでしょうか?

このような最近起きて来た異常なことを、この辺りの人はすべて私のせいにして怒っているのですが、すでに全国で異常なことは起きているのです。

これはどういうことなのですか?このようなこともすべて私のせいというのでしょうか?

さすがにそこまではいわないのでしょうが、また不都合な真実には目をつぶり(どこの人も同じです)とにかく悪いことはすべて私のせいにして怒り続けるだけ、まったく進歩がありません。

いい加減気づいてください。自分たちの大きな使命をです。

このような恐ろしい現象がもう全国で起きているのです。その異常さに気づいているのは名古屋の人たちだけなのです。

では、大きな使命が名古屋の人たちにはすでにあると思われないでしょうか?

他の地域の人たちも、この異常現象に気づいている人はいるのですが(特にこのブログを読んでいる人たちは)名古屋ほど多くの人がその異常さに気づいているわけではありません。

異常気象に気づいている人は多いと思いますが、その他の異常現象に気づいている人はほとんどいないでしょう。

それはウナッシーさんのコメントでも分かります。多くの人が亡くなり始めているのに、その異様さにウナッシーさん以外は気づいていないのです。

この現状を知るならばお分かりになると思います。こういう異常さに気づくだけでも大変なことであるということがです。

せっかく名古屋の多くの人は、その異常さに気づいているのです。それなのに、それを私のせいにしているだけで自分で何とかしようとは誰も思わないのですか?

多くの人が気づいている名古屋の人が動けば、日本全体が救われるというのにです。

現状の名古屋の人は人のことどころではないのでしょうが(いつ自分にそのような異常現象が現れるか知れないからです)しかし、こういう諸々のことを考えましてもです。もう悪いことを人のせいにしている場合ではないのです。

名古屋の人たちが救われるのであれば、全国の人も救われるからです。

いっている意味がお分かりですか?

この恐ろしい現状から自分たちが救われる努力をするならば、ひいてはそれが日本も救うことになるということです。

そうではないでしょうか。

名古屋の多くの人がこの現象から救われていくのなら、さすがに全国の人もいま起きている異常現象に気づくはずです。(それだけ多くの人が与える影響は大きいからです)

全国の人がこの異常現象に気づいて、その救われた名古屋の人と同じことをするなら、今度は全国の人がこの異常現象から救われるのです。

だから私は、名古屋の人が救われるのなら、全国の人が救われますよといっているのです。

名古屋の多くの人が動くのであれば、その影響は全国に伝わることになると思うからです。

もう恐ろしい現象など、全国で起きているのです。

しかし、その恐ろしい現象に気づいているのは名古屋の人たちだけなのです。まだ、全国のほとんどの人は、その恐ろしい現象が起きていることにさえ気づいていないのです。

それだけでも全然違いますが、それだけではなく名古屋の人たちは、この恐ろしい現象から逃れる術も知っているのです。(知っていますよね、この教えを実践すれば救われるとです。ただ意地になってそれをやらないだけです)

こう考えますと、名古屋の人たちは日本を救う(もっというなら世界まで救うですが)大きな使命をすでに与えられているということに気づかないでしょうか。

名古屋の人が動くなら、本当に日本が救われるからです。

前にも書きましたが、法を知るということは、大きな使命を得るということでもあるのです。その大きな使命を与えられた人たちが、いつまでも自分のことだけ考え責任転嫁を続けていたらどうなるでしょう。

そんなことをしていたら世界が滅びてしまうということです。(それはそうでしょう。大きな使命がある人たちが、その使命を果たさないのですから)

まだ小さな殻に閉じこもり責任転嫁を続けるのですか?

自分たちが救われる努力をするだけで、多くの人が救われるというのにです。

(このような実情にも関わらず、それでもまだ小さなことにこだわるのですか?〔それもすべて自分たちの責任であるというのにです〕出来ない人は出来ないのでしょうが〔まだ心がそこまで発達していない人もいますので〕出来る人もいるはずです。そのような人たちの心の成長に期待します。このブログを読んでいる人たちが動けば世界が救われるからです)

2 コメント

1月 27 2016

奇跡が起きる人と起きない人の違い

昨日は久しぶりに金山に行ったんですが、ハハ相変わらずでした。(苦笑)

歩いてくるどの人もお前が悪いという顔で何かやって行きます。しかし、他の地域ではもう法を実践する人も出て来て、あちこちで奇跡が起きています。

ずいぶん名古屋と他の地域では違いがあるようです。

名古屋の災いは相変わらず続いているようですが、一番初めに名古屋に法が拡がったはずなのに、いつの間にかその名古屋が一番遅れているのです。(これだけ災いが起きているのが、そのよい証拠です)

法を知るだけ知っても、その法に従うか、逆らうかでこれだけ違うのです。

法の偉大さがよく分かる出来事ではありますね。

しかし、その法を知って実践しても奇跡が起きる人と起きない人がいます。その違いは一体どこにあるのでしょうか?

昨日その違いがよく分かる出来事がありましたので、比較して書いてみましょう。

昨日は大きなスポーツの試合が二つありました。サッカーとテニスの試合です。結果は皆さんご存知だと思いますのでここでは書きませんが、明暗が大きく分かれたことは確かでしょう。

サッカーの試合には奇跡的なことが起きて、もう片方のテニスの試合にはまるで奇跡が起きなかったからです。

この両方の試合をした選手たちが仮にです。(とりあえず仮の話としておきます)みな法を知っていたとします。

そうして、昨日私がブログに書いた正しい祈りをしたとしましょう。

両方の選手たちが、その正しい祈りをしたのに、片方(サッカー)は奇跡が起きましたが、もう片方(テニス)は奇跡が起きなかったです。

その違いはどこにあったのか?ということなのですが、もちろん、人数の多い少ないではありません。正しい祈りであるなら一人で祈っても、たくさんで祈っても、祈り方さえ間違えなければ、その祈りはきかれ奇跡が起きるからです。

では、何が違っていたのか?どこでその差が出たのか?ということです。

それが心の違いなのです。

心の在り方の違いが、このような奇跡が起きるか、起きないかの違いとして現れたのです。

つまり、法を心から実践できるかどうかで、奇跡が起きるかどうかも違ってくるということです。

形だけではダメなのです。心が伴っていなければ祈りはきかれないのです。

昨日私はこのブログに「布施をしてください」ということを書きましたが、サッカーの何人かの選手は、多分、私に布施してもよいと思っている人がいたのでしょう。

そういう神仏への布施の行為、報恩の行為が出来る心の人には光が出ていますので、その人が正しい祈りをするなら、その祈りは天に通じてきかれることになりますが、あのテニスの選手の方は多分、私に布施する気がなかったのでしょう。(報恩の行為をする気がない)

そのような心が神の光をさえぎり、仮に正しい祈りをしていたとしてもその祈りが天に届くことはなかったと思われます。

つまり、そのような心の差が奇跡が起きるか起きないかの差となって現れたのです。

心の在り方、その一点なのです。

同じことをしても、奇跡が起きる人と、起きない人の違いは、その心の違いにあったということです。

だから、仮にです。(今回仮の話ばかりですが。〔笑〕)あのテニスの選手が試合に勝ちたいがために私に布施したとします。

一応、私に布施するという行為は法の実践を行ったことになるのですが、しかし、いくら私に布施したところで(法の実践を行ったところで)試合に勝ちたいがためだけに布施しているのであれば、奇跡は起こらないのです。

そのような行為は感謝や報恩という愛の心から出てくる行為ではないからです。ただの取引でしかないからです。(試合に勝ちたいがためだけにお金を払うというです)

取引では奇跡は起こりません。純粋な愛の行為でしか奇跡は起きないのです。

しかし、昨日のあのテニスの選手などもです。

日本人であれ程の成績を上げた選手はいないのですから、それはそれで立派なことなのですが、もし、それ以上の成績を望むのであればです。(例えば四大大会の優勝とかです)

今の心のままではダメでしょう。もっと心を変えるべきなのです。

また、心を変える以外、もうあれ以上の成績を望むのは無理なのです。すでに、心技体の技と体は限界に来ていると思うからです。

よく故障するのが、そのよい証拠でしょう。もう肉体的には限界に近いのではないでしょうか。

では、あとはどこを変えるのか?ということですが、もう変えることが出来るのは心の部分だけでしょう。

逆のいい方をすれば、心が変われば、まだまだ成績は上がるということです。

少し心に愛を持たれたらどうでしょうか。(この選手に愛がないとはいいませんが、神仏に対するです。多分この選手、神仏に対する愛はないですよ)そうすれば四大大会の優勝も可能であるからです。(奇跡が起きてです)

マァ、それはともかく、奇跡が起きる人と起きない人の違いが少しはお分かりいただけたでしょうか?

心の程度により、起きる奇跡も違ってくるのです。

だから、奇跡が起きている人たちが、私に布施するなら、もっと奇跡が起きるということです。(ただし、それを期待して布施してもダメですけどね。あくまで感謝の心で布施しないといけませんが)

法を実践するかしないかで、起きる現象の違いが大きく現れてきましたし(逆らっている人たちなど悲惨なものです)その法の実践をしている人たちの中でも、奇跡が現れる人と大して現れない人(そこそこ運がいい程度の人)の違いも現れて来ています。

これから、このような違いはますます顕著に現れて来るでしょう。

もう、これからは奇跡が現れない人はダメな人、と見られるようになるのです。起きる現象に心が現れるということが多くの人たちに理解されてくるからです。(だから災いなど現れている人たちは、もう超ダメな人たちです)

法の実践をされたらどうでしょう。

それをしないともう許される時代ではないからです。

(こちらからすれば、これだけ災いが起きる時代になって、法をまったく勉強しようとしない人の方がよほど怖いですけどね)

2 コメント

1月 26 2016

布施の意味

しかし、あちこちで奇跡が起きてきましたね。法を実践する人が増えてきた証拠でしょう。

いい方は変ですが、法に逆らう人にこれだけ災いが起きているのです。では、従う人に奇跡が起きるのもある意味当然でしょう。

本当の神の教えとはそのようなものであるからです。(必ず、なにかお蔭があるというです。よいことも悪いこともお蔭ですから)

例えばです。昨日書いたような祈りをしたら、すでにそのことがなっている(キリストがいわれた「すでに得たりと信ぜよ、さらば得るなり」です)ということを心にアリアリと描き、そうして「神よ、このようにならしめてくださりありがとうございます。ありがとうございます」という神への感謝の祈りをして、そうして最後に神にしっかり感謝して、その祈りを終わりにするのです。

そうすることで願いが叶うのであり(もちろん、それが正しい祈りであればという前提ではありますが)それが正しい祈り方なのであって、その最後の神への感謝の祈りは絶対に忘れてはならないのです。

私たちは人に何か頼み事をしたら、それをしてくれた人には必ずお礼をいいます。こちらから頼みごとをしておいて、何もお礼をいわない人などまずいないでしょう。

それと同じで、神に何か頼みごとをするなら、必ずお礼はいわないといけないのです。それが当たり前の礼儀であるからです。

ものを頼むだけ頼んでおいて、何のお礼もしない人がいたとしたら人はどう思うでしょう。

そんな人がいたら、誰でも「なんとあいつは礼儀を知らないのか」と思うはずです。

そういう人にはなってほしくありませんが、そういう人が多いようです。

せっかく、奇跡が現れているのに、その奇跡の現し方を教えてくれた人に少しのお礼もないというのはそのようなことなのです。

もし、そのようなことを続けているのなら、それは罪になると思われないでしょうか?

そういう礼儀を知らないということもまた罪なのです。

だから、私はいっているのです。「少しくらい布施されたらどうですか?」とです。それは、私のためにいっているのではないのです。その奇跡が起きた人のためにいっているのです。

結局、そのような罪を残しておくなら、いずれその罪は自分に返ってくるからです。

これは奇跡が起きた人ばかりではありません。このブログを読み、心が救われた人も同じなのです。

また、何か気づきを与えられた人も同じでしょう。そのようなことは自分にとって、どれほどプラスになっているのか知れないからです。

では、その自分にプラスを与えてくれた人に対し、何のお礼もしなくてよいのでしょうか?

よいわけありません。そのようなことをしてくれた人に、何のお礼もしなければ、それは礼儀を知らないということで罪となり、その罪はいずれ自分に返ってくるからです。

だから私は「布施してください」といっているのです。

その布施が私へのお礼となり、それが自分の罪を残さないことにもなるからです。

そうして、感謝の心が強ければ強いほど、その思いは今度は自分に返ってきます。

それがまた奇跡という結果となって現れてくるのです。

それが正の連鎖ということです。(善因善果です)

私が「布施してください」といっているのは、私のためにいっているのではないのです。このブログを見ている皆さんのためにいっているのです。

そのような善の行為が、結局、自分を救うからです。(だから、布施をもらわないといけないと天が私に指示したです。それは私のためにそういう指示があったのではなく、このブログを読んでいる人のために、天はそのような指示を出したのです)

布施の意味が少しはお分かりでしょうか。

布施は人のためにするのではなく自分のためにするということです。

「情けは人のためならず」です。

人のためではなく、自分のためにも、少しでも救われたと思ったのであれば、お返しの行為はするべきなのです。

そのような善の行いの積み重ねが自分の心を成長させることにもなるからです。

(ケチな態度など心を狭めるだけです。もう少しおおらかになり布施などされてはどうでしょう。そのような行いが心を広げるコツであるからです)

追伸…あるプロ野球の選手が「三割、三十盗塁、チームの優勝」のために、滝行を行ったそうですね。

その選手、このブログを知らないんでしょうか?(このブログを知っているプロ野球選手はたくさんいるはずですが…)

ずいぶん時代遅れなことをしています。そんなことをしたところで(体はきれいになるかもしれませんが。〔笑〕)何の奇跡も起きないからです。

そういうことをわざわざこの寒いのにしなくても、心を変えるだけで、そのような目標は達成できるのです。(自分の心と行い次第です)

そういう習慣から、なかなか抜け出すことが出来ないのかもしれませんが、間違った行いなどいくらしたところでまったく意味はありません。(それどころか、こんな寒いのに滝行などしたら体を壊しかねません)

早く正しい教えを知って、それを実践してください。

そうすれば、そのような目標も達成可能であるからです。

2 コメント

1月 25 2016

日本人の心

日本列島は大寒波に覆われていますが(名古屋も一面雪景色です。奄美大島では百十五年ぶりに雪が降ったとのことですが)そんな寒さを物ともせず昨日はさすがに熱かったですね。

なにせ十年ぶりに日本の国技の相撲で日本人が優勝したのです。(日本出身力士って変ないい方ですね。このブログはそこまでこだわって書きません。〔笑〕)

それは興奮しますよね。私たち日本人はです。(笑)

特別私は日本人や外国人を差別するわけではありませんが、やはり日本人は日本人としての思想や習慣があります。

それを守るためにも、日本の国技である相撲は日本人が強くあらねばならないと思うわけです。

やはり日本の昔からある謙虚な態度とか、相手を思いやる態度、礼儀作法など、親方衆がいくらいっても、外国の力士ではそれをしっかり理解することは出来ないのではないでしょうか。(外国の力士は生まれた環境も思想も違うのです。外国人力士にそれを実践しろといってもなかなか難しいでしょう)

だから日本の力士が勝たないといけないのです。日本の力士ならそれが出来ると思うからです。そのような態度は多くの人に伝えるべきものであるからです。(勝たないと伝わりませんから)

最近は、そのような日本人が昔から持つ人としての大事な心が忘れさられています。だから、日本の国技である相撲だけは、そのような思いと行いを忘れてほしくはないのです。

相撲取りが、そのような手本を見せるなら、多くの人もそれに倣(なら)うと思うからです。(最近は日本人でもそういうことを忘れている人が多いのですが…だからボクシングなどで、自分が勝ったからと派手なガッツポーズなどして大騒ぎしている選手がいますが、ああいうのはどうかと思います。負けた相手のことも考えるべきでしょう。負けた相手のことを考えるなら、リング上であんな大騒ぎはするべきではないのです)

どちらにしても、これから相撲界は混戦になるとの予想がされています。(横綱陣に多少の陰りも見え始めましたから)日本人力士も頑張ってほしいものです。

日本人が、日本の昔からある、人としての立派な心を多くの人にぜひ伝えてほしいと思うからです。

しかし、今回のことでお分かりいただけたと思います。(特別今回だけではありませんが)

法を実践することの大事さがです。

特別私生活だけではないのです。仕事においても何においても法を実践することは大事なことなのです。

法を実践するなら、そこに必ず奇跡が起きるからです。

失礼ではありますが、大関とはいえ今場所の琴奨菊の優勝を誰が予想できたでしょう。相撲関係者の誰も予想できなかったはずです。

しかし、奇跡的なことが起きて十四勝一敗という好成績で琴奨菊は優勝したのです。

トレーニング方法やらメンタル面やらいわれますが、それだけではないでしょう。やはりこの成績は神の力が働いたがためと思われます。(あの取組前の通路での合掌がすべてですね)

このようなことはこれまでにも起きています。(野球やスケート、その他の競技で)

心を神に向ければ、そのような奇跡が起きるのです。神を一とするなら、必ずよい結果が現れるのです。

少し、この教えを実践されたらどうですか?

この教えを実践されている人たちには続々と奇跡が起きているからです。

(本当にこの辺りとはえらい違いです。この辺りの人は逆のことばかりやっているから、災いばかりが起きるのです)

追伸…あの琴奨菊の取組前の通路での合掌が、本当に神に祈っているのかどうかは本人に聞いたわけではないので分かりませんが、多分そうでしょう。そうでなければこれだけの成績は出ないからです。

しかし、神に祈るにしてもです。

「自分が勝てますように」とか「自分が優勝できますように」とかいう祈りはダメです。

このような祈りは、相手が負けますようにと祈っているのと同じであり、その祈りが輪廻して結局自分が負けることになるからです。

「自分がベストを尽くせますように」とか「自分にとって、もっともよい結果が出ますように」(または「もっともよい試合が出来ますように」でもよいのですが)という祈り方が正しいのです。

このような祈りはどれだけ輪廻しても、自分にとってもよいことであるからです。

祈りは必ず自分に返ってきます。(特別それは祈りだけではありませんが)自分にとってもよい祈りが正しい祈り方であるのです。(その基準さえ分かっていれば、どのような祈り方が正しい祈りかはだいたいお分かりいただけると思います)

しかし、これだけの奇跡が現れているのです。

なのに皆さん、この教えを勉強しようともしなければ、布施しようともしないのですね。(そういえば、今年は多くの人から布施をもらわないといけないんでした)

コソコソやるのではなく、もっと堂々とやってください。(もうみんなに知られていることですし。〔苦笑〕)

どうですか、今年から心を入れ替え堂々と法の勉強をして、実践すると誓われたらです。

そうすれば、もっとよいことが起きてくるからです。

2 コメント

1月 24 2016

神がかり

やれやれ、今日は休みだというのに、ちょっと離れた工場でガンガンでかい音を立てているのがいます。(多分、あのおっちゃんだと思いますが)

また悪いことでも起きたのか、それとも機嫌が悪いだけなのか知りませんが、何も悪いことをしていない人に悪いことが起きる、そのような理不尽な世の中に本当になったとでも思っているのでしょうか?

だとしたら、ずいぶん間が抜けています。

そういう自分本位なところを反省しないと、その悪いことは止まらないのです。

少しは謙虚に自分自身を振り返ってみてはどうでしょう。それをしない限り、災いは止まらないからです。

マァ、いうだけ無駄でしょうから、そのような寒い人たちはほっておいて、それとは逆に今日は熱い戦いが待ち受けています。そちらに期待しましょう。(笑)

今日の大相撲は日本人力士が、十年ぶりに優勝するかどうかの期待がかかる大一番でもあります。否が応でも期待しますね。(相撲は日本の国技ですから、特に日本人は期待しますよね。〔笑〕)

それにしても昨日の相撲は不思議でしたね。そうは思わなかったでしょうか?

横綱の白鵬、日馬富士が負け(白鵬が二敗となり、日馬富士はこれで三敗となって優勝戦線から脱落です)二敗の豊ノ島は勝つには勝ちましたが、膝を痛めたみたいで、今日の相撲が心配されます。

一敗の琴奨菊だけが完勝して、初優勝への勢いが増しました。

ここだけ見ると、まるで昨日は琴奨菊の日であったように思えます。昨日一日でがぜん琴奨菊が有利になったからです。

一昨日連勝の琴奨菊が負けたことで、一変に優勝争いが混とんとしだしたのに、それが一日で琴奨菊が有利になったのです。

これだけ終盤にきて、一日で、これだけ一人の力士に有利なことが重なるのも珍しいことなのではないでしょうか?

だから私は、昨日は不思議な相撲であったと書いたのです。

一昨日のウナッシーさんのコメントに答えた通り、やはり今場所の琴奨菊には(愛の力だけではなく)神の力も作用していますね。だからこういうことが起きたのです。(これも奇跡です)

…実をいうと、一昨日の夜でしょうか(あのコメントを書いた日ですが)私が琴奨菊を祈ったのです。(「琴奨菊がベストを尽くせますように、どうぞ琴奨菊を通し神の力を証明せしめたまえ」とです)

なぜ、祈ったのか?

それはあんなコメントを書いた手前(神の力も感じるとです)琴奨菊に神の力が現れてもらわないと困るからです。だから、何としても神の力を琴奨菊に現すため祈ったのです。

などというのは冗談ですが(笑)祈ったのは事実です。ウナッシーさんのコメントにも書きましたように、琴奨菊に神の力を感じたからです。

何でそう感じたのか?

琴奨菊は取組前の通路で合掌していますよね。前からそれをしていたのかどうか、それは知りませんが、そのような態度が、神に祈っているように感じられたのと今場所の横綱三人を破った時の勢いもそうでした。

何か神がかったものを感じたからです。(琴奨菊ってあんなに強かったっけ?と思ってです)だからウナッシーさんのコメントが来た時、そのような書き方をしたのです。

そうしたらです。あのコメントを書いた日の琴奨菊はずいぶん力が入っているようでした。(土俵上で足を滑らしているようでしたから。〔笑〕)

「ずいぶん力んでるな」と思い「よけいなこと書いたかな?」とも思って、あれだけ力んでは神の力も現れないなと思い、それで祈ったのです。

もし、琴奨菊が神を意識しているのなら、何か現象が現れると思ったからです。

そうしたら予想通り現象が現れました。なら琴奨菊はやはりあの取組前の合掌は神に祈っているのでしょう。(法を意識しているのでしょう)

だから、今場所は神の力が現れているのです。

本来なら、一人の力士に肩入れするということはよくありませんが、法の証明のためなら仕方ありません。(それに結婚披露宴も控えているというではありませんか。それならご祝儀ですね。〔笑〕)

それで今回は琴奨菊を祈ったのですが、しかし、勝負は勝負です。

十年ぶりの日本人力士の優勝だの何だの関係ありません。力士の方々は、それぞれベストの相撲を取っていただくことが、多くの人々を感動させ相撲人気を持続させることにもなります。(もちろんそれが自身の心の成長にもつながります)

今日は千秋楽です。最高のパフォーマンスを期待しています。

(琴奨菊は堂々と今日勝てばいいだけの話です。気迫の一番期待しています)

追伸…やばいですね。あまりにもはっきり書きすぎましたかね。(汗)

しかし、名前を入れないと分かりにくいですから、今回は仕方ありませんよね。

どちらにしても法の証明になります。力士の皆さん、感動的な相撲を期待しています。

2 コメント

« Prev - Next »


あなたは人目の訪問者です。