11月 17 2015
本当の信仰
何かまた朝から機嫌の悪いことです。(悪魔軍団です)
何か起きているんでしょうが、本当に起きっぱなしですね。
昨日も庄内川に行ったんですが、帰りに中学生は見かけませんでした。小学生は何人か見ましたが、私の顔を見ると驚いたような顔をするのが多かったです。昨日帰った時間が少し遅かったからです。
あの小学生たちの顔を見ると、やはりみな時間をずらして帰っているようですが、ずいぶん不便でしょうね。そんなことをしていてはです。
それにしても中学生はどこに行ったんでしょう。時間のずらし方が半端ないですね。(苦笑)
ずいぶん怒ったり逃げたりしている人が多いんですが、そんな私は昨日は庄内川の土手を歩いていましたが、久しぶりに足を伸ばして藤前干潟まで歩いて行きました。
すると、藤前干潟でも岸近くにたくさんの魚が寄ってきていたようで、岸の近くでバシャバシャやっている小魚がたくさんいました。
マァ、動画に撮っておきましたが、今回の動画はそのような魚の同じような場面ばかりになりました。同じような奇跡があちこちで起きているからです。
こちらはこんな奇跡ばかり起きているのに、私に逆らっている人たちは災いばかりが起きているようです。
昨日の話ではありませんが、こうも現象が起きては不人気にもなるんでしょうが、このような現象の違いを見てもらえれば分かりますが、この不人気の理由は災いが起きている人たちが本当の信仰を知らない、それに尽きるからなのではないでしょうか。
こういう災いが起きている人たちはそうですよね。本当の信仰など知りもしないのです。(それは特別この人たちに限りませんが)
こういう人たちは、信仰といえば、お経を上げたり、仏像を拝んだり、墓参りに行ったりすることが信仰であると思っています。
そうして、昔から悪いことをすると「罰が当たる」「罰が当たる」とよくいわれますが、そんな罰など当たるはずがないと思っている人たちばかりなのです。
つまり、信仰などといっても(信仰とはその程度のことだと思い)その信仰をなめている人たちばかりなのです。(甘く見ているといってもいいでしょう。本人たちはそのような自覚がないのかもしれませんが、そのような思いや行いは信仰を甘く見ている、即ちなめている証拠なのです)
そのような信仰をなめている人たちが、本当の信仰を初めて知ったのです。(私を通してです。私のやっている信仰が本当の信仰であるからです)
受け入れられるはずがありませんし、それが信仰とも思わないでしょう。自分たちがしている信仰とあまりに違うからです。(起きることからやることからです)
特別私は、お経を上げるわけでもありませんし、仏像を拝むわけでもありません。そうして先祖を拝みません。むしろ先祖に感謝するのはよいが、先祖を信仰の対象にしてはいけないとまでいっているのです。
そうして、やることといえば、この法の流布と祈りと反省です。(実際は反省禅定までしたいのですが、周りがこのような状況ではそこまでやれません。〔じゃまばかりされますので〕祈ることがせいぜいです。〔その祈りまでじゃまされますから〕)
そんなものが信仰のわけがないだろう、何やってんだこいつは、と思う人も多いでしょう。だからよけい敬遠されるのでしょうが、残念ではありますが、これが本当の信仰なのです。
それは釈尊やキリストを知ってもらえれば分かるでしょう。
釈尊やキリストがお経を上げられたでしょうか?(キリストはもちろんお経など上げていませんが、今あるお経は釈尊の説法が書かれてあるのです。では、そんなお経など〔何で自分がした説法を自分で上げるのでしょう〕釈尊が上げられるわけがありません)
釈尊やキリストが仏像を拝まれたでしょうか?(釈尊もキリストも祈る対象物などありませんでした。天に向かって祈られていただけです。従って先祖を拝まれたこともなかったのです)
釈尊やキリストはお経を上げたわけでも、仏像や先祖を拝まれたわけでもないのです。
私がしていることと同じように、あちこちで多くの人に説法をされて法を拡げ、そうして天に向かって祈り、反省禅定(キリストの場合は悔い改めですが)をされていただけなのです。
本来の信仰とは、簡単にいうならこのようなことなのであり、いま日本でやっているような信仰など、釈尊やキリストはされていないのです。
それなのになぜ日本の人々は、釈尊やキリストがされていない信仰の仕方をされているのですか?(逆にそちらの方が不思議ですが?)
昔からそうしていた、ただそれだけの理由でしょう。しかし、それではいけないのです。そのような信仰の仕方が違っているかもしれないからです。
釈尊やキリストがされていないことをしていてはいけないでしょう。
したがって、私がやっている信仰が本来の正しい信仰の仕方なのであり、だから奇跡が起きるのです。
本当の信仰をするのであれば、奇跡が起きるのが(お蔭があるのが)当たり前のことだからです。
神仏の助けや加護がなければ信仰とはいえないでしょう。何で何も起きないことをしていて信仰などと思っているのですか?
やり方が違っているから神仏の加護がもらえないのです。いま日本でしているような信仰の仕方は本当の信仰の仕方ではないからです。
だからお蔭があるのかないのか分からないのであり、またあったとしてもそのお蔭が続かないのです。そのお蔭は正しいものがしているのではないからです。(間違った信仰の仕方をしているのですから、本当の神仏のお蔭があるわけがありません。もしお蔭のようなものがあったとしたら、それは動物霊や地獄霊、そのような悪魔たちが現しているものなのです)
本当の信仰とは、私がやっているようなことなのであり、だから特別難しいわけでもなく(法を勉強し実践するだけなのですから)といってなめて出来るようなものでもなく(本当の信仰は神仏の加護が必ずあるからです。その神仏の加護はよい方にも悪い方にも働きます。法をちゃんと守っているなら奇跡が、守らなければ災いが必ず起きるのです)コツコツでもよいので継続して行っていかなければいけないものなのです。(つまり一生ものということです)
なぜ、私と皆さんでは起きることが違うのか、これでお分かりでしょう。
簡単な話です。私は本当の信仰をしていて、そうして皆さんは偽の信仰をしていた、それだけなのです。
それだけでこれだけ起きてくることが違うのです。
では、皆さんいつまでも偽の信仰をするのではなく、本当の信仰をされたらどうでしょう。
どっちみち信仰はされているのですから。(されてますよね。日本は無神論の人は多いのですが、無信仰の人はいません。〔これもまた不思議ですが〕何かかにか自分で信仰めいたものはしているのです。〔例えばお寺や神社にお参りに行ったり、初詣などもそうです〕)
どうせ信仰をされるのなら本当の信仰をされた方がいいでしょう。その方が本当の神仏の加護がもらえるからです。
どっちみち信仰はされるのです。無神論などとは口だけで、みなどこかで神仏に頼っているのです。
そうであるなら、本当の信仰をされるべきでしょう。
それが神の子の人間としての本来のあるべき姿であるからです。
本当の信仰をするのが遅れれば遅れるだけ、自分の心は苦しんでいます。(自分の心は本当の信仰を求めているからです。自分の心の奥では本当の信仰を知っているからです)
一日も早く自分の心の声を聞くべきでしょう。
その心の声を聞き行うことが本当に自分が救われる唯一の道であるからです。
追伸…IS(イスラム国)が、今度は「アメリカの中心のワシントンを攻撃する」という声明を出しました。
この者たちはもちろん間違った信仰をしているのですが、このような自爆テロなど行った者は、これもまたもちろん地獄に堕ちます。
このような自爆テロなど行い死んでいった者たちは、地獄でも同じような自爆テロを何度も何度も行って、その時の自分が味わった恐怖や痛みを何度も何度も体験するのです。
そのようなことが悪いことであったと自分自身が自覚するまでです。
また、そのような恐ろしいことをやらせた指導者は、それ以上の恐怖と苦しみを与えられ、その自分たちが悪をやらせた最後の一人が地獄界から天上界に上がるまで(救われるまで)地獄の苦しみから抜け出ることは出来ません。
このような者たちが死んだ後は、想像を絶する苦しみが待っているのです。
そのような恐ろしい世界に死後往きたいのでしょうか?
早くそのような恐ろしい行いをやめ反省されることを願うばかりです。
なぜなら、後で一番苦しまなければいけないのは、そのようなテロをしている、その人たち自身であるからです。



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