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3月 04 2015

本物の神の教え

今日の未明に東海地方で震度4の地震が起こりました。(名古屋も震度3の地震が起きたようです)

この辺りで、これだけ強い地震が起きるのも久しぶりです。昨日は愛知県の稲沢市で奇祭、国府宮の裸まつりが行われましたが、あまり厄除けにはならなかったようです。(祭りが終わった直後に、このような大きな地震が起きているようではです)

最近サイレンは少ないのですが、いよいよこの辺りやばいんじゃないですか?(この地震が何かを暗示しているのではないでしょうか)

またどこかの会社に何か起きたようですし、それ以外のところでも起きているようです。(やたら怒っている人がいますから)

しかし、悪いことをみな私のせいにされてもねぇ。(本当に迷惑です)昨日も説明しましたが、自分たちは何も悪いことをしていないのでしょうか?(例えば、私にくだらないこととかです)

自分たちが悪いことをしているのに、それを棚に上げて悪いことが起きたら、それを全部私のせいにして怒っているようでは、よけい悪いことが起こります。

悪いことを人のせいにする前に、まず自分たちの行いを反省されてはどうでしょうか。

何でこんな簡単な理屈、名古屋の人は分からないのでしょう?本当に不思議です。

自分たちが原因で起きて来た悪いことを、みな私のせいにしています。このような時代となったのです。それでは恐ろしい現象は止まらないでしょう。

正法の世となったのですから、そうであるなら正法は学ばなければいけないでしょう。正法の世となったのなら正法を学び実践しなければ時代に合わないからです。(正法といっても、そこらのお寺がいっている正法ではダメです。〔釈尊がいわれた本当の正法ではないからです〕この次々に奇跡が起きている法でないとダメなのです。釈尊が説かれた本物の正法は、私に起きているような奇跡が当たり前のように起きるからです)

昨日もいいましたが、名古屋の多くの人々はせっかくここまで分かったのです。では、少しくらい法を勉強されてはどうですか?もう、既存、新興の宗教では救われないと分かっているんですから。(そういうことまで名古屋の人たちは理解しているのです。これほどの神の業が現れたからです。では、神に感謝し、神の心を学ぼうとしなくてよいのでしょうか)

偽の教えに騙されることなく、本物の教えがなにかまで分かったのです。本当の人の救いは本物の神の教えを知った時から始まります。つまり、名古屋の多くの人々は(これまでのような実際は救われない偽の教えではなく)本当に人が救われて行く道が分かったのです。

そうであるなら、人が真に救われて行く教えを学ぶのは当然のことであると思います。(本当の人としての救いがそこにあるからです)

昨日あのようなブログを書いたから、今日の未明に、強い地震が東海地方に起きたかもしれないのです。(皆さんのやる気を促すためにです)

そればかりではありません。この辺りでくだらないことばかりやっている人たちに、次々に災いが起き出したのも、その暗示なのではないでしょうか?

これだけ多くのことを教えてもらった人たちが、いつまでたっても動こうとしないのです。それどころか、その天の心を伝えている者に嫌がらせを繰り返しているのです。

もう天はかなり苛立っているはずです。(もうこの辺りの人は、かなり危ない状況にあると思うんですが…)

もう怒っている場合ではないでしょう。一つの災いが終わりかけています。では、また次の災いが現れるのではないですか?これほどの災いが起こったにもかかわらず、心も行いも変えていない人たちばかりなのですから。

この世に偶然はありません。ここには天の心を書いていると再三いっているのです。では、昨日のブログを書いたあとに、この東海地方では珍しい強い地震が起きたことも、この辺りで起き出した災いも何か理由があるのでしょう。

その理由とは何か?ということです。

何度もいいますが、これだけのことが起きているのです。この現象を無視して、自分たちのことだけしているなど、やはりあまりに神の心に背いているのではないでしょうか。

私のいっていることが正しいという現象も次々に現れているのです。これだけ奇跡が起きている者を目の敵にしていて、それで本当によいのですか?

私に、くだらないことをやって不幸になっている人はたくさんいます。それに怒っている人も多いのですが、では、そういうくだらないことをしている人は悪くはないのでしょうか?

私に協力している人には奇跡が起きていますが、それについてはどう思われるのでしょうか?

私にくだらないことをしてくる人たちは、自分に都合の悪いことは(例えば、このような奇跡などです)一切無視して、悪いことが起きた部分だけ見て、お前(私)のせいといいます。

しかし、それは偏った見方なのではないでしょうか。正しい見方とは、よい現象も悪い現象も一緒に見て、そうして私のブログを読んで、総合的な見方をしたうえでの判断が正しいのであって、自分たちの都合の悪いことは無視して、都合のいいことだけ並び立て、お前が悪いといういいかたは、どう考えても間違いでしょう。

悪いことを私のせいにしている人たちは、単に自分の意地を通しているだけか、または自分たちの生活を変えたくないと思っているだけの人たちなのです。

しかし、何度でもいいますが、これだけの現象が起きているのです。もう自分たちの考えも、そうして生活も変えないわけにはいかないのではないでしょうか。

変えなければもう、いつ神の業が自分に現れるか分からないからです。

私の回りでは、次々に奇跡が起きています。そうして祈りもきかれています。

私が祈れば天が動きます。その天を動かすほどの祈りをしなければ、もう救われることはないのです。

そのような祈りを(正しい信仰を)いつまでもされなくてよいのでしょうか。

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3月 03 2015

名古屋と他の地域の人々の差

川崎で起きた中学一年生の殺害事件ですが(この事件も、もう少し回りに愛があったなら起きなかった事件です。この法が拡がっていれば、防げた事件だったのではないかと思うと本当に残念です)その犯人の十八歳の少年が「取り返しのつかないことをした」といっているそうですが、やった後では本当に取り返しがつきません。

取り返しがつかなくなる前に気づかないといけないのです。

それは名古屋の人たちも同じでしょう。これほどの現象が現れているのです。取り返しがつかなくなる前に(自分に現象が現れる前に)気づかれたらどうでしょうか?

もちろん神の心にです。

しかし、本気で思っているんでしょうか。このサイレンは私が原因であるとです。

昨日もひどかったですからね。大人から子供まで、そこら歩いていると目の敵にされます。(くだらないちょっかいばかりかけてきます)

何度もいいますが、因果応報という言葉は誰でも知っていると思います。人にやったことは自分に返ってきます。そういうことが起きる前に、これもまた気づかれた方がいいでしょう。

そういうくだらないことをしてくる人に、最近は「何でそんな悪い者に鳥が寄ってくるんだ」ということにしているんですが、それを聞くと十人が十人、体をビクッとさせるか体が固まりますね。(笑)

そうして、それを聞いてもなお何かしてくる人もいれば、無視していってしまう人もいます。しかし、一人として、その質問に答えてくれる人はいないのです。

なぜでしょう。多くの人が私は(人を病気にさせるなどの)悪いことばかりしていると思っているはずです。

そんな悪いことばかりしている者になら、どのようないい方にせよ、やり込められるはずなのに、一人として私に意見した人はいません。そのような簡単な一言にさえいい返せないのです。

そうして逆に私の方が「何で自分が知らない人間を次々に病気にさせるんだ。そんなことをしても恨まれるだけだろう」とか「鳥や魚が寄ってくるということは釈尊やキリストにも起きていたことだけど、そんな釈尊やキリストと同じ奇跡が起きている者に嫌がらせなんかして大丈夫か?」とか「本当の神の業が現れているのに、正しい祈りも正しい信仰も知らなくて大丈夫ですか?私の祈りは天まで動かしますけど、聞きに来なくていいのですか?」とか散々いっているのです。

悪いことばかりしているはずの私の方がいいたいことをいい、悪いことをしていないはずの私に一方的な嫌がらせをしてくる人たちの方が(一方的な嫌がらせって悪いことではないんでしょうか?)何一ついい返せない(普通なら逆だと思うんですが)何でこんな逆転現象が起きているんでしょうか?

まったく不思議ですね。これでは第三者が見たら、くだらない嫌がらせばかりされている私の方が正しい人のように思えます。

マァ、このような人たちの態度が物語っています。正しいのは私で、正しくないのは私に嫌がらせをしてくる人たちなのです。

それは、誰が見ても分かります。いい返しても勝てそうもないから誰もいい返さないのです。それだけのことです。(「うるせえ」とか「なにいっとる」とかはいわれたことがありますが、そういうのはいい返しているとはいいません。単に怒っているだけです。先に嫌がらせをしてきたのはそっちの方なのに勝手なものです)

いつまで意地を張っているのですか?もう自分たちが悪かったと認められてはいかがでしょうか?そうしなければ名古屋は救われないからです。

私がいっていることは正しいのではないですか。現に、最近はサイレンが減りました。私にブシュブシュやる運転手が減ったからです。

こういうことが起きているのですから、もうお分かりいただけると思います。私が人を病気にさせているわけではないということがです。

私が祈って病気になった人がいるならば、それは、その人が病気になるだけの理由があったのです。その人は、病気にならなければいけない心であったということです。

決して、私が祈ったから病気になったのではなく、元々、その人には病気になって反省すべき点があったのであり、その気づきの現象が私が祈ることにより現れたにすぎないのであり、もし私が祈らなかったら、もっとひどい現象がその人には後に現れることになったのです。

そうして、私に嫌がらせをしたばかりに不幸になった人がいるのであれば、それは法を説いている者に、そのようなことをするのはどれほどの罪か知れないと、多くの人に知らせるため、それもまた天がそのような現象を現せたのであり、これもまた、その人だけではなく多くの人への気づきの現象なのです。

そのようなすべて天が起こされている現象を、たった一人の者が、小さな自分の考えで感情的に起こしていると勘違いしているのが、名古屋の人たちであり、そんなたった一人の者の祈りで、大勢の人が病気になるなどありえないことなのです。(一人や二人の者を、病気させるということなら誰にでもできますよ。例えば丑の刻参りとかすればです。しかし、そんな人を呪うような祈りなどすれば一発で自分も終わりです。人を病気にさせるような祈りなどすれば、自分も病気になるからです。私に何も起きないということが、私が人を病気にするような祈りなどしていない証拠です)

それは、名古屋の人たちも分かっている人が多いのではないでしょうか。それが分かっているから、私のいうことに誰一人反論できないのです。

もうこのような天の意志が、神の業が次々に現れる時代となったのです。

そうであるなら、その時代に合わせた行いをするしかないのではないでしょうか。時代が変わったのなら、そのような時代に合った生活をする以外、自分たちが幸せになる方法はないからです。

何も、神の業が次々に現れているのは名古屋だけではありません。ここ数日の北海道などの荒れた天気はどうでしょう。このような異常気象は日本全国に及んでいるのです。

この日本に次々起きる異常気象、これもまた神の業なのです。

この神の業は日本全国にも、そうして世界にまで現れ始めているのです。

ただそれに多くの人が気づいていないだけで、一つの都市で、多くの人がそれに気づいているのは名古屋の人たちだけなのです。

お分かりいただけるでしょうか。私が、名古屋の人たちが立ち上がらなければいけないという意味がです。

こういう現象を神の業だといって、笑わないのは名古屋の人たちだけなのです。それ以外の地域でこんなことをいえば、ほとんどの人が笑ってそれを信じないのです。

神の業を神の業と理解できず、ただの自然現象としか思わないからです。

では、何で名古屋の人は笑わないのでしょう。何で多くの人が異常気象を神の業と理解出来るのでしょうか。

それだけ分かりやすい神の業が名古屋に現れたからであり、それほどの業が現れたお蔭で、名古屋の多くの人が(異常気象をただの自然現象とは思わず)本当の神の業と理解することが出来たのです。

これだけの分かりやすい神の業が名古屋に現れたから、これだけ多くの名古屋の人たちが神の業を神の業と理解することが出来たのであり、それが理解出来たのであれば、もう、神の心を実践するなら、この神の業(異常気象)は現れなくなるということも分かるはずです。

神の心を実践すれば、恐ろしい神の業は起こらなくなる、そこまではまだ気づいている人は少ないのでしょうが、しかし、このサイレンが減ってきたことでもそれは分かると思います。

神の心を実践すれば、恐ろしい神の業は起こらなくなるのです。

名古屋の多くの人が神の業には気づいています。(こういうことは他の地域ではあり得ません。これだけでも心の面で、どれだけ名古屋の人々が進んでいるのか分かります)

あとは「神の心を実践する」そうすれば、この恐ろしい神の業は現れなくなるのです。

やっとここまで来たのです。くだらないことをいつまでも続けるのではなく、神の心を実践されてはいかがでしょうか。

そうすれば今度は、名古屋に奇跡が続出するからです。

奇跡が続出するならば名古屋から、日本のみならず、世界を救うことが出来るようになるからです。

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3月 02 2015

法を勉強することの大事さ

このように釈尊がいわれた因果応報とは、来世再来世まで作用するのであり、今だけ、あるいは今生だけの話ではないのです。

昨日も書きましたが、人に悪いことをすれば、必ず自分にも悪いことが返ってきます。(その点でいっても私には奇跡しか起きていませんが…)

あまり悪いことはしない方がいいと思いますし、何度もいいますが、その悪いことの中でも法に関する悪いことは、この世で一番の悪いことなのです。(法はこの世の〔人間だけでなく、動物、植物〕すべてを救う教えであるからです。鳥や魚たちが喜んで私の回りに寄ってくるということでも、その事実が分かります)

その一番悪いことをやり続けた人たちは、もうちょっとやそっとで許されることはありません。(また、どこかの会社何か起きたようですが…今日は朝からずいぶんハイテンションです)

早々に神に詫びを入れられた方がよいでしょう。ともに私が祈らないと救われる道はないと思います。詫びて来られたらどうですか?

どれだけ私のせいにして怒っても無駄です。(私のせいではないからです)自分たちが反省しない限り、その災いはなくなりません。そうしてその災いは死んだあとまで続きます。(死んで地獄に堕ち、そうしてまた生まれ変わっても、この責任の償いはさせられるのです。法の流布を邪魔した責任はそれほど重いからです。皆さんはただそれを知らないだけなのです。法の恐ろしさ知らないからそのような態度がとれるのです)

毎週何か起きているのです。自分たちがしていることの恐ろしさ、早く自覚されることです。

皆さんがやっていることは、例えば祟りがあるといわれている物に(仏像でもお墓でもなんでもいいんですが)そんな祟りなど起きるわけがないと、その危ない仏像やお墓に一生懸命、悪さしているのと同じなのです。

そうして、何度祟りがあっても、自分たちは悪くないといい張り、その悪さを続けているのです。それでは祟りは収まりません。そういうことは悪かったと反省し、その仏像やお墓に詫びを入れないとその祟りは収まらないのです。

そのような危ない物には何もしない人たちが、なぜ、人に対してはそのようなことを平気でやるのでしょう。

どれだけ、危ないといっても理解してもらえないようですが、しかし、こればかりは理解してもらうまでいい続けるしかありません。(現に恐ろしいことが起きているようですから)

これまでの態度を反省されてはいかがでしょうか。それ以外、救われる道はないからです。

今日は、どこかの会社が朝からずいぶんハイテンションでしたので(それをほっとくわけにもいきませんし)よけいなことを書きましたが、このような因果応報は、別に悪いことばかりではありません。

よいことももちろん輪廻します。

鳥や魚たちが私の近くに寄って来ますが、今生このようなことが起きているのであれば、来世でもまたこのようなことが起きるということであり、今生だけでなく、来世もまた楽しいことがこの世で起きるのだなあと、また来世での楽しみが一つ増えました。

これも法に縁があり、そうして、その法をよく勉強し行った結果、起きてきた奇跡なのであり、いま私の周りで起きている奇跡的な出来事は、すべてこの『法』を知ったがため起きたことなのであって、それを考えれば、この法の偉大さがひしひしと感じられるのです。

もし、私が法を知らなければ、今ほど名古屋の人々に嫌われることもなかったでしょうが、このような奇跡を体験することもなかったでしょうし、唯心有神論になることもありませんでした。(私も法を知る前までは唯物無神論でしたから。ということは、心が救われることはなかったということです)

聖書に書かれてある奇跡も、漫画のようにしか思わなかったでしょうし、これだけいろいろなことを知ることもなかったでしょう。

もし、私が法を知らなければ、この世の常識を(目に見えるものがすべて)そのまま信じ、この世がすべてと、今のことだけ考え面白おかしく、出来るだけ死ぬことを考えないようにして(死は怖いことですからね)生きていったでしょう。

そうして当然死後の世界など信じなかったのですから、死ぬ間際まで死を恐れ、死にたくないと思いながら死んでいったでしょう。

しかし、法を知ることで(高橋先生、園頭先生を知ったことで)私の人生が全く変わってしまったのです。

そうして、私が法を知ったことで、多くの人々の人生をも変えることになったのです。(特に名古屋の人などそうではないでしょうか。表面意識はともかく、内面にある潜在意識はずいぶん喜んでいると思いますよ。どの人もです)

法を知ることで、どれだけ自分の人生が変わり、そうして多くの人々の人生も変わったか分からないほどなのです。

これがどれだけ凄いことなのか。このようなことを考えただけでも、法の偉大性がよく分かります。

まだまだこれから、この法を知ることで、運命が変わる人はたくさん出てくるでしょう。

また、そうならなければいけないのです。この法を知った人生こそ、本当の自分がなすべき人生であるからです。

今生、この法を知るのであれば、当然また来世でも法を知ることになります。なりますが、ただしそれは、この世で法の偉大性を自覚し、よく法を勉強した人のみということなのです。

今生の修行はそれほど楽ではありません。一度法を知れば、それでまた来世も法と縁があるなどとんでもないのです。

来世、法とまた縁が持てるのは、今生その法をしっかり勉強した人のみなのです。法をよく勉強し実践した合格者だけが来世もまた法との縁を持てるのです。(それは園頭先生が、高橋先生の弟子たちに向かっていわれた「今生、失敗した者たちは永遠の別れになる」という言葉でよく分かります)

はっきりいいまして、いまのような状況では(法の流布の邪魔をしたり、法を無視したりしているようでは)とても合格などできないのです。

高橋先生の下、しっかり勉強していた高橋先生の弟子たちでさえ、失敗者がたくさんいたのです。そうして、そのような人たちは、来世ではもう高橋先生との(法との)縁は持てないのです。

この世で法との縁を持てなければどうなるでしょう。先ほども書きましたが、この世で法を知らなければ、正しさの基準がよく分からず、迷いの人生を歩まなければいけなくなるのです。法と縁が持てるか、持てないかで、この世の人生は大きく変わってくるのです。

それほど気楽に、自分の人生を楽しんでいる場合ではないのではないでしょうか。人はいつ死ぬか分からないからです。

この法の偉大さは多くの人が理解されていると思います。

しかし、今のままでは大方の人が失敗ということになるのです。法の勉強をしっかりやろうとする人がほとんどいないからです。

それは(今日も北日本など天気が大荒れのようで名古屋のサイレンもそうですが)数々起きる天変地変でよく分かります。

法をしっかり勉強する人が多ければ、このような異常現象は起きないのです。

何度もいいますが、この法の流布を邪魔したり、無視したりしていれば、あとの後悔は大変なものとなります。

せっかく法との縁が持てたのです。もう少ししっかり勉強されてはどうでしょうか。

(私を知って人生観が変わった人も多いでしょう。少しくらい協力されてはどうでしょうか。そのような実践から法の勉強は始まるからです)

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3月 01 2015

因果応報

一昨日、野間に行ったんですが、相変わらず行き帰りの電車の中は修羅場でした。(苦笑)

一昨日行った時など、行きはまだよかったんですが(わりとすいていましたので)帰りは、名古屋に近づくにしたがって人がたくさん乗ってきます。そうすると私の回りに嫌がらせをする人が段々増えていきます。

そうなると、その場で辻説法をしっぱなしという状況になるのです。(本当に有名人は辛いです。〔苦笑〕)

私も、そこらじゅうでそんなことをされています。少々のことをいったくらいではみな聞く耳待ちません。(回り中で私が悪いという話になっているでしょうから)だから相手が怒りだすくらいいうのです。(それくらいいわないと、心に残らないですからね。せっかく私の話を聞いても心に残らなければ意味がありません。だから、相手が腹を立てるくらいいうのです。そのくらいいっておけば、ちょっとやそっとで私がいったことを忘れないでしょうから)

しかし、一対二百万です。(名古屋の人口二百万ですから)切りがないといえば切りがありません。こちらは大変ですね。

しかし、本当に大丈夫ですか。名古屋の皆さん。私に悪いことを全部押し付けていてです。

因果応報という言葉はご存知ですよね。

人にしていることは、いずれは自分に返ってきます。私に嫌がらせをし続けている人たちは、もし、私に何の罪もなければ、その人は、罪のない者によってたかって嫌がらせをしているということになり、当然ではありますが、その罪は全部自分に返って来るのです。

皆さん方が、私を一方的に(この名古屋で起きている現象の)犯人に仕立て上げたばかりに、私はそこらじゅうで嫌がらせを受け、いつ暴漢に襲われたり、前から来る人に刃物でブスとされるかもしれない状況なのです。(信号が変わって横断歩道を渡っていたら、右折や左折してくる車にひかれそうになったこともあります。私に気づかないふりをして、ブレーキをかけずに曲がってくる車もあるからです)

はっきりえば、私は、外にいては心が休まる時がありませんが、もし、私が無実であるなら、私にそのようなことをしている人たちは、いずれは私と同じ経験をしなければいけなくなります。それは当然覚悟していられるんでしょうね。(私が、このサイレンの本当の原因であるなら、それは自業自得ということにもなるんでしょうが)

もし、私が無実であった場合、私に嫌がらせをした人たちはどうなるのでしょうか。少し具体的に書いておきましょう。

私に、そのような嫌がらせをしてくる人は、小さな子供から年寄りまで様々ですが、小さな子供や若い人は、成長するに従い、いろいろな場所で心の修行をすることになります。(家庭はもちろんのこと、学校やら社会やらでです)

そうすると、そのような人たちは、そのいずれかの場所で、私と同じ体験をすることになるのです。

学校でそうなるのか(小、中、高、大)それとも、社会に出てからそうなるのかは分かりませんが、どこかで、いわれのない罪をきせられ、自分がどれだけ釈明しようと認められない、回り中から「あいつは悪い奴」と思われ、どこに行っても嫌がらせをされ、そうして道を歩いていれば、いつ暴漢に襲われるかもしれない、そのような日々を送らなければいけなくなるのです。

それがどの程度の期間、そうなるのかは分かりませんが(全部自分の心次第、そうして私に対し思ったことしたことの程度次第ということになります)そのような体験は今生必ずしなければいけなくなるのです。(大変ですよ。いま私がしている体験と同じ体験をしなければいけなくなるんですからね。その人の心によっては、逆恨みされた暴漢に襲われけがをするかもしれないし、最悪亡くなる人も出てきます。そのような運命が待っているのです)

それがこの世の法則だからです。(因果応報、善因善果、悪因悪果と釈尊がいわれた、原因、結果の法則です…この前このようなことを循環の法則と書きましたが、原因、結果の法則の間違いでした)

若い人は、今生でそのような体験をすることになるのですが、では、年寄りはどうでしょう。私に嫌がらせをしているお年寄りは、そのような体験が終わった人たちばかりです。(もう仕事も定年退職した、よぼよぼのような人まで嫌がらせをしてきますから)

そういう人たちは、そのような体験をせずに終わるのでしょうか?

とんでもありません。法則はどのような人にも同じように作用します。したがって、どれだけ年をとった人でも同じような体験はしないといけないのです。

ただ、それが今生か、それとも来世になるのかの違いなだけなのです。

今生で、罪のない者に罪をかぶせ、それを反省しないまま亡くなった人たちは、当然その罪は残ります。その罪の償いは、あの世の地獄でもすることになりますが、それだけにとどまらず、今度生まれ変わった場所で、その罪の償いをしなければいけなくなるのです。

生まれ変わったその場所で(今度どこの国に生まれるか、それは知りませんが)先ほど書いた、同じような体験をどこかでするか、自分は罪がないのに、罪をきせられ刑務所に入ることになるのか、どのような形になるのかは分かりませんが、これもまた、その人の心に従い、その罪の償いは必ずしなければいけないということです。

よく、無実の罪で刑務所に行き、そうして刑期を終えてから、自分に罪のないことがやっと世間に分かったという人がいますが、あれなどこのような因果応報の典型的な事件です。

あのような人は、前世で自分が同じようなことを人にしたのです。(自分の罪を罪のない人にかぶせた)それを今生清算したわけです。

このように原因、結果の法則(因果応報)は必ず作用します。

私が悪いかどうかも分からないのに、人の噂だけ信じで、一方的に嫌がらせをすることが果たして正しいことなのでしょうか?(前回も書きましたが、私には釈尊やキリストと同じ奇跡も起きていますし、多くの人の心も救っています。その私が、次から次に人を病気にさせているなど、あまりにナンセンスな発想であると思いますが…)

また、どのようなことを行うにせよ、必ず、原因、結果の法則は作用します。

そうであるなら、人に対して悪いことをするよりも、よいことをした方がよいのではないでしょうか。

そのようなよい行いが、結局は自分も救うことになるからです。(情けは人のためならずです)

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2月 28 2015

釈尊やキリストと同じ奇跡

昨日は、家の前の道路で水道工事(そういう予定の紙をすでにもらっていたものですから)がありましたので、どうせうるさくてブログも書けないだろうと思い、午前中から出かけました。(そうしたら、昨日は工事をしていなかったそうです。予定が変わったんでしょうか?)

久しぶりに野間に行ってきたんですが、面白かったですね。

野間について駅から出て歩き出したとたん、いろいろな鳥が寄って来ました。寄って来るといっても、それほど近くまで来るのではありませんが、ちょっと離れた辺りにあちこちからたくさん鳥が飛んできます。

すずめはもちろんのこと、カラスや鳩、トビ(多分ですが、よく鳥の種類が分からないもので)ムクドリなど、可愛いものです。

どの鳥もみな私のことを知っているようです。本当に不思議です。

野間は人もそれほどいません。何かホッとした時間でしたね。(笑)

動画もいくつか撮りましたが、このような面白いことも昨日ありました。

昼になったので、私はコンビニに握り飯を買いに行ったのですが、そのコンビニの前には田んぼが広がっていました。

そのコンビニの近くまで私が行くと、その前にある田んぼの中から「ギャーギャー」凄い鳴き声がします。

ところが鳴き声がしている方を見ても、何が鳴いているのか分かりませんでした。(逆光で見にくかったこともありますが)

何かの鳥が鳴いているんだろうとは思いましたが、聞いたことがない鳴き声です。あまりにギャーギャーうるさかったので、私が田んぼの方を見ながら「何がいるんだ、姿を見せろ」とかいってキョロキョロしていたら、急にその田んぼにいた鳥がこちらの方に向かい飛んできたのです。

ちょっと驚きましたが、多分トビだと思います。(家の近くにはいない鳥であることは確かです。だから鳴き声を聞いたことがなかったんですね)

トビの色と田んぼの枯草の色が同じような色で、そうして逆光でしたので、どこにいるのか分からなかったのですが、その場面も動画で撮りました。(ビデオを構えて、もう一度飛べといったら、本当にまた飛び上がったものですから撮れたのですが)

しかし、そのトビたち(数羽のトビが田んぼの中にいました)は面白かったですね。飛べといって飛び上がったこともそうですが、私がそのトビたちを動画で撮って「撮ったたで、もういいだろう」といってコンビニに行き、握り飯を買って出てくると、先ほどまであれほど「ギャーギャー」鳴いていたトビたちが少しも鳴きませんでした。

私が前を歩いて行くのをポケッとした顔で見ているだけでした。

先ほどまで、あれだけ騒いで鳴いていたのは一体なんだったんだと不思議でした。(動画を撮るだけ撮ったら静かになるなど、まるで動画を撮ってくれといわんばかりの態度でしたね。〔笑〕)

海岸に行けばカモメがいて、私のすぐ近くまで何羽も飛んできました。所々で、集団ですずめたちがいて、大騒ぎをしていました。そのような場面は動画に撮ってあります。

最後に野間駅の近くにある、野間大坊(のまだいぼう)というお寺に行ったのですが、この寺は源頼朝の父(義朝)の終焉の地として有名ですが、その寺の本尊は阿弥陀如来でした。

本堂に阿弥陀如来がまつられていましたので、その阿弥陀様も撮って(この前のブログに書いたのですが「これがキリストだそうです」といいながらです。〔笑〕)野間大坊から出てくると、すずめやらムクドリやらいっぱい寄ってきて、飛び回っていました。

その場面も撮りました。

私がどこに行っても鳥たちがたくさん寄って来ます。不思議なものです。

しかし、世に法を説く人が現れると、このような奇跡は現れるのでしょう。

釈尊が法を説かれる時は、鳥や動物たちも寄って来て釈尊の説法を聞いていたといわれますが、釈尊の時だけではなく、キリストが法を説かれた時も、きっとそのようなことが起きていたと思います。

あの山上の垂訓(さんじょうのすいくん)として後世に遺る(「心の貧しきものは幸いなり、天国はその人のものなり…」で有名なです)ガリラヤ湖のすぐ近くの小高い山で法を説かれた時も、法を説かれているキリストの回りには、鳥たちが来ていたのではないでしょうか。

ガリラヤ湖にも、たくさんの魚が寄って来ていたのではないでしょうか。

そのような鳥や魚たちの不思議を、当時の人たちはただ気づかなかっただけなのです。

その釈尊やキリストと同じ奇跡が起きている者がいるのです。

その者への態度、改めなくてもよいのでしょうか。

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