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10月 06 2013

まかぬ種は生えぬ

しかし、静かに過ごせる日など一日としてなくなりましたね。(昨日も夜中までサイレンが聞こえていましたから)毎日サイレンが聞こえてきます。

世の中ずいぶん様子が変わったと思いますが、変わらないのは皆様方の心だけのようです。(笑)

もう笑うしかないでしょう、これだけ次々に現象が現れているにもかかわらず、同じようなことを皆さん続けているのですから。

昨日のようなブログを書けば、マァ、市バスの運転手などわざとブシュブシュやってきますが(トラックの運転手は意外に少なかったですね、私はもっと意地になってやってくる人が〔いるにはいましたが〕多いと思ったのですが、意外や意外、そういう人の方が少なかったです)このような人たちは、人がどうなろうと知ったことではないということでしょうか?それとも自分の責任ではないという得意の責任転嫁でしょうか?(市バスの運転手など公務員ですからね、平民のいうことなど聞けるか、という差別意識もあるんじゃないですか?)

どういうつもりでやっているか分かりませんが、無責任なものです。これだけのことが名古屋で起きているというのに。だって、自分たちでは分からないでしょう、これだけ救急車が走っている本当の理由など。であるなら、少し静かにするのも一つの手だと思いますが、そういう発想は少しもしないんですね。お前のいうことなど聞けるか、ただそれだけです。これだけのことが起きているのに、本当に無責任です。

昨日は私の家でも大変でした。父が昼に出て行ったきり帰ってこなかったんですから。

結局父は、夜の九時過ぎに警察から電話が入り、保護しているということで迎えに行きましたが、ボケ爺さん一人家に帰らないだけでも大騒ぎになるのです。(母が警察に行き、近くにいる妹にまで電話をかけて)では、その家の大黒柱である父や、その家庭を預かる母が倒れてしまったら、一体その家族はどうなるのでしょうか?

そのような不幸になる家族が、現在の名古屋では毎日のように出ているのです。

それでも、自分たちの生活態度を変えようとはされないのですか?お前のせいと人に嫌がらせを続けるのでしょうか?それではいつまでたっても状況は変わらないでしょう。

まかぬ種は生えぬといいます。現在の名古屋にこれだけの不幸が襲っているのです。その不幸の種を誰かがまき散らしているのではないですか?そう考えなければ、これだけの不幸が連続して起きるわけないでしょう。(マァ、それが全部私ということになっているんですが)

しかし、よく考えてみてください、自分が不幸になったのが私のせいなら、釈尊の教えである「善因善果、悪因悪果」という法則は存在しないということになります。(そうですよね、人のせいで自分が不幸になったのですから。自分にはまったく悪い原因がなかったのに、自分に悪いことが起きたということですから)

それでは、釈尊のいわれたことが間違っているということになりますが、悪いことを皆私のせいにしている人は、釈尊の教えは間違いであると主張されるわけですね。

そういうことになりますよね。(違いますか?)しかしそれは、日本はもとより全世界の人に通用しないでしょう、世界中のほとんどの人が、あなたのいうことの方が間違いである、といわれるのではないでしょうか。

このような事実を知れば分かります。私のせいにしている人が間違っているのです。

私が祈ったから、そのような不幸が起きたわけではなく、その人はすでにそのような悪の種を自らまいているのです。その悪の種が芽を出したそれだけなのです。(私の祈りは、その芽を早く芽吹かせる、そういう作用はあると思いますが、まったくないものを現すような〔その人にまったく原因のない悪いことを起こさせる〕そんな力はありません。その人は、いずれそのような不幸が襲うことになるのです。それが少し早く現れた、気づきのチャンスが早く現れたということです)

結局、不幸になった人は、その不幸になる種を自ら持っていたのであり、それが現れたに過ぎません。

その人のご家族がもし不幸になったとしたら、その家族の不幸を願ったことはありませんか?また自分が不幸になったとしたら、そのようになる原因(人に対する怒りやねたみやひがみなど)を持ったことはないのでしょうか?

病は気からといいますが、病気は気の病と書きます。その言葉通り病気は人の気(心)が大きく作用しているのです。人を恨んだり、ねたんだり、そしったりしていれば、そのような心が大きく肉体に影響を与え病気になることはあるのです。(マイナスの思いばかり持っていれば、それが自分の肉体にもマイナスの影響を与え、病気になります)

いくら自分の家族とはいえ、けんかをする時もあるでしょう。そのような時に、その家族にも怒りや恨みの心を持ったことはないのでしょうか?そのような心を強く持てば、当然その家族の方にも影響を与えます。そのような心が、自分の家族といえども不幸にしてしまうのです。

人のせいで自分たちが不幸になったのではなく、そのような原因を自らがつくっているのです。だから、そのような現象が現れるのです。

すべて自分たちの心に問題があるのです。悪い心を強くもっているのであれば、それが自分や周りに現れるのです。

私に嫌がらせばかりしている人は、悪の原因を自らつくっていないのでしょうか?(その嫌がらせが、自分を不幸にする最大の原因だとは思われないのでしょうか?)

「善因善果、悪因悪果」も神理であれば「まかぬ種は生えぬ」というのも神理です。

今、私たちが気づかなければいけないことは、悪いことを人のせいしているのではなく、自分に対する反省の心なのではないでしょうか。

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10月 05 2013

神の業を忘れ愛を出すことを知らない愚かさ

しかし、よく考えてみればこれだけサイレンがしているのです。(昨日も救急車のサイレンやら、消防車のサイレンやら、なにやらよく聞こえてきました。一体、名古屋で何が起きているんでしょうか?)ということは、昨日書いたような不幸な人が、毎日出続けているということになりますね。

このような異常な状況で、何で皆さん平然と生活していられるのでしょうか?(特に、このような原因をつくったバスやトラックの運転手が、未だに平気で私を見るとブシュブシュやってきます。〔昨日も市バスやらトラックの運ちゃんやらによくやられました〕この人たち何の責任も感じていないようです)

このような状況を、いくら私一人のせいにしていたところで、その現象が収まるわけではありません。いい加減、今起きてる状況の恐ろしさを自覚しないと、気づいた時には名古屋が大変なことになっていた、ということも十分ありえる話なのではないでしょうか。

これ大袈裟な話ですかね?毎日これだけサイレンが聞こえてくるのです。現在の名古屋は大変な状況なのではないですか?(他の地域の人には申し訳ありませんが、今名古屋が大変なことになっています。こちらのことを優先的に書かせてもらいます)

いつまでも放置できる問題なのでしょうか?家族の誰か一人でも深刻な病にかかれば、その家族全員が不幸なのです。(家族の一人が深刻な病にかかって、平気でいられる人もそうはいないと思いますので)そのような不幸な家族が毎日続々と現れているのです。(昨日のような、消防車が出動しているということは、家かどこかが火事になっているということですし)これ大変なことが起きていると思われないでしょうか?

何でそれを、たった一人のせいにして平気でいられるのでしょう?まったく不思議でなりませんが、自分たちがそのような不幸に見舞われないと分からないのでしょうか?また、そのような不幸に見舞われても、少しするとそれを忘れてしまうのでしょうか?(前の会社などその典型のようです。昨日あれだけ静かだったのに今日はもういつものように邪魔しています。この会社、何度も恐ろしいことが起きていると思いますが、それも忘れたかのようなのです。この人たち一体どうなっているのでしょうか?)

この辺りの人たちでもそうですが(あのバスやトラックの運ちゃんたちも同じでしょうが)恐ろしいことが何度も起きていますよね(あれだけ態度が激変すればよく分かります)私に同じようなことを繰り返していますが、そのような神の業をすぐ忘れてしまうのでしょうか?

だとしたら、ちょっと信じられない恐ろしさですね。(頭がいいとか悪いとかそのような問題ではなく、それはもう恐ろしいとしかいいようがありません。神の起こされた業をすぐに忘れてしまうのですから)

このように、何か恐ろしいことが起きても一日二日でそれを忘れ、また同じことを繰り返す。なぜ名古屋でこのような恐ろしい現象が続いているのか、その理由もお分かりいただけるものと思います。(そんなに簡単に起きた現象を忘れられては、反省などできるわけありませんから)

神が起こされた現象を忘れないことです。

それを記憶にとどめ、心にとどめ、その時の心を反省する以外、この神の起こされた現象を止めるすべはないのです。

釈尊は、飢饉の時ほど托鉢しなさい、貧しい家ほど托鉢しなさい、といわれました。なぜそういわれたのか?

それはすべての天変地変(不幸)は、そこに住んでいる人の心が引き起こすからです。「与えるものは与えられ、奪うものは奪われる」「善因善果、悪因悪果」というのが法則だからです。

愛を与えることをせず、奪うことだけ、貰うことだけ(私に対する嫌がらせや無視は、私が多くの人に愛を与えようとする〔法を人々に伝えるほどの愛はありません〕その愛を奪っていること、貰っていることと同じなのです)を考えていると、なお奪われるという現象が起きてくるのです。その一つの現象が名古屋で起きている現象です。(現在日本で起きている、異常気象などの現象もこれと同じ理由です)

だから多くの人が不幸になっているのです。多くの愛を出している人の、その愛を奪い、ただもらっているだけだからです。

「魂の前進向上は、布施という慈悲の菩薩行を通じて、はっきり約束されよう」

釈尊はこのようにいわれています。

今(名古屋だけではありませんが)起きている恐ろしい現象は、自分の行いを反省せず、愛を出そうとしなかった結果であるということです。(愛を出すどころか、怒りばかり出しています。これでは〔その心のままに〕よけい恐ろしい現象が現れます)

神の業を、次々に忘れしまう愚かさに気づくべきでしょう。そうして、それに気づいたのであれば、自分があまりに愛を出していなかった、その愚かさにも気づくべきでしょう。

そうすれば恐ろしい現象は収まり、愛ある現象が次々に現れることになります。

しかし、その反省をせず愛ある行為をしようとしなければ、この恐ろしい現象はいつまでたっても続くのです。

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10月 04 2013

反省の大事さ

何か京都は立て続けに事件や事故が起きていますね。あの台風十八号の豪雨被害はもとより、花火大会の爆発、自動車が通学中の小学生に突っ込んだ事故や連続ひき逃げ事件、昨日は大人が小さな子供を、川底に叩きつけて殺してしまう異様な事件もあり、どうなっているのでしょうか?

昨日子供を川底に叩きつけて殺した人は、その子供の父親らしいのですが、何か意味の分からないことを話しているようで、完全に地獄霊に憑かれています。(精神病の病歴があったとニュースではいってましたが)前にも書きましたが、京都は神の名を利用して金儲けを続けています。そのような不遜な心で、あちこちにある寺の坊さんはいますので、当然あのたくさんあるお寺には地獄霊が寄り集まっています。

そのような地獄霊が暴れ始めましたね(悪魔たちも時代が変わり始めたのに気づいていますから)他の都道府県に比べられないくらい京都は地獄霊が集まっています。(不遜な寺や神社がかたまってありますから)京都はこれから、このようなおかしな事件や事故が続くのではないでしょうか。(神の気づきの現象も同時に起きますから)

しかし、その京都どころではありません。この辺りは、昨日も何度聞いたか分からないくらい救急車のサイレンが聞こえました。(これは悪魔の仕業ではないようですが)

先ほど母から聞いたのですが、家に来るガス屋さんなど家族が大変なことになっているようです。

そのガス屋さんのお父さんが先日亡くなられたそうですが、そのお父さんが亡くなると、とたんにお母さんがボケてしまったそうです。それだけでも大変なのに、そのガス屋さんの奥さんも植物人間のようになられ(何でそうなったのか理由は聞きませんでしたが)寝たきりだそうです。

お父さんが亡くなっただけでも大変なのに、そのとたんお母さんがボケられ、そうして嫁さんまで植物人間のようになってしまったのでは、この方この先どうやって生活をしていかれるのでしょうか。

他人事ではありますが、このご家族の先を考えますと、こちらも惨憺たる思いになります。

しかし、このような人がこの辺り案外多いのではないでしょうか?だって、これだけ救急車のサイレンが聞こえてくるのです。中には深刻な病で運ばれる人も当然いるでしょう。

この近所で昨日も何かあったようですね。

昨夜やたら怒っている人が何人もいましたし、今日は前の会社が妙に静かです。(いつもはやたらうるさいんですけどね)明らかに昨日の朝と雰囲気が違っています。何かまた、この近所で起きたようです。(前の会社に起きたのかもしれませんが…この会社の人、先ほどのガス屋さんのような不幸な人多いんではないでしょうか?これだけ法の流布を邪魔しているんですから。かなり恐ろしいことしているんですが、どうしても、その恐ろしさの自覚がこの人たち持てないようです)

何度恐ろしいことが起きれば分かるのでしょう。しかし、そのガス屋さんの話を聞いて、私も今起きていることの現実を少し知りましたね。こういう不幸な人がこの辺り続出しているのではないか?と。

もし、そうであるなら、これはもう大変なことでしょう。そんなことが起きているのに、この辺りの人、まだ平気で私に嫌がらせを続けているのです。ちょっと考えられませんね。そのような行為は平気で神に逆らっているということになるのですから。

よろしいんですか、本当に。そんなことを続けていて。

先ほどのガス屋さんのようなご家族が、この辺り多いのではないのですか?(これだけ救急車のサイレンが聞こえてくるのですから)そうであるなら、早く心を入れ替えないと大変なことになります。皆さん方は神に逆らい続けているからです。

法を勉強し協力されたらどうでしょう。今のような状態では、いつ不幸が(自分だけでなく)ご家族を襲うか分からないのです。しかし、法を知るのであれば、そのような不幸が襲う心配は取りあえずなくなります。それに仮にご家族にその不幸が襲ったとしても、どのような奇跡が現れるか分からないのです。(つまり今とまったく逆のパターンになるということです)

これだけ毎日サイレンが聞こえているのです。それは不幸なことが、多くの家庭で起き続けているということになります。

これだけ恐ろしい現象が他にあるのでしょうか?それだけ恐ろしい現象を毎日起こされ続けているのです。皆さん方がその自覚がないだけで、神に逆らい続けているからです。

人のせいではありません。すべて自分のせいなのです。自分の責任なのです。なぜなら、そのようなことを私のせいにしている人の一人でも、神のことを真剣に思われた人がいるのでしょうか?神のことなど少しも思わず、ただ悪いことが起きれば人のせいにして怒り、人の悪口をいって嫌がらせを続けている、そのような人ばかりではないのですか?

自分が悪かったと思われた人はいるのでしょうか?自分の罪を神にざんげした人がいるのでしょうか?そんな人いないでしょう、もしそのような人が五人でも十人でもいれば、この辺りで起きている恐ろしい現象は、もっと収まるはずだからです。もっと静かになるはずだからです。

しかし、この辺りに起きている恐ろしい現象は、収まるどころか激しさを増しています。

ということは、このような現象を神から起こされ、反省を促されているにもかかわらず、逆にその現象に怒り、恨みの心を持つ人が多い証拠であり、まるで反省の心など持ちあわせていないのです。

いい加減にされたらどうでしょう、何度もいいますが、皆さん方は神に逆らい続けているのです。

先ほども救急車のサイレンが聞こえていました。

少しで結構です。たとえ少しでも心を入れ替える人が出てくるのであれば、この恐ろしい現象も少しは収まります。(でないとこれでは増える一方です)少しくらい自分が悪かったと反省されてはいかがでしょうか?

そのような謙虚な心が世の中を変えるのです。

(これだけサイレンが響いては他に考えがいきませんね。〔今日は別のことを書こうと思っていたんですが〕もうソロソロ少しくらい協力される人が現れてこないのでしょうか?でないと、このままでは本当に不幸な家庭が続出しますよ)

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10月 03 2013

パウロと親鸞上人

昨日は暑かったですね、十月の観測史上最高の気温を記録したところが続出したようです。台風も二十二号、二十三号と立て続けに日本に向かってきたようですし(幸い上陸までには至らないようですが…二十三号はまだ分かりませんが)まだまだ異常気象は続いています。

いつまでも法を無視している行為が、どれだけ恐ろしいのか(またもったいないのか…その理由はこれから書きます)まだ皆さんお分かりではないようです。(昨日はサイレンもよく聞こえました)

それはともかく、昨日書きました“人間罪の子”という思想が、なぜこれだけ日本に拡がっているのか?その理由を書いておきましょう。

それは昨日も書きましたようにパウロと親鸞上人の影響が大きいからです。

増谷文雄著「仏教とキリスト教の比較研究」という本があるのですが、この本の中にはパウロと親鸞上人が説いていることは、まったく同じであるということが書かれてあります。また佐古純一郎著「パウロと親鸞」という本にも、二人の信仰の内容が驚くほど似ていると書かれてあります。

このようにキリスト教と仏教が、同じ真理を説いているということを説明しようとする人たちのほとんどすべては、パウロと親鸞上人を対比しているのです。このお二方は、そのいわれていることが驚くほど似ているからです。

ローマ書第七章に書かれてありますが、パウロが「我はわが中(うち)、すなわち我が肉のうちに善の宿らぬを知る。善の浴すること我にあれど、之を行う事なければなり……我らの主、イエス・キリストに頼りて神に感謝す。されば我みづから心にては、神の律法(おきて)に仕え、肉にては罪の法に事(つか)ふるなり」といっていることと、親鸞上人が「真実の心はありがたし、虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて、清浄(しょうじょう)の心もさらになし……悪性(あくしょう)さらにやめがたし、心は蛇蝎(だかつ)のごとくなり」といっていられることは同じであるし、パウロが「人間は罪の子である」といっていることと、親鸞上人が「罪悪深重の凡夫」(ざいあくしんじゅうのぼんぷ)といっていられることは同じなのです。

このようにパウロも親鸞上人も、人間は罪の子であり、その人間は、自分で自分を救うことができないので、キリストや阿弥陀如来のみ名をあがめ祈り(念仏)キリストや阿弥陀如来に救ってもらうしかないと説いていられるのです。(他力信仰)

このパウロと親鸞上人の考え方が、今日のキリスト教と仏教の考え方の主流となっています。だから、今の宗教界は「人間は罪の子」といわれることが多いのですが、もちろんこの考え方は間違っています。

それは釈尊の過去世を持たれた高橋信次先生が、この日本に肉体を持たれ法を説かれたことで、その事実が分かったのです。釈尊もキリストも一言も「人間は罪の子」などとはいわれていません。

「人間は神の子」であるからです。(その理由は昨日のブログで説明したとおりです)

キリスト教がパウロの影響をまともに受け(だから現在のキリスト教はパウロ教といわれるのですが)仏教界が親鸞上人の教えの影響をまともに受けた、パウロや親鸞上人の教えを盲目的に信じてしまった人が多かった、そのために今日の宗教界では「人間は罪の子である」という思想が拡まっているのです。

しかし、この考えは間違いで私たちは皆、神につくられた神の子なのです。だから、正しいことをしなければいけないし、神の子であるから神の悟りを得ることができるのです。(罪の子では悟りなど得られませんから)

これからは「人間神の子」この思想を拡めなければいけないのです。

追伸…なぜ、パウロと親鸞上人は同じことを説いたのか?これもついでに書いておきます。もうお分かりの人もいると思いますが、このお二方は同じ人物だったからです。

お分かりですか?パウロが生まれ変わって日本に親鸞として生まれたのです。だから同じことを説いたのです。(同一人物ですから)

これも、高橋先生が教えてくれなければ分からなかったことですが、このような事実が分かると、パウロと親鸞がなぜ同じことをいわれたのか合点がいきます。

しかし、パウロがローマで死刑になったのは西暦の64年のことです。そうして親鸞上人が、日本に生まれられたのが1173年です。この間が約千百年ほどあるのですが、その間ずっとパウロは天上界にいられたはずですが、この人一体何を天上界で学んでいたんでしょう?

あの世に帰れば、この世現象界で犯した間違いを厳しく反省し、勉強しなおすはずですが、そのローマでした同じ間違いをまた日本に親鸞として生まれた時にもしています。

この方の、心の進歩がまったく見られないというのは残念なことですが、このパウロ(親鸞)であった方は、その前世は、釈尊の弟子でクナンダ・カシャパーといわれる方であったのです。

つまりこの方は、釈尊の弟子として法を学び、そうしてキリストの教えを学び(キリストの奇跡まで体験されました)そうして日本に親鸞という僧として生まれて法を説かれたのですが、それでも完璧な法が説けていないのです。(そのような縁から、今生は高橋先生の身内として生まれられましたが、それもダメだったようです。最後に高橋先生を裏切り、園頭先生にも師事されなかったようですから)

これだけの縁をいただいても、それでも法をしっかり理解するというのは難しいのです。(しかもこの方、菩薩界の人です。菩薩の心を持っていてもこれです)では、それほどの縁を持たない人が、そう簡単に法を理解することができるでしょうか?

まず無理でしょう、だから、そのチャンスがある時に、しっかり法は勉強しておかなければいけないのです。

このブログを読んでいる多くの人が、めったに来ないチャンスをみすみす逃しているということです。

なんともったいないことでしょう。

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10月 02 2013

人間罪の子?

中国に次のような話があります。

ある若い僧が、川べりで瓦を一生懸命磨いていました。通りかかった老僧がそれを見ていいました。

「おい若い僧、お前はそこで何をしているのか」

「瓦を磨いて玉にしようと思います」

人間は本来瓦(罪の子)である、だから瓦(罪の子の自分)を磨いて玉(神の子)にするのである、という考え方です。

しかし、この考え方は老僧から一喝されます。

「ばか者、瓦をいくら磨いても玉になるものか。玉だから磨けば玉になるんだ。考え違いをするな」

このような考え違いをしている人はたくさんいます。

「人間は罪の子だから、その罪をいつまでも背負っていては救われない、だから、その罪をざんげし心を入れ替えることによって、神はその罪を許してくれるのです」と。

一見すると、この意見は正しそうに思えますが、しかし、先ほどの中国の僧の話を思い出すのであれば、この考え方はおかしいのではないか?と思われる人も多いはずです。

人間が本来罪の子(瓦)であるならば、なぜ罪を犯すのがいけないのでしょう?罪を犯せばいいのではないですか?元々そのようにつくられているのですから。

ところが罪の子の人間の罪をざんげし、心を入れ替えろといのです。なぜ、心を入れ替える必要があるのでしょうか?元々罪の子としてつくられているのにです。

人を罪の子と断定してしまうと、このように説明がつかなくなるのです。人間罪の子といっている人たちは、最初から論理矛盾をかかえているのです。

人間は神の子だから、罪を犯すのはいけないし、罪を犯したのであれば、その罪をざんげし心を入れ替えなければならない、このような説明でなければ納得できないでしょう。

それに人間が罪の子としてつくられているのなら、神の子になることは永遠にできません。先ほどの話の通り、どうやっても罪の子(瓦)が神の子(玉)に変わるはずがないからです。元々神の子であるから人間は神の子になれるのですし、よいこともしなければいけないのです。(元々よいことをするようにつくられているからです)

この人間罪の子という思想は、新興宗教でもいっているところが多いのですが(そうして教祖様だけは神の子といわれるのです…なぜ教祖様だけ神の子なのでしょうか?)キリスト教や仏教でもいわれています。しかし、そのような思想は間違いであり、これはパウロや親鸞上人の影響でそういわれるようになっただけで、キリストも釈尊も人間が罪の子などとはいっていられません。

いわれるわけありません。人間は神につくられた神の子である、ということをお二方ともご存知だからです。(パウロや親鸞上人はなぜそんな説き方をされたのか?それはこの二人の心に問題があったのですが、それはまた別の機会に書きます)

人間は神の子だから、悪いことをすればざんげも必要であるし、心を入れ替え、これまで犯した罪を神に詫びることも必要なのです。元々は神と同様の、きれいな心を人は神から与えられているからです。そのきれいな心を勝手に汚したのはその人だからです。(自分の間違った思想などでです)

そこらへんに落ちている石を、どれだけ磨こうとダイヤモンドの輝きは出てきませんが、汚れたダイヤモンドをきれいにすれば、本来の輝きを、そのダイヤモンドは取り戻しきれいに光り輝くのです。

それは元がダイヤだからです。

人の心もこれと同じで、ダイヤモンドの輝きをすべての人は持っているのですが、その心本来の輝きを現している人は、現在はほとんどいません。

それは自らして、そのすばらしい心の輝きに曇りをつくっているからです。わざわざきれいな心の光を汚しているのです。

今日も朝から、一生懸命このブログを書くのを邪魔をし、昨日のようなブログを書けば、気色ばんで嫌がらせしてくる人たちもいます。(何が面白くないのか〔よほど地獄に堕ちたくないのか、私に寄付するのがいやなのか知りませんが〕自分たちの行状を棚に上げ、それをまったく反省することなく、そんなことしてくるんですから呆れるばかりです。それではどう考えても死後は地獄でしょう)そのような心と行いが自らの心の光に曇りをつくっているのです。

そのような曇りを、心に生じさせているのであれば、それがどんな災いを呼ぶことになるのか分からないのです。(多くの災いを呼んでいる人が多そうですが)しかし、心が本来を輝きを取り戻すのであれば、その光が神の光と共鳴しどんな幸運(奇跡)を呼ぶのか分からないのです。

幸運と災いではずいぶんと差がありますが、日本の現状を知るのであれば、どれほど多くの人が心に曇りをつくり災いを呼んでいるのか想像できます。

人間本来神の子であります。その神の子にふさわしい心と行いをされたらいかがでしょうか?(それが分かっていても、どうしてもできない人もいます。しかしそれは勇気が足りないのです)

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