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5月 09 2013

神の教えと悪魔の教えの違い

昔、デビルマンという漫画がありましたが、ああいうことは本当に起きているのです。心が地獄に同通すれば、その人の心と同じような心を持った悪魔(地獄霊)が寄ってきて、憑かれてしまうのです。

「あの人を殺せ」とか(悪いことを)「やってしまえ」といわれてやった、などといってる、犯罪を犯した精神異常者と思われる人たちの言動がその典型です。悪魔に憑かれてしまうと、ああいう(私たちから見れば)異常な行動を平気でとってしまうのです。しかし、それは本人たちからしたら、自分だけには観えている悪魔から命令され、そのような悪を犯してしまうのです。悪魔を理解しないと本当に恐ろしいことになるのです。

これは何も精神異常者に限りません。よく当てごとをしたり(オーム真理教の信者がやっていたような)飛んだり跳ねたり、病気治しをしたりして人を集めている、宗教団体の教祖などもほとんどは(というかほぼ全員ですが)神が憑いているのではなく、悪魔が憑いているのです。

神の教えと悪魔の教え、それをしっかり見分けることができないといけないのです。

あのような教祖たちは、一見よさそうなことをしているように見えますが、実際は心の成長には程遠いことをしているのです。(それはすなわち悪魔の所業です、人の心の成長をさせないのですから)

同じようなことをするにせよ、人を成長させるか、それともただ驚くようなことをして、その人を自由にしたいだけなのかで、まったく意味が違ってくるということです。

このように考えますと、巷の宗教団体の教祖や既存の宗教、あるいは行者といわれる人たちが、本当の神の教えを説いていると思われるでしょうか?

「あなたはこのような人ですね」「この時こういうことが起きます」と、その人の言動や予言などして(予言といっても当たる時もあれば外れる時もある、当たるも八卦、当たらぬも八卦クラスです)だからこうしなさいと、いうことを聞かせたり、人にできないような飛んだり跳ねたりして、いうことを聞かせたり、ただお経を上げているだけでお金(布施)をもらっていたり、あるいは滝にうたれたり、きつい肉体行をやってそれで悟ったようなことをいっている人たちなど、すべて正しい教えを説いているわけではないのです。

なぜなら世界中の誰もが知っている救世主(釈尊、キリスト、モーゼ)といわれる方々は誰もそんなことをしていないからです。(もちろん一部はしていますよ、同じようなことをね)

釈尊もキリストもモーゼも、まず、人が救われる道(それは人を成長させる道)をしっかり説かれ、そうして信じられないような奇跡を次々に現されたのです。

このような方々こそ本物の救世主であり、いいことをいっていても口だけだったり、当てごとや人が驚くようなことをして得々としていたり、お経を上げているだけだったり、肉体行をしているだけ(釈尊は肉体行は間違いといわれていますので)の人たちのいうことなど、決して聞いてはならないということです。

なぜなら、そのような人たちは、本当の神の教えを説いているわけではないからです。不思議な現象を仮に起こしても、それは悪魔がやっているからです。本当の神の使いとはやっていることが違っているからです。その違いを理解しないといけないのです。(何度もいいますが一部は同じようなことをしています。しかし、計算式と同じように、途中の計算を一つでも間違えれば、その計算式の答えが間違ってくるのと同様に、本当の神の教えのようであっても、伝えている途中で、どこか一箇所でも違っていれば、その教えは本当の神の教えではなくなります。多くの人はその間違っている部分が分からないのです。だから、皆同じように思ってしまったり、または〔間違いを正しいと信じさせられているので〕自分の信じているものだけが正しいと思い込んでいるのです)

その違いが人の心を成長させるか、させないか、ということであり、桁違いの奇跡を起こせるか、起こせないか、ということなのです。

悪魔の教えは人を救っているようで救わず、奇跡を起こしているようで、実はさほどの奇跡も起きていないということです。(悪魔も異次元にいるのですから、少々の先に起きることなら分かりますし、不思議な力も持っています。しかし、最終的には人を不幸にするのです)

当てごとをして、仮にそれが百パーセント当たったところで、その当てられた人が救われるでしょうか。そのような予言者のような人について、嫌なことを百パーセント回避して、それで自分の心の成長があるのでしょうか?

嫌なことであろうと、それを自分で乗り越えないと心は成長しませんし、驚くようなことをいくらしたところで、やはりそれも心の成長とは無関係です。病気になりそれが治れば、なぜ、そのような病気になったのか、その病気なった原因を伝え、ではどうすればそのような病気になることはないのか、それを教えなければ、その病気が治った人は救われないし、心の成長もありません。まして、釈尊やキリストがやらなかったお経など上げろともいいませんし、肉体行など論外でしょう。

本当の神の教えを説く者は、意味のないことは教えないし、楽なことばかり教えないのです。むしろ茨の道を教えるのです。それがその人を真に救うことになるからです。

これからは神の教えを勉強しなければ、生きられない時代となってきます。悪魔の教えに何時までも惑わされていてはならないのです。

本当の神の教えを理解しなければ、知らず知らずのうちに悪魔の虜にされ、不幸の道を辿ることになります。(そのようになっている人かなりいます)

神の教えと悪魔の教え、その違いを理解しなければならない時が来ているのです。

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5月 08 2013

天使を撮るか悪魔を撮るか

昨夜はまたスーパーなど行くと、私にちょっかいをかけてくる人多かったですね、大丈夫ですか?そんなよけいなことして。(私の相手などしなければいいのに…と思うのですが)

最近は何も起きていないんですかね、この辺り。あまり態度が急変する人いないように感じますが。

よかったですね、何も起きなくなって…それでよけいなことやる人が多いんでしょうか?(私をなめてしまって)

今何も起きていないからと、そんなことしていると恐ろしいと思うんですが、そういう現象がこれで終わったと思われますか?

何度もいいますが、この辺りの人たちの心がよほど変わったのならともかく、そうでないのに現象が終わっているわけありません。天が反省する時を与えているのです。この時を無駄にするとまた恐ろしい現象が始まります。せっかく神のことを知られたのです。今のうちに心を変えることです。(何度同じことが起きれば分かるのでしょうか)

とりあえず座談会までは大丈夫だと思いますよ。(だって、座談会前に次々に現象が起きたら、誰も座談会来なくなるでしょう)それまでに少し反省されたらいかがでしょう。そうしないとまた恐ろしい現象が起きてくるかもしれません。

傲慢な人が多そうですんで、どのような態度が反省したという態度なのか、お教えしますね。(また、こんなこと書いてると嫌がらせされます)

例えば、いよいよ法の流布が再開されるのですから(園頭先生が倒れられて以来の出来事です。記念すべき出来事でしょう。〔笑〕)それを記念して寄付するとか、多くの人にこの座談会のことを教えてあげるとか、いろいろやることはあります。

そのように私に協力しないといけないのです。本当ですよ、私にどれだけ嫌がらせしても自分の損になるだけで一つも得しません。そのように私に協力するなら、どれだけ自分の徳になるか分かりません。この世に生まれ自分の徳になることほど得なことはないのです。(だから、このブログを書くのを邪魔したり、私に嫌がらせしたりなどしている人は、どれだけ損をしているか分からないのです)

悪いこといいません協力してください、神の使いに協力することが神の子としての、すべての人の使命なのです。

逆に今度の座談会の邪魔をしたり、誰も参加しなかったりしてみなさい。その邪魔した人はもちろんのこと(一族郎党が末代まで祟られます)誰も来なかったというのであれば、この辺り、また来週からどんな恐ろしいことが起きるか分かったものではありません。(別に脅してるわけではありません。私は一人でやっているのです。多くの人から脅されることはあっても、多くの人を脅せるわけありません。何かあってもいけないと心配して書いているのです。やさしいですから私)

少しでもいいですから、私に嫌がらせした人は協力された方がいいです。じゃないと、その人たち全員地獄往きです。(これは本当のことです)

口でいっただけで素直に従ってくれれば、悪いこと起きませんが、それができないから悪いことも起きるのでしょう。一人でも多くの人が早く気づかれることを願うばかりです。

前置きが長くなりすぎましたね(何せ、いろいろ事件が起きるものですから)昨日の続きをもう少し書いておきましょう。

先ほど祟ると書きましたが、その祟りの映画の定番で夏になると、四谷怪談のお岩さんの映画などよく上映されますが(最近はそうでもないですかね、私たちの小さい頃は定番でしたが)この四谷怪談のお岩さんなど実在した人ではありません。(四谷怪談などただの創作ですからね)実在した人ではありませんが、なぜかお岩さんのお墓があります。(そのお岩さんのお墓〔お岩稲荷〕は別の人のお墓だそうですが)

そのお岩稲荷に、この四谷怪談の映画などを撮る時には、必ず関係者はお参りしてから撮影を始めるそうです。そうしないと祟るからです。(現実にお岩稲荷にお参りしないで、四谷怪談の映画や芝居などやって、おかしな事故や事件が多発したそうです)

しかし、何で実在しないお岩さんが祟るのでしょうか?

それは次のような理由があるからです。

これはお岩さんが祟っているのではないのです。(それはそうでしょう、実在しなかった人が祟れるわけありません)お岩さんではなく、そんな四谷怪談などの恐ろしい映画を撮れば、そのような地獄霊をいっぱい引き寄せるのです。その地獄霊が祟るのです。

だから、その地獄霊を鎮めるため、お岩稲荷にお参りするというわけです。

それでも、それでおさまらない地獄霊もいるので、そのような霊がおかしなことをするということはあるのでしょうが、それでもお参りするとしないのとでは、全然違います。(そのようなところにお参りしておけば、一応地獄霊も納得しますので)

おかしな映画を撮る時は、そのような参拝はしておいた方がいいのです。

例えば、殺人鬼の映画とか悪魔の映画とか撮る時など、そんなおかしな霊がいっぱい寄り集まって来ているのです。だから、おかしな事件がよく起きるのではないでしょうか?(よく起きませんか、奇怪な事件が)それは皆そのような地獄霊の作用です。

だから、恐ろしい映画などあまり撮らない方がいいのですが(ということは、そんな映画が上映されている映画館など、地獄霊がいっぱい来ています。おまけにそんな映画を観ている間は、それと同じような地獄界に観ている人の心は同通しているのです…ゾッとしませんか)不思議なことに、世の中そのような悪魔を題材にした映画が多く、神や天使を題材にした映画は非常に少ないのです。(キリストや釈尊の映画などないとはいいませんが、ほんと少ないですもんね)

殺人鬼や悪魔を題材にした映画など撮れば、撮っている人たちの心にも悪影響を与え、観ている人にも同じように悪影響を与えます。しかも、本物の悪魔まで呼び寄せているのです。

その反対に神や天使の映画を撮るならば、撮っている人はもちろんのこと、その映画を観ている人の心にもいい影響を与え、しかも光の天使たちがたくさん来られて協力してくれますので、奇跡まで起きることになります。

売れる売れないではなく、人の心によい影響を与えるか与えないか、それをこれから考えて、映画をつくられたらどうでしょうか。光の天使の映画をたくさんつくるのであれば、多くの奇跡が起きるようになります。(それでも売れないと仕方ありませんが、売れるようにつくればいいのです。そんなストリーいくらでもできるでしょう)

祟られる映画などつくるよりは、奇跡が起きる映画をつくられた方がよほどよいと思います。

映画やテレビのドラマなども、これから少しは、神の心を生かしたものをつくられたらいかがでしょうか。(裏切りやら殺人やら不倫やら、これまでのものはあまり神の心を現しているとは思えませんが)

その方が結局得(徳)になるからです。

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5月 07 2013

芝居などの危うさ

前回、木々もきれいに色づき、と書きましたが、これは秋の紅葉の時に使う言葉ですね、後で気づきましたが書き直すのも何でしたので、ここで訂正しておきます。

季節柄、新緑鮮やかな、と書かなければいけませんでした。(笑)

いけませんね、今週座談会があると思うとそちらに気がいってしまい、どうもブログに身が入りません。ブログはブログでしっかり書かないといけませんが、気がそちらにいっているのに、無視していてもまともなもの書けないでしょうから、気になるものをネタに書くことにします。

私はどういう女の子に一番興味があるか分かりますか?

いい年したおっさんが、こんなことで口ごもっていても仕方がないので、はっきり書いておきますが、私が一番興味がある女の子とは、もちろん一番人気のある女の子です。

私は人気がある子に興味があるのです。それは当たり前ではないでしょうか、だって人気のある子が法を知って、勉強してもらえるなら、黙っていても法を知る人が増えるのです。法を拡げたい私としましては、人気のある子に興味を持つのは、ある意味当然の事ではないでしょうか。

だから、そういう子が一人でも二人でも座談会に参加してもらえれば、座談会に来る人も増えて、そうすれば(名古屋でだけでなく)あちこちで座談会を開くことができ、法も拡がることになり、やる気のある人もたくさん出てくることでしょう。ですから、人気のある女の子は非常に興味があります。

では、人気がなくなればその子に興味がなくなるのか、といわれれば、それはそうです、だって、その子の人気に興味があるのですから。(その子の人柄まで分かりませんからね、顔は知ってても)そういう子に座談会に来てもらえれば、座談会もにぎわうでしょう。

それでは、その子たちはただの客寄せパンダではないか、という人もいるでしょうが、そうですよ客寄せパンダです。その子たちは。

しかし、こと法に関する限り、客寄せパンダも法の流布に一役買っていることになり、それはそれで大事な存在であるのです。(多くの人に法を知らせるという意味で)それに、仮に座談会に来てくれるような子がいれば、その子たちは法に興味を持っているということなのですから、それなら最初は客寄せパンダでも、その後自分で勉強してもらって、法を説けるようになり神通力の一つ二つ現せるようになれば、もうその子のことを誰も客寄せパンダとは思わないでしょう。何でもそうですが要は自分の努力次第なのです。

なぜ、私が今回こんなことを書いたのかといえば、テレビによく出ている子など(あまり出ていない子でもそうですが)ブログなど読むとずいぶん忙しそうだからです。

睡眠時間もあまりない子も多いようで、それにあのような芝居やらなにやらやっている子は、心と裏腹な態度をとらなければならないことが、多いように思われます。(芝居などすれば、おかしくもないのに笑わなければいけないし、悲しくもないのに泣かなければいけないというようにです)

このように非常に忙しい上に、なおかつ自分の心とは、裏腹な態度をとることが多い仕事ということは、それはすなわち、自分の心にとっては、非常に悪いことをしているということなのです。(それはそうです。心をそのまま表に現すことが一番心にはいいのであって、心と裏腹な態度をしょっちゅうしていたら、二重人格のようになり、自分の本当の性格が分からなくなります。芝居というのは、実は大変心に悪影響を与えているのです)

芝居だけでも心にかなり悪影響を与えているのに、それで大忙しときています。

非常に忙しいということは、冷静に考えることができず、次から次にこの世のことをこなしていき、それで二重人格(芝居など)になるようなことばかりやっているのです。忙しい役者や歌手など、これだけ心に悪い仕事をしている人たちはいないのです。

だからブログなど見ると、精神が不安定になっているのではないか、と思う子もいるのです。

しかしこれも、そんな状態が続けば無理もない話で、よほど心をしっかり持っている子でない限り、精神が不安定になるのも仕方がないことでしょう。

だから、この心の勉強が普通の人以上に必要なのです。

心の勉強をしているのであれば、役に左右されず、どのような心でいなければいけないか分かりますし、おかしな役をやり、それが心に影響を与えそうになっても、その悪い想念を心から抜く方法も分かるからです。

仕事を忙しくされるのも結構なことですが、肝心の心が後退して異常をきたしてしまってはなにもなりません。

心の勉強の大事さを、そのような仕事をしている人たちは、もっと認識すべきでしょう。

追伸…そういう仕事をしている子が、私のブログを読んでいる子には多そうでしたので、今回このようなことを書きました。決して下心から(例えば無理に法に興味を持たそうとか)書いたわけではありません。ただ、皆さんが心配であった、その一心からです。やさしいでしょう、私。(私は人気のある子に興味があると書きましたが、その中にやたら読みがいい子がいますね、何とかはずさないと、とこちらが気を使ってしまいます〔苦笑〕)

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5月 06 2013

この世に生まれた意味

今日でGWも終わりです。(私は全然関係ありませんが)この季節は木々もきれいに色づき、気温もそれほど暑くもなく寒くもなく、ちょうどいいので一番好きな季節ではありますが、天上界は木々もきれいに色づいていつも常春のようだといわれます。

ちょうど今のような季節なのではないでしょうか。

その天上界にいける人も今の状況では少ないでしょう。多くの人が何時までたっても法を勉強しようとされないからです。

小さなことばかり気にしているのではなく、もっと物事を大きく考えられたらいかがでしょうか。そうすれば見えなかったことが見えてくるようになるかもしれません。

それにしても年が明けたと思ったらもう五月ですか…本当に時間が過ぎるのは早いです。この世にいられる時間は誰も限られています。時間があるようで実はこの世の修行など一瞬の出来事でしかありません。(人の永い輪廻転生を考えるのであれば)一時一時を無駄に過ごしてはならないのです。気づくのが遅れれば遅れるほど心の進歩も遅れるのです。

昨夜面白い体験をしました。

私が夜道を歩いていると、なんと頭にコウモリが当たってきたのです。何か頭に当たったので驚いて周りを見渡しましたが、何も落ちていませんし人もいません。アレ、おかしいなと思いキョロキョロしていると、私の周りを何匹かコウモリが飛んでいました。

コウモリが頭に当たってきた?そんなことあるのかとも思いましたが、どうもコウモリが私の頭に当たったようです。(その後も私の周りを飛び回っていましたからね)

しかし、コウモリは超音波か何か出して飛んでいて、絶対に物には当たらないはずですが…そんなにたくさん飛んでいるわけでもないコウモリが、何で私の頭に当たったんだろうか?不思議でしたが、そういえば少し前に、同じように私の頭に当たってきたカラスがいました。

スズメもよく私の周りを勢いよく飛び回り、中には私の方に向かいすごい勢いで飛んできて、当たる寸前にパッとコースを変えて飛んでいくスズメもいます。(私はそのようなスズメたちを暴走スズメと呼んでいます〔笑〕)

鳥などには、ずいぶん私もかまわれているようです。(笑)しかし、人にはあまりかまわれていないようで(嫌がらせのような形である意味かまわれてはいますが)人にかまわれないと肝心の法が拡がりません。

今週は座談会があります。(詳細は四月二十三日の“お知らせ”のブログをお読みください)

この座談会は、法をもう少し詳しく知ってもらおうと始めるものです。それほど難しい話をするわけでもなく、来られた方にあわせた話をしようと思っていますし、悩み事などあれば、それに対する心のあり方や祈り方などもお教えします。また、何か私に祈ってほしいことがあれば(もちろん、そのような人がたくさん来られれば、全員を祈ることはできないかもしれませんが)祈りもします。

それほど重いものではない座談会にしたいと思っています。(どちらにしても安い部屋借りただけですので)普段着でお気軽にお越しください。

やはり、この世に生まれてきた以上、神の教えを学ばなければこの世に生まれた意味がありません。

少し本気で法を知りたいと思われる方はぜひご参加ください。

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5月 05 2013

如来の心

昨日のブログに、園頭先生が多額の布施をもらっていたと書けば、その部分だけとって、高橋先生は布施などもらっていなかった、だから園頭先生は間違ったことをしていた、とすぐ思うダメ弟子たちもいますので(視野の狭いダメ弟子が多いですから。まだその人たちこのブログ読んでますし〔苦笑〕)もう少し詳しく布施のことを書いておきましょう。

高橋先生は布施などもらわれたことがないと、視野の狭い弟子たちはいいますが、そんなことはありません。高橋先生は人の愛を素直に受けられる方でした。それは次のような話からもその事実が分かります。

ある人が高橋先生の講演会に来られて、高橋先生がいられる控え室に十数個のおにぎりを持ってきました。そうして高橋先生に「これ食べてください」と渡されたのです。

高橋先生はもちろんそれを受け取られたのですが、なんと高橋先生は、そのおにぎりを一人で全部食べてしまわれたのです。

普通であれば、おにぎりを持ってきた人が「これ食べてください」といわれたら(二つや三つくらいならともかく十数個もあるんですから)それは「みんなでお食べください」という意味だとすぐ分かるはずですが、高橋先生はそのように思われず(その人がおにぎりを持ってきた時、控え室には高橋先生お一人しかいませんでした)自分に渡されたのだから、自分が一人で食べないと、そのおにぎりを持ってきた人に悪いと思われ、一人で十数個ものおにぎりを無理して食べられたそうです。

如来の心とはこのようなもので、相手が出された愛はすべて受け取られるのです。

それに、このような話が残っているのですから、高橋先生も布施されればそれをもらわれていたはずです。ダメ弟子たちがいうように、法を説いてお金をもらってはいけないなどナンセンスで、それは高橋先生が方便でいわれていたに過ぎません。

その方便をまともに受け取ってしまうのですから、このような弟子たちが、いかに底の浅い心の持ち主か分かります。これでは正しい法も説けないでしょう。(従ってこのような人たちに奇跡が起きてこないのも道理でしょう)

このような人たちは、お金や物など受け取らず、神の教えを説いている人が正しい人と、一面的にしかものを見ることができないのです。

園頭先生は、このような偏った見方しかできない人を「清貧礼賛型」の人たちと戒めていられました。

キリストも同じです。「頭から灰をかぶったような祈りはするな」といわれていたのです。

キリストは、頭から灰をかぶったようなしかめっ面で、さも私は神に敬虔な祈りをしています、というカッコだけつけて、肝心の心はまるで神の心を分かっていない、そんな形だけの祈りをしている人が多かったため、そのようにいわれたのです。

結局「清貧礼賛型」の人たちとは、このキリストがいわれている人たちと同じなのです。

このような人たちは、私はお金や物などもらいません、ただ、従順に神の教えを皆さんに伝えています、というカッコだけつけて、実は全然神の心(それはすなわち如来の心)が分かっていないのです。

如来の心は、物をもらうからいけないとか、いいとかいうレベルの話ではないのです。昨日も書きましたが、如来は人に愛を出すのはもちろんのこと、人から出された愛もすべていただかれるのです。

そうであるならば、人の出してくれた愛は、それが金であろうが物であろうが、または自分の手伝いをしてくれたことであろうが、すべて、喜んでいただかれるのであり、その出してくれた愛に形があろうがなかろうが、何も関係ないのです。

如来は相手の愛をいただくだけであって、それが金であろうと物であろうと心だけであろうと、一切そのようないただくものに執着などないのであって、だから、何でもいただかれるのです。

金だからいけないとか、心だからいいとか、そのような問題ではなく、相手の愛はすべていただく、それが如来の愛であり、そのような金や物にこだわっているのは、逆にそのようなものに執着があるから、そんなことを気にするのであり、そういうものに一切執着がなくなれば、そんな小さなことにこだわらなくなるのです。ただ、相手が出してくれた愛は素直に受け取る、それだけなのです。

その証拠に園頭先生は、多額の布施をもらわれてはいましたが、後で、布施した人が仕事などで行き詰まり、その布施した金を返してほしいといわれれば、すぐに返されていたのです。

園頭先生が金の亡者なら、一度布施された金を返したりされるでしょうか?

如来の心(神の心)とは、このようなもので、物であろうが心であろうが、一切そのようなものにはこだわらない、ただ、愛を出してくれれば、そのような愛を出してくださった人の心に感謝され、何でも喜んで受け取られました。それは、いただいたものに喜んでいられるのではなく、その如来に布施したいという、その人の心を喜んで受け取っていられたのです。

如来に布施をするのであれば、その布施した人が得られる徳は計り知れません。そのことを如来は我がことのように喜ばれたのです。

お金がいいとか、物がいいとか、心がいいとか、そんな小さなことに喜んで如来は布施をもらっているのではなく、相手の如来を思う心(それはすなわち神を思う心)それをことのほか喜ばれ、その布施をもらわれていたのです。

ですから、お金をもらってはいけない、心ならいいなどと、そんな小さなことにこだわっている人など、如来の心をまるで分かっていないのです。

如来のお心とはこのようなもので、常に相手のことを思い、自分のことなど二の次なのです。布施をもらうのでも、相手のことを思われもらわれているのです。

自分の小さな心と如来の心を少し比べられてはいかがでしょうか。

そうすれば、自分がいかに視野が狭いか、よく分かるのではないでしょうか。

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