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5月 04 2013

続々、起きている現象の意味

間違いないようにしたくても間違えてしまうのが、この世の修行です。特にこの辺りの人は、私に何年も嫌がらせして、祈りも邪魔をする、ブログを書くのも邪魔をすると、ずいぶん恐ろしいことを平気でやっている人が何人もいます。(家の中でブログ書いているだけでも、パソコンのカチャカチャ音を立てるのがうるさいと、嫌がらせのようなことしている人がいますからね、呆れるくらいの心の狭さです)

くどいようですが、今起きている現象の意味をもう少し詳しく書いておきましょう。

園頭先生の悪口をいったばかりに亡くなった人がいます。それは事実であり、そのような人を私は何人も見ました。では、その亡くなった人は“園頭先生のせい”で亡くなったんでしょうか?

もし、そうであるならば、そのような出来事は園頭先生の呪いということになり、園頭先生は悪魔であったということになりますが、そのような判断が正しいのでしょうか?

園頭先生が悪魔であったなら、なぜ数百、数千という人を癒されたのでしょう?そうして正しい教えを説かれ、多くの人々を救われたのでしょう?あれだけ周りの人に気を使われ、自分の好き嫌いまでいわれず、何でも出されたものはおいしくいただかれたのでしょう?園頭先生は、そのような態度をずっと続けていられたのです。悪魔が(仮に人を騙すためとはいえ)そこまでのことをするのでしょうか?

少し園頭先生のことを書いただけでも、やることが悪魔の所業だとは思えませんが…?

それに園頭先生が、指導された人から必要以上に金を取った、という話も聞いたことがありませんでしたし、光を入れられ癒された人からも、やはり無理やり金を取ったという話も聞いたことがありませんでした。ただし、布施してくれたものは、それは無条件でいただかれていました。それが多額のお金であろうと、少額のお金であろうと物であろうとです。如来は相手が出してくれた愛は素直に受け取られるからです。それも一つの相手に対する愛だからです。

その布施の件で面白い話があるのですが、ある人が園頭先生に二百万ほど布施されたそうです。その時、園頭先生は嬉しそうに「ありがとうございます」とその人にお礼をいわれて、その金を受け取られたそうです。

ところが園頭先生は、その金を出してくれたその人に対する態度が、布施してくれた前も後も全然変わらなかったそうです。それで二百万布施したその人が、園頭先生の奥さんに「私は二百万も園頭先生に布施したのに、先生は布施した後も私に対する態度が全然変わりません。私は、なけなしの金を二百万も先生に布施したのです。もう少し気を使ってくれてもいいではないですか」と文句をいわれたそうです。

それを聞いた奥さんが、園頭先生にその話をされ「もう少しあの人に気を使ってあげたら」といわれると先生は「あの人は好きで私に布施されたのであって、それを私は受け取っただけ。それが自分の徳となって得をするのはあの人なのだから、何で私がそれ以上あの人に気を使わないといけないのか」といわれて、その後もその人に対する態度は変えられなかったそうです。

園頭先生は多い金額を布施した人にも、少ない金額を布施した人にも、また布施などしたことがない人にも同じように接せられ、誰を特別扱いされることもありませんでした。如来とは相手の愛は素直に受け取られますが、それで人を差別するということは決してされないのです。如来に愛の行いをされる人は、どのような形であれ喜ばれたのです。(布施するばかりが愛の行為ではありません。如来の法の流布の手伝いをするということも、如来に対する愛の行為ですし、如来の法を学ぶということも、如来に対する愛の行為です。だから園頭先生は正法会の会員の人たちは皆同じように愛されたのです…しかし、園頭先生がお金を平気で貰うのがいけない、あの人は金の亡者だ、といって会を辞めた人もいました。残念ですが、そのような人の考えは浅すぎるのです。如来の愛の深さが分からないのです)

金を、必要以上に相手から取るということは論外ですが、お金を受け取らないのがよいことだと勘違いして、なにか人にしてあげて、相手がお礼でお返しなどすると、そのお返しを断る人もいますが、それはまだ愛が足らないのです。

人に何かしてやりその人がありがたい、または助かったと思って、それでその助けてくれた人に対し、お礼をしたいと、それが金であったり、物であったりした場合、それは素直に受け取ってあげるのが、そのお返ししてくれた人に対する愛の行為であり、それをわざわざ断るということも愛がない、独りよがりな態度であるということを知らないといけないのです。

愛を人に与えることはもちろんのこと、相手が出してくれた愛も素直に受け取る、それが本当の愛ある人なのです。

このようなことを考えますと、愛ある行為をずっとされていた園頭先生が、悪魔であったとは、とても思えません。このブログを読まれている人はどう思われるでしょうか?

園頭先生が悪魔でなかったとしたら、最初に書きました園頭先生の悪口をいって亡くなった人は、園頭先生の呪いでもなければ、園頭先生のせいでもなく、やはり、そんな偉大な方(如来)の悪口をいったために天が起こされた、現象であったと思えますがそこはどうなのでしょう。

もし、天が起こされた現象であれば、如来の悪口をいったばかりに、その人たちは自らの命を亡くした愚かな人たちということになり、それは全部“自分自身のせい”ということになります。

では、私に嫌がらせをして不幸になった人は、それは私のせいなのでしょうか?それともその人たち自身のせいなのでしょうか?

逆にもし、園頭先生の時と同じような現象が現れているとしたら、私も園頭先生と同じ使命を持っているということの証明になるのではないでしょうか。だとしたら、そのような者に嫌がらせなどすれば、天はその嫌がらせした人に、恐ろしい現象を起こすことは必然なのではないでしょうか。

私はここに、高橋先生の教えを継がれたのは園頭先生であり、その教えを継いだのは私である、と何度も書いています。

私に嫌がらせなどして、恐ろしいことが起きた人がいるのであれば、それこそが、私が高橋先生の教えを継いでいる証拠となるのではないでしょうか。

今この辺りに、恐ろしい現象が起き続けているのであれば(まだよくサイレンの音が聞こえてきますから)それは、法を継いでいる者に対する態度が、あまりに悪い人が多いからではないでしょうか。

法を継いでいる者には“協力”しないといけないのです。

起きた悪い現象だけを見ていては事実は分かりません。やはり謙虚な心で自分が悪かったのではないか、という反省が真実を教えてくれます。そのような心の人が増えてこないと今起きている現象は止まらないのです。

追伸…この教えの座談会を今月十一日、二十一日に行います。興味のある方はぜひご参加ください。詳細は四月二十三日の“お知らせ”のブログに書いてあります。多くの人のご参加お待ちしています。

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5月 03 2013

続、起きている現象の意味

今日は憲法記念日ですが、憲法改正が最近は頻繁にいわれるようになりました。安倍総理の発言を、時代錯誤といわれる人がいますが、そのようにいっている人が、時代錯誤にならないよう気をつけないといけません。どちらにしても、もう憲法改正の流れは止められないでしょう。

時代はこれからドンドン変わっていきます。

時代が変わるといえば、昨日の続きですが、今この辺りで私の噂がドンドン拡がっています。(昨日もアスナル金山で何かやっていたようで、多くの人が集まっていましたが、私の方をジロジロ見る人が何人もいました)

ということは、神を信じるようになる人、仏の存在(釈尊だけでなく高橋先生や園頭先生、キリストやモーゼなどすべて仏と呼ばれる存在です)を知るようになる人、あの世の存在や人の輪廻転生を信じるようになる人など、たくさん出てくるということになります。

こういうことを知るのも法のうちですから、そうであるならば、知らず知らずのうちに法が拡がっているということになります。

そうすると名古屋は、日本で一番法が知れ渡っているところということになり、奇跡も起きやすくなるということです。(起きてますけどね、すでに。日に何度もしている救急車のサイレンなど、その奇跡の一つです。〔最近は減りましたけど、それでもまだちょこちょこ聞こえてきます〕何か現象が起きているから、あれだけサイレンの音が聞こえてくるのです)

これだけ現象が、この辺りに起きているということは、やはり多くの人が法を知り始めた証拠でもありますし、そういう意味では、この辺りの人の心のレベルはぐっと上がっている人が多いと思います。(このような現象、迷惑かもしれませんが、心の成長はかなり早いのです。何せ命がけですからね。ほとんど強制的ですけど。先ほどもいいましたが、もう時代が変わっているのです。考え方を変えるしかないのです)

しかし、法が拡がり始めると必ず悪魔が邪魔をします。悪魔は私が邪魔で仕方がないのです。

それはそうでしょう、私さえいなければ悪魔の存在など、ほとんどの人が信じなかったのであるし、そうなれば当然、神の存在も光の天使の存在も、あの世の存在も信じなかったのであるのですから、悪魔は好き放題やれたわけです。しかし、そういう存在を多くの人が認識してしまうと(いくら普通の人に悪魔の姿は観えないとはいえ)悪魔は自分の正体が何時ばれるのか不安で仕方なくなります。おのずとやることも制限されるようになるのです。(悪魔は正体がばれるのを一番嫌がります。あのどこかのダメ弟子が、自分たちの居場所がばれそうになった途端、嫌がらせのコメントを止めたのがいい例です。陰でコソコソやるからあの連中は強いのです。多くの人の前で堂々とはできないのです)

昨日も白鳥公園にいくと、私にやたら嫌がらせした奴がいましたが(私の方を見て、つばを吐きたくっていました。私のことを知っていたようです)当然そいつを祈りましたが、祈りながらそいつの顔を見ていると、その顔が一瞬キツネに変わったのです。すぐ普通の顔に戻りましたが、何かに憑かれた人を祈ったりしていると、一瞬ではありましたが、その憑いているものが正体を現わす時があるんですね、驚きました。

しかし、高橋先生のご著書の「悪霊」にも書かれてありますが、そんなものに憑かれていると、自分の心だけでなく身体にまで支障をきたすようになります。心のあり方だけは間違えないようにしたいものです。

と、このようなことを少し前に書けば、ほとんどの人は頭から信じなかったわけです。ところが現在は(少なくとも私のことを知った人は)頭からそのようなことを否定するということはないわけです。すぐに信じないまでも、そのようなこともあるのかな、という疑問を持つわけです。結構です、結構です、それで。そんなに一変に唯物無神論だった人が、唯心有神論に変わるわけありません。少しでも疑問に持っていただけるなら、それで十分です。そのように思うだけでもずいぶん(心的には)進歩しているのですから。

こういうことを書くから、よけい悪魔は気が気でないのです。(自分たちの存在が段々ばれていくからです)だから、前の会社の連中など(また、いるんですよ、こいつ明らかに憑かれてるな、という奴が)必死にこのブログを書くのを邪魔するわけです。

とにかくおかしなもの(地獄霊や動物霊)に憑かれてしまうと、もう私のことが邪魔で邪魔で仕方なくなります。(実際、そのような連中は私のことが邪魔で仕方がないのですから)少しのことが気に食わなくて仕方なくなるのです。だから、何かにつけて私の邪魔をし嫌がらせするのです。あいつの態度が気に食わない、書いていることが気に食わない、というように、そのように悪魔たちにコントロールされるわけです。

しかしご本人はそれに気づいていないのですが、それを気づいていようがいまいが、悪魔にコントロールされていようが、自分からやっていようが関係ありません。本物の神の使いにそのようなことをすれば、そのようなことをした人は、後で大変な責任をとらされることになるのです。

それは、園頭先生の悪口をいっただけで、人がバタバタ死んだということでも、その事実が分かります。(これは釈尊の悪口であろうとキリストの悪口であろうと同じです。疑う人は自分でやってみればいいのです。半年一年もそんなことを続ければ、必ず何かよくないことが起きてきます。それでも悪口を止めなければその人は死ぬことになります)

死ぬというと恐ろしいのですが、要は、あの世に引き上げられるということです。絶対にやってはならないことを続けていれば、もう、この世の修行をさせておけないということで、天上界の光の天使たちがその人の魂を、あの世実在界に引き取ってしまうのです。

そのように引き取られた魂は、そのやってしまったことが(如来の悪口)どれだけ悪いことかをいやというほど反省させられます。(地獄でですけどね)しかし、光の天使たちが引き取った魂は厳しい修行はさせられますが、しっかり反省されたその後は、また心の成長ができる場所を与えられ、心の勉強をしていくことになるのです。(よい例が、釈尊を殺そうとしたダイバー・ダッタが、今回は高橋先生の義理の弟として肉体を持ち、今生の高橋先生の悟ることを手助けされた、ということでもその事実が分かります)

しかし、これとは別に地獄霊に憑かれたまま死んだ人などは、自力で自分の間違った心を反省するまで地獄で苦しみ、反省したその後も、心の成長がよくできる場所を与えられることなく、また厳しい場所から修行を始めないといけなくなるのです。

同じ死ぬにしても、その人の心のあり方(光の天使にかかわるか、地獄霊にかかわるか)でずいぶん違うということです。

しかし、如来の悪口をいっただけで死ぬ人が続出したということは、それだけ如来とは偉大な存在である、ということです。だから、如来を悪く思うことだけでももってのほかなのです。偉大な方は、尊敬の念を持って接し、思うことさえ悪く思ってはならないということです。

その人が偉大か、そうでないかは、その人に起きている現象、また、その人によくないことをした時に起きる現象で分かります。(園頭先生がよい例です。肉体を持っていられた時は次々に癒しの奇跡を行われ、亡くなられた後も、悪口をいった人に次々に不幸が起きたのです)

ゆめゆめ間違いがないようにしたいものです。

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5月 02 2013

起きている現象の意味

昨日金山に行ったら、アスナル金山(金山総合駅の北口にある、いろいろな店やイベントなどもできるところです)で何かイベントがあるようで、何人もの女子高校生がいました。

何かあるのかと、そのイベントホールをなにげなく見ていたのですが、そうしたら、そこにいた女子高校生にもジロジロ見られましたので、どこの女子高かは知りませんが、どこかの女子高にも私の噂は拡がっているようです。(そういえば、よく行く白鳥公園の横の大学にも私の噂が拡がったようで、最近ジロジロ見られますね、そこの大学生にも)

しかし、女子高にせよどこの学校にせよ、学校に私の噂が拡がれば、そこにいる生徒はその噂を当然家族にも話すでしょうし、その生徒の家族が知れば、当然またその近所でも話すでしょうから、そんな感じで、私の噂がドンドン拡がっているのではないかと思われます。

よいことではないでしょうか。悪い噂が拡がっているにせよ、その噂を聞いた人は、神の存在、仏の存在(高橋先生、園頭先生)、あの世の存在などを、取り敢えずは知ることにはなりますし、百五十年後にアメリカにキリストが、四百五十年後にエジプトにモーゼが生まれられる、と書いておけば、またそれも噂になって拡がっていくのです。

そのようなことを信じる信じないは別として、多くの人がそのようなことを一応は知ることになります。そういうことをまったく知らないのと、少しでも知っているのとでは全然違います。この辺りでドンドン私の噂が拡がるということは、広く薄くではありますが、それはすなわち法がドンドン拡がっているということになります。

法を知らないのと、少しでも知っているのとでは、その後の人生もまったく変わってきます。広く薄くでも法が拡がるのであれば、今この辺りで起きている(私の噂がドンドン拡がるという)この現象も非常に意味があることだと思います。

あとは、この辺りの人がどのようにそれを感じ取るかということです。もしよいように取る人が多ければ、この辺りに大きな災害は起きなくなります。(小さな現象は起きますよ、どうしても私に嫌がらせをする人はいますからね)私がいった、天変地変はその地域の人々の心が起こす、ということが証明できるかもしれません。

しかし、逆に悪くとる人が多いとこれほど危険なことはありません。自分だけがよいとはいいませんが、今この辺りで起きている現象の意味を、もう一度説明しておきましょう。

園頭先生の時のことを、もっと詳しく書きますが、園頭先生が高橋先生の後を継がれ、法を拡げようとされた時には多くの仲間がいました。そうして、そのような人たちは何らかの形で、神の運動を手伝われたのです。園頭先生に寄付をされたり、講演会や勉強会をするために、いろいろ手を尽くされたりしたのです。

何十年も園頭先生についていかれ、神の運動をずっと続けていた人もいました。

そのように必死に園頭先生の手伝いをされた方々でも、園頭先生が倒れられると、もう違う先生について、園頭先生の悪口を言い出す人たちがいたのです。

そのような人たちに恐ろしい現象が起きたのです。

一千万も園頭先生に寄付された人が(それを返してほしいと園頭先生のご家族にいわれ、その金を返されてしばらくして)変死され、園頭先生の悪口をあちこちでいっていた人たちが、次々に癌にかかり亡くなられたのです。

そのような人たちは、ずっと園頭先生と共に神の運動を続けていられた方々ばかりです。それに、そのような人たちは園頭先生に危害を加えたわけでも、嫌がらせしたわけでもありません。ただ、悪口をいっていただけなのです。

そのような、神の運動に貢献された人たちでさえ、如来の悪口を少しいっただけで、次々に恐ろしい病気が発症したのです。

では、私に嫌がらせしている人たちは何をされたというのでしょうか?私に寄付をされたわけでも、一緒に神の運動をされたわけでもありません。ただ私のブログを読み噂を聞いただけです。

それだけで、私に嫌がらせをしているのです。では、何が起きても文句をいえないのではないでしょうか、私が本物の神の使いであるならば。

園頭先生を慕い、共に神の運動をされた人たちでさえ、園頭先生を裏切り悪口を言い出した途端、恐ろしいことが起き始めたのです。

そうであるならば、勝手に法を知るだけ知って(これは現在進行形です。ずっと私のブログを読み続けている人がたくさんいますから)一つもそのお返しをしようとせず、この法の拡がるのを邪魔までし(これも現在進行形です。今日も一生懸命邪魔している連中がいますから〔笑〕)嫌がらせまでしているのです。

だとしたら、そのような人たちは、一体どれだけ大きな罪を負っているのでしょうか?

神の運動をされた人でも、如来を裏切ればそのような(変死したり、次々に不治の病が発症するという)大きな罪に問われるのです。では、神の運動などまったくしようとせず私に嫌がらせだけしている人たちは、一体どれくらいの罪に問われるのでしょうか…はっきりいって想像できないくらいの大きな罪に問われるということになります。(これもこの世だけでなく、あの世に帰ってからのお楽しみということになりますが、相当怖いです)

それだけ想像できないくらい大きな罪を犯しているのです。私に嫌がらせをして、何か起きても、起きた人は一切文句をいえないということが、少しはお分かりいただけるでしょうか?(お分かりいただかないと、かなり怖いんですけど)

こう考えれば、如来に逆らうということは大変恐ろしいことなのですが、逆に考えるのであれば、如来の教えに従えば、大変な奇跡が起きるということになります。

この辺りに起きている現象(私の噂がドンドン拡がる、それはすなわち少しにせよ法を知る人がドンドン拡がる)が全国的に起きてくれば、あっという間に法は日本中に拡がることになりますし、日本中に法が拡がるのであれば、世界中に法は拡がるのです。(ですよね、だって、日本の人は世界中に散らばっていますから、それにインターネットもありますし)

そうなれば、世界中で信じられない奇跡が、そこかしこに起ります。世界から戦争はなくなる(宗教戦争も含めてです)貧しい人もいなくなる(愛の心で満たされますので、当然そのような人はいなくなります。富がうまく分配されるからです)そうして、当然大きな災害も起きなくなり、平和で心安らかな世界が現れるのです。

これは決して夢物語ではなく、現実に私の周りでドンドンと法が拡がりつつあり、この法を知った人たちの中から、立ち上がられる人がたくさん出てくれば、一気に実現できることであるのです。

この法に気づく人がたくさん出てきました。(そうして現在も拡がりつつあります)後は、やる気のある人が出てくるか、こないか、それだけです。

そうして嫌がらせする人が、その罪の深さに気づき心を入れ替えないと、恐ろしい現象が起き続けるということになりますが、しかし、そのようなことをやる人も減ってきています。(気づき始めた人が出始めているように感じますが、逆に意地になって嫌がらせを続ける人は続けるでしょう。しかし、そのような人は後で大変な後悔をすることになります)

だとすれば、やる気がある人が出てくるのも、時間の問題なのではないかと思われます。このような状況で天が何もしないわけがないからです。(ですから、これまで以上に奇跡が起きるということです)

何度もいいますが、心と行いを少しでも早く変えられた方がいいと思います。

奇跡が続出する平和な世界は、そのような人たちがつくるからです。

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5月 01 2013

少子化問題

今日から五月ですが、今日明日など寒気が入ってきて少し寒いようです。(何か風も強そうです)

しかし、去年の今頃はすごい天気でしたが、今年はそれほどでもないようです。(去年の今頃のブログを読みますと、すごいことになっています。ものすごいカミナリや竜巻、集中豪雨や急に暑くなったり寒くなったり極端な気温で、地震も多発していてとにかく異常な天気でした…あっ原発が全部止まってましたね、あの時は)

安倍総理は外遊の真っ最中ですが、安倍内閣の調子のよさは現在も続いています。

そのような調子がいい安倍総理の政策の中でも、なかなかうまくいきそうもない問題もありますが、その一つが少子化問題ではないでしょうか。

この少子化問題は、職場での働き方に問題があるとか、結婚と子育ての両立ができないのが問題だとか、晩婚化が問題だとか、いろいろいわれるのですが、しかし、どれも違います。少子化問題はそのような問題ではないからです。

残念ではありますが、日本の出生率の低下はもう止まりません。つまり日本の少子化は止めようがないということです。

なぜなら、これから人口が増えるところはもう決まっているからです。それはどこかというと、アメリカからカナダにかけての、あの五大湖周辺です。あの辺りがこれから人口が増えることになり、そうしてより発展していくことになるのです。

もちろん、そこにキリストが生まれることになるからです。光の大指導霊が出世されるところに人も多く生まれ、文化文明も発達するということです。

これは天で、そのように仕組まれるのですからどうしようもないのです。だから日本は、子供を増やすことに力を入れるのではなしに、人口年齢の変化に左右されることがない、社会制度を構築することが大事なのです。

日本独自の高度な科学を発展させるとか、自給自足できるようにするとか(人口が減っていくのですから、そのようなことも可能になるのではないでしょうか)を考えた方がいいのです。

自民党の政策である強靭化政策も、日本がこれから人口が減っても困らないようなものをつくる方向に、少し転換されたらどうでしょうか。(人口が減っていくのであれば、道路や橋などそうは必要ありませんもんね)

そのように考えるのであれば、科学の粋を集めた原発技術を捨ててしまって、将来の日本があるのでしょうか?これから人口が減っていくであろう日本を思うのであれば、どう考えても原発技術は進めて、核燃料サイクルの技術も確率しなければならないと思われないでしょうか。(だから、脱原発など進めれば恐ろしい天気になるのです。去年は原発が動いていなかった時の、あの異常な天気だけでなく、解散総選挙の時でも候補者の多くが、脱原発などと連呼するものですから〔その選挙期間だけ〕異様な天気になりました。そのようなこともすべて、脱原発をしてしまっては将来の日本が立ち行かなくなる、それを天は知っているものですから、そのような天気にして警告しているのです。脱原発などしてしまっては将来の日本がなくなるのです。絶対に原発技術は進めないといけないのです)

このように多くの人が法を勉強するということは、自分を救うばかりでなく、将来の日本をも救うことになります。

法を勉強しなければならない必要性を、少しはご理解いただけたでしょうか。

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4月 30 2013

本物の証明

どうですか、脳死や植物状態の人でも安らかに逝けて、生きてる間も奇跡が起きて、幸せな人生を歩めて、人助けもできるのです。(祈ってよいことが起きても、悪いことが起きてもそれは人助けです。祈って何が起きても、その人の心に応じて天が起こしてくださるのでから、その起きた現象がその人の心を成長させるのです)そうして死んだ後は天上界に往けます。

生きてる間から死んだ後まで、すべて救われるのですから、法を知ることは不可欠なことであるし、法を知ることができるほどの運がいいことなど、そうはないと思いますがどうでしょうか?

と、私は思うのですが、なんとマァ皆さんやる気のないことでしょう、やる気がないどころか、嫌がらせする人がドンドン増えてくるというのですから、呆れてしまいますね。(悪いことは皆さん、やる気大ありです)何か私が悪いことでもしているというのでしょうか?

先ほども書きましたが、私が祈ってどのような現象が現れても、それはその人の(またはその地域の)心にあわせて天が現しているのですから、悪い現象が出たら反省し、よい現象が出たなら感謝して今のような心と行いを続ける、至極分かりやすいことではないでしょうか。(これだけ分かりやすい現象そうは起きません)

私が祈って、それだけ分かりやすい現象が現れているのに、悪い現象が出たら(私が祈ると大半は悪い現象が現れるのですが)それに怒って私に嫌がらせするとは、どういう料簡でしょうか?自分が悪いんでしょう。(自分が悪いから、そのような現象が現れるのです。いい加減ご理解ください)それに私は、何もしてこない人をワザワザ祈ることなどしません。私にちょっかいをかけてくるから祈るのです。

それにその祈りも「この人を正しくお導きください」と祈るのですから、悪いことではありません。(そういう祈りでなければ、自分の祈りで自分自身がやられてしまいます)一体何が問題なのでしょうか?怒る意味が分かりませんね。(私に祈られたら、どのような現象が現れようと“気づかせていただきありがとうございます”と感謝してもらわないといけないのです)

最近は白鳥公園の辺りまで知られたようで、その辺りに住むオバちゃんなども、平気で私に嫌がらせしてくる人もいますが、だ、大丈夫でしょうか?そんなことして。(私が祈って何が起きてるか知っててやってるんでしょうね、同じことが自分にも起きるかもしれませんが、それでもいいということですね)

何かあちこちで私も嫌がらせを受けるので、片っ端から祈っていますが、中には私の勘違いもあるかもしれませんが、勘違いして祈っても、間違った祈りはきかれないのですから(私に悪意がない人には、どれだけ私が祈っても悪いことは起きません。むしろそのような人にはよいことが起きるのですから)全然OKでしょう。だから、心おきなく祈れます。というより、祈れば祈るほど人のためになるのですから、ドンドン祈ります。

このような理由から、これまで以上に広い範囲で、嫌がらせをされることが増えましたので、これからはこれまで以上に積極的に祈ろうと思っています。(だって、その反面よいことをする人は出てきません。せいぜい「こんにちは」と挨拶する、小、中学生が少しばかりいるだけです。こんな状況では、いつ大きな不幸が起きるか分かったものではありません。せめてこれまで以上に祈り、この辺りを少しでも浄化するしかありません)

ですから、これまでのような簡単な祈りではすませません。嫌がらせしてくる人が多くいるようなところには、その場所を通るたびに祈ることにします。(その辺りはそれだけ汚れているということになりますので)早く心を変られる人は変えられた方がいいでしょう。

何度もいいますが、そうしないと、いつ、どんな大きな災害が起きるか分からないからです。(これも何度もいいますが、天変地変はそこに住む人々の心が起こすからです)

これだけ多くの人が、私に嫌がらせをしてくるということは、それだけ多くの人が私の祈りを意識しているということであり、それだけ多くの人が私の祈りを意識しているということは、私が祈れば何か起きているということであり、その起きている現象がよいことであれ、悪いことであれ(それはその人の心に応じて起こされるものですから)これだけ祈って、次々に現象が現れる教えなど他にないのであって、ということは、これこそ本当の神の教えである、という証明に他ならないのではないでしょうか。

私が祈ったからとはいえ、決しておかしな現象ばかり出ているわけではないのです。奇跡も起きているのです。それに私は大きな祈りを封印しています。(あの去年の九月でしたか十月でしたか忘れましたが、十日間だけ祈って、秋雨前線が急に活発になり巨大台風が来た、あれが最後です)小さな祈りばかりでなく、もっと大きな祈りもできるのです。

このようなことができる教えが他にあるのでしょうか?

そのような教えがあることが分かっていて、無視していることは正しいことなのでしょうか?

何もしようとせず、私に嫌がらせしている人が悪いのか、それとも私が悪いのか、それは、起きている現象を見れば一目瞭然なのではないでしょうか。

やってはいけないことは、やってはいけないし、やらなければいけないことは、やらなければいけないのです。

早くそれに気づかなければ、大きな不幸が起きることになるのです。

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