2月 23 2013
如来は愛と慈悲の塊
せっかくですから、もう少し園頭先生のお人柄を書いておきましょう。
園頭先生が名古屋で講演会をされた後の話です。その講演会は十二月に行われ、その年の名古屋でされる最後の講演会でした。それでその講演会が終わった後、会員の方数十人で園頭先生を囲んでの忘年会が行われたのでした。
私は、その時初めて園頭先生が参加される忘年会に参加したのですが、園頭先生は私たち若手に(その時私はまだ三十代で、他は二十代の子らが横に座っていました)積極的に声をかけてくださり、いろいろな話をしてくださいました。
その話も勉強になりましたが、私が一番感心したのは園頭先生の食事の仕方でした。それこそ、そこにいる誰よりもきれいに出された食事を食べていられたからです。
後で、昔から会員でいられた方から聞いたのですが、園頭先生はいつも食事の時はきれいに食べられたそうです。好き嫌いもなく、出された食事は感謝しておいしくいただかれ、量が多くて食べ切れそうもないと思われた時は、手をつける前に「あなたこれ食べなさい」「これはあなたが食べなさい」と食べられそうもない物を周りの人に配られ、食べてもらっていたそうです。
何か注文される時でも少しずつされて、決して食べきれないほど注文されるということはなかったそうです。
前回書いたかばんの件でもそうですが、特別園頭先生が立派なことをされている、というわけではありませんが、このような当たり前のことが、現在の私たちにはできなくなっているのではないでしょうか。
何かを買って、まだそれが使えるのに平気で捨ててしまったり(それどころか買ったはいいが、あまり自分の好みでなかったから捨てた、という人までいます)金を払っているんだから、どれだけ頼もうが残そうがこちらの勝手と、自分が食べられる量も考えず、やたら頼んであれこれ残し、そんなだだくさな食べ方を平気でしている人も多いのではないでしょうか。
そのような人と園頭先生はまったく違いました。
物を買われれば、その物を破れるまで使い、その破れた物までとっておくという大変物を大切にされ、食事として出された物は好き嫌いをいわれず、なんでも感謝しておいしくいただいていられたのです。
これは私たちの小さい時はそのような教育をされましたし、つくってくれた人に感謝して物を使う、あるいは物を食べる、ということは当たり前のことではないでしょうか。そのような心があれば、物を大切に使うのはもちろんのこと、出された食事に文句などいわず残さず食べようと思うのではないでしょうか。
体罰はいけない、体罰はいけないと、そればかりいって、まともな教育がなされていないのが、今日の日本の姿ではないかと思えてなりません。(だから人への思いやりもなくなり、いじめや嫌がらせが平気でできるのです)
園頭先生は、当たり前のことを当たり前にやっていられただけでしたが、それでも私たちが忘れてしまった大切なことを、思い出させてくれる、そんな方でもあったのです。
如来がされてみえることは、何から何まで勉強になりました。そのような方に教えていただけたことは、今でも私の誇りです。
如来は愛と慈悲の塊といわれますが、それはいわれることされることすべてにおいてそうなのです。
その如来がいわれ体現されたことを、私は忠実に世に伝えていきたいと思っています。



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