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2月 03 2013

霊夢

昨夜、北海道と青森で震度5の地震が起き、その地震は関東辺りまで影響があったようですが、ずいぶん大きな地震が起きたものです。(昨日かなりムカつくことがありましたが、もちろんそれとは関係ありませんよね)

最近はまた(震度5クラスの)大きな地震がよく起きているようですが、それだけではなく、インフルエンザも過去十年では最高の患者数を記録したようですし、ノロウイルスも心配です。雪も例年より多いようですし異常現象はまだまだ止まりません。

名古屋も昨日は、ずいぶん救急車のサイレンを聞いたのですが(今日も朝から何度も聞きましたし今もしてました)このブログを読んでる多くの皆さんは(法の偉大性を理解していない人たちはという意味です)結局、この法があれば聞くが(このブログを書いているなら読むが)特別なくても、自分たちの生活に支障はきたさない、あってもなくてもどちらでいい、と思っていられる人が多いということですよね。

しかし、法の偉大性を悟っている方々はそうは思っていません。やはり、この教えがなくなると生活に支障をきたすようになるから、この教えをなくしてはいけないと思って、私に寄付をしてくださるのです。(もちろんそれだけの理由ではないでしょうが)

そこらへんのギャップをどう埋めるかということですが、法の偉大性を理解していない人たちにお聞きしたいのですが、それでは昨今の、このような異常現象を皆さんどのように見ているのでしょうか?たまたま起きているということでしょうか?それとも、そのような異常なことと、この法とは関係がないと思っていられるのでしょうか?(それなら何でここに書いたことが起きるのでしょう?)それともあまりそんなこと関心がないのでしょうか?

法の偉大性を認めていない方々は、私と一言も口をきいてくれませんので(笑)その真意は確かめようもありませんが、異常現象を見るにつけ生活に支障をきたしていないとは、私にはとても思えません。早く、今起きている異常な現象を悟り、この法の偉大性を理解して、私に協力してくださる方が出てきてくれることを願ってやみません。

その法の偉大性を理解してくれる人が出てくるのではないか、と思えるような夢を昨夜観ました。それは次のような夢でした。

私がある場所でお茶を飲んでいたのですが、そこにある有名な女の子たちが来て、私と一緒にお茶を飲んで話しをしだしました。その子たちは、多くの人に知られている有名な女の子(女の子というより女性ですが)で、その子が話すには「私たちは寄付しますよ。○○ちゃんも寄付するといってました」と、そこに来ていない子の話も(その子も有名な子でした)私に話したのです。

「そうかい、それはありがたい」と私もその話を聞いていたのですが、しばらく話した後、その子たちは帰り、また別の女の子たちが来ました。しかし、今度来た女の子たちは、寄付のきの字もいいませんでした。しばらく話してその子たちも帰り、今度は男が数人で私のところにきて話しだしたのですが(その男性陣も有名な人たちでした)やはり寄付のきの字もいいません。

それで私が「○○ちゃんたち寄付してくれるそうだけど君らどうなの」と聞くと「寄付ですか…」と渋っている様子でした。「何だ、寄付してくれるのあの子たちだけなんだ…」と思っていたところで目が覚めました。

私はこれまで不思議な夢を何度も観たことがあります。(それはこのブログにも書きました)普通の夢と不思議だな、と思う夢の違いは、普通の夢はあまりよく覚えていないのですが、不思議だなと思う夢はおきても、心の中にアリアリとその夢が残り非常によくその夢のことを覚えているということです。

昨夜観た夢は、心の中にアリアリと残っていましたので、今日ブログに書いた次第です。正夢になることを願いつつ、でも私(暗示的な夢は観たことありましたが)正夢はまだ観たことないな、とフッと思い出しました。(あれっ?)

それじゃダメでしょう。(笑)

追伸…その寄付します、といってくれた子が加藤さんじゃなかったのは残念です。(涙)

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2月 02 2013

如来はなぜ最初から悟っていないのか

釈尊はインドのカピラ族の王子として出生され、二十九歳で出家されて三十五歳で悟られます。キリストも同じで、ヨハネにバプテスマ(洗礼)を受けられた後、福音を伝えられるようになり奇跡を現されるようになったのです。

このような事実を見て思うのですが、如来といわれる方々は、なぜ最初から悟っていないのでしょうか?如来が生まれた時から悟られているなら、もっと多くの人を救えるはずですし、もっと、その教えが多くの人に伝わっているはずです。どちらにしても如来が悟りを開くのであれば、できるだけ早くから悟られた方が、より多くの人が救えて、より多くの人に法が伝わるのです。なぜ、こんなに何十年も(釈尊は三十五歳、キリストも三十を過ぎてから、福音を述べ始め奇跡を起こし始められたのです)経なければ、如来は悟りを開かれないのでしょう。(または奇跡を現すようにならないのでしょう)

それは次のような理由があるからです。

人に正しく神理を伝える使命を持った者は、その時生まれていく社会状態にあった指導ができるように、いろいろな人生体験を経て、その体験の元に悩める人を指導ができるように、そういう環境を自ら選んで生まれます。従って、ある程度、この世(この時代)の修行をしてからでないと、その時代に即応した指導ができませんから、悟りを開くまでに、それ相当の時間がかかるのです。

この世に生まれて目が見えるようになり、音が聞こえるようになり、物に触れて、これは何であるかということが分かるようになり、そのようなことを認識していく過程は皆同じであって、そこから成長するに従いいろいろな環境条件によって、次第に潜在意識の中にある智慧が啓発されていきます。この潜在意識の中にある智慧の啓発度が、普通の人と如来、菩薩といわれる人とは違うのです。(ということは如来、菩薩といわれる人が法に出会うと、その教えへの理解度は格段に早いということになりますが、皆さんずいぶん遅いです〔笑〕)

つまり如来が生まれてくる時代は、その時代その時代により、地上の状況がまったく違っています。(数千年に一度しか、この世に現れないのですから当然そうでしょう)そうであるなら、その時代にあった説き方をしなければならないので、その時代のことを体験し理解するまでに時間がかかるというわけです。

例えば、高橋先生が釈尊として出世された二千五百年前のインドは、カースト制度があり(現在でもありますが)身分制度が強すぎてあまりにも不平等な世界でした。(これはキリストの時代でも同じです)だから人間皆平等を説かれたのであり、逆に今生はあまりに自由平等をいい過ぎて、たががはずれた秩序がなくなったような世界でした。だから、それほど自由で平等ということをいわれず、中道の心が大事であると“八正道”を強調していわれたのです。

このように如来が生まれる時代時代によって、説き方が違っているのは、その時代にあった説き方をしているからであり、本質的には如来の教えは皆同じなのです。

しかし、如来だけでなく、過去世の記録は誰も皆持っているものであり、それは自分の心の中にあるのです。潜在意識の中にすばらしい自分自身の体験(智慧)の記録が眠っているのです。

それを表面意識に現すには、ある程度厳しい環境に置かれないと現れてはこないのです。だから、高橋先生も園頭先生も軍隊のような、目の色が変わるくらいの厳しい体験を経験されたのです。

高橋先生や園頭先生でもそうなのです。それなのに私たちが甘い環境にいて、自分自身の心の中にある、すばらしい過去世の智慧が啓発されると思いますか?今のような、ちょっと叩いたくらいで大騒ぎしているような環境では、すばらしい智慧は絶対に現れては来ないのです。

あまりに無茶な環境なら大いに是正すべきですが、そうでもないなら、やはりよく関係者が話し合い、そこで解決すべきではないかと思います。今回の柔道の体罰問題など、女子の柔道選手にあまりに過酷な条件で練習させるのは、もちろん無茶な部類に入りますので、それは改善すべきですが、ここまで話を大きくするような問題だったのでしょうか?その問題を提起した女子柔道選手たちも、ここまで大きな問題にする気があったんでしょうか?こんな問題になってしまえば、もうオリンピックの招致などおぼつかなくなるのです。こんなに大騒ぎになったのは、決してその柔道選手たちの本意ではなかったように思いますが、そこはどうなんでしょう。(それに外国との対比もどうかと思います。外国は手は飛んでこないかもしれませんが、かわりに鉄砲玉が飛んできます。〔銃社会ですからね〕それよりはよほどましですし、やはり、その国その国の伝統はあります。何でもかんでも他国と同じにする必要はないと思います)

どちらにしても、あまりに甘い世界ではすばらしい自分の智慧も現れてきません。この世は心の修行の場と考えるのであれば、少々の厳しさは忘れてはならないと思います。

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2月 01 2013

親の教育と世間の教育

どこかの傲慢市長さんが火をつけたものですから、体罰問題があちこちから出てきて大騒ぎになっています。(中には何でこんなことニュースにしてるの?と思うようなのもありますが)

体罰を絶対認めないのか、それともある程度認めるのか、体罰を絶対に禁止してしまい、子供たちが調子に乗って教育にならなくなったらどうするのか、など問題がいくつも出てきて、ご本人もどれが正しいか分からず悩んでいるそうですが、八つ当たりなどするからこんなことになるのです。

ちょっと叩けば体罰だの、虐待だの、大げさに騒げばいい影響など出るわけありません。そればかりではありません。その騒ぎ方もずいぶん的外れのような気がしますがそこはどうなのでしょうか。

例えば、あるところにため池があったとします。そのため池は非常に深いので周りに塀を作り、立ち入り禁止の看板を立てました。しかし、それにもかかわらず、近所の小さな子供がその塀を乗り越えため池で遊んでいました。その子は何度注意してもそのため池で遊ぶのです。

この場合、その子供をひっぱたいて「ここで遊ぶな」とやったらいけないのでしょうか?

その子の家まで行って、その子の親に、ため池で遊ばせないでくれと頼まないといけないのでしょうか?それでもその子がため池で遊んでいたらどうするのでしょうか?

今、体罰を絶対に禁止と声高にいう人たちは、こういう場合どうしたらいいのか、その対処方法をしっかりいうべきです。(まさか、見張りでもたてろなどといわないでしょうね。その費用出してくれるんでしょうか?)

それに、この子がもしそのため池で溺れ死んだらどうするのでしょう。最近の世相では、それはそのため池の持ち主が悪い、塀をもっと高くすればよかった、看板の書き方が悪い、はては、そんな子供が遊ぶようなところにため池があるからいけないなど、とんでもないことまでいい出す人がいるんですから、でたらめですね。(ここまで大はずれされますと、何か起きたら、ゴルフではありませんが「フォアー」とでも叫ばないと、危なくて仕方ありませんね、どこでどんな罪きせられるか分かったもんじゃありませんから)

現在の世相は被害者は何も悪くなくて、悪いのはすべて加害者にある、という偏った見方をしているのです。

では、その死んだ子は何も悪くなかったんでしょうか?そのような子供の教育しかできなかった、その子の親は何も悪くなかったのでしょうか?

そこをまったく無視してしまうから、このような問題は答えが出てこないのです。

今、問題になっているいじめの問題でも、体罰を一切禁止してしまって解決できるんでしょうか?小学生や中学生のすべての生徒が、口でいっただけで分かるんでしょうか?分かるなどと断言する人がいたら、そんな人こそ口だけの人です。現実に口でいっただけで分からない生徒がいるから、あちこちの学校で学級崩壊など起きているんでしょう。それはどう説明するのですか?(先生が悪いだけですか?)いってはいけませんが、まともな教育を知りもしない人が、あまり教育に口を出さない方がいいのです。現場が混乱するだけだからです。

先ほどの例え話でも、親の教育が悪いのと、世間に少々ひっぱたいても子供が危ないところに行けば注意する、という姿勢がないからいけないのです。(今そんなことしたら訴える親がいますからね、これだから大はずれしてるというのです)

親が危ないところでは遊んではいけないと、しっかり教育しているのであれば、その子は危ないところにはいかないのであるし、また、そのような教育ができているなら、危ないところにいっても「ここは危ないから遊んではいけない」と一度注意されれば、その子はそのため池で何度も遊ぶこともなかったでしょう。それに何度いっても分からなければ、頭にげんこつでも食らわし「ここで遊ぶな」と叱りつければ、その子はもうそこでは遊ばなかったでしょう。

親の教育と世の中の教育がしっかりしているのであれば、危険なところで命を亡くす子も減るのです。

これはいじめの問題でも同じなのです。

子供に人をいじめてはいけないといくらいってもやる子はやるのです。(大人でもやりますからね、現在の私いじめられています)では、いじめをする子としない子の差はどこにあるのでしょうか?

それが親の差なのです。親の教育の違いなのです。

このような(小学生や中学生)子供たちは、まだ親の影響をまともに受けているのです。ですから、いじめの問題が発覚したなら、まず、そのいじめる子の親を呼んで、親にしっかりいって聞かせることが大事なのです。親の心を変えることが大事なのです。いじめている子の親の心が変わると、いじめている子も人をいじめなくなるからです。(こういう人をいじめる子の親というのは、まずどこか問題がある親が多いので、その親の心を変えるのは容易ではありませんが、親の心が変わらないと、いじめてる子のいじめはなくならないのです)

それを親は無視していて、そのいじめてる子ばかりにいっているから、このような問題はいつまでたってもなくならないのです。(こいうところも大はずれです)

今の教育は心を重視していません。しかし、心の勉強をしないと正しいことは分かってこないのです。(つまり、現在問題になっている、いじめ問題などはまず親の心を変えないとなくならないのです。今いじめ問題を騒いでる人たちは親のおの字もいいません、従って、すべての人がいってること違っているのです。だから問題が解決しないのです。だから私は大はずれといっているのです)

心の勉強をすることの重要性が少しはお分かりいただけたでしょうか。

(私が書いたことが正解かどうか分からないというなら、試してみたらどうですか。親の心を変えるなどということは誰もしなかったんでしょう、どうせ今のままでも解決しないんだから、どなたか試してみたらいかがですか?アドバイスしますよ私…どうせ無視されるでしょうけど、こんなこと書いても)

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1月 31 2013

唯物無神論と唯心有神論の違い

もう少し多くの人が、心の部分を深く考えていただければ、私のやっていることも、もう少し理解してくれた人も多いと思うのですが、いかんせん唯物無神論の時代が長かったせいで、心の部分がおろそかになり、その心自体よく分かっていない人が多いようですので、唯物無神論と唯心有神論の違いを少し書いておきましょう。

唯物無神論は人の心のことまで考えていません。とにかく、人間は死んだら終わりなんだから、今がよければそれでいい、人生など長いようで短いのだから、物金力があって自分が好きなように過ごした者が勝ち、それなら自分のために苦労はしても、人のために苦労することは損だし、厳しい環境より甘い環境の方が楽でいいし、自分の腹の中はどうでも、表面上だけあわせてやりすごせばそれでいい、という考えなのです。

そのような唯物無神論のところに持ってきて、自由平等という思想まで入っています。自分さえよければいい、という考えがより強くなるということです。

これを唯心有神論に変え、自由平等を愛と調和に変えるとどうなるでしょうか?

唯心有神論では、人はこの世限りではありません。人は永遠不滅であり、輪廻転生(生まれ変わり)していろいろな国に生まれ、そこで心の勉強をしていくのである。従って、また、この永い輪廻転生の間で、どこでどのような人と、どのような縁に巡り合うのか分からないので、今、自分のことだけ考えるのではなく、周りの人たちのことも考え、共に成長していこう。自分だけでなく、周りの人も成長してくださることが(永い輪廻転生の間には、また、そのような人たちと縁を持ち、勉強することになるかもしれないのですから)先々の自分も幸せにすることでもあるのだし、自分だけでなく周りの人の成長もあって自分も成長するのである。自分だけがよくなるのではなくて、周りの人ともどもによくならなければ意味がない、と考え、今だけ、自分だけという短絡的な考えはなくなります。

それに神を信じているわけですから、いつも神に観られているので、恥ずかしい行いはできないし、どれだけ苦しい立場になっても、最後には神が助けてくださるのだから、神を信じて生きていけばいいということになります。(つまり頼れる存在が常にあるのです)

それに愛と調和ということを主に考えますので、相手のことを思いやり、相手と張り合うのではなく、相手の足らないところを自分が足してやろうという気が出てきます。(当然ですよね、自由平等と逆の考えなんですから。自由とは相手のことを考えない〔自分を主にして自分の好きにやりたい〕ということであり、平等とは相手と張り合うということですもんね)つまり、適材適所、自分の役割を自分で悟って果たすということになりますので、当然調和して自分の力も発揮できるということになります。

そのような考えになれば、少々苦労しても、相手が喜ぶのであればそれも嬉しいし(愛がありますので)自分もそうすることで成長していけるのですから、それもまた嬉しい。今だけではない、この先も人としての修行がずっと続くのであれば、甘えたことばかりいっては損だ、少々(自分のため人のためとわず)苦労しても、自分が成長できるならその方がよほど得だと、唯物無神論、自由平等論者とは、まったく逆の考えになるのです。

現在の人たちは、まだまだ唯物無神論・自由平等論者の人の方が多いのですが、どうですか、皆さん、どちらが人として幸せだと思いますか?どちらが人として成長していけると思われますか?

私はどう考えても、唯心有神論の方が人として幸せであると思うし、成長していけると思いますが、このブログを読んでる方々はどのように思われるでしょうか?

ここに書いたのは、唯心有神論の一部分にしか過ぎません。(それでも唯物無神論とはかなり違います)

法は、この唯心有神論を説くのです。(それに当然、愛と調和を説きます。釈尊、キリストの教えを知っていただければそれは分かります)

唯物無神論のような、自分さえよければいい、死んでしまえばそれでお終い、本当の頼るべきもの(神)がない、こんな狭く小さく短絡的な考えなど間違いなのです。

本当に正しい考えとは唯心有神論なのです。唯心有神論こそ正しい教えなのです。

いつまでも唯物無神論など信じていれば、人としての本当の幸せなど分からないし、人としての成長もないのです。

私たちが本当に信じなければならないのは“唯心有神論”なのです。

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1月 30 2013

起きる現象の本当の意味

しかし、驚きましたね、私がやっていたことを法を理解している人以外の人が、あまりよく理解していなかったという事実は。

分からなきゃいえよ(笑)と思うんですが、メールくれる人も、法が分かった人しかくれなかったものですから(法をまったく勘違いしている、どこかのオジちゃんやオバちゃんも含めてですけど)このブログを読んでるほとんどの人が、私がやっていることの意味がよく分かっていないとは思いませんでした。

ということは、私に嫌がらせしている人、ねたみやひがみからしている人もいますが、その大半は、私が悪いことをしていると思ってやっているんですね。それで私も何でこんな恐ろしいこと平気でしているんだろう?という疑問が解けました。

嫌がらせしている人にいっておきますが、その考えまったく違っています。逆なのです。私ほど世の人々にとってよいことをしている者はいないのです。だから私にちょっかいをかけると恐ろしいことが起きるのです。

結局、私が悪いことをしていると思い込んでいる人たちは、人のよくない噂や(いってはいけませんが、人のやることの悪口しかいわない人たくさんいますから)その現象だけを見てそう思っているに過ぎず、起きている現象の本当の意味を知らないのです。

私が行っていることの意味を、理解している人がほとんどいないと分かった現在、それでは困りますので、その本当の意味を詳しくこれから説明します。(本当はこういうこと書きたくないんですが、やってることの意味が分かっている人が少なければ仕方ありません。少々手前味噌になりますがそこはご容赦ください)

まず、考えていただかねばいけないのは、なぜ今こんなことが起きているのか?ということです。

それはおまえのせい、と思ってしまうと、そこで考えが止まってしまうのですが、仮にそれが私のせいだとしましょう。

ということは、私はそのようなことを起こせる能力(地震を起こしたり、大雨を降らせたり、または人を病気にさせたりという能力)があるということを、皆さん認めているということになりますが、そこはそれでよろしいですね。

そのように考える人が多いのであれば、一年前の皆さんと今の皆さんでは、今の皆さん、考えが大いに進歩しているということになりますが、それはお分かりになっているのでしょうか?

分かっている人ほとんどいないと思います。そこを理解していただけないから私のやっていることが悪く見えるのです。

一年前までの皆さんは(仮に一年と年数を区切ったに過ぎません、私を知る前の皆さんは、という意味です)この世のこと以外は考えられなかったのです。それが私を知ったことにより、多くの皆さんがこの世のこと以外のことも考えるようになり、神やあの世の存在も信じるようになったのです。

そうではありませんか?それとも、こういう異常なことを次々に起こす悪魔のような男が、この世だけの中で、そのようなことを次々に起こしていると思われますか?では、今起きている私のせいといっている、多くの異常現象を科学的に分析して皆に分かるように説明してください。そんなことができる人一人もいないと思います。

では、神を認めざるをえないし(要は神の力を認めざるをえないでしょう、といっているのです。それとも私の個人的な能力だけでこんなことできると思いますか?一人の人間の力だけであれもこれもやれるわけありません)少なくともこの世はこの世だけでなく、他の世界(異次元の世界)もあるのではないかと認めざるをえないはずです。(今起きていること、この世だけで説明がつかないんですからね)

私を知る前の皆さんはこの世がすべてという“唯物無神論”の人が大半でした。それが私を知ることにより“唯心有神論”の人が大半になったのです。

そうではないでしょうか?

もしそうだとしたら、皆さんは認めたくはないでしょうが、多くの皆さんの心を成長させたのは私だし(そのような現象により、神の存在やこの世以外の世界まで分かったんですから、大きな成長でしょう)これは近来にない偉業をなしたといわざるをえないのです。このようなことは、これまでの日本で(あるいは世界で)まったく分からなかったことだったからです。

そうではないですか、神の存在を認めていない日本はもちろんですが、アメリカやヨーロッパなど他国でも(神の存在を認めている国でもという意味です)神の存在やあの世の存在は具体的には分からなかったのです。(聖書にせよ、過去から伝わる神話にしても、そのような書物から想像するしかなかったんですからね、神や仏やあの世の存在は。科学的にまだ分かっていませんから)

つまり、他のどの国の人々もそのようなことは、抽象的にしか分からなかったのです。

ところが現在の日本で、多くの人の目の前で起きている現象を見て、神や仏の存在が具体的に想像でき、信じられる人も出てきているのではないですか?これは他国では考えられないことなのです。

私が祈ります、と堂々と宣言し、多くの人の目の前で地震が起き、大雨が降り、巨大な台風まで来たのです。そればかりではありません。私はあのタイの大洪水を引かせるとこのブログに宣言し、そのとおりタイの洪水が引いたのです。これどういう意味があるかお分かりですか?こんなことできる人世界でいません。つまり神の御業(それはすなわち神のお力)を目の前で起こして、神の存在を世に知らしめのたです。

そのような存在を知るのであれば、神の存在は当然信じるとして、仏の存在もあの世の存在も信じていなくても信じざるをえないのではないでしょうか。

つまり、私は、これまで抽象的にしか分からなかった、神や仏の存在を、世界で初めて具体的に知らしめた者である、ということです。

これって偉業ではないですか?

世界のどの国でも、こんなこと起こした人いないのです。そればかりか、日本のような何十年も唯物無神論だった国を、コロリと唯心有神論にかえてしまったのです。この事実は悪いことと考えるより、偉業と考える方が正しいのではないでしょうか。

悪いことも起きているだろうという人もありますが、不幸になった人たちは、そのような現象が起きたことにより、多くの人が神を信じるようになりあの世の存在も理解したのです。そのような人たちは神の存在、あの世の存在を多くの人に知らせるため、身を犠牲にして神に命に従ったと思われないでしょうか?

これは都合のいい考え方ではありません。過去から、そのような存在はあり(神に身をささげる人たち)それもまた、その人たちの心の成長につながるのです。この世の起きた現象だけにとらわれていては、いつまでたっても真の意味は分からないのです。

私に嫌がらせをした人に恐ろしいことが起きるのは、私が人がやっていない偉業をしているからそうなるのであって、そういうことをしていなければ、そんな恐ろしいことが、即座に起きるなど考えられないでしょう。歴史を見てもそれは分かります。キリストや釈尊に、嫌がらせしただけで恐ろしいことが起きたことなどないのです。(殺そうとしたユダやダイバーダッタは別ですけどね)

私を殺そうとまでした人に恐ろしいことが起きたわけではないのです。嫌がらせをしただけで、恐ろしいことが起きた人がいるのです。これは何を意味しているのか?

それだけ私が偉大なことをした、ということです。それを神が認め、天が認めているのです。だから、そのような現象が起きるのです。そうではないという人たちに、一体どんな現象が起きるというのでしょうか?

起きた現象の本当の意味を知る、ということは大事なことなのです。(自分が思っていることと、起きている現象は逆の意味があるかもしれないからです)

今起きている現象の本当の意味を知ってください。

(少々の手前味噌どころの話ではなかったですかね。〔汗〕だから私、本当の意味をちゃんと書くのいやだったんですよ、こんなこと書いても誤解する人が多いですからね。しかし、本当の意味が分かっている人が少ないのなら、書かざるをえません。あまり自分で自分のことをよく書きたくはありませんが、事実は事実としてこれからはしっかり書いていこうと思います…そうしないと神の心が伝わりませんから)

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