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7月 15 2009

シャリー・プトラー⑤

祇園精舎が布施された時のことです。この祇園精舎を建てるにあたり、設計者に選ばれ
たのがシャリー・プトラーでした。
だがここで問題が起きます。釈迦教団が精舎を建てるということで、バラモン教の人々が
大反対を起こしたのです。この頃はまだ釈尊の名声も、祇園精舎を建てることになったコ
ーサラ国までは知られていませんでした。バラモンの人達にしてみれば、どこの馬の骨と
も分からない連中が、大きな精舎を建てるというのですから面白いはずがありません。

何度も話し合ったのですが、結局話がつかず論議で決着をつけることになりました。
当時のバラモン教徒は論議をこととしていました。この論議に負け自分の家も名声も失っ
てしまう者もいました。この頃のインドの宗教はバラモン教のみであり、法を説くというより
も、ほとんどは祈祷呪術宗教になっており、その方法によっていくつもの分派に分かれて
いました。当時、バラモンの遊行者同士の議論は珍しいことではなかったのですが、新た
に興った仏教と在来のバラモン教との公然とした論議は初めてのことであり、多くの人が
好奇心を持って集まりました。

論議は七日後と決まり、シャリー・プトラーは論議の日まで、釈尊から聞いた法を繰り返し
思い出し、瞑想して仏法により多くの人が救われていくことを念じていました。シャリー・プ
トラーは、相手の言葉や態度によって、心が動かされるということはまったくありませんで
した。相手が感情的に興奮すればするほど、ますます冷静に心を澄ませられる人でした。

いよいよ対決の日がきました。バラモンの代表者は「赤目バラモン」と呼ばれる人物です。
人と論議しているとその目の周りが赤くなり、底光りするその異様な眼に睨まれると、それ
だけで相手は委縮してビビってしまう、そんなところから「赤目バラモン」と呼ばれていまし
た。
当時、富と名声をほしいままにしていたバラモン教が、できたばかりの教団に負けるわけ
にはいきません。このような重大な論議の代表者に選ばれた赤目バラモンは、コーサラ
国きっての大物であり、過去何十人ものバラモンの修行者達を論破してきた猛者でした。
シャリー・プトラーも優れた人物として名は知られていたのですが、大バラモンとできたば
かりの宗教の一弟子とでは、余りにも格が違いすぎて相手にならないと思われていまし
た。しかし、勝負は一瞬で決まります。シャリー・プトラーと赤目バラモンが対峙し、お互い
眼と眼を合わせた瞬間、赤目バラモンはシャリー・プトラーの威光に打たれ、思わず眼を
伏せ、ついには頭を上げることができなくなってしまったのです。

丁度それは剣の達人同士が真剣勝負をするときに、お互いの眼を見ただけで相手の力量
が分かり、勝敗が決してしまうのと同じで、まことにあっけない勝負でした。ただ集まった群
衆が分かることといえば、シャリー・プトラーの体が大きく宇宙一杯に広がったように見える
のに対し、赤目バラモンの体は、それまでは大きく見えていたのに、小さく小さく見えてくる
ことでした。
群衆はひたすらシャリー・プトラーの威徳に感じ入り、このことによりシャリー・プトラーと
釈迦教団の名声はコーサラ国全土に広がり、この地に祇園精舎がつくられることになり、
仏教は北インド一帯に広がっていくことになりました。

また釈尊の弟子であり従兄弟でもあったダイバー・ダッタが、釈尊が自分を釈迦教団の後
継者に指名してくれなかったことに腹を立て、釈迦教団を割って独立の教団をつくろうとした
時のことです。
ダイバー・ダッタは、釈迦教団の新参の修行僧五百人をそそのかして、連れ出します。する
と、その一番最後にシャリー・プトラーがついていきます。ダイバー・ダッタは釈尊の弟子の
中で、筆頭であったシャリー・プトラーがついてきたということでいい気になり、シャリー・プト
ラーに説法をさせます。するとシャリー・プトラーはとうとうとダイバー・ダッタのことを褒め、
あまりに褒められるのでダイバー・ダッタは気持ち良くなり、眠くなって眠ってしまいます。
そのすきにシャリー・プトラーは五百人の弟子達を説得し、全員を連れ帰ったのでした。
シャリー・プトラーは常に釈尊とともにいて、釈尊の気持ちを一番理解し行動できる人物で
した。

ある人が釈尊に「ブッダが亡くなったとしたら誰が後継者となりますか」と聞くと、釈尊は「そ
れはシャリー・プトラーである」と答えられました。
シャリー・プトラーは、釈尊の教えをより分かりやすく多くの人に語りました。シャリー・プト
ラーがまとめた釈尊の教説は、三百~四百年伝えられ続けて、シャリー・プトラーは般若
心経、法華経、阿弥陀経など、ほとんどのお経に「舎利子」「舎利弗」の名で、書き記される
ようになり、シャリー・プトラーの存在は、後に仏教を知る人々に多大な功績を残したのであ
ります。

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7月 14 2009

シャリー・プトラー④

釈尊の正法流布が積極的になり広がっていくと、釈迦教団に入門する入門者も次第に増
えていきました。ある時ウパテッサとコリータが釈尊に呼ばれます。
「同姓同名が多く、お前達自身心を新たにする意味もあって、このさい改名したらいいと
思うがどうか」と聞かれます。
ウパテッサもコリータも、前々から釈尊の弟子になることで心機一転し、名も変えて頑張っ
ていきたいと思っていたところだったので、ブッダにお任せしますということになりました。
すると釈尊は「ウパテッサよ、そなたの母はバラモンの妻として、よく衆生を供養し、よく夫
に仕え、よく子供を育てた。そなたの母はラジャグリハの町でも知られている賢母である。
その母の名をもらって、これからはシャリー・プトラーと呼んではどうか」と言われました。
母シャリーの族の者という意味です。
ウパテッサは釈尊が、自分の母のことまで知っていることに驚きましたが、ウパテッサに
異存はなく「はい、母のように慈愛にとんだお方の名前をいただき、母に負けないよう立派
な修行者になります。ブッダありがとうございます」とお礼を言って、釈尊の偉大さをまた
あらためて知るのでした。
一方コリータもモンガラナーと改名することになりました。

釈迦教団が発達していくと、釈尊にかわって大弟子達が説法をしました。しかし、その説法
はその大弟子達が、釈尊から受け取った範囲だけのものでありましたが、シャリー・プトラ
ーは釈尊の教えをそのままよく分かっていたので、釈尊の教えのすべてをより分かりやす
く、多くの衆生に説いたのです。
ある時、シャリー・プトラーの教えを聞いた比丘(男の修行者を比丘『ぴく』女の修行者を比
丘尼『ぴくに』といいます)が、釈尊のところへかけ込んで訴えました。
「シャリー・プトラーは、ブッダから聞いたこともない話をしています。けしからんことです」
釈尊は答えられます。
「そうではない。シャリー・プトラーは、私と同じ法界に自由に出入りできるのであるから、
シャリー・プトラーの言っていることは正しいのである」
仏典には次のように書き遺されています。

『釈尊は、シャリー・プトラーの智慧を驚嘆せられて、
「シャリー・プトラーは、聡慧、速慧、捷慧、利慧、広慧、深慧、出要慧、明達慧、弁才慧を
具えている。彼は実智を成就している。
それゆえに、われ略して四諦の理を説けば、シャリー・プトラーは広くこれを他のために説
きあらわす」また、
「智慧、きわまりなく、もろもろの疑いを決了するものはシャリー・プトラーである」
と申された』

シャリー・プトラーの智慧は、聡明で頭の回転が早く、いうことは秀でており、善悪利害の
判断が正しく、広く深くどこまで深いかその深さが分からない、そうして、必要に応じて相手
が聞きたいと思っていることを話し、神理に到達しているから矛盾がなく、話すことが次か
ら次へとでてきて話が途切れるということがない。因縁の法を簡単に略して説いても、シャ
リー・プトラーはすべてのことが分かっているため、それはどういうことであるのか、いろい
ろな体験を交えて日常生活に即した広い話をするから、聞いた人は皆ためになる。シャリー
・プトラーの智慧は際限がなく、どんな疑問でもシャリー・プトラーに聞くと、納得できるので
ある、と釈尊は言われました。

釈尊在世当時にも、統一された教団というものはありませんでした。それぞれの弟子達を
中心にした大小の支部(数人から数百人)があり、それぞれ独立して修行していました。
夏安居(げあんご)といって、毎年雨期になると弟子達は釈尊の下に集まり、新しく説法を
聞いて伝道先での質問、疑問をお互いに勉強しあいました。
釈尊はシャリー・プトラーのグループと行動を共にしていられました。ラジャグリハの東北に
霊鷲山(りょうじゅせん)がありますが、この一帯をグリドラクターといい、昔から死体の捨て
場所になっていて人々に恐れられ気味悪がられている場所でした。
日本では昔から東北は鬼門と言われていますが、その語源はここからきています。
シャリー・プトラーのグループは、この霊鷲山の洞窟で生活をしていました。霊鷲山にはた
くさんの洞窟があり、その中の一つで釈尊とシャリー・プトラーはともに寝起きをして、釈尊
は寝起きをしている洞窟の上で、瞑想をしたり人々を集めて説法をしたりしていたのです。

釈尊がなぜそのような場所を、わざわざ住処にしたかと言えば、死とは恐れるものではなく
神の定めなのである、人が死に肉体は腐ってウジがわいても、それは神の定めによって
そうなるのであり、その人の魂は神と一体であり仏と一体であり清らかなのである、という
ことを人々に知ってもらうため、敢えてそのような場所に住むことにされたのでした。

釈迦教団が大きくなるにつれ精舎が布施されることになります。竹林精舎、祇園精舎、鹿
母精舎、この精舎が布施された時も、シャリー・プトラーの活躍が伝えられています。







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7月 13 2009

シャリー・プトラー③

ウパテッサとコリータは弟子達を連れ、釈尊のいる竹林精舎へと急ぎます。竹林精舎につ
いて二人が釈尊の前に進み出ると、釈尊は「あなたがウパテッサ、そちらがコリータですね。
よく訪ねて来られた。あなた方はいろいろ求められて来られた方ですね。師に巡り合えて
本当によかった」と労らわれます。
ウパテッサは質素な法衣と飾り気のない姿の中にも、どことなく威厳がある釈尊を一目見る
なり「ブッダー、私達をお弟子に加えてください。お導きをお願い致します」と、口走っていま
した。コリータも同じで釈尊を見た瞬間、遠い昔の師に、やっと巡り会えたような懐かしさに
おそわれ「ブッダー、お懐かしゅうございます」と叫び、泣き出してしまいました。初対面の者
がいきなり涙を流して懐かしがる、不思議な光景でした。しかし、ウパテッサもコリータも体
の中から揺れ動く、感激の鼓動をどうすることもできませんでした。

どうしてこういうことが起きるのでしょう?
釈尊のことを観自在菩薩とも言います。観自在とは人の現在・過去・未来やこの世界のす
べてを一瞬で見通せる力のことを言います。(観ること自在の菩薩=観自在菩薩)この観自
在の力をもたれた方は、身体から絶えず光を放っています。すると過去世で釈尊と縁の深
かった者は、この光によって心の奥に眠っている過去の記憶が表面意識に流れ出し、現在
の記憶を飛び越えて過去の記憶が甦ってきます。それでこのような現象が起きてくるので
すが、ウパテッサとコリータは特に釈尊との縁が深い方達でありました。

釈尊はウパテッサとコリータの現在のことはもちろん、過去世のこともすべて知っていられま
した。釈尊は竹林精舎にすべての弟子を集められ、次のように話されます。
「今から新しくブッダに帰依したサロモン(修行者)を紹介する。こちらのサロモンはウパテッサ
という者、その後ろに座している者はウパテッサの指導を受けている弟子達である。ウパテッ
サはやがて君達に法を説き、君達のよき指導者となるであろう。またウパテッサの隣に座し
ているサロモンはコリータといい、ウパテッサの小さい時からの修行仲間であり同士だ。ウパ
テッサ同様このコリータもやがて君達を導くだろう。この者達は今日からブッダに帰依し、法
に帰依し、教団に帰依したのである。諸君達もしっかり法を依りどころとして修行してほしい」
先輩が後輩を導くというのはどんな世界でもありますが、釈尊は今、帰依したばかりの新参
者二人が、古い弟子達を指導するようになると言います。釈尊の言葉を聞いて、早くから釈
尊に帰依した弟子達の間からざわめきが起きました。

今生だけを見ても、必ずしも先輩が後輩を生涯通じて導くとは限りません。年齢や先輩、後
輩にかかわらず魂の過去の遍歴によっては、先輩より後輩の方が魂の高い次元にあること
もあるのです。法の世界においては、魂の次元の高い者が指導者になることは当然であった
のですが、そのことが分からない多くの弟子達は、心に抵抗をつくり動揺する者も少なからず
いました。すべてを知っていられた釈尊はまた言われました。
「帰依したことの早い遅いによって、その者達の魂が偉大であるかどうか決めることはできな
い。そなた達はブッダの過去六仏のいずれかの縁によって、現世の弟子となったなのであ
る。しかし、ウパテッサもコリータもブッダの過去六仏の縁をことごとく体験した。ウパテッサも
コリータもブッダが前生で肉体を持ったとき、すでに菩薩としての悟りを得ていたのである。
今生だけの縁をもって、先輩、後輩と決めて不平不満をいだいてはならない」

釈尊はウパテッサとコリータを、過去六仏の縁をことごとくを体験したといわれました。釈尊は
過去六度この世に出世され、仏として法を説かれました。これは原始経典「テーラガータ」に
「過去六仏の踏みゆきし道をゴーダマ(釈尊)は行けり」と書かれてありますが、この六度この
世に出られて、法を説いていられる時すべてに一緒に出て釈尊に仕えたのが、ウパテッサと
コリータであり、この過去からの縁によりウパテッサとコリータは「釈尊常随の弟子」(しゃくそ
んじょうずいのでし)と呼ばれます。(釈尊は過去六度この世に出て法を説いたと言われてい
るのに、釈尊入滅後は、涅槃に入られた釈尊は、二度とこの世に出世されないと言われるよ
うになりました。ずいぶんおかしな話ですね)

最初は不平不満をもっていた古い弟子達も、釈尊の言葉を聞いて反省し、ウパテッサとコリー
タも、その過去世からの力を次第に発揮して、釈迦教団の中でグングン頭角を現していきま
す。ウパテッサの力をよく知っていられた釈尊は、次第に釈迦教団の統制をウパテッサに任さ
れるようになります。釈迦教団をウパテッサに任された釈尊は、法を説くことに専念されるよう
になり、釈尊が法を説くことに専念されると、釈尊の説かれる正法は急速に広がっていくこと
になるのです。





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7月 10 2009

シャリー・プトラー②

ウパテッサには竹馬の友であり親友でもあった、コリータ(後のマハー・モンガラナー、大目
連)がいた。二人の出会いは次のようなことであった。

インド人はお祭りが好きで、日をきめて村々が集まり祭りの集会をしていました。ウパテッサ
の故郷でも、よくこのようなお祭りの集会が開かれ、皆楽しそうに踊り狂っていました。しかし
ウパテッサは、そのような祭りに参加することは破滅の道と教えられていたため、そんな祭
りには一切参加しませんでした。
しかし、わずか十六歳で天才の名を、ほしいままにしていたウパテッサといえども人の子で
す、他の十六、七歳の子らと同じように、祭りに参加して踊り狂ってみたいという、気持ちは
強く持っていました。その一方で、インド哲学の神髄に触れた理性は、それは破滅の道であ
る、ということを知ってその思いを否定しようとします。ウパテッサの青春は、その二つの思
いに揺れ動きます。楽しそうに踊り狂っている人がいる。自分もあんなに夢中になって、な
にもかも忘れて踊れたら、どんなに楽しいのであろうか、フッと気がつくと、いつしかウパテ
ッサもこの祭りの人となっていました。

踊り狂っている人達の真似をして、踊りの輪の中に入りふざけて踊ってみましたが、そうし
た途端ウパテッサの心はたちまち虚しくなり、激しい嫌悪感に襲われます。いたたまれなく
なったウパテッサは、踊り狂っている人の輪からはずれ、誰もいない森の中に入り、一本
の木の下に座りました。祭りの笑いさざめく声、太鼓や笛の音がかすかに聞こえてきます。

「人はいつしか死ぬのである。今、この山に集まって歌い踊っている人達も、あと百年もす
れば誰も生きている人はいない。あそこにいる人達は何のための人生なのか、死んだらど
こに行くのか、そんなことも考えないで、歌って踊って楽しんでいるが、それが人生にとっ
てどれほどの価値があるというのか。今はああして浮かれていても、この祭りが終われば
また人を憎んだり恨んだり愚痴ったりして、少しも進歩のない堕落の道を歩むのである。な
んと馬鹿な時間を過ごしていることか」

うかうか人の波にうかれて、祭りの輪の中に入ってしまったことが、悔やまれて仕方ありま
せんでした、もう二度とこんなことはしない、そう誓うウパテッサでありました。
我に返ったウパテッサが、後ろに人の気配を感じ振り返ってみると、自分とそう歳もかわら
ないと思われる青年が立っていました。名を聞くと「コリータ」だといい、ウパテッサが住む村
の隣の村に住んでいるとのことでした。
このコリータもウパテッサほど名は知られていませんでしたが、家柄もよく優れた人物でし
た。二人はその場に腰をおろし語り合ってみると、まったく同じ考えをもっていました。話して
いるうちにウパテッサとコリータは、なにか昔からの友であったような気がしてきて、その場
で親友となり一緒に学んでいくことを誓います。この誓いは生涯破られることは、ありませ
んでした。後に釈尊の弟子となった二人は、釈尊の二大弟子として一生をともに釈尊の下
で修行して行くことになったのです。

ウパテッサとコリータは同じアサンジャーの弟子でしたが、師の教えに満足することなく人
が本当に救われるのにはどうしたらいいのか、それを教えてくださる方を探し求め、もしどち
らかが、そのような人を見つけたならば、必ず連絡しあおうと約束していました。
ある時ウパテッサが、ラジャグリハの郊外で遊行中休憩をしていると、目の前を眼のきれい
な他のバラモンの修行者とはまったく雰囲気の違う、若い修行者が通りました。ウパテッサ
は、この方はもしかして仏陀ではないのかと思い、声をかけますが、その人は仏陀の弟子の
一人のアサジという人でありました。そのアサジから仏陀が出世されているということを聞き、
大急ぎでコリータのもとに走ります。

ウパテッサはコリータに仏陀が出世されていることを話し、会いに行くことを告げます。しかし、
コリータは「その人は本当の仏陀なのか?自称仏陀という人はたくさんいるからな」と、疑い
ます。しかし、弟子の雰囲気からして他の修行者とは違う、とウパテッサが必死で話すとコリ
ータも信じ、自分達の弟子達を連れて、仏陀に会いに行くことになります。
ウパテッサとコリータは釈尊と衝撃的な出会いを、これからすることになります。そして、この
二人が釈迦教団に入ることにより、釈迦教団も大きく運命がかわっていくことになったのです。




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7月 09 2009

シャリー・プトラー①

シャリー・プトラー(サリープッタ)は、お経や仏典の中に舎利弗(しゃりほつ・シャリーの族
の者)、舎利子(しゃりし・シャリーの子)の名で、よく出てくる人物です。
インドで釈尊が正法を説いていられた当時、釈尊の右腕といわれていたのが、このシャリ
ー・プトラーでありますが、現在ではシャリー・プトラーよりも文殊や普賢、あるいは弥勒
菩薩という人の方が有名で、釈尊筆頭の弟子であったシャリー・プトラーは、あまり知ら
れていません。
しかし、釈尊が法を説いていられた時、釈尊が一番信頼し、後継者とも思っていたのが、
シャリー・プトラーであり、それは当時の釈尊の弟子達や他の人々も認めていました。

シャリー・プトラーは、中インドにあるマガタ国の首都、ラジャグリハ(王舎城・現在はラジ
ギールと呼ばれています)から西北に十五キロくらいのところにある、ナーランダという村
で生まれました。
父のテッサは非常に優れた高邁な見識をもち、母のシャリーもバラモンの教義に詳しく、
優れた資質をもたれた人でした。
テッサとシャリーは平和な生活を続けていましたが、ある晩シャリーは不思議な夢を見ま
す。その夢とは、鎧兜に身を固めた見たこともない異人が、手に金剛杵(こんごうしょ)を
持って、たくさんの高山や霊山を次々に踏破していきます。そうしてその中の一番高い霊
峰に立ったとみると、夢から目が覚めました。

この夢をシャリーは、夫のテッサにつぶさに語りました。妙に心に残る夢で、不思議な夢を
見るものと奇異に感じていたシャリーは、それから間もなくして妊娠します。すると、にわか
に心が広く澄み渡るように感じて、いかなる問題に対しても、思ったこともない言葉が次々
とでてきて、たちまち答えてしまいました。高邁で優れた見識を持つ夫のテッサでさえ舌を
巻くほどでした。そうして生まれた男の子を、シャリーはウパテッサと名づけます。このウ
パテッサが後年のシャリー・プトラーです。

ウパテッサの母のシャリーは、ウパテッサを受胎する前に見せられた不思議な夢によって、
ウパテッサを育てることに、大きな使命感を感じていました。特に受胎してから、シャリー自
身が大きく成長し変化したこともあって、この子は普通の子ではないと、特別心を砕いて育
てました。
母の思い通りウパテッサのすきとおった頭脳、素晴らしい才能は大人さえも舌を巻くほどで
した。博識な父と聡明怜悧な母の薫陶を受け、八歳から師につきインドの古典ヴェーダ、ウ
パニシャードを学び、膨大なヴェーダ聖典を暗誦し、各派の宗教哲学を研究し、十六歳にな
ると学識は師を超え、その名声は近隣に鳴り響きました。
ウパテッサは容貌、体格ともに優れ鼻も高く額は聡明さをあらわし、家も富み栄えていまし
た。父テッサ、母シャリーの名とともに、天才ウパテッサの名も、誰も知らない者はいません
でした。

この当時インドの宗教は沈滞して、ヴェーダの真意は失われ、祭祀をつかさどるバラモンだ
けが羽振りを効かせ、儀式のみが盛んで、その祭典の儀式には膨大な費用がかかり、本当
の人の救いである心と霊の救いを説く人はいませんでした。
ただ、その中にあって、それぞれ自分の信じたことを説く修行者がありました。それが六師外
道(ろくしげどう)と呼ばれた人達です。
ウパテッサは、その六師外道の一人である、アサンジャ(サンジャペーラチプッタ)の弟子に
なります。このアサンジャの教えは「ある」と思えばある「ない」と思えばない、という懐疑論で
す。たとえば「来世はあるか」とアサンジャに質問すると、「あなたはどう思うか」とアサンジャ
が言います。「私はあると思う」という人に対しては「あなたがあると思えばある」と答え、「な
い」という人には「あなたがないと思えばないのである」と答えます。
アサンジャは、このように曖昧な確定的でない返答ばかりしていたので「鰻のようにぬるぬる
していて捕らえ難い議論」と呼ばれます。

ウパテッサはアサンジャに弟子入りするまで、十分な素養と英才を身につけていたため、わ
ずか三日でアサンジャの教えが、みな分かってしまいます。そのためアサンジャの弟子二
百五十人の講師となり、バラモン教の教えを中心に、自分の得たものを伝えていました。
しかし、心の中にはいつも疑問があり、その疑問はバラモンの経典や他の外道達の教えを
学んでいても、晴れるものではありませんでした。
ウパテッサは自分も救われ、人も救われていく本当の道を探し続けていました。必ずどこか
に人が本当に救われる真の教えを説く、悟られた仏陀がいるはずであると、たえず師を求
め遊行していました。
この頃インドでは、近く仏陀が出世されるという予言が、遠くギリシャの方から伝わっていま
した。







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