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7月 07 2009

あるプロ野球選手との出来事②

その年、その投手のいたチームはよい成績を上げ、私も長年そのチームのファンだった
ので嬉しかったのですが、あれほどの投球を見せてくれた、その投手に何をお返ししよう
かとズッーと考えていました。何か贈り物でもしようかな、とも考えましたが、なにせ相手
は年俸数億の選手です。私のような貧乏人が何か買って渡したとしても、さして嬉しくも
ないでしょう。それより何かもっとインパクトのあるものはないのか考えました。

そうこうしているうちに、翌年のシーズンが開幕し、その投手も開幕で投げたのですが、昨
年の疲れがあるのか、あまり調子がよくありませんでした。開幕前のオープン戦に投げた
時も連打され、あまり調子がよさそうには見えませんでした。
その調子の悪そうな(と勝手に私が思いこんだのですが)、その投手をみてピンときまし
た。
「よし、昨年のあのピッチングのお返しに、この投手の調子をもっと上げてやろう」
今考えれば、日本一の投手の調子を上げようというのですから、ものすごい発想です。
しかし、やれる自信はありました。なにせ仏陀の法を知っているのですから。そして、その
投手が次に投げる機会を待っていました。

その投手が投げそうな日を見計らい、三塁側内野席の同じ場所に座りました。予想通り今
日の先発は、その投手です。
最初の先発のマウンドに上がる前に、その投手は私のいることに気付き、こちらを見ていま
した。私は内心「よしよし」と思いながら、その試合を見ていました。
一回、二回は、さほどのピンチらしいピンチもなく試合が進んでいたのですが、三回にヒット
と味方野手がエラーして、ノーアウト一、二塁というピンチになりました。私は内心「チャン
ス」と思い、あることを繰り返ししゃべって(口パクで)いました。
その投手はランナーがいますので、セットポジションで構え、いやでもこちら(三塁側内野
席)に顔と体を向けなければなりません。その投手がランナーを見て、セットポジションで
構えていたとき、フッと私の顔を見ました。すると私は繰り返しあることを言っています。
その選手は、私が何かしゃべっているのに気づいた様子で、ジッとこちらの口元を凝視し
ていました。

すると急に顔色がかわり、マウンドから足を離し構えを解きます。あきらかに私の言ったこと
を理解したようでした。しかし、仮にも日本一のピッチャーといわれた投手です。プライドも高
いでしょうし、頑固なところもあると聞いています。私がしゃべったことを、この投手がやって
くれるかどうかは、分かりませんでした。
男は、一念岩をも通す、という頑固な部分もないと、大きな仕事もできません。だから、その
ような頑固な部分があってもよいと思いますが、仏陀の法の前では、そんなプライドも頑固
さも無用の長物でしかなく、そういう心をすべて捨てて素直に法に従うならば、そこに奇跡が
起きるのです。

少し、その投手は考えていましたが、おもむろにグラブからボールを出すと、そのボールを
ジッと見つめていました。どうやら、私の言ったことをしてくれたようです。私は一人でヨシヨ
シとうなずきながら、そのピンチを見守っていました。

その後不思議なことが起きます。ノーアウト一、二塁で次打者が送りバントをしたのですが、
それが、そのピッチャーの目の前に転がり、二塁ランナーが三塁ホースアウト、次打者はレ
フトフライ(もしランナーが三塁に進んでいたら、タッチアップで点が入っていたかもしれま
せん)、問題は次の打者です。
ツーアウト一、二塁でバッターのカウントがツースリーまでいきました。次の球がボールな
らフォアボールでツーアウト満塁(次打者は三番か四番の選手だったと思います)で大ピン
チとなり、ストライクなら三振でチェンジということになります。次の一球がストライクかボー
ルかでずいぶん結果が違ってきます。
その投手が、最後のボールを投げました。私もそのボールを三塁側内野席からドキドキし
ながら見ていたのですが、あきらかに低かったのです。普通、内野席からボールを見てい
てもコースがよくわからないので、ストライクかボールかはっきりしません。ところが、その
ボールは内野席から見ていても分かるくらい低いボールだったのです。
しかし「あっ、ボールだ」と私が思った瞬間、審判がストライクのコールをしたのです。
「えっ」と私は思いました。「今のボール完全に低くないか」と私が思っていると、相手チーム
の監督が大きなゼスチャーをしながら、カンカンででてきます。コーチや選手もでてきて大
騒ぎになりましたが、ストライクの判定がボールにくつがえるはずもなく、相手チームの監督
や選手達はシブシブ引き上げました。このストライクの判定でチェンジとなり、その投手はピ
ンチを無失点で切り抜けたのです。不思議な判定でした、その時に限って審判がボールを
ストライクとミスジャッジしたのです。(誤解がないように言っておきますが、私にはそう見え
たというだけで、実際はストライクだったのでしょう。しかし、きわどいボールだったのはたし
かなようで、だから相手チームの監督やらコーチやらがでてきて大騒ぎになったのです)
法を知ると、こういう不思議なことが起きるのです。

こういう幸運を、たまたまとか偶然そうなったとか思っていると、よい運はめぐってこなくなりま
す。この世に偶然などありません。よい結果がでたのならよい原因をつくったから、よい結果
がでたのであり、悪い結果がでたのなら悪い原因をつくったから、悪い結果がでるのです。

この投手は、そのことがよく分かっていたようで、この試合から、この投手は二十何イニング
か無失点を続け、このシーズン、ダントツの防御率(規定投球回数に少し足らなかったので
タイトルはとれませんでしたが)をほこり、最後まで調子が落ちなかったのです。
私は、この投手に、たった一言アドバイスを送っただけでした。たった一言でも仏陀の法を知
るならば、それなりによい結果がでるのです。もちろん、この投手に実力があったのは事実
です。しかし、その実力だけで、よい結果がでるとは限りません。よい原因(仏陀の法)をつく
ったから、よい結果がでたのです。
この投手は現在は海外のチームで投げていますが、頑張ってほしいといつも思っています。

このように仏陀の法を知ると、不思議な結果を得て、不思議な現象がでるということを知って
ください。ただし、中途半端に仏陀の法を知り、そのままでいると、おかしな結果
がでること
があります。そのような人は、もっとしっかり法を知れという警告ですので、ちゃんと勉強しな
いと大変なことになります。
いずれにしても一人でも多くの人が、仏陀の法を知り、この投手のような不思議な現象を
体験していただきたいと思っています。




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7月 06 2009

あるプロ野球選手との出来事①

2~3日前、久しぶりに野球を見に行きました。去年、一昨年はよく見に行ったのですが、今
年は行っていません。もうあまり見に行くこともないだろうと思いながら見ていましたが、フッ
とある選手のことを思い出しました。
これから書くことは、その選手に直接聞いたわけでもなく、私の勝手な思いこみかもしれま
せんので、フィクションだと思ってください。

そのプロ野球選手は、メンタルアドバイスにでてくる選手と同じチームの投手でした。その
投手はそのチームのエースとして十年間活躍してきました。数々のタイトルを取り、数年前
までは日本一の投手ともいわれていました。
その投手も、私が球場に試合を見に行くと、よく私の方を見ていました。(そのチームのほと
んどの選手が、私が球場に行くとこちらを見ていましたので、多分メンタルアドバイスにでて
くる選手が、私のことをみんなに話したのでしょう)

その投手が、一昨年の終盤の大事な試合に先発した時のことです。
その試合は大事な一戦だったので、私も見に行っていました。私は大体決まった席に座る
のですが(三塁側内野席です)、その試合もその席で見ていました。目の前にその投手が
見えます。
その大事な一戦に、その投手はすごい気合で投げていました。その気合がこちらにも伝わ
ってくるようでした。そして内容もまたすごかったのですが、とにかく最初から三振狙いでバ
ンバン投げ、三振の山を築いていました。初回から三振ばかり取るので、周りのファンはも
う大騒ぎです。この投手は数年前までは、豪速球をガンガン投げて完投する力投型の投手
でしたが、ここ数年は、ここぞという場面にだけ速球を投げる、軟投派にかわっていました。
それが今日の投球は、昔のようなというか、それ以上のピッチングです。

「すごいなぁ」と思ってみていると、あることに気付きました。
今日の私の席は三塁側内野席です。この投手は右利きで、ノーワインドアップで投げるの
で、一度体を三塁側に向けないと投げれません。投げる前にかならず一度、三塁側に体を
向けるのです。すると私からは、この投手が正面に見えます。この投手からも多くのファン
が、この投手を見守る中に、私が見えていたはずです。

「あれっ」と思ったのですが、よく見ていると、この投手はツーストライクをとると、必ず一度
私を見てから投げているのです。最初は気のせいかと思ったのですが、次の打者の時も
その次の打者の時も、同じことをしています。
はじめは「何で毎回こっち見てんだろ」と不思議でしたが、そのうちに、どうも三振をとるとこ
ろを私に見せてくれてるようで、これは真剣に見ていないと悪いかなと思えてきました。
普通なら、このチームの攻撃の時は真剣に見て、守りの時は何か買いに行ったり、トイレ
に行ったりするのですが、今日は逆です。この投手が投げてる時は席をはずせません。

しかし、この日のこの投手のピッチングはすごかったのです。とにかくストライクを投げるの
です。当たり前と思われるかもしれませんが、そうではありません。
この試合は、最初から何度も言っていますが、大事な一戦でした。普通ならボールを混ぜ
て、もう少し慎重にピッチングを組みたてながら、投げてしかるべきでしょう。いくら私が野球
は素人とはいえ、長年プロ野球は見ています。それぐらいは多少野球を見ている人なら、
誰でも分かります。
ところが、この投手、一球もボールを投げようとしないのです。それは、審判がボールと判
定すると、その投手と捕手まで「えっ」という態度をとるので、その事実が分かります。
今日この投手は、相手のチームのすべての打者に対して三球三振を狙って投げていました。
まるでマンガの世界のような話ですが、それを、この投手はやろうとしていたのです。少なく
とも、私にはそう見えました。

私は半ばあきれ、しかし、こんなピッチングをしているピッチャーもピッチャーなら、それをさし
ているキャッチャーもキャッチャーだなとも思い、それに、ベンチの監督やコーチも何も言わ
ないのか、不思議でなりませんでした。しかし、意気に燃えているピッチャーに対し、ゴチャ
ゴチャこちらが気を使って考えるのは失礼な話です。
もうくだらない考えはやめて、その投手のピッチングを心から、楽しむことにしました。その投
手は七回まで投げ、九三振を奪う力投を見せ、結局交代するまでツーストライクを取ると私
の方を見てから投げるという、投球を続けました。なにか、この投手に三振ショーを見せても
らえたようで、心から楽しめました。そして、これほどの投球をしたこの投手に感心し、心から
感謝したのです。

よく皆さんは感謝しますという言葉を使われますが、感謝するということは、感謝しますと口で
言うだけとか心で思うだけでは、感謝したことにはなりません。本当に感謝するとは、感謝の
心と報恩の行為、この二つがそろってはじめて感謝したことになります。
私は、一生忘れることができない試合を見せてくれたこの投手に、感謝するのと同時に、何か
お返しができないかと考えました。
そしてあることを思いついたのです。



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7月 02 2009

富者の万灯より貧者の一灯

あるときマガダ国の王が家来にむかって「釈尊は、よい政治を行うには、国王はこうあらね
ばならぬということを指導してくださった。お陰で闇夜に光明を得たようで道が開かれた。
そのお礼に何か布施したいが何がよかろう」と聞かれた。
色々と思案した末に、その家来は「王様、王様が今申されました、闇夜に光明を得たるが
ごとくの、おおせの通り、この国が光り輝くことになりますよう、道路に灯明をともして、今一
度世尊にお出ましを願い、ご法話を拝聴させていただいたらいかがでしょうか」と答えた。

このマガダ国王の住む宮廷は、釈尊がいられる竹林精舎から少し離れた所にありました。
「しかし、ここから竹林精舎までは、かなりの道のりではないか」と王が言うと「釈尊に帰依
する者達に呼びかけて、献灯してもらったらいかがでしょうか」と家来が答え、献灯の志を
つのることになりました。
すると多くの人が、それぞれ分に応じて十灯、二十灯と献灯し、お金持ちは功徳を積ませて
もらいたいと、百灯、千灯と献灯され、たくさんの灯明が集まりました。
この話は、遠くコーサラ国にも聞こえ、祇園精舎を寄進したスダッタ長者は一万灯を献じま
した。それを聞いたマガダ王は、スダッタ長者が一万灯献じたのならと三万灯を献じ、たくさ
んの灯明が準備されていったのです。

このマガダ国に一人の貧乏な乙女がいました。この乙女の名はスジャータといい、おおよそ
この世にこれ以上貧乏な家はないだろうと思われるほどの、貧乏な家に育ちました。けれど
も仏様の尊さを誰よりも知っていたスジャータは、献灯の話を聞き喜びました。
「なにか布施したいと前から思っていたが、やっと自分達にも布施できる機会が与えられた。
こんなありがたいことは、もう二度とないかもしれない。せめて一灯なりとも献じて、み仏のお
み足をお照らししたい」
そう思ったスジャータは、それから一生懸命働きます。しかし、家には病んだ母がいて一文も
余計なお金はでてきません。だんだん献灯の日は近づいてきますが、とても一灯を献ずるお
金などできそうにありませんでした。どうしたらよいだろうと思うと、ただ泣けるだけでした。

いよいよ釈尊が、王宮にお出ましになられるという日、スジャータは思い切って長い黒髪をプ
ッツリ根元から切り、油に換えに行きます。昔の日本もそうでしたが、インドでも黒髪を切ると
いうことは、女として生きること、女としての幸せをあきらめるということを意味していました。
黒髪を切って坊主になった頭を布で包み、この黒髪を油に換えてほしいとスジャータが油屋
の主人にいうと、油屋の主人は驚き、「みればたいそう困っていなさるようだが、なんだって
髪の毛まで切って油を買いなさる」と聞きます。スジャータは「人は生きてさえいれば、何とか
食べていけます。今まで貧乏で、み仏様に対して何一つ布施することができませんでしたが
、このたび王様の思し召しにより、献灯の機会を与えられました。せめて心ばかりの一灯を
捧げたいと思います」と答えます。
それを聞いた油屋の主人はスジャータの純粋な心に感激し、油をたくさんまけてくれました。

その油を入れた灯明を持ちスジャータはお城に走ります。城ではもう釈尊の説法が始まって
いました。
「どこの隅でも結構でございます。この一灯を献じたいのですが……」
係の武士に頼みますが、スジャータのみすぼらしいかっこうを見た、係の武士達は、
「ここはお前のような者がくるところではない」「なんだ今頃たった一灯か」「そんな、少しばか
りの油では半夜もともせまい」「ぐずぐずしてると釈尊がお通りになる、邪魔だからどいた、ど
いた」と口々に罵ります。
スジャータは泣き出しそうな気持になり、今度は竹林精舎の方に走ります。すでに日も暮
れ献灯に火がともされ、道は燦然と輝いています。

竹林精舎の入り口のところまで駆け付けたスジャータは、そこにいた人に一心に叫びました。
「お願いでございます。どうかこの灯を献じさせてくださいませ」
そこにいた人は祇園精舎を寄進したスダッタ長者でした。事情を聴いたスダッタ長者は、「そ
ういう一灯こそ尊いのです。きっと釈尊も喜んでお受けになります。真心のこもった灯(ともし
び)ですから、一番高い所につるしましょう。もうすぐ釈尊がお帰りになります」と言われます。
それを聞いたスジャータは、せめて一目だけでも釈尊を拝しようと、スダッタ長者の足下にう
ずくまっていました。それを見た町の人々は「あの貧乏な小娘が……」と、口々に小さく罵り
ます。

いづらくなったスジャータは、自分の献じた灯が消えたら帰ろうと思い、うずくまって自分の
献じた灯をじっと見つめていました。スジャータの眼には涙があふれていました。
すると不思議なことが起きます。他のほとんどの灯明の灯は消えたのに、半夜ももたない
といわれていたスジャータの灯は、こうこうと輝いています。少し強い風が吹いて他の灯明
はすべて消えましたが、まだスジャータの灯だけは消えず輝いていました。

すべてを見通していられた釈尊は、弟子の大目蓮に「大目蓮よ、あの灯は夜が明けるまで
消えずに燃え続けるであろう」と言われ、釈尊がいわれたとおりスジャータの灯は、強い風
が吹き、吹き消されるであろうとおもうと、なお一層燃え上がるのでした。
釈尊はスジャータを近くにお召しになり、スジャータの過去世の話をして「しかし、今生では
心からの一灯を捧げた。これから後は自ずと幸いを得るであろう」といわれました。

マガダ王は、貧しい一乙女が釈尊に褒められたと聞いて、あまり面白くありませんでした。
自分は万灯を献じたのに、釈尊から一言の喜びの言葉ももらえなかったからです。
それを家来にいうと「王様、あの娘の捧げた献灯はわずかでしたが真心がこもっておりま
す。王様が献じられたものは、どれだけたくさんの万灯とはいえ、国民から納めさせた税
金ではありませんか。王様がされた献灯には、これだけのことをしたという驕慢の心が含
まれております。釈尊に捧げた、あの乙女の真心はまことに純粋であります。自分の髪の
毛を売ってまで油を買ったのです。王様は自分のなにを売って献灯されたというのでしょう
か」「いやよくわかった。あの娘はよいことを教えてくれた。あの母子を引き取って世話をし
てやりたい」
王はスジャータの純粋な真心を知って反省し、スジャータ母子の面倒をみることにしたの
です。

その後、スジャータは釈尊がいわれたとおり、

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7月 01 2009

王妃茉莉花

釈尊の時代の女性達は、魅力的な女性が多かったようですが、今日ここに書く女性も
やはり聡明で魅力的な人でした。

釈尊が一番長くいた精舎が祇園精舎ですが、その祇園精舎があるコーサラ国にマツリカ
という王妃がいました。マツリカは奴隷の身分でありましたが、それが一国の王妃にまで
なったのには次のようなことがあったからでした。

ある大金持ちのバラモンの召使の一人にカピラーという女がいました。このカピラーはジ
ャズミンの花園の手入れをしている女で、顔かたちは醜かったのですが、心がきれいな女
でした。
ある朝カピラーが、弁当をもって花園へ行く途中、祇園精舎から出てこられた釈尊を見て、
自分の食べる弁当を布施しました。(当時のインドは修行者を見ると布施するのが習わし
のようになっていました)そして、腹は減っていても、布施した喜びの心いっぱいで花園で
仕事をしていたのです。

ちょうどその日、コーサラ国王のパセナディ王は多くの兵士をつれ、狩りに出ていたのです
が、獲物を追っているうちに兵達と離れ離れになり、王は暑さと疲れでどこかで一休みしよ
うと、近くにあったジャズミンの花園の中に入って行きました。
花園の中に入ってきた国王は、兵士を一人もつれていませんので、それが一国の王とは
誰も思いません。カピラーも入ってきた人が、身なりからして身分の高い人だとは思いまし
たが、まさか国王とは思いもしませんでした。
カピラーは国王に「さあ、どうぞ」と、自分の着ていた着物を一枚ぬいで下に敷き、その上に
座らせ、尋ねました。
「足をお洗いになりますか」
王がそうしてほしいというので、カピラーは蓮の葉に水を入れてきて王の足を洗いました。
「顔をお洗いになりますか」
「水をお飲みになりますか」
そうして「少し横になられませんか」といい、自分の着ていた着物をもう一枚ぬいで、王を横
にならせ、足をもみ身体のふしぶしをさすって、疲れをいやします。疲れていた王は本当に
気持ちがよく、自分が何も言わないのに、自分の思い通りに世話をしてくれる、この女の賢
さに感心しました。
またカピラーもお腹は減っていましたが、自分のする行為を心の底から喜んでくれる国王
を見て、自分も嬉しかったのです。
いつの時代でも、何も言わなくても先に先にと心をつくして、男のためにしてくれる女には、
男は弱いようで、このあとカピラーが奴隷の女と分かっても、国王は周りの反対を押し切っ
て、カピラーを妃として迎えます。
カピラーは宮中に入ると、さまざまな学芸を習い、書や画や歌や舞など、何一つできないも
のはないようになり、天性の心の素晴らしさにさらに磨きがかかり、宮中の女達からも尊敬
され、王の第一夫人となります。そして、王と出会った花園にちなんで心の美しい香りのす
る女性という意味で「マツリカ」と呼ばれることになります。茉莉花とはジャズミンの花のこと
です。

今、このようなことを女性に求めると、それは男のわがままだと叱られそうですが、少々顔が
悪くとも、よく気がついて心根のやさしい女には、どんな男も惚れるようです。それに、心が
やさしければ、それが顔の表情にもでて、かわいく見えてくるものですが、逆の人も多いよう
です。

この前テレビで、ある女性のスポーツ選手を久しぶりに見たのですが、ずいぶん顔がきつく
なっているのには驚きました。その選手は日本で活躍しアメリカに渡ったのですが、日本に
いるときは、ずいぶん活躍しましたが、アメリカにわたってからは、活躍しているというところ
までは、いっていないようです。
アメリカでの気苦労もいろいろあるのでしょうが、あれではかわいい顔も台無しですね。
勝負の世界は厳しいといわれるかもしれませんが、何べんもいいますが、勝ちたいとか、負
けず嫌いの心を持つより、調和する心を持つ方が、よほどよい結果が出るのです。(それは
あるチームが最近急に勝ちだしたということでも、その事実が分かります)それに、心の在り
方は顔にでます。勝ちたい勝ちたいという心が常に心にあるなら、顔がきつくなるのも当然と
言えば当然です。逆に調和する心が顔にでてきても、それは、笑顔とかやさしい表情にしか
なりませんので、周りの人も和らいで、よけいによい結果がでてくるということになります。

女性のスポーツ選手など特にそうですが、自分が勝ちたい勝ちたいばかりで、それが顔に
でて必死の形相でやっている人がいますが、見ていてこちらが辛くなります。もう少し笑顔
でやれないものでしょうか。その方がよほどかわいらしく見えます。などといえば、選手は勝
つために必死でやっているのに、まじめにやれといわれそうですが、とんでもありません。
いたってまじめに言っています。

一つの試合があると、その試合の参加者は皆優勝したいと思っています。ということは自分
が優勝できなければ、他の誰かが優勝するということになります。
それでいいのです。私は昨日も書きましたが、人の幸福を我がことのように喜ぶ、そのような
心をもつと、結局それがまた自分に返ってきます。考えてみてください、その優勝した選手も
同じように、悩み、苦しみ過酷な練習に耐え、優勝しているのです。その苦しみを自分は知っ
ているのです。ならば、その苦しみを乗り越えて優勝できた喜びも、自分は知っているはず
です。それを自分だけのものとせず、他の人にも分け与える、これが調和する心です。
このような大調和する心がでてまいりますと、その心に比例した奇跡が起きてきます。自分
の心が広がれば広がるほど、自分によい結果がでてくるということです。
よい結果をだしたいなら、自分ばかり勝ちたいという小さな心は捨て、調和することです。

いずれにしても、自分が勝つことばかり考えている女を、男はなかなか好きにならないでしょ
う。やはり、顔は少々悪くてもマツリカのように、思いやりがあって、聡明で魅力的な女性に男
は憧れます。どのような仕事をしていても結構ですが、マツリカのような女性が増えていって
くれることを、男は願っています。




















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6月 30 2009

男と女

前にこのブログに書きましたが、国際グラフという雑誌の7月号に、私と元巨人でピッチ
ャーをされていた角さんとの対談が載るのですが、その雑誌が今日届きました。
中を見てみると、色々な経営者の方が紹介されているのですが、ずいぶん女性の経営
者の方もいるのだなと思いました。

昨今はジェンダーフリーだ、男女同権だ、男女平等だ、などと騒がれて女性も強くなった
といわれますが、神は、男と女を姿かたちや性格を違うようにつくられています。最近は
姿やかたちや性格も男か女か分からないような人も増えていますが、男女同権や男女
平等なら、なぜ神は男女を同じようにつくられなかったのでしょうか?同権や平等なら男
ばかりとか女ばかりとか、あるいは男女両性の人間でもつくられればよかったのに、な
ぜ神は、人を男と女、別々につくられたのでしょう。
最近は女性が強くなったといわれますが、釈尊が女の道について話されたことがありま
す。釈尊が語った女の道と最近の女性とどう違うか、みてみましょう。
それはぺシャキヤという大富豪の娘で、釈迦教団にミガラー・マター(鹿母精舎)という
精舎を寄進された方です。
このぺシャキヤが、ある時釈尊に女の道について質問されます。釈尊は次のように答え
られました。
園頭広周著「仏陀をめぐる女性たち」より抜粋

<ぺシャキヤよ、そなたは女でありながら、多くの使用人に慈悲の心で接している。
お互いに心が通じ合い、むさぼることなく、ぐちることなく、正しく仕事をしているようだ。
多くの女性の中には、何事にもすぐ腹を立て、気まぐれで足ることを知らない欲深い者であ
っても、困った人、苦しんでいる人々に対しては、施しをしなければならないということを知っ
ている者がいる。
また、丸く豊かで、怒ることもなく、常に心を正し、一切に足ることを知ってはいるが、苦しい
者、悩める者を見てもいささかの慈悲の心も起こさずに、人々に与えない者もいる。
そうかと思うと、心が豊かで広い心を持ち、心の中に怒りもなく、足ることを知って欲望もな
く、そうして他人の幸福を喜び、苦しい人、困った人に慈悲の心をもって奉仕している者もあ
る。
この三者のうち、誰が正法にかなった生き方としているかというと、それは最後の女性であ
る。法を心の糧として生活している女性は、よく儀我を捨て、一切の執着から離れ、安らぎ
の心の中に住んでいる。
男女は平等であっても、その働きは剛と柔であり、その調和が大事である。
女は家庭にあって、家庭を光明によって満たす大事な役割を果たさなくてはならない。
男女は平等であるといっても、肉体的には平等ではない。
女性は結婚して他家にゆけば、やがて子供が生まれる。妻は家にあって子供を守り育てて
ゆく。良い子を育てるには、夫婦の信頼と対話が一番大事である。互いに相助け、相譲り、心
の豊かな健康な子供を育てていかなければならない。
このような家庭が多くなればなるほど、他に調和が促進されていく。
嫁に行けばそこには夫の両親がいる。孝養をつくさなければならない。どんな理由があって
も、自分の心の中に怒りや愚痴や恨みの種を蒔くことなく、忍辱の二字を心得て、いつも明る
く、豊かな生活をするようにすることである。
男は外に仕事に出かけなけらばならない。家庭を明るくするかどうかは、女の心がけ一つで
ある。
心の中の苦悩というものは、人がつくるのではない。自分がつくりだすものである。
自分に都合が悪いからといって、自分の心の中に怒りやねたみ、恨みの心を持つと、その心
の渦の中に自分が巻き込まれてしまって、やがて調和を忘れ、ついには争いとなり、破壊へ
とつながっていく。
それゆえ、家庭に対立があってはならない。女はよく夫の仕事を理解し、それを助け、そうし
て自らも知識見聞を広め、教養を高めてゆくようにするのが女の道である。>

このぺシャキヤという女性は、今でいうキャリアウーマンでした。聡明で男のように積極的に
ものを考え、計画し実行力もあり、容姿も知性と気品にあふれていました。
これだけ仕事ができて大富豪ということであるなら、大抵はわがままになり、男を見下す心が
でてきますが、ぺシャキヤはいつも冷静で、大勢の召使たちにもやさしく、物静かで控えめな
態度には、いっぱいの敬虔さと謙虚さがあふれていました。
それほどの女性でも、なお釈尊に正しい女の在り方をきき、心の向上を目指していました。
当時の女性の純粋さレベルの高さがうかがえます。

現代の女性は、仕事ができる人はたくさんいますが、ぺシャキヤのような女性や釈尊がいわ
れたような女性が、はたしてどれくらいいるのでしょう?それほど私は、多くの女性と付き合っ
たことがありませんので分かりませんが、最近は癒し系の女性より、癒し系の男性の方が多
いように感じます。(それもどうかと思いますが)

男女は人の生命ということに関して言えば、たしかに平等です。しかし、釈尊の言葉にありま
すように、肉体的には平等にできていません。そのようにつくられているのであれば、やはり、
男には男の役割があり、女には女の役割があります。それを無視した足して二で割ったよう
な平等論はやはりおかしいのではないでしょうか。
男は男で生れた以上、男としてやることがあるでしょうし、女は女として生まれた以上女として
やることがあります。それをごちゃまぜにしてしまった所に、今日の混乱があると思います。
仏陀の法には、男には男としての在り方、女には女としての在り方が述べられています。
古い新しいではなく、何が正しいのか?それを知って下さい。





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