6月
23
2009
お釈迦様(釈尊)の物語は、よく見たり聞いたりしますが、釈尊の右腕といわれ釈迦教
団で筆頭の弟子といわれていた、シャリー・プトラー(舎利弗)の話はあまり聞きません。
このシャリー・プトラーを中心にして、釈尊やその弟子達の話を書いてみます。
インドで35歳で悟りを開かれた釈尊は、多くの人々に神の教えである正法神理(しょう
ほうしんり)を伝えます。しかし、釈尊在世中、釈尊の教えを広めるためには、釈尊一人
では限界がありました。そのため釈尊から直接教えを聞いた弟子達が、それぞれ地方
に散って説法をしていました。
釈尊の弟子達は、その当時あらゆる階層から集まってきていて、最高のバラモンの教え
を学びつくした者から、まったく無学の奴隷階級の者まで、その教養の程度も最高から
最低まで様々でありました。この当時(現在でもそうですが)インドでは身分制度である
カースト制度の影響が非常に強く、最高のバラモンから最下層である奴隷まで、同じよ
うに修行をしている教団などありませんでした。しかし、釈尊は人がつくった身分制度など
認めず、誰にでも平等に教えを説いていました。
釈尊の弟子達は、悟りを開くという目的は一つであっても、弟子達個人の能力にはやはり
差があり、釈尊が正法を弟子達に対して説く説き方も、弟子達の受け取り方もまちまちで
ありました。しかし、釈尊はあえて弟子達の思想や言語を統一しようとはされず、弟子達
は各自の能力と置かれた環境と境遇に、ふさわしい修行をしていました。
後の人々が、釈尊の十大弟子と尊称をもって呼ぶようになる人達でも、かなりの差があっ
たようです。
釈尊の右腕と呼ばれて弟子の筆頭にあげられるシャリー・プトラーは、当時貴族の家に
生まれ、バラモン教もアサンジャという師の教えも学びつくし、わずか16歳でその名声は
近隣に鳴り響いていた天才でした。そういう人物が釈尊の弟子になり、その教えを受けま
した。するとシャリー・プトラーは、たちまちのうちに釈尊の教えを理解し、釈尊が一言神
理を説けば、その言葉にどういう意味があるのか、それをより深く掘り下げ、多くの人によ
り分かりやすく、語れる力をもたれた方でありました。どれだけ智慧があるのか、その智慧
の深さが分かりませんでした。中国に釈尊の神理が伝わった時、シャリー・プトラーが「智
慧第一」と称された所以です。
それに対して、同じく十大弟子の中で「持律第一」と呼ばれたウパリは、理髪師でありまし
た。当時のインドでは、理髪師はあまり高い階層ではなく、自分で教えを学ぼうと思っても
学べる教えも限られていました。ウパリはウパリで、自分で学んできたものの上に釈尊の
教えを聞きました。
必然的にシャリー・プトラーとウパリでは、釈尊の教えを聞いても、受け取り方に相違が
生じます。また他の弟子達の間にも個人個人の神理の理解度により、同じ神理を聞いて
も、自然に受け取り方が違い説き方も違っていました。
はっきりいえば、シャリー・プトラーのように、小さいころからバラモンの教えなどを学び、
それらのものをすべて学びつくした天才が、釈尊の教えを伝えるならば、釈尊の教えは
正しく伝わりますが、あまり学んでいない者が釈尊の教えを伝えても、正しく伝わる部分
もあるが、正しく伝わらない部分もある、ということです。
これが分からなかったため、後の人々は歪められた部分のある、釈尊の正法神理とその
物語を信じていくことになったのです。
釈尊とその弟子達の正しい物語を、これから何回かに分けて、書いていきたいと思います。
6月
22
2009
知らなければならないことが、世の中にはたくさんありますが、その中で最も大事で一番
先に知らなければならないものが法(神理)です。
釈尊が説かれた正法、キリストが説かれた福音がそれにあたります。
釈尊やキリストは、仏教的にいえば如来と呼ばれる方々です。この如来が出世されるとき
には、その手足となって働く使命を持った多くの光の天使が、ともに生まれます。
釈尊でいえば右腕と言われた舎利弗(しゃりほつ)はじめ多くの弟子達、キリストでいえば
ペテロを筆頭にした十二使徒やパウロやルカといった弟子達です。
如来がこの世に生まれる時期は、もっとも神の法が分からなくなった時代である、末法の
世に出られることになっています。末法の世(まっぽうのよ)とは、何が正しく、何が正しく
ないのか分からなくなった、混乱した時代を言いますが、まさに現代はそのような末法の
世であるといえましょう。
ひったくりのような犯罪は日常茶飯事、不倫や援助交際など、たいして悪いとも思わず、
親が子を虐待し、子が親を殺し、はては無差別殺人まで、一体どこまでやるのかと思える
くらい、悪の連鎖が続いています。またケンカまではいかなくとも、顔を見た、目があった、
鼻をすすった、少し音をたてた、というくだらない理由で腹を立て、また嫌がらせのようなこ
とも、当たり前のようにしています。
これが正しい世の中でしょうか?このようなことを多くの人が、たいして悪いとも思わずやっ
ているのです。これを末法の世といわず、どのような時代を末法というのでしょう。
このような時代に如来は現れます。数千年の時を経て如来が、この日本に生まれられまし
た。そして、神の法である神理を説き、多くの奇跡を起こし世を去られました。しかし、多くの
人が、この事実を知りません。
今のようにインターネットやテレビなどない時代でも、如来がこの世に出世されれば、多くの
人が、その事実を知りました。釈尊しかり、キリストしかりです。しかし、今生はじめて如来
がこの世に出て、それを多くの人が知るに至りませんでした。ということは、多くの人が神
理を知らないということになり、悪が栄えるのも無理のない話になります。
なぜ、如来がこの世に出られたのに、多くの人が気づかなかったのでしょう?それは、古
今未曾有の大事件が起きたことと、あとは一人一人の心の在り方に、問題があったという
ことです。
多くの人が自分さえよければ、という考えが多かったからです。このような小さな考え
では、正しい法は理解できません。何か事件が起きても、自分や自分の家族が巻き添えに
ならなくてよかった、くらいにしか考えず、楽して儲かるような話には、すぐ腰を浮かせ、心
の向上やら世の中をよくしていこうという話には、自分のことで精いっぱいなどと、積極的に
何かやろうとする人はほとんどいません。人に何かよいことをしてもらっても、そのお返しを
しようともせず、自分さえよければよい。このような人が多いのです。
このような自己中心的な人が多くて、正しい法に気づくはずがありません。法を知るには、
視野をひろげ正しいものは何なのかという、積極的な求道心がなければ知ることはない
からです。
たとえば人に何かしてもらって、知らん顔をしていた人がいたとします。この人は、それ
が悪いことと思わず、それを続けています。息を吸ってばかりいて、はかなかったらどう
なるでしょう。食べてばかりいて、下から出さなかったらどうなるでしょう。体を壊し不幸に
なります。結局、先ほどの行為は、これと同じことなのです。このようなことを続けていれ
ば、その人は、人にしてもらった、それ以上のものをなくすことになり、不幸になります。
悪いことをしなければ、それでよいと思っている人も多いでしょうが、法を知らないと何が
よくて何が悪いのか、はっきりした判断ができません。そして、知らず知らずのうちに悪を
行っている人も多いのです。
私達は、悪いことをしないために生れてきたのではなく、よいことをするために生れてきて
います。それには悪いことをしないという消極的姿勢ではなく、よいことを積極的に行うと
いう心と行いがないと、自分も周りも変わらないのです。それに、よい行為を積極的に行
わないと、この世は浄化されていきません。悪いことをしなければよいのではなく、悪を善
にかえてやろうという菩薩心がないと、この世はよくなっていかないのです。
そんなこと知っていても知らなくても、どちらでもいい、ではなく、一番先に知るべきこと
は、知らなければならないのです。
6月
18
2009
それでは、科学でまだ分かっていない大宇宙の始まりと、なぜ私達人間がこの世に生ま
れてきたのかを、高橋先生と園頭先生の本を参考に、書いてみましょう。
高橋信次先生が書かれた「人間・釈迦」に、この世の始まりが次のように書かれています。
<この大宇宙は神によってつくられた。
大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。
神は、その意識の中で意思をもたれた。
大宇宙の創造は、神の意思によってはじまった。>
神は、その意思を持ってエネルギーを発生させ、原子をつくり分子をつくり気体を発生さ
せ、やがて液体となり固体となって、大宇宙は神の意思のままに整然と天体がつくられて
いきます。
地球は46億年ほど前に、冷たいガスとダストの雲から、太陽や他の惑星とともに生まれ
ました。太陽を中心とした星雲はそれぞれ凝固すると、太陽を中心として自転しながら公
転し始めます。
できたばかりのガス体であった地球は、灼熱高温の一大火球でありました。自転公転を
繰り返しているうちに、次第に地球は冷え固まって天と地に分かれます。冷えて固まった
最初の頃の地球は、全部水に覆われていました。やがて、水に覆われていた地球のあち
こちで爆発が起こり始め、水面上に陸地が現れます。
多くの時が流れ、そのうちに地球のあちこちで起こっていた爆発も減っていき、天に昇って
いた灰も水蒸気も地表面におさまり、地球は徐々に静かになっていきます。
地球が静かになると、晴れた空と海と陸地に分かれ、段々と生物が生存しやすい条件が
整えられていきました。
神は、はじめに天体をつくられました。大宇宙をつくり銀河系宇宙、太陽系そしてその中に
ある地球をつくられ、地球に大地と空気層をつくられました。これらは皆鉱物です。
しかし鉱物はつくられたままで、それ自体として増殖する生命力をもちません。そこで神は、
自ら成長するものとして、今度は植物をつくられます。しかし植物は、生長する自由は与え
られていますが、自ら位置を移動する自由がありませんでした。そこで今度は動物をつくら
れます。しかし、この動物も動く自由は持たされましたが、与えられた本能のまま動くだけ
で、自分の意識によって何かをつくりだすとか、変化する創造の自由を持ちませんでした。
鉱物は鉱物として、植物は植物として、動物は動物としての意識はあっても、それらは皆、
自由意思を持たない、他によって支配されるのを待つという、受身的な存在でありました。
そこで最後に神は、完全なる自由な創造力をもった人間をつくられました。
人間は万物の霊長として、神の意思を受け継ぐ神の子として、この世界に現わされました。
神は、自らの意思によりこの大宇宙を創造され、それと同時に神の子である人間は、神の
創造された地球の上に、神がつくられた素材を利用して、人間自らの自由意思により創造
的に生き、神の心の現れである、大調和の世界すなわちユートピアを建設するため、使命
を持って生れたのです。(だから私は前に大調和すると奇跡が起きるといったのです)
しかし多くの人間が、そのことを忘れ自我と欲望のままに生きていました。そこで神は、人
間本来の使命に気づかせようと、多くの光の天使を地上に送ります。モーゼしかり、キリ
ストしかり、釈尊しかりです。しかし、それでもまだ、多くの人々が自分の使命に気づきま
せんでした。
神は人間に自由を与えられました。善を行うもそれ以外のこと(悪)を行うも自由です。し
かし神は、人間があまりに悪を犯さないよう法則をつくられています。善を行えば善が、
悪を行えば悪が自分に返ってきます。これまでの多くの天災地変は、一体何を物語って
いるのでしょうか。
科学は神の存在を認めていません。しかし、神という第一原因者を認めなければ、何も
始まらないのです。私達がなぜこの世に生まれてきているのか?その本来の意味を知
ってください。
6月
16
2009
前に私は、霊の存在はすでに科学で認められている、と書きましたが、正確には認める
学者もいれば、認めない学者もいる、というのが実状です。
もちろん認めていない学者の方が多いのですが、しかし、霊の存在を認めなければほか
に考えられないようなことが起きています。それが多重人格です。
最近このような病気が増えているということですが、一番有名なのは、やはりビリー・ミリ
ガンでしょう。この人は24人の人格を持つといわれ、それを4人の精神科医と1名の心
理学者が認めました。このミリガンは重罪を犯したにも関わらず、多重人格のため精神
障害という理由で無罪とされ、それを、一緒に働いていた人達や、被害を受けた大半の人
達も認めています。
しかし、一人の人間に何人もの人格が備わっている、というのはどういうことでしょう?
普通は一人の人には、一人の人格しかありませんが、このミリガンは自分以外でアーサ
ー、レイゲン、アレン、トミー、ダニィー、ディビィット、クリステン、クリストファー、アダラナ、
その他で計24人の人格があり、その一人一人がちゃんとした個性を持ち、ビリーが別の
人格になると、話す言葉はもちろん癖や態度までかわってしまったそうです。これをただ
の精神異常でかたずけてしまっていいのでしょうか。霊の憑依と認める学者もいますが、
この多重人格という病気が、どのような病気なのかは、まだはっきり分かっていません。
ところが、この多重人格と思える人が実は聖書の中にもでてきます。マルコ伝には次の
ように書かれています。
<イエスが船からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イ
エスに出会った。この人は墓場を住処としており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎと
めて置けなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを
砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったからである。そして、夜昼たえまなく墓
場や山で叫び続けて、石で自分の体を傷つけていた。ところが、この人がイエスを遠くから
見て、走り寄って拝し、大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたは私となん
の係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、私を苦しめないでください」。
それはイエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。また彼に
「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大勢なのですから」と答えた。
そして、自分達をこの土地から追い出さないようにと、しきりに願い続けた。さて、そこの山
の中腹に、豚の大群が飼ってあった。霊はイエスに願って言った、「私どもを、豚にはいら
せてください。そのなかへ送ってください」イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは
出って行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけ
から海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。豚を飼う者たちが逃げ
だして、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見に来た。そして、イエス
のところにきて、悪霊に憑かれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギ
オンを宿していた者であるのを見て、恐れた。>
「レギオンといいます。大勢なのですから」この悪霊に憑かれた男は、こう自分の名前をキリ
ストに言います。レギオンとはローマの軍隊の名称で5千~6千人からなる部隊のことです。
この男は、多くの悪霊に憑かれた男として、このあたりでは有名で、静かにいたかと思ったら
急に暴れだし、そうかと思えば自分の体を傷つけだしたりと、色々に人格がかわり、恐れられ
ていました。それで村人達はそのように呼んでいたと思うのですが、その悪霊をキリストは
いっぺんに豚の群れに追い祓ってしまいます。そして豚は狂い、狂っていた男が正気に戻っ
ていたので、その男のことをよく知る村人達は、キリストを見て、こんな不思議なことを一度
にしてしまった、この男は何者なのかと恐れたのです。
このレギオンと多重人格の人は非常に似通っています。多重人格者もレギオンと同じよう
な行動をとります。だとすれば霊の憑依と認めてもよさそうなものですが、霊の存在を認め
るのは医学の世界でもお嫌なようです。しかし、医学の世界で一方では輪廻転生を研究し、
一方では霊の存在を否定するのは、矛盾しているのではないでしょうか。医学の世界は
霊の存在を認めないから、解明できない問題が色々でてくるのです。
たとえば医学的には、精子と卵子が結合して子供が生まれるといわれますが、しかし、精子
と卵子が結合しただけでは子供になりません。精子と卵子が結合すれば、卵子に与えられ
ている細胞分裂の働きにより、一個の卵子が二個になり、それが四個になり八個になりして
分裂して増殖していきますが、それで赤ん坊の体がつくられることはありません。
細胞分裂だけして肉体にならないものを「ぶどう状奇胎」といいます。
現在の医学界では生命がどのようにして起こり、受精卵がどうやって多細胞の生物体へと
発展するかが、分からないのです。つまり、どうして母親の体内で精子と卵子が結合し、そ
れに生命が与えられ、赤ん坊の肉体になっていくのかが、まったく分かっていないのです。
精子と卵子が結合しただけでは肉体にならないものが、では、どうしたら赤ん坊の肉体に
なっていくのでしょう。それは、その夫婦の子となる縁のある霊(生命)が、細胞分裂をコント
ロールして配列していくことにより、結合した精子と卵子は、段々と赤ん坊の肉体となってつ
くられていきます。つまり霊が支配しなければ、赤ん坊の肉体になっていかないのです。
こんなところにも人間の神秘さがうかがえますが、霊の存在を抜きにして、人間の誕生など
語れないのです。
現在の科学にしても、この医学界にしても神や霊の存在を無視して進んでいますが、神や
霊の存在を認め、謙虚に研究を続けていくのならば、科学や医学界は劇的な発展をとげる
ことになります。
21世紀は心の世紀です。科学や医学の世界が一日も早く、唯物、無神論から唯心、有神
論へ、かわっていくことを願ってやみません。
6月
15
2009
このようなことを書くと、頭から否定される人も多いのでしょうが、21世紀は心の世紀
といわれ、輪廻転生も学者や精神科医から認められ始めた現代、素直で柔軟な心を
持っている人が多いと信じて、輪廻転生の具体例を一つ書きます。
私は前回お釈迦様や、モーゼ、キリストの時代に肉体を持っていた人もいたかも知れま
せん、と書きましたが、キリストの一番弟子でありましたペテロが、日本に生れてきていま
す。その人は元東大総長でありました矢内原忠雄氏です。
矢内原氏は昭和36年に亡くなられましたが、生涯をキリスト教伝道にそそがれ、たくさん
の著書を残していられます。矢内原氏の著書には、その当時生まれていなければ分から
ないような、不思議な書き方をしているところが何カ所もあり、当時のキリストやペテロの
思いがよくわかります。その中でも次に抜粋するところは、当時のペテロの思いが痛い
ほど伝わってきます。
私は前に最後の晩餐のところを少し書いたことがあります。ペテロはその席で、キリストが
この中の一人が私を裏切ろうとしている、という言葉に、皆が裏切っても私だけは裏切りま
せん、と答えます。
キリストは「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないという
だろう」といい、ペテロは「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らな
いなどとは、決して申しません」とむきになって答えます。他の弟子達も同じように答えまし
た。
しかし、このあとユダが裏切り祭司長をはじめ多くの群衆を連れて、キリストを捕らえに来ま
すと、弟子達は皆、逃げ去ってしまいます。そうして群衆がキリストを裁判所まで引っ張って
いくのですが、逃げ去った弟子の中で一人ペテロだけが、キリストが心配になり戻ってきて、
群衆の後をつけていきます。キリストは裁判にかけられ、多くの群衆は裁判所の中庭に入
り焚き火にあたりながら、キリストの裁判を見守っています。ペテロもその中に入り焚き火
にあたりながら、キリストの様子をうかがっていますと、一人の女がペテロに近づき、ペテロ
の顔をしげしげと見ながら「この人もあのイエスと一緒にいた人です」と言いだします。ペテ
ロは慌てて「あなたは何を言っているんだ」と否定します。しかし女は「この人はあの男の仲
間です」と横にいる役人にいいます。ペテロは重ねて否定しましたが、周りにいる人々が「た
しかに、おまえは、あそこにいるイエスの仲間だ」と騒ぎ出したため、「誓って言うが、私はあ
なた方がいうあの人を知らない」と大きな声でキリストを否定したとたん鶏が鳴きます。その
時、ペテロはキリストが言われた「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないというだ
ろう」という言葉を思い出し、わっと泣きながら往来に飛び出していきます。
矢内原忠雄著イエス伝より抜粋
<イエス伝を始めからここまで学んできて、あの愛と憐憫に満ち、義と真実そのものであり、
神の子として完(まつた)き途を歩んで来られたイエス様が神を?(けが)す罪に問われて
死刑に定められ、十字架を負わされて処刑場に引かれ往こうとするのを見る時、奇異なる
感が私どもの心にわき起こるのを禁じえません。神を?した罪?それならば、真犯人はこ
の私だ!あの人に罪はない。間違いです。間違いです。神様、大きな誤審です!ーーー
しかし私は名乗って出る勇気はなかった。そして焚き火にあたたまって、もじもじしている
間に、さっさっとあの人の罪は定まって、刑の執行が命令されてしまったのです。しかも人
々が私を怪しんで「汝も仲間だろう」と言った時、私はびっくりして、「否」と三度も拒んで、
逃げ出してしまったのだ。我らの見ている前で我らの恩師は打たれ、辱められ、死に定め
られた。恩師は我らの罪を負うて、死にゆき給う。我らは見ていて何もしなかった。そして
ただ一人死に赴かしめた。なんという、なんという、なんという人間だろう、この私は!>
ここの部分は、ペテロの思いが痛いほど伝わってきて、当時のペテロの思いが非常によく
分かります。現在では世界の救世主と言われているイエス・キリストを、自分の命欲しさに
目の前で裏切るのです。とっさのこととはいえ、このときのペテロの行為は、どれだけ悔や
んでも、悔やみきれるものではなかったでしょう。このときの思いが二千年たった現在でも
心に強く残り、矢内原氏がキリストの十字架の場面を書くとき、懺悔の念として強く心から
湧きあがってくるのです。
自分が意識する、しないにかかわらず、このように過去の人生は、自分の人生に大きな
影響を与えています。心では過去の多くの自分の人生を知っています。心の勉強をする
ということは、過去の人生を含めて、たくさんの事実を知ることにもなります。自分の心の
偉大性を知って下さい。