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2016年1月

1月 26 2016

布施の意味

しかし、あちこちで奇跡が起きてきましたね。法を実践する人が増えてきた証拠でしょう。

いい方は変ですが、法に逆らう人にこれだけ災いが起きているのです。では、従う人に奇跡が起きるのもある意味当然でしょう。

本当の神の教えとはそのようなものであるからです。(必ず、なにかお蔭があるというです。よいことも悪いこともお蔭ですから)

例えばです。昨日書いたような祈りをしたら、すでにそのことがなっている(キリストがいわれた「すでに得たりと信ぜよ、さらば得るなり」です)ということを心にアリアリと描き、そうして「神よ、このようにならしめてくださりありがとうございます。ありがとうございます」という神への感謝の祈りをして、そうして最後に神にしっかり感謝して、その祈りを終わりにするのです。

そうすることで願いが叶うのであり(もちろん、それが正しい祈りであればという前提ではありますが)それが正しい祈り方なのであって、その最後の神への感謝の祈りは絶対に忘れてはならないのです。

私たちは人に何か頼み事をしたら、それをしてくれた人には必ずお礼をいいます。こちらから頼みごとをしておいて、何もお礼をいわない人などまずいないでしょう。

それと同じで、神に何か頼みごとをするなら、必ずお礼はいわないといけないのです。それが当たり前の礼儀であるからです。

ものを頼むだけ頼んでおいて、何のお礼もしない人がいたとしたら人はどう思うでしょう。

そんな人がいたら、誰でも「なんとあいつは礼儀を知らないのか」と思うはずです。

そういう人にはなってほしくありませんが、そういう人が多いようです。

せっかく、奇跡が現れているのに、その奇跡の現し方を教えてくれた人に少しのお礼もないというのはそのようなことなのです。

もし、そのようなことを続けているのなら、それは罪になると思われないでしょうか?

そういう礼儀を知らないということもまた罪なのです。

だから、私はいっているのです。「少しくらい布施されたらどうですか?」とです。それは、私のためにいっているのではないのです。その奇跡が起きた人のためにいっているのです。

結局、そのような罪を残しておくなら、いずれその罪は自分に返ってくるからです。

これは奇跡が起きた人ばかりではありません。このブログを読み、心が救われた人も同じなのです。

また、何か気づきを与えられた人も同じでしょう。そのようなことは自分にとって、どれほどプラスになっているのか知れないからです。

では、その自分にプラスを与えてくれた人に対し、何のお礼もしなくてよいのでしょうか?

よいわけありません。そのようなことをしてくれた人に、何のお礼もしなければ、それは礼儀を知らないということで罪となり、その罪はいずれ自分に返ってくるからです。

だから私は「布施してください」といっているのです。

その布施が私へのお礼となり、それが自分の罪を残さないことにもなるからです。

そうして、感謝の心が強ければ強いほど、その思いは今度は自分に返ってきます。

それがまた奇跡という結果となって現れてくるのです。

それが正の連鎖ということです。(善因善果です)

私が「布施してください」といっているのは、私のためにいっているのではないのです。このブログを見ている皆さんのためにいっているのです。

そのような善の行為が、結局、自分を救うからです。(だから、布施をもらわないといけないと天が私に指示したです。それは私のためにそういう指示があったのではなく、このブログを読んでいる人のために、天はそのような指示を出したのです)

布施の意味が少しはお分かりでしょうか。

布施は人のためにするのではなく自分のためにするということです。

「情けは人のためならず」です。

人のためではなく、自分のためにも、少しでも救われたと思ったのであれば、お返しの行為はするべきなのです。

そのような善の行いの積み重ねが自分の心を成長させることにもなるからです。

(ケチな態度など心を狭めるだけです。もう少しおおらかになり布施などされてはどうでしょう。そのような行いが心を広げるコツであるからです)

追伸…あるプロ野球の選手が「三割、三十盗塁、チームの優勝」のために、滝行を行ったそうですね。

その選手、このブログを知らないんでしょうか?(このブログを知っているプロ野球選手はたくさんいるはずですが…)

ずいぶん時代遅れなことをしています。そんなことをしたところで(体はきれいになるかもしれませんが。〔笑〕)何の奇跡も起きないからです。

そういうことをわざわざこの寒いのにしなくても、心を変えるだけで、そのような目標は達成できるのです。(自分の心と行い次第です)

そういう習慣から、なかなか抜け出すことが出来ないのかもしれませんが、間違った行いなどいくらしたところでまったく意味はありません。(それどころか、こんな寒いのに滝行などしたら体を壊しかねません)

早く正しい教えを知って、それを実践してください。

そうすれば、そのような目標も達成可能であるからです。

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1月 25 2016

日本人の心

日本列島は大寒波に覆われていますが(名古屋も一面雪景色です。奄美大島では百十五年ぶりに雪が降ったとのことですが)そんな寒さを物ともせず昨日はさすがに熱かったですね。

なにせ十年ぶりに日本の国技の相撲で日本人が優勝したのです。(日本出身力士って変ないい方ですね。このブログはそこまでこだわって書きません。〔笑〕)

それは興奮しますよね。私たち日本人はです。(笑)

特別私は日本人や外国人を差別するわけではありませんが、やはり日本人は日本人としての思想や習慣があります。

それを守るためにも、日本の国技である相撲は日本人が強くあらねばならないと思うわけです。

やはり日本の昔からある謙虚な態度とか、相手を思いやる態度、礼儀作法など、親方衆がいくらいっても、外国の力士ではそれをしっかり理解することは出来ないのではないでしょうか。(外国の力士は生まれた環境も思想も違うのです。外国人力士にそれを実践しろといってもなかなか難しいでしょう)

だから日本の力士が勝たないといけないのです。日本の力士ならそれが出来ると思うからです。そのような態度は多くの人に伝えるべきものであるからです。(勝たないと伝わりませんから)

最近は、そのような日本人が昔から持つ人としての大事な心が忘れさられています。だから、日本の国技である相撲だけは、そのような思いと行いを忘れてほしくはないのです。

相撲取りが、そのような手本を見せるなら、多くの人もそれに倣(なら)うと思うからです。(最近は日本人でもそういうことを忘れている人が多いのですが…だからボクシングなどで、自分が勝ったからと派手なガッツポーズなどして大騒ぎしている選手がいますが、ああいうのはどうかと思います。負けた相手のことも考えるべきでしょう。負けた相手のことを考えるなら、リング上であんな大騒ぎはするべきではないのです)

どちらにしても、これから相撲界は混戦になるとの予想がされています。(横綱陣に多少の陰りも見え始めましたから)日本人力士も頑張ってほしいものです。

日本人が、日本の昔からある、人としての立派な心を多くの人にぜひ伝えてほしいと思うからです。

しかし、今回のことでお分かりいただけたと思います。(特別今回だけではありませんが)

法を実践することの大事さがです。

特別私生活だけではないのです。仕事においても何においても法を実践することは大事なことなのです。

法を実践するなら、そこに必ず奇跡が起きるからです。

失礼ではありますが、大関とはいえ今場所の琴奨菊の優勝を誰が予想できたでしょう。相撲関係者の誰も予想できなかったはずです。

しかし、奇跡的なことが起きて十四勝一敗という好成績で琴奨菊は優勝したのです。

トレーニング方法やらメンタル面やらいわれますが、それだけではないでしょう。やはりこの成績は神の力が働いたがためと思われます。(あの取組前の通路での合掌がすべてですね)

このようなことはこれまでにも起きています。(野球やスケート、その他の競技で)

心を神に向ければ、そのような奇跡が起きるのです。神を一とするなら、必ずよい結果が現れるのです。

少し、この教えを実践されたらどうですか?

この教えを実践されている人たちには続々と奇跡が起きているからです。

(本当にこの辺りとはえらい違いです。この辺りの人は逆のことばかりやっているから、災いばかりが起きるのです)

追伸…あの琴奨菊の取組前の通路での合掌が、本当に神に祈っているのかどうかは本人に聞いたわけではないので分かりませんが、多分そうでしょう。そうでなければこれだけの成績は出ないからです。

しかし、神に祈るにしてもです。

「自分が勝てますように」とか「自分が優勝できますように」とかいう祈りはダメです。

このような祈りは、相手が負けますようにと祈っているのと同じであり、その祈りが輪廻して結局自分が負けることになるからです。

「自分がベストを尽くせますように」とか「自分にとって、もっともよい結果が出ますように」(または「もっともよい試合が出来ますように」でもよいのですが)という祈り方が正しいのです。

このような祈りはどれだけ輪廻しても、自分にとってもよいことであるからです。

祈りは必ず自分に返ってきます。(特別それは祈りだけではありませんが)自分にとってもよい祈りが正しい祈り方であるのです。(その基準さえ分かっていれば、どのような祈り方が正しい祈りかはだいたいお分かりいただけると思います)

しかし、これだけの奇跡が現れているのです。

なのに皆さん、この教えを勉強しようともしなければ、布施しようともしないのですね。(そういえば、今年は多くの人から布施をもらわないといけないんでした)

コソコソやるのではなく、もっと堂々とやってください。(もうみんなに知られていることですし。〔苦笑〕)

どうですか、今年から心を入れ替え堂々と法の勉強をして、実践すると誓われたらです。

そうすれば、もっとよいことが起きてくるからです。

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1月 24 2016

神がかり

やれやれ、今日は休みだというのに、ちょっと離れた工場でガンガンでかい音を立てているのがいます。(多分、あのおっちゃんだと思いますが)

また悪いことでも起きたのか、それとも機嫌が悪いだけなのか知りませんが、何も悪いことをしていない人に悪いことが起きる、そのような理不尽な世の中に本当になったとでも思っているのでしょうか?

だとしたら、ずいぶん間が抜けています。

そういう自分本位なところを反省しないと、その悪いことは止まらないのです。

少しは謙虚に自分自身を振り返ってみてはどうでしょう。それをしない限り、災いは止まらないからです。

マァ、いうだけ無駄でしょうから、そのような寒い人たちはほっておいて、それとは逆に今日は熱い戦いが待ち受けています。そちらに期待しましょう。(笑)

今日の大相撲は日本人力士が、十年ぶりに優勝するかどうかの期待がかかる大一番でもあります。否が応でも期待しますね。(相撲は日本の国技ですから、特に日本人は期待しますよね。〔笑〕)

それにしても昨日の相撲は不思議でしたね。そうは思わなかったでしょうか?

横綱の白鵬、日馬富士が負け(白鵬が二敗となり、日馬富士はこれで三敗となって優勝戦線から脱落です)二敗の豊ノ島は勝つには勝ちましたが、膝を痛めたみたいで、今日の相撲が心配されます。

一敗の琴奨菊だけが完勝して、初優勝への勢いが増しました。

ここだけ見ると、まるで昨日は琴奨菊の日であったように思えます。昨日一日でがぜん琴奨菊が有利になったからです。

一昨日連勝の琴奨菊が負けたことで、一変に優勝争いが混とんとしだしたのに、それが一日で琴奨菊が有利になったのです。

これだけ終盤にきて、一日で、これだけ一人の力士に有利なことが重なるのも珍しいことなのではないでしょうか?

だから私は、昨日は不思議な相撲であったと書いたのです。

一昨日のウナッシーさんのコメントに答えた通り、やはり今場所の琴奨菊には(愛の力だけではなく)神の力も作用していますね。だからこういうことが起きたのです。(これも奇跡です)

…実をいうと、一昨日の夜でしょうか(あのコメントを書いた日ですが)私が琴奨菊を祈ったのです。(「琴奨菊がベストを尽くせますように、どうぞ琴奨菊を通し神の力を証明せしめたまえ」とです)

なぜ、祈ったのか?

それはあんなコメントを書いた手前(神の力も感じるとです)琴奨菊に神の力が現れてもらわないと困るからです。だから、何としても神の力を琴奨菊に現すため祈ったのです。

などというのは冗談ですが(笑)祈ったのは事実です。ウナッシーさんのコメントにも書きましたように、琴奨菊に神の力を感じたからです。

何でそう感じたのか?

琴奨菊は取組前の通路で合掌していますよね。前からそれをしていたのかどうか、それは知りませんが、そのような態度が、神に祈っているように感じられたのと今場所の横綱三人を破った時の勢いもそうでした。

何か神がかったものを感じたからです。(琴奨菊ってあんなに強かったっけ?と思ってです)だからウナッシーさんのコメントが来た時、そのような書き方をしたのです。

そうしたらです。あのコメントを書いた日の琴奨菊はずいぶん力が入っているようでした。(土俵上で足を滑らしているようでしたから。〔笑〕)

「ずいぶん力んでるな」と思い「よけいなこと書いたかな?」とも思って、あれだけ力んでは神の力も現れないなと思い、それで祈ったのです。

もし、琴奨菊が神を意識しているのなら、何か現象が現れると思ったからです。

そうしたら予想通り現象が現れました。なら琴奨菊はやはりあの取組前の合掌は神に祈っているのでしょう。(法を意識しているのでしょう)

だから、今場所は神の力が現れているのです。

本来なら、一人の力士に肩入れするということはよくありませんが、法の証明のためなら仕方ありません。(それに結婚披露宴も控えているというではありませんか。それならご祝儀ですね。〔笑〕)

それで今回は琴奨菊を祈ったのですが、しかし、勝負は勝負です。

十年ぶりの日本人力士の優勝だの何だの関係ありません。力士の方々は、それぞれベストの相撲を取っていただくことが、多くの人々を感動させ相撲人気を持続させることにもなります。(もちろんそれが自身の心の成長にもつながります)

今日は千秋楽です。最高のパフォーマンスを期待しています。

(琴奨菊は堂々と今日勝てばいいだけの話です。気迫の一番期待しています)

追伸…やばいですね。あまりにもはっきり書きすぎましたかね。(汗)

しかし、名前を入れないと分かりにくいですから、今回は仕方ありませんよね。

どちらにしても法の証明になります。力士の皆さん、感動的な相撲を期待しています。

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1月 23 2016

歴史に学ぶ

今日から日本列島は、大寒波が襲来して大荒れの天気になる予報が出ていますが、そのような天気だけではなく国会も大荒れのようです。

よりにもよって政権の中枢の大臣の金銭授受疑惑です。これは荒れるでしょうね。

中国が魏、呉、蜀に分かれていた三国志時代の話です。

この三国の中で一番最初に滅亡したのは蜀でした。蜀の丞相、諸葛孔明が亡くなって三十年後のことです。

孔明が亡くなって三十年後(実際は二十九年後)に蜀は滅ぶのですが、実は、この蜀が滅ぶ原因をつくったのは孔明であったのです。

孔明は亡くなる数年前から北伐(ほくばつ・魏への遠征)を何度も行います。(その北伐を決行するにあたり、その時出した上奏文が有名な「出師表」です)

それは劉備の遺志(蜀漢の世をつくる)を継ぐという理由からではありましたが、あまりに無謀なことであったのです。

なぜなら、この時代、一番国力が弱かったのが蜀であり、一番強かったのが魏であったからです。

呉との同盟はありましたが、一番国力の弱い蜀が一番国力がある魏に何度も遠征するのです。これは無謀以外の何ものでもなかったのです。

この時、蜀が一番やらなければいけなかったことは、国力を富ませて守りを固める、これであったのですが、孔明は、そのような国内事情より劉備の意志を優先したのです。

この孔明の何度も行った無謀な北伐により、蜀は疲弊し、孔明亡き後、数十年で滅びることになったのですが、この時なぜ、孔明の北伐を誰も止められなかったのか?

その理由は、この時代の蜀で孔明に意見出来る人がいなかったからです。それだけ孔明は蜀では飛びぬけた実力者であったのです。

ですから、独断専行が多々あったということです。

いくら優れた人とはいえ、あまりに独断専行がひどいと、大きな過ちも犯すことがあるということを歴史が教えているのですが、少し独断専行が過ぎるところがあるのではないでしょうか。

だから、このようなことが起きたのではないでしょうか。

政権の中枢である大臣にこれだけの疑惑が浮上したのです。下手をすれば政権崩壊しかねません。

しかし、これだけの大きな政権の危機が現れたということは、やはり現れるだけの大きな理由が今の政権にあるということなのです。

その理由をしっかり理解し、それを反省すれば、この問題はさほど大きくはならないでしょうが、それをまったく反省することなく事を進めるなら、この問題は段々大きくなり、潰れるまではいかないかもしれませんが、政権に大きなダメージを与えることになります。

まだまだこれから(昨日もいわれておりましたが)憲法改正という大きな仕事も控えています。

あまり急がれぬよう、あまり独断専行されぬよう、くれぐれも慎重にお願いしたいものです。

何度もいいますが、同じ過ちを繰り返してはならないのです。

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1月 22 2016

人の本当の幸せ

最近は、午前中は静かであるのに、午後になると急にキレ出してやたら怒りだす(それが夜まで怒っている)そのような日が続いているようです。

まるで、同じ時間に発作が現れる悪い病気にでもかかっているようですが、大丈夫でしょうか?

昨日は庄内川に行ってきましたが、帰りはほとんど歩いている人に会いませんでした。(一人二人やたら怒っている人がいましたが)

二、三日前までは、庄内川の帰り道は小学生の集団がよく歩いて来ていました。(最近は小学生とはよく会います。中学生は相変わらず全然いませんが)

同じ時間に同じところを歩いていれば謝りに来るのもいるだろうと思い、それでそうしているのですが、何が何が謝りに来るどころか、その小学生たち、これまでと同じように私の顔を見ると嫌がらせをしていくのです。(まだバカにする奴がいますから)

まったく反省していないようです。

どれだけ神の業が現れても、それを畏れ素直に頭を下げようという殊勲(しゅくん)な気持ちになる者はいないようです。(本当にひねた小学生たちです。さすが過去世で悪人なだけはあります)

そういう態度ならこちらは祈りを続けるだけです。「お前ら何が起きても逃げるなよ」といっておいたんですが、昨日は早速逃げ出したようです。(苦笑)

あんな小さな子供が大人を散々バカにしているのです。それだけでもずいぶん悪いことをしていると思いますが、まったく反省しません。(親はどういう教育をしているのでしょう。親の顔が見たいです)

反省するどころかなおやってくるのです。それでは天罰も食らうでしょう。それがなぜ私のせいなのでしょうか。(危ない奴にあんなことを繰り返したら、怒ってひどい目に遭わされかねないくらいのことをやってきます。〔しかも大勢で〕それでは何が起きても自業自得なのではないでしょうか。あまりにやっていることが悪いからです)

子供らだけではありません。

怒りたくっているどこかの会社の連中も、どこかの運転手の連中も、歩いて来る人たちも同じでしょう。

自分達が先に散々嫌がらせをしてきたのです。(今もその嫌がらせは続いていますが)

それなのになぜ、その嫌がらせは問題にせず、自分たちに悪いことが起きたところだけ問題にして、それをすべて私のせいにしているのでしょう。

それは、あまりに自分勝手な発想なのではないでしょうか。

神がつくられたこの世界で、自分たちは、その神を少しもまともに思ってこなかったのです。知らなかったとはいえ、そういう不遜な態度を取り続けていて、それで天罰が下りだしたら、それをすべて人のせいにして、自分は何も悪いことはしていないと居直っているのです。

この人たちは、どれだけ罪を重ねれば気がすむのでしょう。

この人たちは単に自分たちが犯している罪を認めないだけなのです。

それでは話にならないでしょう。この天罰は多くの人が自分の罪を認め(神に対する不遜な態度です)それを反省するまで続きます。

段々起きる現象が激しくなってきているようです。早く気づいてください。偉大な神の存在をです。そうして自分たちの過ちをです。(無神論では永遠に気づかないでしょうね。自分たちの過ちなどです)

それにしてもえらい違いですね。私と皆さんではです。

だって私は、毎日のようにこのブログを通し人助けをしているのです。

それに比べて皆さんはどうでしょう。金儲けをしながら、怒ったり、ねたんだり、ひがんだり愚痴をいったりして人に嫌がらせをしているのです。

いま起きていることは、この行いの違いがそのまま輪廻しているだけなのではないでしょうか。

だから私には奇跡が起きて、皆さんには災いが起きているのです。普段の行いが間違っているからです。

認めたくはないでしょうが、私は多くの人を救っています。その違いが起きてくる現象の違いなのです。(厳密にいえば、私が祈って悪いことが起きた人も救っているのです。そのような現象が現れることにより、その人の心は成長しますし、それを知った周りの人の心も成長するからです。そういう現象も起きるのだということを知ってです)

こういう起きたことがないような現象が起き出したのです。半分パニックになり、神の現す現象を認めないのも分かりますが、もう少し余裕を持って周りのことを考えてはどうでしょう。

あまり意固地にならずにです。

気分転換も大事です。少々遊びなどに没頭し、気分を変えてもう一度周りを見渡してみたらどうでしょう。そうすれば、これまで見えなかったことも見えてくるかもしれないからです。(ただし節度を持ったです。節度を超えた遊びなどすると、またそれが自分に返ってき自分が苦しむことになるからです)

そればかり考えているより、たまには違うことも考え気分転換することです。そうすれば視野もまた広がるからです。(もてて金もある人たちならなおのことそうです。適当に遊んで気分転換してまた頑張ればいいのです。〔私だって昨日、適当に遊びもいれたブログも書いていますし・笑〕せっかく周りの人たちが(偉い人までです)許してくれたのです。そうであるなら、それに感謝して、気分も一新して頑張るべきではないでしょうか。それが自分の心の成長ともなるからです)

とにかく、多くの人がどれだけ私を悪くいようと、私のやっていることは正しいことでありますし、人助けでもあるのです。(主に心を救っているのですが)

それは起きている現象が証明しているのではないでしょうか。

釈尊やキリストがなぜ多くの人を救われたのか?

それはあのような方々が偉大であったということもありますが、基本、人は人助けが一番楽しいのです。

多くの人はそれを知らないのです。

自分のことだけやって自分一人だけが幸せになれば、それが一番の幸せなんだと思っている人も多いのかもしれませんが、では、自分の好きなものがすべてそろっている無人島で一人暮らすことが幸せなのでしょうか?

自分の周りには自分のやりたいことがすべてやれる環境があり、そうして好きな食べ物、飲み物がすべてそろっている、そのような場所に自分が暮らせたとします。

自分一人の幸せが一番の幸せならば、そのような場所で暮らせれば、一生楽しいはずですが、多分そのような場所で一週間も暮らせば、人は辟易(へきえき)しだすでしょう。

人、一人でのそのような生活など苦痛でしかないからです。

結局、人はいろいろな人々と幸せに暮らすのが一番の幸せなのです。

釈尊やキリストはそのことをご存知であったのです。だから、人の幸せは自分の幸せと多くの人を救われたのです。

そうすることが(神の子の人間として)一番の幸せと分かっていられたからです。(神の心がそのようであるからです。神の心に自分さえよければいいという考えはないからです)

だから私は一番幸せなことをしているということになります。だから私には奇跡が起きるのです。

私たちにとっての一番の幸せとは、人として一番よいことであるからです。

意固地に自分の殻に閉じこもっているより、少し遊びも混ぜながら発想の転換をしてみませんか?

そうすれば、もっと素晴らしい世界が見えてくるからです。

今この辺りで起きていることは決して災いではないのです。これから素晴らしい世界が現れる、その序章でしかないのです。

この苦しみを乗り越え悔い改めるのであれば、素晴らしい世界が現れてきます。

人に嫌がらせをするより、人助けをしてみませんか?

そのような正しい行いが、人としての本当の幸せであるからです。

追伸…しかし、本当に効くんですね。花粉症にヨーグルトって。私は効かないと思っていました。ヨーグルトなど毎日食べていたからです。

私は花粉症がひどかったのです。

鼻水が全然でない時期など、正味六月から八月くらいの暑い間だけで、九月の中旬くらいからもう鼻水が出だして、年末にかけて鼻水くしゃみがひどくなり、そうして二月に入るともう薬を飲まないとやっていられないという感じでした。(市販の薬ですが、その薬を五月くらいまで飲んでいるのです)

それが今年の正月明けくらいでしょうか、テレビでヨーグルトを五百グラム毎日食べて、二年ほどで花粉症が治ったとかなんとかいっていた人がいたのです。

それで私はヨーグルトは毎日食べていたのですが、少し食べる量が少ないのかなと思い(これまでは毎日百五十グラムほどでしたので)倍くらいの量に増やしたのです。(朝、百五十グラム、夜、百五十グラムみたいな感じでです)

そうしたらです。覿面に効きましたね。

二、三日後にはもう鼻水が出るのが少なくなって、今日も大して鼻水出ていません。とにかく症状が半分以下になりました。(もう二週間くらいこんな感じです)

私が食べているヨーグルトは花粉症に効くやつではないのですが(ブルガリアヨーグルトですから。〔笑〕)それでもこの効き目です。

やはり乳酸菌って花粉症にいいんですね。(本当に驚きました)

花粉症はこれからが本番ですが、ヨーグルトはいいようです。花粉症の人は試されたらどうですか?

ほんと、やってみる価値あると思いますよ。(今の時点ではまだ分かりませんが、それでもずいぶん楽になりました。この調子で二月三月もいってくれたら最高ですね)

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