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2016年2月

2月 14 2016

誰に布施するのか

昨日の中日新聞に書いてあったのですが、ある大きなお寺の高僧に一般の僧侶が会いに行くには高額な「お気持ち」(献上金)を持参するのが習わしになっているそうです。

そのお気持ちは一万から数十万まで幅広いんですが、中には百万も包んだという人もいるようです。

それにしても、こういう人たちがどれだけ人を救っているというのでしょう。金の問題ではありませんが、皆それなりに苦労して稼いだお金をそれだけ持参しているのです。

それでは、よほど救われる話や行い(祈り)をされなければ割に合わないし、僧侶というのですから、お金など度外視して黙っていても人を救わなければいけないはずなのに、会うだけでそういった高額なお金がかかるとは一体どういう料簡なのでしょう。

どこかの政治家も真っ青ですね。

しかもこのような高僧といわれる人の中で、そういったお金の一部を懐に入れて、個人的に使っていたというのですから話になりません。(それで国税から追徴課税されたそうですがアホですね)

ますます、僧侶としての立場を逸脱していると思いますが、こういうことは他の宗派でも起きているそうです。

別に僧侶なのですから、お布施をもらうことは問題ないでしょう。

だから、お布施をもらうのはいいのですが、そのもらい方と使い道、そうして、そのお布施をもらっただけの行いを(もちろん、僧侶としてのです)しているのか?ということが問題なのです。

いってはいけませんが、そのどれもまともにしていないんじゃないですか?

もし、高僧といわれる人たちが僧侶としての本当の使命を果たしているのであれば、これだけおかしな世の中にはなっていないと思うからです。

また、これだけたくさんの神の業が現れるようにもならなかったと思うからです。

こういう悪いことが次々に起きているのは、僧侶が僧侶としての使命を果たさず、人々をよい方に感化さていないから起きていることであり、このような不幸が多い世の中を幸せが多い世の中に変えることが僧侶としての使命であるはずです。

しかし、ちっともよい世の中が来ないのは、僧侶たちがその使命を果たしていないからです。

だから、そのような人たちに布施するのは間違いであると私は思うのです。

そういう人たちが使命を果たしているのなら、これだけ頑なな人が多いのはおかしいからです。

僧侶たちがしっかり仏の心を世に伝えているのであれば、もっと素直な人が増えて来ないといけないからです。仏の心とはそのようなものであるからです。(素直で愛と慈悲の塊の心を持たれている)

僧侶が自分たちの使命を果たさなかったから(とりあえず名古屋を始めとしたこの辺りではですけど)これほどの現象が現れてきても反省する人がほとんどいないのです。

仏の説かれる教えを知らないから素直さもないからです。

だから、神の業を神の業と理解もしません。神の業を人の業と勘違いしているのですから話にならないでしょう。(それだと相当やばいんですが)

だいたい、僧侶からしてそれを理解していないようで、私に嫌がらせをしてくる僧侶までいるのですから、これもまた話になりませんが、これこそもうまともな僧侶がいない証拠でしょう。

まともな僧侶がいないから、このような時に何をしていいのか分からないのです。

しかし、こういう時にこそ(神の業が数多く現れている時こそ)もっとも僧侶が働かなければいけない時であるのです。

そうではないでしょうか?その神の業を鎮めることが出来るのは、僧侶や神主など神に仕えている人たちだけのはずだからです。(普通の人では無理ですよね)

仮にこの現象が、神の業ではなく私が祈って現していたとしましょう。

それでもです。僧侶であるなら自分たちも祈って、その祈りに対抗しなければいけないし(祈りには祈りでしょう)どのようなやり方をしても(秘儀でも何でもいいですから)この現象を抑えないといけないのです。

このような恐ろしい現象を鎮めるのも僧侶の仕事のうちだからです。(祈りやお祓いは僧侶の仕事ですもんね)

ところが誰一人、そういうことが出来る僧侶はいません。高僧、名僧と(あるいは神と呼ばれる教祖まで)いわれる人は世にたくさんいるはずなのに、私のようなシロウトの(どう考えても私はシロウトですよね、そのような人たちから見たらです)祈り一つ抑えることが出来ないのです。

これでは話にならないでしょう。そういう人たちが高僧、名僧といわれているなどこれ以上片腹痛い話もないわけです。こういう僧侶たちが力を発揮しないといけない時にまったくその力を発揮できないからです。

こういう時に何も出来なければ、先ほど会うだけでお金をもらっている人たちなど、高僧ではなく、詐欺師ということにもなりかねません。

世が乱れ多くの神の業が現れた時に、それを鎮めるのが高僧の使命であるからです。いま現在、その使命を高僧、名僧といわれる人たちは誰も果たしていないからです。

人を救うはずのプロが、その使命を果たさないのです。これでは詐欺師といわれても仕方ないのではないでしょうか。それ以外にいいようがないからです。

こういうところを見ても、この現象を私のせいにするのはお門違いでしょう。坊さんたちが使命を果たせば収まる話であるからです。(陰陽師みたいな人、現代にはいないようです)

もちろん私がこの現象を現しているわけではありませんが、私ならこの現象を抑えることが出来るのです。それは私の周りで次々に起きる奇跡がそれを証明しています。(ということは私が現代の陰陽師ですね。〔笑〕)

私はシロウトに毛が生えた程度の者ではありますが、しかし、それでも悟りを開かれた方々から指導を受け、祈れば奇跡が起き、説いている法を信じれば、その信じて行った人の心に応じた奇跡も現れているのです。

布施をもらってもお経を上げる程度で、世に奇跡を現すどころか、人一人も救えない、そういう人たちをいつまでも信じていて、それでよいのでしょうか?

私はお金をもらっているわけではありませんが(どれだけいってもいただけないものですから。〔苦笑〕)それでも多くの人を救っているのです。

いい加減、どちらに布施すれば救われるのか、お分かりになりませんか?

布施する人を間違えていては、いつまでたっても救われないのです。

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2月 13 2016

災いから逃れるには

昨日は(ウナッシーさんからのコメントにも書きましたが)東山動物園に行ってきました。家の前で工事があるといわれていたからです。

東山動物園の動物たちは相変わらず可愛かったです。

いきなりカンガルーが立ちあがって、蹴りあいみたいなことをしてじゃれあっている(テレビでそういう場面を観ることがありますが、実際に見たのは初めてですね。〔笑〕)オットセイや猿は大騒ぎしている、ライオンまでガアーガアー吠えて(わりと可愛らしくですけどね。それでもオスが吠えるのですから迫力満点でした)メスの方など、つるしてある木にじゃれて可愛らしい態度を取っている、あのおとなしいプレリュードックまでが、私が見ていると落ち着きなく騒いでいます。

そうして私が「またな」といってプレリュードックの檻から離れたとたん、なんと、大きな声で鳴きだすものまでいるのですから驚きました。

前に一度、プレリュードックが鳴いたのを聞いたことがありますが、あれだけ大きな声でずっと鳴いていたのは初めてですね。(だいたいプレリュードックなど普段鳴かないでしょう)

檻の中に数匹いたのですが、その中の一匹が、あまりにでかい声で鳴くものですから、またプレリュードックのいる檻に戻りました。さすがにそのまま行くのもかわいそうかなと思ったからです。(戻っても全然鳴きやまなかったですけどね。私が帰りかけたので怒ってしまったようです。〔笑〕)

他にワシなども、私の顔を見てギャーギャー鳴いていたり、コアラなども動き回っていました。

コアラを見ていた時、同じように見ていたある人が「コアラがこれだけ動くのを初めて見た。いつもはおきていても全然動かないのに」といっていましたが、私は逆にコアラがジッとしている場面を見たことがありません。

おきていれば必ず動き回っているのです。(私の方をしょっちゅう見ていますし。そういう場面をもう何度か動画に撮りました)

だから、そういう声を聞いてやはり動物たちは、私が行くと普段とは違う態度を取っているのだな、と改めて思いました。

しかし、こういう哺乳類がこのような可愛いらしい態度を取るというのはまだ分かりますが、なんと爬虫類まで可愛らしい態度を取るのです。

その可愛らしい態度を取った爬虫類とはオオトカゲでした。

私がそのオオトカゲの檻を見に行くともう水の中で大騒ぎをしていました。(あんなに騒いでいるオオトカゲを見たのも初めてですけどね。これまでは檻の中でジッとしていましたから)

他の人も見ているのに、私の前を行ったり来たりして目の前でバシャバシャやっています。

こういう場面も珍しいので動画に撮って、そうして撮るだけ撮ったので、そのオオトカゲにも「またな」と声をかけて行こうとすると、なんと、そのオオトカゲが私が見ている目の前まで上がってきて、腹をピタッと檻につけ、顔を左右に微妙に振っているではないですか、まるでイヤイヤをしているようなのです。

私は「エッ」と思いました。爬虫類までこういう態度を取るとは思わなかったからです。(信じられますか?この理屈で行くと恐竜まで可愛らしい態度を取るということになります。〔恐竜も爬虫類ですから〕凄い奇跡ですね)

もう何度も東山動物園に行っていますので、動物たちが私になついたということもいえますが、それにしてもこれだけの態度を動物たちが一人の者に取るでしょうか?(いくら何でもなつきすぎです。〔笑〕)

どの動物たちも、他の人には見せないような態度を私には取るのです。心が変わる、法を知るとはこのようなことなのです。

法を知って実践すると愛が(心から)あふれ出てくるということです。

動物たちは、その愛に気づいているのでしょう。だから私にはそのような態度を取るのです。(愛には愛で返しているわけです)

しかし、その愛にまったく気づかないのが人間たちなのです。

昨日もひどかったです。

あそこにいる多くの人が(もちろん、来ている人たちだけではなく飼育員から工事の関係者までです)私の顔を見ると何か嫌がらせをしていきました。

それも大人から子供までです。(おまけに帰りの電車の中もひどかったです。前に座っていた爺さんに散々ゴホゴホ、ガハガハやられました。私も辻説法をしたんですが、その爺さんは私の話を聞いても怒っているだけでした)

私は「これだけ誰も神を思おうとせず、神の心を知ろうともせず、調子にのった態度を取り続けていて大丈夫か。もっと恐ろしいことが起きてくるのではないのか」とふと思いました。

あまりに多くの人が無反省であったからです。これほどの神の業が現れいても、その神の業を恐れようともしていなかったからです。(神の業を人のせいにして、ただ怒っているだけなのですから話になりません)

そう思いながら帰ってくると、私の横を通って行ったバスがいきなりブシュっとでかい音を立てて走り去って行きました。

「なんだこいつ、いつもより怒っていないか?」と思い(最近は市バスの連中、ここまででかい音を立てなかったですから)歩いていましたら、また横の道路を通ったバスがブシュとやってきて、運転手の顔を見ると明らかに怒っています。

「こいつら何か起きたんじゃないか?」と思っていると、また横を通ったバスがブシュとやって行きました。

「市バス連中に何か起きたな」と思って家まで帰ってくると、今度はどこかの会社の連中が烈火のごとく怒っています。(ここはしょっちゅうですけど)

私が東山でふと思ったことが現実に起き出しているのではないでしょうか。

今の名古屋の人たちは、聖書などに出てくる神に逆らい滅ぼされる人たちとあまりに似ているからです。(その神を思わない傲慢なふるまい、そっくりです)

私の周りで起きていることは、最初に書いた通りです。(とりあえず動物たちが対象ですが)次々に愛ある奇跡が起きているのです。

では、怒っている人たちの周りではどうなのでしょう?

何が起きているのか知りませんが、この法に従うのであれば、少なくとも災いは起きないでしょう。

愛あるところに災いは起きないからです。怒りやねたみ、ひがみなどがあるところに災いが起きるからです。

自分の周りに、もし災いが起きているとしたら、その災いは自分の(怒りやねたみなどの)心を変えない限り止まらないでしょう。

その災いはすでに多くの人に現れているからです。(ということは、そういう心の持ち主が多いということです)

災いが起きない方法は心に愛を持つこと以外にないのです。心に愛がないから災いが起きているのです。(自分さえ〔あるいは自分たちさえ〕よければいいという偏狭な愛は本当の愛ではありません。だから、そういう人にも災いが起きているのです)

その本当の愛を持つためにはこの法を実践するしかないのです。

実践されてはどうでしょう。それ以外救われる道はないからです。

(災いが次々に起きだしたのなら、もう「お前のせい」といっている場合ではないのです。「助けてください」なのです。その災いから逃れる方法は、この法〔本当の神の教え〕を実践する以外ないからです。いつまで突っ張っているつもりですか?そのままの心では滅ぼされるのです)

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2月 11 2016

歴史に学ぶ

しかし、きいておけばいいのにね。これだけお蔭がある教えなのですから。

昨日、庄内川の帰りに小学生と会いましたが(中学生はまたどこかに消えました)マァ、どいつもこいつも憎たらしい連中ばかりでした。ヘラヘラ笑ってバカにしていく奴もいれば、足をすって音を立てていくのもいます。

大人をこれだけバカにしているのですから、もうどういう悪いことが起きても自業自得ということで了解願えるでしょう。

こういう嫌がらせを続けているのなら、普通であっても天罰はくだると思うからです。(それでもこの連中、悪いことが起きたら私のせいにしますが)

こういうバカ小学生と同じような人がこの辺りは多いのですが、しかし、キリストが「預言者は自分の故郷では歓迎されないものである」といわれた意味をヒシヒシと感じますね。

キリスト同様私も、地元ではまったく歓迎されていないからです。

キリストは自分の故郷であるナザレで一つの奇跡も現しませんでした。歓迎されていないことが分かっていたからです。

ナザレでキリストが教えを説かれても「あれはヨセフ〔キリストの父〕の子ではないか」「大工のせがれが何をいっているのか」(ヨセフは大工であり、キリストも若い頃は、その父の大工の仕事を手伝っていたからです)とバカにして、誰も真剣にキリストの教えを聞こうとしなかったのです。

故郷の人たちは小さな頃からキリストを知っていたからです。その若い頃のキリストのままであるとナザレの人たちは思っていたからです。

しかし、再びナザレに現れたキリストは過去の人とは違っていました。

すでに悟りを開かれ、多くの奇跡を現す救世主となっていたのです。

しかし、ナザレの人たちは(そのキリストの評判は聞いていましたが)それを認めませんでした。キリストの姿かたちしか見ていなかったからです。誰もキリストの心を観ようとはしなかったのです。

そのためキリストはナザレでは一つの奇跡も現すことはしませんでした。

現したところで、その奇跡を素直に感謝する人などナザレにはいなかったからです。下手に奇跡を現すなら、その奇跡をおかしく思うか(何か手品でもやっているのではないのかとです)あるいは、その奇跡をねたんだりひがんだりして、かえってその者たちの心を曇らせると思われたからです。

そのキリストの気持ちが今の私には痛いほど分かります。キリストがナザレでされたことと同じことを地元名古屋の人たちはしているからです。(まさに歴史は繰り返すですね)

ナザレの人たちが、もし、キリストが変わられていることに気づいて尊敬していたのなら、キリストはナザレでも多くの奇跡を現されたでしょう。

しかし、ナザレの人たちは誰一人キリストを敬おうとせず、昔のままのキリストでしかないと思い込んで、キリストの話を真剣に聞かなかったのです。

その結果、ナザレで奇跡が現れることはありませんでした。

この頃のナザレでも多くの病人がいたと思いますが、そのような人たちは誰一人救われることはなかったのです。

キリストの奇跡をまじかで見られ、その奇跡を自分たちの体を通して知ることが出来る、これほどの心が向上するチャンスはなかったのですが、そのようなチャンスをナザレの人たちはみすみす逃したのです。

本当に哀れなものですが(そんなチャンスはもういつあるか分からないからです。もちろん永い輪廻転生の間でもです)そのような哀れなナザレの人たちと、この辺りの人たちは同じことをしているのです。

私のいうことを真剣に聞き、心を変えるのであれば誰にでも奇跡は起きるのです。

しかし、この辺りの人たちは私の話を真剣に聞こうとしません。(このブログを読んでいる人は多いようですが)逆に「何をいっとるか」と逆らっているのです。

だから、災いが起きるのです。このブログに書かれていることは、釈尊が説かれた正法、キリストが説かれた福音と同じことが書かれてあるからです。(お蔭がこれだけ現れるのがそのよい証拠です。ここに書いたことを実践している人に奇跡が起きているのですから、その反対のことをするなら当然災いが起きるでしょう)

どれだけ不幸が起きたら、ここに書いたことに従うのですか?もう自分たちが間違っていることは明白であるのにです。

歴史は繰り返すといいますが、まさに現代の日本で二千年前のイスラエルで起きていたことと同じことが起きているのです。

いつまで同じ間違いを続けるのでしょう。同じ間違いを繰り返すのではなく、歴史からは学ばないといけないのです。

歴史から学ぶのであれば、本当の神の奇跡が起きるようになります。

せっかく本物の神の教えが日本に出現したのです。それを(読んでいるのに)きかないでいるなど、これほどもったいない話もありません。

法に従われてはどうでしょう。そうすれば、神の奇跡は誰にでも現れるからです。

追伸…昨日に引き続きもう少し政治のことを書きますが、議員定数の削減が2020年以降まで先延ばしされるそうですね。(まだ決定ではありませんが、自民党がそれをいいだしているのですから、ほぼ決まりでしょう)

野党は反発しているようですが三味線(しゃみせん)を弾(ひ)いているだけでしょう。心ではホッとしている人が多いのではないでしょうか。(特に民主党などはです。だいたいゼロ増五減の時でもあれだけ反対していたのです。それが定数を十も削減するなど考えられないでしょう。本当に三味線もいいとこです。〔笑〕)

しかし、有権者は引きますよね。

政治家は倫理が欠如した人とか、自分の保身しか考えていない人たちばかりなのかと思えてです。

こういう身を切る改革を後回しにばかりしているから、政治家は口だけだと思われてしまうのです。

政治家が有権者からさげすんで見られるようになったら終わりです。

もう少し身を切る改革の方も進めていただけないでしょうか。そういうことも出来て、初めて有権者は政治家を信用するからです。

政治家一人一人が奇跡を起こすようになれば、議員など少なくてすみます。(奇跡を起こせるような心になれば、一人の政治家が二倍三倍の働きをするようになるからです)

政治家の方々も少しは法を実践されてはどうでしょうか。そうすれば、様々な奇跡が起きてくるからです。

巷では奇跡を起こす人がたくさん出て来ています。

それなのに政治家が誰も奇跡を起こせないでは、ますます信用はなくなりますね。(笑)

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2月 10 2016

神の心を知る

東京都の南鳥島付近の海底五千五百メートルを超える辺りに、レアメタルやレアアースを含む「コバルトリッチクラスト」が広がっているのが確認されたそうですね。

この発見で資源の少ない日本が、もしかすると資源大国に変わるかもしれないとの期待が高まっているそうですが、こういうことが起きるのです。

法を実践する人が増えるとです。

これは偶然ではなく必然です。日本に法を実践する人が増えてきたので天からこのような導きがあったのです。これも一つの奇跡なのです。

このまま日本に法を実践する人が増えていくなら、海底深くにあるコバルトリッチクラストとはいえ、コストのかからない簡単な方法で取り出す技術が確立されますし(それも天の導きです。使命のある人に天啓を与えるのです)もし、法を実践する人が興味本位のような形で、今だけやる人が増えただけであとが続かなかったら、そのような技術が確立されることはないでしょう。(つまりそれでは、このような大発見も絵に描いた餅にしかならないということです。海底からコバルトリッチクラストを引き上げるのに、時間やコストがかかりすぎては何もならないからです。どれだけよいものでも単価が高すぎては売れないからです)

このような奇跡を現すも現さないも(生かすも殺すも)法を実践する人がこれから増えるかどうか、その一点にかかっているのです。

多くの人が法を実践する大事さが少しはお分かりいただけるでしょうか?

法を実践する人が増えれば増えるだけ大きな奇跡が現れてくるということです。

それに引き換え、法に逆らっている人たちはどうでしょう。どうやってもいいことは起きて来ないのです。

この辺りの人たちはもちろんですが、あの育休を主張している国会議員でもそうです。

今度は不倫疑惑が持ち上がったそうですね。(疑惑というか、本人も認めているそうですが)

これでは育児休暇がほしいのは、育児のためではなく不倫がしたいためではないかと思われてしまいます。もう育休の申し出は取り下げた方がいいのではないでしょうか。

こういう議員が何をいっても、もう誰も信用しないからです。(だいたい、男が育休を取るなどまず何か下心がありますね。〔さぼりたいとか、遊びたいとかです〕男がまじめに育休などするわけがないからです。本来の男の仕事ではないのですからまじめにやるわけないのです)

こういう順序をもらうのです。男の役割や女の役割を壊すようなことをするとです。

だから間違った政策を進めてはいけないのです。現に間違った政策を進めた与党の議員(自民党)から、このような倫理観の欠如した議員が出ているのです。

男の育休を促す政策など間違っていたからです。だから、与党に災いが現れたのです。

このように誰であろうと間違ったことをすれば災いが起こり、よいことをすれば(この前、総理が反省された時などそうですが)奇跡が起きるのです。それは政府や与党といえども同じなのです。

神の心に逆らえば、その分だけ気づきの現象は現れるのです。

だから、誰であろうと法の勉強はしないといけないのです。(特に偉い方であればあるほどです。そのような方々は多くの人に影響を与えるからです)今の常識は、神の心から遠く離れたものも多々あるからです。

どうでしょう。政府与党の方々、この教えを国教とされたらです。そうすれば日本中に奇跡が起きてくるからです。

そういう点から見ても憲法改正は必要ですね。だって現在の日本は信教の自由を認めていますので、この国教制度はありません。

そのせいで、おかしな宗教に騙され、多くの人がこの世で地獄を味わい、そうして死んでからも今度は本当の地獄に堕ちて行かなければいけないのです。

国教制度が出来れば(そうして、この教えを国教としてくだされば)そのような多くの人々を救うことが出来ます。(というか、日本のほぼ全員の人が騙されているのです。だって本当の神の教えは私が説いているこの法だけだからです)

憲法改正はこの法を基準にされたらどうでしょう。そうすれば、日本の多くの人が本当の幸せを手に入れることが出来るからです。

とにかくです。何でも平等、何でも自由ではありません。

男と女は姿かたちが違い、考えも能力も違っているのですから、やることも当然違うのです。そうして、自由でもそうです。何でも好き勝手にやる、そんな秩序のない自由など悪でしかないのです。

悪平等論に悪自由論、現在の世の中は悪いことが渦巻いています。だからこれだけ天罰が現れているのです。

世はすでに、正法の世と変わっています。

もう神の心からあまりに離れた考えの人には災いが起きる時代となったのです。(そうして、近ければ近いほど奇跡が起きます)

だからこそ神の心を知らないといけないのです。

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2月 09 2016

やれば天国、やらねば地獄

昨日は金山に行ったのですが相変わらずでした。(苦笑)

今日も朝からやたら怒っているのがいるし(どこかの会社に来ている業者とかです)いいことが起きていない人が多いんでしょうね、きっと。本当に哀れな人たちです。

そういう人たちのお蔭でこちらまでいいこと起きません。(何せ、八つ当たりされますので)

自分の周りだけではなく、未だにこれだけサイレンが聞きこえて来るのです。(今日も朝から何度も聞こえています)

これを全部、私のせいにしているのは気違い沙汰としか思えません。(究極の責任転嫁です)このような現象を人のせいにしている暇があるなら、自分自身を反省されてはどうでしょう。

その方がよほどよいことが起きるからです。

現に私のいうことを(一部でも)聞いている人たちには奇跡が起きているのです。(昨日もそうでしたが、最近は海外でも日本の選手があちこちで優勝しています。奇跡が起き続けていませんか?)

災いが起きている人たちは、私のいうことを知らないか(法を知らないか)逆らうかしている人たちばかりなのです。

これだけ違いがあるのですから、私のいうことを聞いた方がいいのではないでしょうか?私のいうことを聞いている人には、少なくとも奇跡が起きているのは事実であるからです。

もったいない話ですよね。私のいう通りに心を変えれば奇跡が起きるのです。それを無視しているのですから、これ以上もったいない話もないわけです。

私がいう通りに心を変えれば、例えば、入りたい学校に入れるかもしれないし、仕事の業績が上向くかもしれない。これまでうまく出来なかった仕事がうまく出来るようになるかもしれない。

このような、これまで出来なかったことが出来るようになるかもしれないのです。

というか、法を実践するならこれまで出来なかったことが出来るようになるのですから、このようなことはすべて実現可能でしょう。

そういうことをやった人はいくらでもいるからです。

神がかり的な活躍をしている人たちもそうですが、久しぶりによい結果が出たという人もいる。一日かかる仕事が半日で出来たという人もいる。(しかも普段よりもよい仕上がりでです)末期癌の痛みがとれて安らかに逝かれたという人までいるのです。

つまり、この教えを実践すれば、奇跡的な仕事が出来るだけではなく、死まで安らかに逝けるというのですから、これ以上のよいことはないわけです。(だって苦しんで死ぬのも嫌ですもんね)

人は必ず死にます。そうであるなら、その死ぬ時までよいことが起きるというのですから、本当に至れり尽くせりです。

何でこれ以上よいことをしようとしないのでしょう?本当に不思議ですね。

それにその死に対してもです。いつまでも死ぬのが怖い、死ぬのが怖い、では話にならないでしょう。

すべての人が死ぬからです。

人は必ず死ぬのに、それをビビっているというのもまたおかしな話です。死とは自然の摂理(せつり)であるからです。

死は、どんな人であろうと逃れられないのです。

しかし、これまでは、その死のことをタブー視して出来るだけいうのを(考えるのを)避けてきたのです。

何ですべての人に起こることを避けているのでしょう?避けていれば死から逃れられるとでもいうのでしょうか?

そんなわけがありません。どれだけ避けても死から逃れる術はないのです。

そうであるなら、逆にもっと死の話をしないといけないのではないでしょうか?死はすべての人に必ず訪れることであるからです。(これまでは変に死の話を避けてきたからよけい怖いのです。分からない方が恐怖感が増すからです)

なんでも、よく勉強しないとけない、もっと知らないといけないというくせに、死だけは誰もそうはいわないのですね。避けているだけです。

しかし、そうではないのです。もっと死のことを勉強しないといけないのです。

そうすれば死への恐怖も段々薄れてくるからです。

その死の話まで、この教えを知るならば理解することが出来るのです。死んだ後のあの世の生活まで教えてくれるからです。(それが嘘ではないという証拠が次々に起きる奇跡です)

そこまで分かると、今度は死ぬのも待ち遠しいということにもなります。(違う環境で〔今度は意識界で〕また心の勉強が出来るからです)

とにかく、この世のことからあの世のことまで、そうして、この世で奇跡を起こす方法まで分かるのです。

何度もいいますが、これ以上よいことはないのではないでしょうか。

それに祈りを覚えるなら、自分で奇跡を起こすことも出来るのです。私が祈って起きた奇跡をこのブログの中にいろいろ書いていますが、こういうことは誰でも出来るからです。

心がきれいになり、その祈りが高い世界に届くのであれば、様々な奇跡がこの世に現れることになります。

何かやる前には、必ず、天に祈りそうしてやる方がいいのです。その祈りが正しければ、そのやることが予想以上によい方に導かれることになるからです。(同じことをするにも、やる前に祈るのと祈らないのとでは結果が全然違います。これは自分で試してみるとよいでしょう。祈ってやると何かいいことが起きるからです)

もうこの教えを実践されることのよいことはいくらでもあります。書ききれないくらいですし、逆に、この教えに逆らうことの弊害ももうどれだけ書いたか分からないのです。

どれだけお経を上げようが、どれだけよいといわれるパワースポットに行こうが、これだけ奇跡が起きることはないのです。(そうですよね。どっかいって何か奇跡が起きました?)

どこにいようが、この教えを少し実践し、心を変えるだけで次々に奇跡が起きているのです。

やれば天国、やらなければ地獄、まさにその通りの世界が現れています。

何で多くの人が、それを分かっているのに無視しているのでしょう。

本当にもったいない話ですね。

(この教えを実践すれば自分の能力が何倍にもなるのです。何でやらないのですか?)

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