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2017年6月

6月 22 2017

手本

昨日はまた庄内川に行ってきたんですけどね。その帰りにいましたね。あちこちにです。

私のことを見ている年寄りがです。(苦笑)

その中にはにらんでいる人もいます。だから私は「おっちゃん(またはオバちゃん)ブログ代くらい払わんと罰が当たるで」と声をかけました。

するとほとんどの人が下を向くか、横を向くかするのです。

少しは自分たちの態度を反省してもらいたいものです。

怒っているなど逆恨みもいいところなんですが、どれだけ年を取ってもそれが分からない人は分からないようです。

そういう年寄りの皆さんは、このブログを知ってどれだけ幸運を得たと思いますか?

自分のこれまでの人生を考えてみてください。

これまでの皆さん方は年を取ってもうやることもなく、残りの人生をただ時間を無為に過ごすだけの無駄な人生を送っていたのではないですか?(趣味に没頭することでもなんでも同じです。他にやることがないからそれをしているにすぎないのです)

そうして自分はいつ死ぬことになるのだろうと、死の恐怖ばかりが襲ってきた人もいたのではないでしょうか。(年をどれだけ取ったところで死への恐怖はそう簡単になくなるものではないからです)

しかし、私のブログを知ることにより、神の存在を知り、死後の世界を知り、人生はこの一回限りではなく、永遠に続くものであることを知り、また自分たちは生まれ変わることが出来ること知って、ずいぶん心が楽になった人も多いのではないでしょうか。(ずいぶん死への恐怖が和らいだ人も多かったのではないですか)

これは年を取れば取るほど、その実感が強かったのではないでしょうか。やはり年寄りの方が若い人よりも死への実感が強かったはずだからです。

そういう年寄りにとって、このブログは、まさに砂漠でオアシスに出会ったかのごとく感じ、救われた気持ちになった人も多かったのではないでしょうか。

だから私を知った当初の年寄りの人たちは私に頭を下げていった人もいたのです。救われた気持ちになった人が多かったからです。

しかし、その後、私への評判が悪くなるにつれ、頭を下げる年寄りは減って行きました。今はもちろんゼロです。(苦笑)

しかし、私の評判がどれだけ悪くなっても、それでもこのブログを読むのをやめない年寄りが現にいるのです。

このブログを読めば(心が)救われると知っているからです。だから読まずにはいられないのであり、だから、自分たちに都合が悪いことが書かれてあると怒るのです。

このブログに書いてあることは正しいと自分たちは知っているからです。(正しいことが書かれてあると知っているから怒るのです。適当なことを書いていると思えば怒る必要もないからです)

そういう諸々のことを考えればです。

老後にこれだけのブログに出会ったのです。もう感謝以外ないはずなのではないですか?

このブログはただの老後の楽しみで読んでいるだけのブログではないからです。

たとえそれだけでもずいぶん救われるでしょうが(年寄りにとったらです。年を取ったらそう楽しいこともなくなりますから。〔笑〕)しかし、このブログはどれだけ年を取ってもただ楽しかった、面白かった、で終わるブログではないからです。

このブログを読むなら、その人の人生観がまるで変わってしまう、それほどのブログであるからです。(実際に変わった人も多いでしょう。唯物論から唯心論にです。そうであるならずいぶん人生観がかわりましたよね)

なぜそうなるのかはお分かりいただけると思います。ここに書いたことが書いたことだけで終わらず、次々に起きるからです。(よいことも〔奇跡〕悪いことも〔災い〕含めてです)

その人生観を変えるほどのブログに人生の最後の最後に出会ったのです。

では、感謝以外ないのではないですか?

特にお年寄りの皆さんなどはです。

だから私は布施くらいされてはどうですか?といっているのです。

それほどのブログと出会って、何の報恩の行為もしないというのであれば罰が当たると年寄りなら理解できると思うからです。(若い人はともかくです。まだ不信心な人も多いでしょうから)

実際、次々にこの辺りで罰が当たっているようですし(もう朝からそこらじゅうで怒っていますし〔前後左右みな怒っています。もう半端ないくらい起きているようです〕どこかの会社も悪いことが起きっぱなしですって。さっき、ききました。〔苦笑〕)それは自分たちの行いが悪いからであると、信仰深い年寄りであるなら分かるはずであるからです。(マァ、それでもそれが理解できない年寄りが最近は多いようですが)

しかし、もう年寄りが引っ張るしかないのです。この辺りの人たちは、おかしな我ばかり強くなって(自分は悪くないというです)もうどうすることも出来ないようであるからです。(もうどこかの会社などもパニックで〔ずいぶん引いたです〕物に当たることしか出来ないようですし、それは他の人も同じなのです。大人から子供まで、次々に悪いことが起きているようでキレるか引くかしか出来ないようです)

お年寄りはずいぶん私に救われているはずです。(人生の最後の最後にです)

では、お年寄りが率先してやっていただけませんか?私に頭を下げることをです。

年寄りが手本となり、そういう態度を取るなら、それをまねる人も必ず出て来るはずです。

しかし、誰も彼もがいつまでも突っ張り続けるのであれば、この起きている災いはどれだけ増えていくか分からないのです。(本当にもうそこらじゅうで怒っています。私が何をいっても皆きかないのです)

人生の最後に多くの人を救いませんか?

信仰深いお年寄りの皆さんがです。

(本当にお願い出来ませんか。なんか大変なところも多いようですし〔顔が引きつっている人もいますし〕このままでは、そのお年寄りの皆さん方も危ないようであるからです。奇跡が起きている私のいっていることが正しいのです。いい加減、ご理解ください)

追伸…しかし、あの豊洲問題は大丈夫なんでしょうか?(あのような都知事の判断でです)

豊洲も移転して築地も再開発するって、一見よさそうですが、具体的な話は何もないんでしょう。

これでは、ただの都議選目当ての両方(豊洲移転派と築地に残る派)にいい顔しただけの先延ばし案に過ぎないのではないでしょうか。

このような先延ばしが後々、東京に大きな損失をもたらすのではないかと心配です。

オリンピックも何かバラバラになってしまいましたし、この豊洲問題もそうです。本当に法則を無視すると(女性を中心にしてはいけない)よいことが起きませんね。

改めてそう思います。

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6月 21 2017

天上界への道

今日は名古屋は朝から激しい雨と風が吹いています。

こういう天気にもかかわらず、それでも朝からお怒りなのです。(もちろんどこかの会社などです)呆れてしまいますね。

そういえば昨日の昼からのことです。この連中、また急にキレ出した奴が何人かいたのです。

どうも昼休みに何か起きたようで(それっていつものことなんですけどね)それで昼から怒りだした奴が何人かいたようなのですが、それがあまりにうるさかったので、そういう連中に向って私がいろいろいっていたのです。

「お前らはそんなことばかりしているから悪いことばかり起きるんだよ」「少しは反省しろ、そうすればそういう災いも止まるから」とかなんとかいっていたんですが、そのうちにふと思い出すことがあって、そういえば最近は年寄りの顔をあんまり見なくなった、もしかしたら年寄り連中にも何か起き出したんじゃないか、我の強い年寄り連中に何か起き出したんなら、お前らもやばいぞ、などということもいっていたのです。

そういう話をした直後のことです。

凄いでかい音で「バシッ」と窓を閉める音が前のマンションからきこえてきたのです。

私は「えっ」と思いました。別にそっちに向かって話していたわけでもなかったからです。(といってもきいているでしょうけどね。私が話すことを前のマンションの連中もです)

そうしてその時にピンときました。何で最近は年寄りがよく怒っていたのかということがです。そうして前のマンションの連中がやたら怒っていたのかということもです。

先ほど私がいったように年寄りに何か起きていたのです。だから、感情的に怒っている年寄りがあちこちにいたのであり、前のマンションで昨日怒っていた人たちは、自分の家の年寄りに何か起きたのでしょう。

それを私のせいにして怒っていたのです。

これまで年寄りにはそれほど悪いことも起きていないようでした。(起きた人もいるんでしょうが。少ないようでした)

近所で、私の顔を見ると毎回嫌がらせをして来る年寄りがいて、それでそういう年寄りを祈ったことが何度かあったんですが、年寄りは我の強い人が多いもので、あまり私の祈りもきかないようでした。

何度祈っても平気な顔で嫌がらせをして来る年寄りが何人もいたのです。

しかし、そういう年寄りで最近見なくなった人がいたので、それでそういう話をどこかの会社の連中にしていたら、いきなりの前のマンションからのお知らせです。(知らせてくれているみたいなものでしょう。そういう態度はです)

それで最近は怒っている年寄りが多かったのです。年寄り連中に何か起きる人が増えていたからです。(あの「バシッ」で謎がすべて解けました。〔苦笑〕)

しかし、年寄り連中に何かあったからとそれを私のせいにされてもねぇ。

年を取れば病気になるなど当たり前のことですし、寿命が来て急に死ぬことだってあるでしょう。(だいたい散々嫌がらせをされたからこちらは祈っているだけなのであって、それで何か起きても、それは自分たちがした嫌がらせのせいでしょう)

それは自然のことであり、年寄りに何か起きたことまで私のせいにされたら、起きている悪いことがすべて私のせいということになります。(マァ、この辺りの人たちはそれに近い思いを持っている人がたくさんいるのですが…何せ被害妄想の人が多いものですから。〔苦笑〕)

どちらにしても、もう悪いことを何でもかんでも私のせいにしているのではなく、年寄りにもそのような災いが起こりだしたというのであれば、お年寄りの人たちはもういつ死んでもいいと腹を決め(死にたくないなどと、この世に執着していては地獄行きですから)これまでの人生をよく反省されてはどうでしょう。

そうすることが、死んだ後、天上界に往ける唯一の方法であるからです。(だから、お経をどれだけ上げようと、有名な寺や神社にどれだけお参りしようと天上界には行けないということです。それで心がきれいになるわけではないからです。心をきれいにしないと死んだ後、天上界には行けないのです。その心をきれいにする唯一の方法が反省ということなのです)

しかし、このブログを読んでいるお年寄りの皆さんは人生の最後の最後で最高の幸運に恵まれたのです。(もちろん、その最高の幸運とはこのブログを読んで法を知ったことです)

それなのに、報恩の行為をせずに帰るということは、徳を積む大きなチャンスを棒に振るということになります。(そういう意味でもこれ以上の幸運はありません。これだけ大きな徳を積むチャンスはそうはないからです)

そういう危ない状況になったのなら、すぐにでも布施したらどうでしょう。(もちろん私にです)

死んだ後では布施することも出来ないからです。(また、そのようなよい行いをするのなら、寿命も延びるでしょうし。〔笑〕)

最近のこの辺りの天罰のくだり方は異常なのです。(ねぇ、どこかの会社の皆さん)

こうなった以上(それもこれもすべて自分たちの不徳の致すところであるからです。私のせいではまったくありません)もうお年寄りの皆さんは、いつ死んでもいいという心になって、自分のこれまでの行いを反省し善行に努めてください。

そうすることが天上界へ往ける唯一の道であるからです。

(どこかの会社の皆さん、本当に大丈夫ですか?普通であるなら二日も続けてこのブログを書いたら烈火のごとく怒りじゃましたくるはずなのに、今日は朝方、少しうるさかっただけでブログを書きだしたら逆に引いているのです。〔いよいよやばい現象が次々に現れて来たようです〕では、すぐにでも詫びを入れてください。あなたたちが救われる方法はもうそれ以外にないからです)

追伸…しかし、森友学園問題ばかりでなく、加計学園問題も続々と新しい文書が出てきますね。

そうして、その文書を総理周辺の方々はみな知らないとか、正確な文書ではないとかとぼけていますが、もし、それが嘘ならばその人は政治家なのか犯罪者なのか分からなくなります。(そのような方々は神に誓ってそれが嘘ではないといえますか?ずいぶんそういうことをいっている政治家の方々の目がうつろなんですが…。〔何か死んだ魚のような目でしゃべっています。本当に哀れです〕)

総理は「信なくば立たず」といわれました。そうであるなら、国民の信頼を失うような態度はやめるべきでしょう。

堂々と総理自らがこの問題を正直に語られるべきでしょう。(部下に適当なことをしゃべらせていないでです)

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6月 20 2017

本物と偽物との違い

昨日、私は庄内川に行ったのですが昨日の庄内川がまた凄かったのです。

何が凄かったのかといえば、物凄い数の魚が跳ねていたからです。

行くまでは静かだったのです。(最初に庄内川についた時はシーンとしていましたから)

しかし、私が行ってしばらくするとあちこちで魚が跳ね出したのです。

それでも最初は「今日はよく跳ねるな」程度だったのですが(そこそこ跳ねてはいましたが、そのくらい跳ねている時はこれまでもあったものですから)また川岸を歩いていって向こう岸に渡ったくらいからです。

凄い勢いで魚が跳ね出したのです。あっちやこっちでボンボン跳ねています。

「お前ら今日はやけに勢いがいいな」とかいっていたのですが、もう凄い勢いであちこちで魚が跳ねています。

大きいのもいれば小さいのもいますが、時々、凄く大きな魚が(鯉かなんかだと思うんですが)急にガバッと川から顔を出す時もあり「なんだありゃ」とこちらが驚きます。(ほんとユーマかと思ってしまいます。〔笑〕)

そうして真ん中あたりで跳ねていたわりと大きめの魚が、岸近くまで泳いできて(水面近くを泳いでくるので岸から見えるのです。さざ波もたちますし)私の目の前で跳ねたり、近くを泳ぎ回ったりしています。

そのうちにたくさんの細かい魚が川岸近くを泳いできて(数十、数百匹くらいの集団がいくつも泳いで行くのです)私が「お前らずいぶんたくさんいるな」と声をかけると、バシャバシャ嬉しそうに泳ぎ回っています。

とにかく、大きな魚から小さな魚までそこらじゅうで、近くを泳いで行ったり跳ねたりしているのです。

その他、何匹か亀なども顔を出していましたし、もちろんすずめなどの鳥も騒いでいました。そうして鵜までいるのですが関係なしに魚たちは跳ね回っていました。

何人かの人が庄内川の川岸の上の道路を散歩していたのですが、皆、ギョッとして庄内川を見ていました。(なかにはジッと川を凝視している人もいました)

とにかく普段、散歩している人たちが驚くくらい昨日は魚が跳ねていたのです。(何か天上界での情景を目の前で見せられた気分でした)

昨日は名古屋は、日本中で一番暑かったそうですが(京都と並んでです)魚たちもずいぶん熱く跳ね回っていました。(笑)

「今日は凄かったな」と思いながら庄内川から帰ったのですが、帰り道もまたずいぶん熱かったのです。(もうやけどしそうなほどです)

しかしそれは魚ではなく多くの人たちであったのですが。

その庄内川の帰り道でのことです。

最近はよく怒っている人がいるのですが、それにしても昨日は多かったのです。庄内川の帰り歩いていると、あちこちの家から人が出てきていて、ガチャガチャ、ゴンゴン、やっていました。

「いつまでこの連中、悪いことを人のせいにしているんだろう」と呆れながら歩いていました。

もうその辺りは何度辻説法をしたか分からないほどであったからです。これ以上はいうだけ無駄だと思ったからです。

そうして歩いていると、途中まで帰ってきたところで今度は爺ちゃんとケンカになって首を絞められ(向こうが先に嫌がらせをして来たのに、こちらが何かいったらキレられて首を絞められました。もうちょっとでぶん殴るところでした。〔苦笑〕)そこから家の近くまで帰ってくると、公明党のポスターが貼ってある家からまた爺ちゃんが出て来て、ガチャガチャやり始めたのです。

「また爺さんかよ」と思ったのですが「悪いことを人のせいにしとらんと創価学会にでも何とかしてもらえ」とその爺さんにいうと、その爺さんまで「なに」とかなんとかいって怒っています。

またケンカになりそうでしたので、適当なことをいってさっさと帰ったのですが「何で今日はこんなにあちこちで怒っているんだ」と思って帰って来ると、家の前のマンションの住人まで怒ってバシバシやっています。(今日の朝もやっていました。相当怒っていますね)

そうして家まで来ると今度は隣の家の人まで出てきていて(夫婦でどこかに行くところでしたが、私が来るまで旦那の方は車に乗ろうとしなくてこちらを見ていました)私が家に入ろうとすると案の定よけいなことをしてきます。

またかと思い(よくされますので。両横や前後、斜めの家の人たちにはです。周り中すべてといってもいいんですが。〔苦笑〕)その人たちはよく祈っておきました。

本当にこの辺りのそこらじゅうの人が私を嫌っているようで、その怒り方が最近は特に半端ない感じなのです。

「今日は散々だったな」と家について思ったのですが、何か変なのです。

何が変かといえば、庄内川であれだけの現象が出たのははじめてでした。そうして、これだけ多くの人が怒っているのもまたはじめてです。(もうそこらじゅうですから)

最近は特にそうなのですが、多くの人の様子がずいぶん変で、そのおかしさがドンドン増しているのです。

そうしてこの前の堀川もそうでしたし、昨日の庄内川はまた特に顕著でした。

何が顕著だったのかといえばです。起きている現象がやたら大きいのです。(というか多いのです)

ということは、最近は起きている現象が、ずいぶん大きく(多く)なっているのではないか?と思ったのです。

だから庄内川であれだけの現象が起きたのであり(それを天から教えられたということです)だから帰り道で、これまでにないような怒り方をしている人たちがあちこちにいたのであり(もちろん、引いている人たちもたくさんいましたが)それはつまり、これまでにないくらいの多くの現象が現れ始めた証拠なのではないかと思えたのです。

実際そうではないでしょうか。

最近はやたら多いからです。怒ったり引いたりしている人がです。そうして、そういわれれば鳥や魚が寄って来る現象も(日によって違いますが)大きな現象が現れる時が最近はよくあるからです。

だとしたらどうされるのでしょう。特にこの辺りの人たちはです。

起きている現象が(よいことも悪いことも含め)ドンドン広がっているようだからです。

皆どうするつもりなんでしょう。この調子では悪いことがどれだけ多くの人に現れるか分からない状況にあるのにです。

先ほどの創価学会の爺さんもそうですが(直接きいていないんで創価学会の会員かどうかは知りませんが)自分が入っている創価学会ではどうにもならないんでしょう。(だから怒っているんでしょうから)

世間にはたくさんの宗教があるのですが、この辺りの多くの人たちはもう気づいているはずです。

世にどれだけたくさんの宗教があろうと、その中に本物などないとです。

これだけ不幸が続いていてはそう思わざるを得ないでしょう。この辺りで起きている災いに対しては、どの宗教もまったく無力であるからです。(そういう宗教団体の会員や坊さんなどからも私は嫌がらせを受けていますから。それでは自分たちの宗教ではこの災いはどうにもならないといっているようなものです)

それはそうでしょう。よく考えてみてください。

本物の宗教指導者は毎日のように奇跡が起きるのです。

それは次々に癒しを行ったキリストしかり、釈尊しかりです。もちろん高橋先生や園頭先生もそうです。

毎日のように奇跡を現されました。(釈尊やキリストはもちろんですが、高橋先生は霊道現象、園頭先生はキリストと同じように癒しです)

ところがそういうことが起きている宗教家がこの辺りには誰もいないのです。

またお寺や神社などもたくさんありますが(近くにはあの熱田神宮までありますから)そういうところでそれだけの奇跡が現れているところもありません。

では、この辺り本物の宗教指導者がいないということになりますが、そのような中で私一人だけには、その釈尊やキリストと同じ奇跡が現れているのです。

マァ、私は宗教家ではありませんがそういう理屈抜きでです。

正しいことを説いている本物の指導者にはちゃんと奇跡が現れるのです。(それは先ほども書きましたが釈尊やキリストしかり、高橋先生や園頭先生しかりです。モーゼもそうです)

それに対し間違ったことを説いている偽の指導者は、口ではいいことをいいますが何の奇跡も現れないのです。

または何かの自然現象を奇跡といってごまかす程度のものなのです。

たまに奇跡的なことを起こす人もいますが、その奇跡はたまに現れるくらいなもので、それほど頻繁に起きているわけではないのです。

なぜなら偽の指導者は、そのような奇跡を起こす力などないからであり、またはそういう力があっても、それは悪魔の力を借りて行っているだけであるからです。(悪魔の力なら、悪魔は気まぐれですし、その能力も限られています。だから奇跡が現れたり現れなかったりするのです)

しかし、正しいことを説く本物の指導者には常に天から光が降りています。その光(神の光)が奇跡を現すのであり、だから絶え間なく奇跡が現れるのです。

それを考えるなら、正しいこといっているのは私一人なのです。(絶え間なく起きる奇跡がそのなによりの証拠です)

その私(本物の指導者)に逆らい嫌がらせをしているから、よいことが起きないのであり、私のいうことに従うのなら奇跡が起きるのです。(実際に起きている人はたくさんいますし)

だからこの辺りの人たちが私のいうことをきくなら、いくらでも奇跡は起きるのです。それはすでに災いが起きた人たちも同じなのです。

心を入れ替え、私のいうことをきくならたとえ悪いことが起きていても、その悪いことは収まり奇跡が起きてよい方向に行くのですが、そのまま突っ張って私に罪を擦り付け怒っているだけなら、ますます悪い方向に行ってしまいます。

そのような考えが間違っているからです。間違った考えでいる人には不幸の道しかつかないからです。(だからみな災いが起きているのです。まだ分かりませんか?自分たちの間違いがです)

反省し、私のいうことをきくのなら奇跡が起きて幸せの道がついてきますが、今のまま考えを変えず私に嫌がらせを続けるのなら悪い方にしか行かないのです。(実際にそうなっているではありませんか。いい加減、目を覚ましてください)

釈尊やキリストと同じ、神の奇跡を現している者が目の前にいるのです。

いつまでその者から顔を背けているのですか?

だから不幸になるのです。

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6月 18 2017

神がつくられたルール

しかしまあ、本当にあちこちで怒っていますね。

怒っていてもよけい悪いことが起きるだけです。詫びるしかないのです。それ以外で災いを止める方法はないからです。(市バスの連中も自分たちが散々嫌がらせをしておいて、怒っていても仕方ないでしょう。〔自業自得です〕あなたたちこそ早く詫びた方がいいのです。一番初めに私に嫌がらせを始めたのはあなたたちであるからです。それだけあなたたちの罪は重いからです)

それにして大人から子供まで誰一人私に詫びようとする人はいません。(そんな気配さえありません)

昨日でも家の近くにある公園によると子供がたくさんいて、わざわざ私の方に寄って来て嫌がらせをして行く子供までいました。

それで私が辻説法をすると、そんな話はききたくないといった風で走って逃げて行きます。

自分たちにどれだけ悪いことが起きているのか知りませんが、それは自分たちが悪いから起きているのであり、私のせいではありません。

それを教えようとしてもきこうともしないのです。(もう知っているのかもしれませんが。自分たちが悪いとです。それでもしてくるのでしょう。自分たちばかりに悪いことが起きているからです)

大人から子供まで自分たちの行いはまったく反省しようとせず、こういう傲慢不遜な態度ばかりを取り続けているのです。

知りませんよ、どれだけ恐ろしいことを起こされてもです。そのような態度は(神に対し)一番してはいけない態度であるからです。

「お前に対してしているのだ」といわれましても、私にはこれだけ神の業が現れているのです。それでは神にしているのと同じでしょう。

私はそれだけ神が認めているから、それだけの神の業が現れているからです。

逆に悪いことしか起きていない人たちは、それだけ神からダメだし(分かりやすくいえばです)をされているから、自分たちに悪いことが起きているのです。

それを認めない限り、自分たちに起きている悪いことは止まらないのです。

昨日でも凄かったですよ。

昨日私は堀川に行ってきたんですが、川に向かい声をかけると次々に大きな魚があちこちで跳ね出してバシャバシャやり始めました。(昨日は大きな魚がよく跳ねていました。起きることは日によって違います。最近は小さな魚がたくさん出て来ることが多かったんですが、昨日は大きな魚がたくさん跳ねていました)

そうして堀川にかかる橋を渡っていると下でバシャバシャ音がしてきます。

下の川を見ると、この前の庄内川と同じように多くの魚が水面近くまで上がって来ていて(昨日は大きな魚だけでなく、小魚もたくさん出て来て水面を泳いでいました)バシャバシャあちこちで跳ねているのです。

「どこでもおんなじことやっているな。不思議なもんだな」と思いながら、その光景を見ていました。

その光景をあちこちで見ていた人たちがいたのですが、珍しいものを見ているような様子なだけで、一人として私に頭を下げようとする人はいませんでした。(中には小さな子供を連れた親子もいたのですが)

そんな光景は私が来なければ起きなかったはずなのにです。

中には、それを見ながら、私に嫌がらせをして行く人まであるのです。

呆れますね。

私が堀川に来なければ、こういう光景など現れないはずなのに(ただ静かに川が流れていただけでしょう)私が来て奇跡を起こしたから、多くの魚が水面近くまで上がってきて、これだけ飛び跳ねているというのに、それだけ珍しい奇跡的な光景に出くわしても感謝もせず、神の業がこれだけ現れている私を誰も認めようとしないのです。

それどころか「この悪人が」と思いつつ、その光景を見ている人までいるのです。(だから嫌がらせをして行くのでしょうし)

悪人にこのような愛ある奇跡は起きませんが、そういうことをまるで理解しない人たちばかりなのです。(いつまでたってもです)

こういう人たちばかりでは神は許さないでしょう。神の業が次々に現れている者を悪人と思っているということは、神を悪だと思っていることと同じであるからです。(実際そうなんでしょう。神によい感情を持っている人はこの辺り少ないと思いますよ。悪いことばかり起こされてるからです)

結局、このような人たちは何が起きても神を認めようとせず、同じようにその神の業が現れている私を認めようとしないのです。

私が祈り、こういう愛ある奇跡が次々に起きても、あるいは人が次々に病気をしても、そうして、その病気を治しても、大雨が降っても、地震が起きても、それでも神を認めなければ私も認めない。

それをすべて悪ととらえ、それを現している私を悪者にしているのです。

そんなことは自分たちの生活とは何の関係もないからです。

自分たちは自分たちの生活をしていればそれでいいと、それしか思っていないからです。(だから奇跡など起きても起きなくても関係ないのです。自分たちの生活さえ出来ればそれでいいからです)

しかし、神がつくられたこの世界で(それさえもこの人たちは認めないのでしょうが。自分たちがこの世界をつくったわけでもないのにです)自分たちさえよければそれでいいという小さな考えではいけないのです。

それでは悪いことが起こります。

そのような考えは間違っているからです。

神がつくられた世は神がつくられたルールがあります。それに従わなければいけないのです。

それに従わないから悪いことが起きているのであり、神がつくられたルールに従わないのであれば、悪いことが起きるように、これもまた神がつくられているのです。(それも神がつくられたルールです)

そのルールを法則というのですが、それさえも認めず、自分たちの生活だけを頑なに守り続けている人たちが未だ多いのです。

だから悪いことばかりが起きるのです。その神がつくられたルール(法則)が激しく現れ出す世となってきたからです。(もちろんそれが正法の世なのですが)

自分たちが神も私も認めず、悪いことをすべて私のせいにして、自分たちの生活だけを頑なに守り続けるのはもちろんご自由ですが、それではもう悪いことしか起きなくなります。

しかしそれは、自分たちがルール違反をしていることが原因で起きていることであり、決して私のせいではないのです。

神のことをいつまでも理解しようとしない、自分たちのせいなのです。

それを認めないなら認めないで結構ですが、しかし、それでは不幸は起き続けるのです。私たちは神がつくられた神の世に住んでいるからです。

そこから私たちは一歩も出ることは出来ないからです。(それが不満ならどうぞご自由に自分たちがつくった世にでも行ってください。出来るのであればですが。〔笑〕)

神に感謝し、畏れ、へりくだりる人には神は愛ある現象を次々に現してくださいますが、神を認めず、その神に怒り、バカにし、傲慢不遜な態度を取る人には神は大変恐ろしい現象を現し、その間違いを正されるのです。

神を認め、神の世にいられることに感謝し、神の心に従われませんか?

そうすることが、神がつくられた神の子である私たちがするべき当たり前の態度であるからです。

(そういう当たり前の態度さえ取れないから、不幸になるのです)

追伸…その神の子といえばです。藤井四段がまた勝ちましたね。(最近は神の子といわれているようですね)

これで二十七連勝ですか。やっていることが神業なんですからまさに神の子でしょう。

相当の人が憑いていると思われますが、指導霊が憑いているといってもです。それは地獄霊のように憑いているわけではなく(この辺りにたくさんいますけどね。その地獄霊を憑けた人が。〔苦笑〕)指導霊の場合は天上界から指導しているだけなんですが、もし、その人が誰か分かったら教えてほしいですね。

将棋をあまり知らない私でも興味はありますから。(笑)

しかし、何度もいいますが、その指導霊が憑いていられるのも心が変わらない間だけなのです。心が(悪い方に)変わってしまっては、その指導霊は憑いていられなくなるのです。

心が変わると心から出る波動も変わってしまうからです。(その心から出す波動によって、光の天使が降りてきたり、地獄霊が降りてきたりするのです)

藤井四段の心が変わらないことを祈るばかりですが、こればかりは分かりません。

失敗する人(心が悪い方に変わってしまう人)の方が多いからです。

しかし、最近は若手有望株がたくさん出てきていますが、そういう人たちが法を勉強してくださることを願うばかりです。

そのような人たちの多くは、この法をしっかり勉強してきますと、菩薩界から出て来る時に約束してきている人たちばかりであるからです。

だから、そのような人たちはこの法をしっかり勉強しない限り、自分の本当の使命は果たすことが出来ないということです。

(いつまでも神を認めようとしないこの辺りの人たちに手本を見せてもらえませんか?そういう心の高い人たちがです。〔笑〕)

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6月 17 2017

法の価値

皆さん、どれだけ怒っても無駄です。(ほんとそこらじゅうで怒っています。〔または引いています〕)このような時に怒りなどすればよけい危ないのです。

それよりも早く謝った方がいいでしょう。

それが一番安心で安全であるからです。

「自分たちが間違っていました。どうもすいませんでした。助けてください」と、心から反省してブログ代(または布施ですね。心を救われているのは事実なのですから)を快く払い、これからは神を信じてください。(無神論などさっさとやめてです。これからは無神論でいる人など罰が当たりますから)

そうやって心を入れ替える以外、この辺りで私に散々嫌がらせをした人たちの助かる道はないのです。

そのままの心では近いうちに百パーセント災いが起きるからです。(あまりに罰当たりなことをしすぎていますから)

だから変えるしかないのです。自分で自分の心をです。

いい加減、私を信じてもらえませんか?これだけ現象が現れているのです。(よい方、悪い方、含めてです)口だけではないのです。

その私を信じないで、では一体誰を信じるのですか?

災いが起きている人のいうことをいくら信じても災いしか起きないのです。奇跡が起きている人のいうことを信じない限り奇跡は起きてこないのです。

では、私を信じてください。その奇跡が起きているのは私しかいないからです。

ここまで奇跡が現れ、ここまで神が関わっているなど一体誰が知っていたでしょう。

無神論の人たちなど、誰も神のことも、ここまで奇跡が起きるということも知らなかったではないですか。

私がいたからこれだけ神のことも奇跡が起きるということも分かったのです。それだけでもえらい違いなのではないですか。

神や奇跡を知るのと知らないままでいるのとではです。

では、その神のこと、奇跡のことをこれだけ教えてくれた私に感謝し、その私を早く信じてください。

そうすれば、その神の奇跡はすぐにでも起きるようになるからです。

本当にもったいない(というか、危ないんですけどね。本当にそのままいてはです)話なのですが、マァ、いつまでも私を信じようとしない人たちの話はそれくらいにしておきまして、前にちょっと書きました、あの将棋の最年少プロ棋士の藤井四段の話をもう少し書いておきましょう。

あの連勝記録(また勝って二十六連勝ですか)はまさに神業であるからです。

神が関わっているのであれば私の出番であるからです。

しかし、あの藤井四段にはやはり(神ではありませんが)誰か憑いていますね。あれほどの記録を一人で出すというのはどう考えても無理があるからです。(十四歳という年といい、デビュー以来の破竹の連勝といい、人の業とはとても思えませんから)

高橋先生のご著書の中にも、あの有名な指揮者である小澤征爾氏にワグナーという名の音楽家が(憑いて)指導していると書かれてあります。

そのような人は時々いるようです。(指導霊は誰にでも憑いていますが〔守護霊同様にです〕過去に有名だった人が指導霊として憑いている人がたまにいるようです)

もちろん、それは過去世からの深い縁でそうなる場合もありますし(だからそういう人は、過去世でそのような有名な人と縁が深かったということです)その人に特別な使命がある場合は、特別な人が指導霊となって大きな仕事をさせるという場合もあり、その人が持って生まれた使命によって、その理由は異なりますが、何か特別な人が憑いて(指導霊として)その人を指導している場合は(そういう時は特別な能力がこの世に現れます。今回の藤井四段のようにです)その人に特別な使命があると思って差し支えないでしょう。

だから、特別な人が指導霊として憑いているのです。(実際、小澤征爾氏など世界的な指揮者となっていられるのですから、特別な使命があったといえるでしょう)

しかし、あの藤井四段にもし過去に有名であった将棋の棋士が憑いていた場合、それが誰かということを知ることはさほど難しいことではありません。(特別霊視とか何とかしなくてもです)

それは昔の棋譜など見れば分かると思うからです。

何十年も何百年も前の棋譜(きふ)って残っていますよね。(将棋会館かどっかにです)その棋譜を見れば分かるのです。

今の藤井四段と同じような棋風の人がその中に必ずいると思うからです。そういう人がもしいたのなら、その人が藤井四段を指導しているのです。

だから棋風が似てくるのです。その人があの世、天上界から藤井四段を指導しているからです。

しかし、もし、そのような人がいたのであれば、その人に心から感謝してこれからも変わらぬ努力で将棋の勉強を続けるなら、藤井四段はそれこそもっともっと強くなります。

藤井四段が、その方に気づいて、その方に感謝するのなら、その方がなお一層天上界より指導してくださるからです。(これが法を勉強することの有利さなのです。法を知るならこの世だけではなく、あの世からの指導も強く受けることが出来るのです。ということは、この世で努力しているだけでも普通の人の倍は強くなるということになります。あの世とこの世の両方の指導を同時に受けることが出来るからです)

特別藤井四段だけではありませんが、最近は若い頃から天才的な才能を発揮して名を馳せる若者がたくさん出てきました。

そのような人たちは法を勉強されてはどうでしょう。(単にやっていることの勉強だけではなくです)

そうすれば思わぬことが分かり、思わぬところから協力が得られるということも十分あるからです。(この世プラス天上界です。これは最強ですね。他の世界の人はやっていませんから。天上界から指導を受けることなどです。〔笑〕)

この法の大事さはそのようなところからでも分かるのです。

若い人が気づいてやってもらえませんか?

残念ではありますが、年を取っている人たちよりも若い人の方が心の高い人が多いからです。

心の高い人でなければ、この法の本当の価値に気づくことは出来ないからです。

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