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2017年11月

11月 24 2017

今の心が死後の世界を決める

昨日は祝日でしたが、ちょこちょこやっている会社がありました。みな怒っていましたね。昨日のようなブログを書けば当然そうなるのでしょう。(笑)

私に詫びをいれ布施するしか救われる道はないと書いているからです。それだけは死んでも嫌だという人たちばかりであるからです。(笑)

しかし、それ以外ないのです。散々、嫌がらせをしたところなどほっといてもいずれ災いは現れるでしょうし、それに怒って嫌がらせを重ねれば重ねるだけよけい災いは現れてきます。(そういう行いが自分たちに返ってきているのですから)

そのことが長引けば長引くだけ災いはたくさん現れてくるのです。(それが現実です。どこかの会社などもう悲惨の一言です。〔所々で怒っているようですが、前と比べれば静かなものです〕何が起きても頑としてきかず嫌がらせをし続けていたところが急に静かになったのです。一体、何が起きているんでしょうか?)

では、早く反省した方がいいということになります。それが一番、罰が当たらない方法であるからです。

ここに書いていることに従うなら奇跡が起き、逆らうなら災いが起きる、そういうブログを読んでいるのです。

それに従うも従わないも自由ですが、災いが起きて怒るくらいなら、災いが起きない方法もここにはちゃんと書いているのですから、そちらを行えばいいのです。

そうすれば怒る理由もなくなるからです。

とにかくそのような災いは生きている時だけにとどまりません。そのままでは死んでからも起きるのです。(死んだ後の地獄でも〔怒りの心のまま死ぬのであれば死後は当然地獄に堕ちますから〕そのようなことが起きるのです。死後の世界はこの世の心のままの世界に行かなくてはいけないからです。いつ自分が病気になるのかとヒヤヒヤしながら生活し、本当にその恐ろしい病気になり死ぬことになれば、死後の生活も同じようにいつ自分が病気になるのかとヒヤヒヤしながら〔地獄で〕生活し、本当にその病気になり苦しんで死んでまたしばらくすると生き返り、またヒヤヒヤしながら生活し、また恐ろしい病気になって死んで、また生き返るという同じ生活を繰り返すのです。そのような生活が自分が悪かったと反省できるまで続くのです。この世と違い地獄は楽しみがまったくありません。怒りと恐怖の生活がずっと続くのです。そういう場所で自分が悪かったと反省できるのでしょうか?)

どれだけ怒ろうが、泣こうが、わめこうが、いま悪いことを私のせいにして怒り続けている人たちは、そのような未来しか待っていないのです。(奇跡が起き続けている私がいうのですから間違いありません。適当なことをいう者に奇跡は起きませんから)

それでも考えを変えず、今の自分の考えを押し通すのですか?

結構ですよ、それは本人の自由であるからです。しかし、今の考えのまま死ぬのなら大人子供に関係なく、多くの人が地獄に堕ちなければいけません。(もちろん人数も関係ありませんから)

地獄は苦しい世界です。(本当に苦しく恐ろしい世界です)それでもよろしいのですか?(誰であろうと死は必ずやってくるのです。だから、どれだけ若かろうが、忙しかろうが、この世のこともあの世ことも両方考えて行動しないといけないのです。死はいつやってくるか分からないからです。その時に後悔しても遅いからです)

昨日、私は久しぶりに荒子川公園まで行ってきました。

冬が近くなるともうあの辺り川は水鳥で一杯です。魚のさの字もありません。(皆もぐってしまってです。それはそれで少々寂しいです。〔笑〕)

半年振りくらいに、その水鳥たちを見たのですが、みな私を知っているようで、羽をバタバタさしたり、ピーピー鳴いたりしているのがところどころにいました。

その中でもやはりカモメは愛想がいいです。

私の近くまで飛んできたり川面でバシャバシャやっているのがたくさんいました。(カモメも嬉しそうでしたが、今年はそのカモメが少ないですね。昨日の荒子川公園も少なかったし〔去年、一昨年などよりです〕堀川なんてほとんど来ていません。そのせいで今年は堀川はいまだに魚が跳ねたり、川面近くまでたくさん魚が〔ボラですけどね〕上がってきたりしています。カモメが少ないので魚たちが喜んでいるようです。〔笑〕)

私にはこういう愛ある現象がどこに行っても起きてきます。ということは、私は死後の世界もそういう愛ある世界(もちろん天上界です)に行くということになります。

この法に従うなら、こういう愛ある奇跡が、そこかしこで起こり、それは死後の世界まで続くのです。(ただし、そのような心で死ぬ間際までいないといけませんが。だから、心変わりせずに死ぬまで法を実践できれば確実にその人は天上界に行けるということです…これがなかなか難しいんですけどね。いま現在ではほとんどの人たちが失敗しているからです。〔高橋先生や園頭先生の弟子たちなどです〕)

その荒子川公園で、帰り際にスカーフのような布を頭からかぶった女性二人とすれ違いましたが(いかにもイスラム教という感じの女性たちです。日本人ではありませんでした)その二人も私のことは知っているようで、私が近くまで来ると一人の女性がゴホゴホと咳き込むようなことをしていました。

それで私が「間違った信仰は平気で人に嫌がらせするんだな」というと、その女性はビクッとしたようでした。

それを見て私は立て続けに「正しい教えは人に嫌がらせなどしないんだ。日本にはその本当の神の教えがあるのだから、それを自分の国に帰ったら国の人に伝えておいてな。その教えは俺のブログを読めば、誰だって分かるのだから」といっておきました。

その女性二人は私のいうことを無視して行ってしまいましたが、自分の国に帰れば(どこの国の人か知りませんが)私のことは、その国の人たちに伝わるでしょう。そのような女性たちが当然しゃべるからです。(まあ、いいことはいわないでしょうが。〔笑〕)

日本にはたくさんの外国人が来ていますが(観光ばかりじゃなく出稼ぎ労働者などもです。すでに日本は移民大国ですから。〔苦笑〕)そういう人たちが、私の噂をきき、自国に帰って私のことを話すなら、法は黙っていても他国に伝わっていくのです。

最初は悪い噂でもよいのです。(悪名は無名に勝りますから。〔笑〕)いずれ正しいことは分かるからです。

しかし、本当の神の教えを知ったのなら、いつまでも間違った考えでいてはいけないのです。本当の神の教えを知り、いつまでも間違った考えのままでいれば、その人は本当に罰が当たるからです。

それをいつまでも理解せず(認めず)本当の罰が当たっている人が現在の日本にはたくさんいるのですが、しかし、どこかで、その間違いに、本当の事実に、気づくことになるのです。

そうしなければ、その民族は滅ぼされることになるからです。(神に逆らい続けるのなら滅ぼされるのが当たり前だからです)

それが早いか遅いかだけなのですが(ちょっと遅すぎの感はありますが)それにいつ気づくのですか?

しかし、日本の人々が気づこうが気づくまいが、この教えは着々と世界に拡がりつつあります。

この教えが世界に拡まり、世界の人々が正しくこの教えを理解するなら世界中で奇跡が起きることになるのです。

小さな考えはいい加減捨てませんか?

日本の人々が、この教えを実践し、世界に拡げるなら、本当の神の世が、世界に現れることになるのです。

それが実現するか否かは、いま法を知っている人たちの心次第なのです。

いま現在、法を知っている人たちのやる気次第で、この本当の神の教えはいち早く世界に拡がりもするし、なかなか拡がらないということにもなるのです。

この法が拡がれば拡がるだけ自分も周りも幸せになります。

今だけではなく、死後の世界まで救われていく、この教えを世界に拡げませんか?

それに協力するのなら、これほど徳となる行いもないからです。

(徳となる行いをたくさんするなら当然その人は死後、天上界に行きます。ただ、本当の神の教えが拡がれば間違ったことをすれば罰が当たります。それが怖いというのなら、そういう人は協力してくれなくて結構です。〔笑〕いいことも悪いこともして適当に生きられればそれでいいという人もいるからです。〔もちろんそういう人は死後の世界は地獄でしょう〕しかし、それでは向上していきません。自分の心の向上を目指したいのであれば協力すべきでしょう。〔法を実践するくらい心が向上することもないからです〕そうすれば自分の知らなかった本当の幸せも体験できることになるからです)

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11月 23 2017

行いの違い

しかし、どういったら分かるのでしょう。(本当に怒っている連中が多いもので)

自分たちが私のブログを見ているにもかかわらず、感謝一つせず嫌がらせなどしているから災いが起きているのであって、ブログを見ていることに感謝して布施でもしてくれるなら、そんな災いなど一発で止まるのです。(それどころか奇跡まで起きだします)

どれだけ怒ろうが嫌がらせしようが、自分たちが(筋の通った)当たり前のことをしないから、それだけ災いが起きているだけであり、その起きている災いは私のせいではないのです。

自分たちの行いが間違っているから起きているだけなのです。

なんで、こんな簡単な話がいつまでたっても理解できないのでしょう。ほんと不思議です。

昨日は(また)ウナッシーさんから布施をいただきました。その毎月布施をしてもらっているウナッシーさんはドンドン奇跡が起きています。

私のブログを見ているウナッシーさんには、次々に奇跡が起きて、同じ私のブログを見ている皆さん方(特にこの辺りの人たち)には次々に災いが起きている。

不思議な話です。同じことをしているのに違うことが起きているからです。同じことをしているのなら同じことが起きないとおかしいからです。

しかし、同じことをしているのに、一方には奇跡が起き、もう一方には災いしか起きないのです。

なぜでしょう。何でそうなるのですか?同じブログを読んでいて、なんで一方には奇跡が起き、もう一方には災いしか起きないのでしょうか?

ねっ、簡単な話でしょう。それはしている行いが違うからです。

行いが違うから起きてくることが違うのです。

奇跡が起きている人は私に布施をして、災いが起きている人たちは私に嫌がらせをしているのです。

その布施と嫌がらせの違い、その行いの違いだけで起きてくることが大きく違ってくるのです。

少し比較しただけでも簡単に分かることではないですか。それなのに何でそれを(自分たちの行いのせいで起きていることを)私のせいにして怒っているんですか?

災いが起きてくるのが嫌なら、自分たちの行いを変えればすむだけの話ではないですか。

それをしないから、いつまでも災いが起き続けているのです。

災いが起きるのが嫌なら、嫌がらせをやめて布施すればいいでしょう。そうすれば奇跡が起きてくるからです。

その通りのことが起きている人が実際にいるからです。(しかし、貴重なブログですね。このブログを読み、私に布施すると奇跡が起きるというのですから。これだけ貴重なブログもありません。〔何せ、本当に奇跡が起きるんですから〕少し前まで布施しなくても奇跡が起きていたくらいですから。〔笑〕)

私に嫌がらせをしている人たちなど、そういう悪いことをし続けているから自分たちに悪いことが起き続けているだけであり、私やウナッシーさんはよいことをし続けているから奇跡が起き続けているだけなのです。

その行いの違いだけなのです。

奇跡が起きてほしいのなら、よいことをしなければ起きてきません。

では(悪いことなどやめて)よいことをすればいいではないですか。そうすれば奇跡は現れてくるからです。(また悪いことをやめない限り災いは止まりませんから)

私やウナッシーさんはちゃんと法を実践しています。だから、奇跡が起きているのです。法を実践するくらいのよいことはないからです。

私など、その法をドンドン(このブログや辻説法で)他の人々にも発信しているのです。そうするとドンドン奇跡が現れてきます。よい行いをより多くの人に知らせているからです。それだけ神が喜ばれる行いもないからです。

だから、神の奇跡が次々に現れるのです。

その行いの違いなだけなのです。

私に嫌がらせをしている人たちは、私に嫌がらせをしているだけではなく、普段から、人の悪口はいう、自分が気に食わなければ誰彼かまわず嫌がらせはする、嘘はつく、人は騙すと、犯罪にならなければそれでよいと(まあ、中には犯罪を犯している人もいるかもしれませんけどね。ばれなければよいとです)そのような悪いことを(心の世界から観ればです。それは自分の良心にきいてみても分かるはずです)平気でしているのです。

これでは悪いことは起きてきます。自分の普段の行いが悪いからです。

その自分の普段からの(悪い)行いプラス私に(心が救われた人に)対する嫌がらせです。

これでは起きるでしょうね。災いもです。(それだけ悪いことを重ねればです)

その行いの違いなだけなのです。起きてくることの違いはです。(そのような普段の行いからして私たち法を実践している者は違いますから。法を実践している者は人の悪口はいわないし〔批判はしますよ。悪口と批判は違いますから〕嫌がらせもしません。嘘もつきませんし、人を騙すこともありません。そういうことが悪いことだと知っているからです。〔ただし、方便として使う時はあります〕そうして仮に悪いことをした時でも、ちゃんとそれを反省します。反省すればその罪は消えるということも知っているからです。そういうことを普段から気をつけて心をきれいにしているから奇跡もまた起きやすいのです。心がきれいであれば奇跡は起きやすいですし、心が汚れているなら災いは起きやすいのです。皆さん方の普段からの行いはどうなのでしょうか?)

では、責任転嫁している暇があるなら、そのような(普段からの)行いを変えてはどうですか?

そうすれば起きてくることは変わってくるからです。

行いの違いで起きてくることは大きく変わってきます。

普段からの行いがいかに大事か、いい加減理解されてはどうでしょう。それを理解しない限り(普段からの行いを変えない限り)不幸は止まらないからです。

(しかし、もったいない話ですね。このブログに従うなら奇跡が起きるのにです。〔実際に起きている人がいますし〕それなのに逆らっている人たちばかりでは災いも起きてきます。奇跡も起きれば災いも起きる、本当の神の教えが書かれたブログはある意味、恐ろしいですね。奇跡も災いも本当に起きてしまうからです)

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11月 22 2017

法が基準

昨日は久しぶりに名古屋港に行ってきたんですが、その行く時の話です。

私が歩いていると何人かの中学生とすれ違ったのですが、まだちょっかいをかけてくる中学生がいるのですから、本当に呆れます。これだけ災いが起きだしたことは知っているはずなのにです。(この辺りの中学生はこのブログの愛読者ばかりですから。〔苦笑〕本当に感謝がありません。これでは罰も当たるはずです)

そういうちょっかいをかけてきた中学生がどうなるのか、それは知りませんが、それとは別にです。

最近の中学生はあれなんですね。カップルで平気で帰ってきて(二組も三組もそんな連中がいましたから)手までつないでいるではないですか。

「ハァ」と思いましたね。

ああいうことを平気でやるんですね。最近の中学生はです。(私が中学生の頃など女の子と一緒に歩くだけでも恥ずかしかったんですが…そういう発想すらないのでしょうか?今の中学生はです。純情もへったくれもありませんね)

これ問題なんじゃないんですか?まだ中学生のくせに同じ中学の同級生か何か知りませんが、学生服やセーラー服を着ているのに手などつないで帰って来るのですから。

少なくともまだ中学生くらいでカップルで帰って来るなといいたいです。まして手などつなぐなど論外です。異性にうつつを抜かしている暇があるならもっと勉強しろといいたいですね。

中学や高校くらいまでは、まだ勉強や運動を一生懸命やる年頃であるからです。

最近は、こういうことをいうと古いだの時代が違うだの(たしかにもう時代は違っていますが。〔苦笑〕)いう人も多いのですが、古い、新しいではなく、正しいか、正しくないか、なのです。

年相応というものがあります。中学生くらいならまだ友達くらいにしておけばいいのです。恋愛などその後いくらでも出来るからです。

しかし、この連中だけではなく最近の風紀の乱れはひどいものです。このようなこともまた災いが起きる原因ともなっているのですが、では、正しい基準とは何か、ということになりますが、それはもちろん法(正法神理)が基準であるということです。(人の意見などきいていたら、いろんなことをいう人がいて何が正しいのか分からないからです。しかし、そういう人たちは何の奇跡も起きていません。奇跡が起きていないということは、その人たちのいっていることはどこまで正しいのか分からないということです。それにそういう人たちのいうことをきいているからこれだけ災いが起きているのだし)

その法を説いて、次々に奇跡を起されていた園頭先生がちゃんと性の基準は書いていられます。(善の四要素)それを基準とすればいいのです。そうすれば間違いないからです。

性をなすべき時は、目的、人、時、処が正しければ、それは正しい行いなのであり、性をなすべき正しい相手である夫と妻とが、正しい目的を持って、なすべき時と場所で行うのは善で正しいことですが、なすべきでない相手と、なすべきでない時に、なすべきでない場所で行うことは悪で間違っているということです。

これが基準です。

そうであるなら、欲望だけで遊び半分で性行為を行うのはもちろん間違いですが、夫婦でもないのに愛しているだの何だのいって(これも昨日の話しではありませんが、心の低い人たちは感情が先に来るのですぐに好きだの何だのいうのです。しかし、それはどこまで本気か分からないのです)性行為を行うのも間違いなのであり、夫婦の性行為だけが神に認められた正当な(神聖な)行為であるということです。

ですから、いかにいろいろな理由をつけ男が体を求めてきても、女性は結婚するまでは純潔を守った方が(それが正しい行いなのですから)幸せになれるということになりますし、それは男も同じということになりますが、ただ、男と女では体のつくりが違います。

そうして目的と使命も違います。

だから、性行為の場合は女と違い、男は多少は許されるという部分はあります。(男はよくても女はダメというものもあれば、女はよくても男はダメというものがあります。それぞれの使命の違いにより、ある程度許されることと許されないことは違うのです)が、理想をいうなら男も女も純潔のまま結婚し、一生を添(そ)い遂(と)げるということが正しいことなのです。

だから、それを目指さないといけないのであり、今はもう婚前交渉が当たり前になり、できちゃった結婚も普通にしていますが、しかし、そういうことは正しいことではありません。(先ほどの法の基準を知ればそれは分かります)

間違ったことをしているのであれば、その反動はどこかで現れます。間違ったことを平気でいくつもして、後で泣かなければいけないことになるのは自分なのです。(当然、その間違いは自分に返ってきますから)

だからこそ、正しい行いをしておいた方がいいのです。

正しい行いをしているのであれば、その正しい行いは後で奇跡となって自分に返って来るからです。

今は、男女平等を過度にいわれ、何でも男も女も同じことをするのが正しいかのようにいわれていますが、それはまったく違います。(だから、男女平等をいう人たちに何の奇跡も起きないのです。男女平等の解釈が違っているからです)

男と女は体も違えば思想も違います。だから当然、生まれてきた目的も使命も違っています。男は男としていかに男らしく生きられるか、女は女としていかに女らしく生きられるか、それを極めた方がよほど幸せになれるのです。

男女それぞれに、それぞれにしか出来ない使命、役割があるからです。

そのような男と女の使命と役割をしっかり果たせるようになることが、男は男としての、そうして女は女としての本当の幸せであるのです。

だから、男女平等などとよく分からないことに力を注ぐより、男はより男らしく、女はより女らしく生きる方に力を注ぐことです。

そうすれば、男女それぞれに、それぞれにあった奇跡が現れてくるからです。(だいたい、男女平等などとことさらいわなくても、そんなことは当たり前のことですよね。何でそればかりいっているのか意味が分かりませんし、男と女に同じことをさせようとすること自体、無理があるのではないでしょうか。男女は体のつくりも違えば性格も違うのに同じことを同じように出来るわけがないからです。それよりも、それぞれの特性を活かした方がお互い生きるしいいに決まっているではないですか。いま男女平等をことさらいっている人たちなどきっとバカなんでしょう)

世にはいろいろな意見があり、いろいろやっている人たちがいますが、しかし、これだけ多くの奇跡が起きている教えは他にありません。

では、法を信じたらどうでしょう。

その法を信じて、法に合わせれば合わせるだけ奇跡が起きて幸せになり、法から外れれば外れるだけ災いが起きて不幸になります。

だから、何でも自由だといって好きかってにやるのはなく、正しいことをしないといけないのです。

そうしないともう次々に災いが現れる時代となっているからです。

どれだけ災いを人のせいにしたところで、自分に災いが現れれば自分が不幸になるのです。

これまでのような考え方を反省し、もう少しこの法を真剣に勉強し実践してみませんか。

日本の多くの人たちが法を実践するなら、いま現在、日本に起きている多くの災いも段々減っていくからです。

追伸…昨日の話ですが、その後、名古屋港に行って岸壁から声をかけていたら、底からたくさんの小魚たちが海面近くまで上がってきて泳いでいました。(何匹か跳ねているのもいましたが)

いわしのようでしたが、あれいわしなんですかね。

海の魚はよく分かりませんが(といっても川の魚もよく分かりませんが。ボラくらいしかです。〔笑〕)この前、名古屋港に行った時もそのような小魚たちが上がってきていましたが、本当にかわいいものです。

海に向かって声をかけているとたくさんの魚たちが出てくるというのですから。

ずいぶん静かになってしまいましたが、大丈夫でしょうか?(そういうところが多いということです。特にどこかの会社など極端に静かになってしまいました。ところどことで怒ってはいるようですが…)

モタモタしていればしているだけ不幸は続きます。

心を入れかえ、この教えを勉強するなら、このような愛ある奇跡が毎日のように起きるのです。

毎日、怒りと不安な心で過ごすのと、毎日、愛と安らぎの心で過ごすのと、一体どちらがいいのでしょうか?

くだらない我さえ捨てれば、愛と安らぎの心で過ごすことが出来るのです。

では、捨てませんか。そんなくだらない我などです。

神は、そのような人たちが間違いに気づくのを辛抱強く待っていられます。

その間違いに気づいた人から救われていくのです。

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11月 21 2017

心の高い人と低い人の違い

朝から大騒ぎですね。どこかの会社などです。朝一からジャンジャン電話がかかってきて勝手に騒いでいます。

もう、こちらを相手にしている場合ではないようです。

早く気づいてほしいものです。自分たちの悪にです。自分たちの悪に気づいて心を心を入れかえない限り、その災いは止まらないからです。

しかし、昨日は予想どおりいましたね。怒ってガンガンやってくる大工がです。(苦笑)

そういうところに「俺のブログを読んでいるんだろう。なら空(から)元気だしても仕方ないぞ」というと、とたんに静かになります。どうも図星であったようです。(苦笑)

大工の皆さんにまで私のブログは大人気のようですが、そんなことを(このブログを見て面白くないので嫌がらせ)していればよけい災いが現れます。こんな時によくこんなバカなことをしているなと少々呆れますが、状況がまるで分からない心の低い人たちはどこにでもいます。

このような状況になると、そのような人たちが哀れで仕方ありません。これからこのような人たちは、どれだけ不幸になるのか分からないからです。(正法の世に心の低い人たちがいてはドンドン不幸になります。そのような人たちは正しいやり方がまだ分からないからです)

大工以外でも怒っている人はいました。昨日のようなあんなブログを書けばそれはそうなんでしょうが、しかし、ずいぶんそういう人も減りました。(前と比べるとです)

では、それ以外の人は正しい判断をしてもらいたいものです。そういう心の低い人たちにいつまでも合わせていては不幸にしかならないからです。

そうなるに決まっています。これだけ災いが起きているのに、まだ、私に嫌がらせをして来るのです。

それでは子供と同じです。ただ感情にまかせて動いているだけであるからです。そういう人は感情が先に来て現実が全然観えていないのです。

これだけのことが起きだしたのです。もう現実を正しく観て感情的になるのではなく、しっかり知性と理性を働かせて正しい判断をしていかないといけないのです。

そうしないと必ず不幸になるからです。(正法の世となれば判断を間違えれば災いが現れます。災いが現れているようでは不幸にしかならないのです)

心の低い人たちはまだ知性も理性もしっかり発達していないのです。だから、そういうことをすればまた災いが起きると分かっていても、その災いが起きることをあえてしてしまうのです。

知性や理性より先に感情で動いてしまうからです。

しかし、知性や理性より先に感情が来ているようでは偏った判断しか出来ないのであって、だから、そのような人たちは、そんなことすればまた災いが起きると分かっているのに、また同じことをしてしまうのです。

心の低い人たちはそれ以外の考えはないからです。相手が腹の立つことをしてきたから、こちらも相手が腹の立つことをやり返す、それだけだからです。

心の低い人たちは、自分たちがこういうことをしていたからこうなったとか、これをしたらこうなるとか、そういうことは一切考えないのです。そこまで考えが回らないからです。

それよりもこんなことをやられているから、やり返すのが当たり前としか考えず、後のことは考えない、それが心の低い人の考え方なのです。

そういう(浅い)考えの人のやり方をまねしていて、それでよいことが起きると思いますか?

起きるわけがないのです。だから私は心の低い人に合わせていると不幸になるといっているのです。

このような人たちは、先の不幸など考えもしないからです。いま腹が立っていることに対しやり返すことが出来ればそれで満足であるからです。

だから、自分でしっかり考えないといけないといっているのです。

では、そんなことを続けていれば不幸になると分かる人は、どうしたら不幸にならないですむのかということを、しっかり自分で考えればいいのです。

そういう考えをもっている人の方が心が高いからです。

心が低い人はよくでしゃばって物事を先に進めてしまうのです。そういう人は感情が先に来るため、あまり深く物事を考えずぱっぱと何でも決めてしまうからです。

だから、どこでもそのような人たちがリーダーシップを取って進めてしまうのですが、それが間違いの元なのです。

今この辺りで起きている災いなどもそうでしょう。心の低い人が感情的になって悪いことをみな私のせいにして私一人に罪をかぶせ、嫌がらせを始めた。それが間違いの元であり、そんなことをしたばかりに災いがすさまじい広がり方をしているのです。

こういうことなどその典型です。これまで起きていないようなことが起きだしたら、とたんに心の低い者たちが騒ぎ出して間違ったことをしてしまった。

その結果、取り返しのつかないようなことになっている。というのが現状であり、もうこれ以上、そういう心の低い人たちの意見をきいていたら、不幸にしかならないというところまできているのに、それでもまだ心の低い人たちは同じ間違いを繰り返しているのです。

こういう状況になっているにもかかわらず、それでも心の高い人たちは(今のままでは状況は変わらないと分かる人たちは)心の低い人たちの行いに合わせるのでしょうか?(まだ私一人を悪者にして嫌がらせを続けるのでしょうか?)

それでは状況は悪くなる一方なのです。

しかし、心の低い者ではそれさえも分からないのです。先のことなど考えもしないからです。ことここにいたっては、先の分かる人が自分一人でも正しいことを行うしかないのです。

心の高い人たちが立ち上がり、正しい行いを見せない限りは、心の低い人たちは自分たちが間違っていると分からないからです。

また、明日、明後日は荒れた天気になるということですが、東京など昨日は(一昨日でしたっけ?)この時期としては三十六年ぶりの寒さになったとか、いつものことですが、相変わらずの極端な天気です。

こういうことが起きているのも、正しい行いをする人が少ないからでしょう。

このように全国各地で続いている激しい天変地変も、数々の異常現象も、そうして、この辺りで起きているたくさんの災いも、すべて、間違った行いをしている人が多いため起されていることであるのです。

しかし、既成宗教も、新興宗教も、この現状を救うことは出来ないのです。そのような教えに何の力もないということはすでに分かっていることであるからです。

しかし、現状の宗教に何の力もないと何でそれが分かったのでしょうか?それまでは何が起きても宗教の力を信じる人は信じていたはずであるのにです。

それは本物の神の教えが出現したからです。

だから多くの人はそれが分かったのです。現状の宗教に何の力もないとです。

本物の神の教えは次々に神の奇跡が現れてくるのです。

それに対し、偽の教えは何の奇跡も現れてこないからです。

その教えが出現しなければ、既成、新興の宗教の力のなさが分かることもなかったし、また、このような数々起きる災いが、人の心で起されているということも分かることはなかったのです。

しかし、その本物の神の教えが現れたがため、多くの人が正しい教えが分かり、多くの天罰(そのような多くの災い)が昔からくだっていたのであるということも分かったのです。

では、その正しい教えに頼るしかないのではないですか?現状を打破するためにはです。

この正しい教えを実践する以外で現状をよくする方法はないのであって、それが分かるのはやはり心の高い人たちだけであるのです。

それが分かる人たちから始めてもらえませんか?

そういう人たちが(心の高い人たちが)動きださない限り、いま日本中で起きている異常現象は止まることはないからです。

(とにかく、同じやり方をしていては悪いことは止まりませんよ。それでもよいのですか?特にこの辺りの人たちなどです。悪いことが起きてからでは遅いのです。その前に気づくことも心の高い人なら出来るはずですが……)

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11月 20 2017

確実に現れる奇跡と災い

前回、私が近くを通るとガンガン音を立てて嫌がらせをしてくる大工たちのことを書いたんですが、補足して書いておきますと、その大工連中でも何もしてこないところには何も起きていないようなのです。

たまに私が歩いていても、何もしてこないところもあって(本当にたまにですけどね。めったにそういう大工はいませんが)そういうところはいつまでたっても態度が変わらないからです。(まあ、静かにしているんだったら態度も何も分からないだろうと思われるかもしれませんが、雰囲気で分かります。何か起きたところは雰囲気も変わりますから)

ところが、そういう(静かな)大工たちでも嫌がらせを我慢しているところもあるのです。

私も何かしそうなところには(そういうところは、もう遠くからガチャガチャ音を立て始めますから)歩きながらいろいろいうので(「何かしたら、百パーセント悪いことが起きるぞ」とか「俺に何かして何も起きなかったところはないぞ」とかです)すると中には静かにしているところもあるのです。(しかし、ほとんどの大工は私のいうことを無視してやってきます。ほんと愚かです。私は大工たちのためにいっているのにです)

そういう嫌がらせを我慢するところもあるにはあるんですが、そういうところは一度や二度、私が通っても何とか我慢するんですが、それ以上、私が近くを歩いているともう我慢ならなくなるのでしょう。途中からガンガンやり出すところもあるのです。

そういうところは「なんだよ、この前まで何もしていなかったのに」と思うんですが、バカな噂しか信じていない連中なんだから仕方がないとも思い「じゃあ何が起きても知らないからな」とことわって、そのまま私は行ってしまうんですが、次にその場所を通る時は必ず静かになっています。

そんなことをしたとたん、その大工連中に何か起きるようで、それで一変に雰囲気が変わり静かになるようなのです。

嘘のような話ですが、これは本当のことなのです。(体験談です。だいたい、このブログに嘘など書けませんし)

とにかく、この辺りで家をつくっている大工連中が、それまでは何も起きていなかったのに、私に嫌がらせをしたとたん何か起きるのは事実のようで、その後、私に同じような嫌がらせをしてきた大工たちはいません。

ただ、たまに少し間をおいてから急にまた私が通ると怒りだす大工連中がいます。

そういうところは、その後もまた何か起きたのでしょう。だから怒りだしたのでしょうが、私に嫌がらせをしたばかりに何か起きたからと、それを私のせいにして私の悪口ばかりいっていれば、その後もまた悪いことは起きるのです。

その悪いことが起きたのは私のせいではなく、悪口をいっている自分(大工)たちのせいであるからです。

だから、そういうことが起きた大工さんたちは、私に嫌がらせをしたのが悪かったと、私を悪く思っているのが悪かったと反省し、それだけ現れる神の力を畏れないといけないのです。

まあ、そういう人たちは普段からの(悪い)クセで、神など二の次にして(自分たちの嫌がらせなどの悪い行いは棚に上げ)悪いことが起きるとすぐにそれを責任転嫁して人の悪口などいってしまうんでしょうが、そういう悪いところを直すため、その現象は現れているのです。

そうであるなら、そういう現象が現れたのなら人のせいにするのではなく、自分が悪かったとしっかり反省しないといけないのです。

それが出来れば、その後、そのような人たちには必ず奇跡が起きるからです。

それが出来るか否かが、その人たちの心の修行であるからです。

とりあえず、大工連中だけをピックアップして書いてみましたが、これに加えて昨日書いたあっちこっちの会社の連中や学生連中、それにあちこちの家の連中から運転手連中まで(こんな感じだから運転手連中はすごいと思いますよ。メチャメチャ起きているんじゃないですか。ずいぶんブシュブシュやられましたから)私に嫌がらせをして、災いが起きている人が一体どれくらいいるのか想像できないくらいなのです。

それくらい多くの人たちが、私に嫌がらせをしてきたからです。

大工連中を見ても分かりますが、私に嫌がらせをしてきた人(ところ)にはまず災いが起きるのです。(すぐに起きない人もいますが、そういう人は自分ばかりでなく身内にそれが現れたり、すごく運の悪いことが起きたり、何か不幸なことは必ず起きるのです)

まして何度も私に嫌がらせをしているところなど(この近所にはたくさんありますけどね。そういう会社や家など)すべて何か不幸が起きているはずなのです。

それだけの悪行もないからです。

私に対する(多くの人の心を救っている者に対する)嫌がらせなどの悪いことは、それだけ大きな罪になるからです。

だから、それだけの災いが起きるのです。それだけ大きな罪を自分たちでつくっているからです。(自分たちがまったく自覚がないだけでです)

そういうことを無神論の人たちは知らないだけなのです。(いつまでも理解しないだけという方が正確ですが)

この世で神のことを教え心を救うことほどの徳行はないのです。

それにもかかわらず、多くの人たちは、その行いを軽く見て認めようとしません。(自分たちは心が救われているにもかかわらずです)それでいて変わったことが起きると、それには反応して怒ったり嫌がらせしたりだけはしてくるのです。

こういう態度を取り続けている人がほとんどなのです。これではいいことが起きるわけがないのです。そういう態度が根本的に間違っているからです。

もう何度もそのような話は書いていますので、これ以上は書きませんが、その起きてくる現象の違いは明らかなのです。

私に悪いことをしてくる人には必ず災いが起き、私によいことをしてくる人には必ず奇跡が起きるのです。

そうして、その肝心の私には次々に奇跡が起きているのです。

それだけは確かなのです。

これだけたくさんの例が現れているのですが、それでもまだ態度を変えずに今のような(罰当たりな)態度を取り続けるのですか?

それは本人の自由ですが、しかし、態度を変えない限り、自分たちに起きてくることも変わらないのです。

自分を救うのは自分しかいません。周りはどうあれ自分一人でも態度を変えませんか?

その態度を変えた人から救われていくからです。

(どこかの会社が異様な静けさなんですが……終わりましたね)

追伸…何度もいいますが、これだけの災いが現れているのです。この法に逆らう人たちにです。

では、この法に従う人たちがたくさん出てくれば、たくさんの奇跡が現れてくるということになります。奇跡も災いも神の力には変わりがないからです。

後は多くの人たちの行いを変えるだけなのです。いま法に逆らっている人たちが、法に従うなら多くの奇跡が現れてきます。

自分を救うということでも、多くの人を救うということでも、このブログを見ている人、一人、一人の行いが大きな意味をなしてくるのです。

少しでいいので法に従ってもらえませんか。

そうすれば少しずつでも奇跡は現れてくるからです。

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