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1月 13 2019

愛も慈悲もなし、無為無策(むいむさく)

この辺りの皆さん、大変なことが分かりました。このままでは滅ぶそうです。早く心を入れ替えてください。

そうしないと本当に滅びます。

などと書いても、誰も心を入れ替えないんでしょうね。この辺りの人たちはです。

しかし、怒ってどうにかなるような状況ではないのです。

あまり感情的に怒っているとかえって危ないですよ。(ほんと、そういうような人ばかりですから)そういう人たちにもういつ危ない病気が発症するか分からないからです。

この辺りは、次々に、そのような危ない病気が発症しているようであるからです。

これほどの状況であるにもかかわらず(前回も書きましたが)年寄りは皆と一緒になって怒っているだけだし、坊さん連中は全然人を救う気がなさそうです。

本来なら、このような(神の業が次々に現れる)状況になった時、年寄りや坊さんがいわないといけない「もう神に逆らわない方がいい」とか「こうなったら神の意志に従おう」とか「こういうことが起きだしたのなら神を恐れないといけない」とか、そういう的確なアドバイスをする人がいません。

では、誰もそのような態度は取らないでしょうね。私が何をいってもこの辺りの人たちは誰一人きかないからです。

このような状況で(人に対する)愛もなければ慈悲もない、無為無策、これではドンドン人はいなくなっていくでしょう。

これだけ神の業が現れているというのに、まったく無反省で、自分さえよければそれでいいという、無慈悲な態度を取り続けている人ばかりであるからです。

それでは恐ろしい現象は止まりません。そのような態度では神の怒りは増すばかりであるからです。(それだけ自分勝手な人ばかりであるなら、それはそうでしょう)

しかし、せめて坊さんなどが、このような状況を打開するため、例えば、何日もお経を上げ続けるとか、滝行をするとか、護摩行でもいいでしょう。

多くの人のためにと、そのようなことを愛や慈悲の心から行うなら(そのような行い自体は正しいものではありませんが)神はその愛と慈悲の心を喜ばれ、恐ろしい現象も少しは防ぐことが出来るのでしょうが、そういうことをする坊さんはいません。(いないでしょうね。そういう坊さんたちがいれば、少しはそこに奇跡も起きてくるからです)

それは坊さんだけではありません。年寄りもそうだし、親が子のことを思ったり、子が親や家族のことを思う愛の心があるなら、それなりに奇跡も起きるのですが、そのような奇跡が誰も起きていない。

そうであるなら、そのような人のためにと愛や慈悲の行為を行う人がこの辺りにはいないのでしょう。

だから奇跡も起きないし、災いがドンドン増えるのです。何度もいいますが無慈悲な人たちばかりであるからです。

誰も、愛もなければ慈悲もない、そうして無為無策であり、特に最近はやけくそのような態度を取る人も多いのですが(もうどうにもならないので、感情的に怒っているだけ)しかし、それでは救われないのです。

こういう時こそ、愛と慈悲の心を出して、周りのことまで考えていかないと救われる道はついてこないのです。

まだ分かりませんか?

なぜ、私にだけは奇跡が起き続けているのかということがです。

不思議ではありませんか?

このような(凄まじい)状況になっても、私には、いまだに歩いていると鳥は騒いで飛んでくる、魚も同じように寄ってくる、動物園など行けば、動物たちがみな私にかまってくる、なんでこんな愛ある現象が私の周りにだけは起き続けているのですか?

皆さん方と違ってです。

この辺りの私以外の人たちの周りには、愛のない災いばかりが起き続け、私の周りには、逆に愛ある現象ばかりが起き続けている。

この違いはなんなのでしょう。何でこうも起きてくることに差があるのですか?

それどころか、まったくま逆のことが起き続けています。その違いはどこからくるのでしょうか?

それが先ほどからいっている「心と行いの違い」なのです。

私は(皆さん方にどう思われようが)人を救うことに一生懸命なのです。(そうして先々のことも考えています)

そのために(人を救うために)このブログも書いて、祈りもし、辻説法もしているのです。

私のこのような行いはすべて人を救うためであり、自分のためではありません。

そうして、していることも正しいのです。(皆さん方はそれを認めませんが)

それが事実であるから(そのような愛と慈悲の心から発した正しい行いであるから)愛ある奇跡が私の周りには次々に起きてくるのです。

善因善果、悪因悪果、因果応報、その通りの法則が働いているからです。

しかし、この辺りの他の皆さん方の態度はどうでしょう。

もう先ほどから書いている通り、人のことなど知らない、自分さえよければいい、悪いことは責任転嫁、気に食わなければ嫌がらせと、愛も慈悲もない、間違った態度の人たちばかりです。

そのような心と行いの違いが、起きる現象の違いとなって現れているのです。

何度もいいますが、それだけなのです。

それ以上でも、それ以下でもありません。その心と行いの違いが、起きてくる現象の違いとなって現れているのです。

どれだけ多くの人が私のことを否定しようと、周りに起きてくる現象の違いは、その一点(心と行いの違い)なのであり、私のいっていることが正しいから、書いた通りのことが起きているのです。

多くの人が私を誤解しているようですが(特にこの辺りの人たちは)私に人を病気にしようという心が少しでもあるなら、もうとっくに私は病気になっています。

しかし、私には奇跡しか起きていないのです。このことが、私には人を病気にする心などないという何よりの証拠なのです。

私が人を病気しているのではなく、この辺りの人たちの心と行いが悪いため、この辺りは多くの人が病気になっているというのが正しいのであり、それをこの辺りの人たちがいつまでたっても認めず、私に一切の責任を押し付けているのが、この辺りの災いが止まらないすべての原因なのであり、だから、その正しい原因を認めて反省しない限り、この辺りで起きている災いは止まらないのであり、そのようなことをしっかり考え、そうして愛と慈悲の心を出さないと、もうこの辺りの人たちは救われないのです。

愛も慈悲もなく、無為無策では救われようがないからです。

少しは私を見習ったらどうでしょう。(現実逃避して責任転嫁ばかりしているのではなくです)そのような(勇気のある)人から救われていくのです。

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1月 10 2019

解決への智慧

日本海側はずいぶんな大雪になっているようですね。

北海道もそうですが(これは想定内)まだまだ異常気象が続いているようですが、こちらはこちらでまた一段と激しい現象が現れてきたようです。

今年はダブルパンチに(大きな現象と個人に現れる現象がダブルで激しく)ならないよう気をつけてください。

あまりに心がけが悪い人が多いとそうなるからです。

しかし、冗談ぬきで本当に大丈夫ですか。この辺りの人たちはです。(汗)

昨日も夕方だというのに(五~六時)もう道がどこもガラガラでメチャクチャすいているのです。

「普通の日の夕方で何でこんなにすいているんだ?」とマジで気味が悪かったです。(こんなことテレビの中だけではないのですね。本当に起きるんですね。世にも奇妙な物語みたいなことがです)

一号線などの広い道路はそこそこ車も走っていますが(それでも通常よりは全然少ないと思いますが)一本、二本、内側の道に入るともうどこもガラガラで、昨日の夕方でもあまりに道路を走っている車が少ないので、本当に(いまだ)正月のようでした。

歩いている人も変な顔をして歩いている人が多かったですね。(もちろん、顔を引きつらせて怒っている人も多いんですが)泣きそうな顔をして歩いている爺ちゃんが、それでもこちらに嫌がらせをして来るというのですから、腹が立つというより哀れで仕方なかったです。

この年になっても、こんなことしか出来ないのかと思うとです。

こういう状況になっても(そうしてもう泣き出しそうな表情にもかかわらず)それでもまだ責任転嫁して子供のような態度しか取らない。

こういう人を哀れな人といわずして、一体どういう人を哀れな人というのでしょう。

この人は、長い間この世にいて(もう八十くらいの人でしたから)こういう状況になった時に、どういう態度を取ったらいいのか、全然理解していないのです。

では、この人は長年この世にいた意味がないということになります。この状況で子供と同じ態度しか取れないからです。

こういう(皆が困っている)状況になった時こそ、年よりは長年の経験を活かし、正しい(このような状況を終わらせることが可能な)態度を取るべきなのに、そういう態度をまるで取れない、そういう態度がどういう態度なのかまるで分からない、情けないとしかいいようがありません。

いってはいけませんが、こういう年寄りはこの世にいる意味がないでしょう。

きつい言い方ですが、こういう時に年寄りの智慧を出さないで、では、一体いつ出すのでしょう。

そのような年寄りの智慧がないというのであれば、いる意味はないのではないですか。こういうこれまで起きたことがないようなことが起きた時に、一番冷静で正しい態度が出来るのが、人生経験が長い年寄りであるはずだからです。

それが出来ないというのであれば、年寄りのいる意味はありません。

このような時こそ、年寄りが先頭に立って正しい行い(このようなことが解決する行い)をしないといけないからです。

またそれは寺の坊さんなども同じでしょう。坊さんは神、仏を通して、様々なことを勉強しているはずです。(人々を救う方法をです。神、仏は多くの人を救っているからです)

では、こういう時こそ、その力を発揮していなくなって行こうとしている人々を救うのが、本当の坊さんの役目なのではないでしょうか。

お経ばかり上げているのではなくです。

昨日などベンツに乗っている坊さんを見ました。正確には乗ろうとしているところだったのですが、寺の横で、そのベンツに乗ろうとしている坊さんがこちらをにらんでいたのには呆れました。

「生臭坊主がベンツに乗ってこちらをにらんでいる場合じゃないだろう」と思ったからです。

別に坊さんがベンツに乗ったらいけないとはいいませんが(ただ坊さんがベンツってどうかと思いますよ。坊さんは布施で生活しているわけですよね。その布施でベンツなど買いますか?ちょっと神経が分かりません)こちらはこういう状況なのです。

毎日のように人が(車が)減っていっているのです。では、神、仏に祈るなり、お経を上げるなりして(まあ、この人たちがそれをしてもあまり意味はありませんが)人を救うために、もっと必死にならなければいけないはずなのに(神、仏なら当然そうするでしょうから)悠々とベンツに乗っている。(私的にはそう見えました。少々ひがんだ見方かもしれませんが、必死で人を救っているようには全然見えなかったです)

まったく的外れです。坊主の風上にも置けません。こういう時に人を救うのに必死にならなくて、では一体いつなるのでしょう。

だから私は、坊主の風上にも置けないといっているのです。(こういう坊さんの心を観て神仏は泣いていられることでしょう)

ベンツには乗っていなくても、この辺りはこのような坊さんばかりです。

では、この辺りの人たちは救われないでしょう。

人を救うのが本分のはずの坊さん連中が人を救おうとしないからです。

最近の坊さんは、歌を歌ったり、曲芸を披露したり、完全に坊さんの仕事を履き違えている人が多いようですが、本当の坊さんの仕事は(使命は)人々を救うことなのです。(神仏のようにです。そうでなければ神仏の勉強をしている意味がないでしょう)

こういう状況だからと、坊さんが集まって、皆で神仏に祈るとか、お経を上げるとか、そういうことなどしていませんよね。この辺りの坊さん連中はです。

ただ、いま起きていることを私のせいにして怒っているだけですよね。

では、この人たちも同じです。やっていることは子供と何も変わらないのです。

昔は、そのように分からないことが起きたり、困ったことが起きたら、年寄りか、坊さんにきくものと相場が決まっていました。

しかし、いま現在は、分からないことや困ったことが起きたら、誰も解決出来ないというのが相場のようです。(本当に情けない。これでは正しい判断などみな出来ないでしょう。正しい判断をしなければいけない人たちが、誰一人、正しい判断が出来ないというのですから)

では、どうするのか?ということになります。

誰も正しい判断が出来ないのなら、自分で正しい判断をするしかないでしょう。それ以外で救われる方法はないからです。

もう自分で智慧を出して、自分で正しい道を進むしかないのです。

私に八つ当たりしていたところで、この辺りで起きている現象は収まらないのです。むしろ、激しくなるのです。

では、どうしたらいいのですか?

自分自身に内在された(それは心の中にあるという意味です)偉大なる智慧にきいてみてください。

その偉大なる智慧が正しいことを教えてくれるはずであるからです。

追伸…相変わらずお隣さん(もちろん韓国です)とは揉めまくりですね。(苦笑)

もう議論していても仕方ないでしょう。相手側に全然誠意がないのですから。(それにこういう問題の場合、政治家は口ばかりの人が多いし…口さえ出さない人も多いし。〔苦笑〕)

こういう時は祈ればいいのです。そうすれば解決の道はついてくるからです。

無神論の人が多い日本の人たちは知らないのです。祈りこそ最高の武器であるということをです。(中国やロシアがどんな爆弾をつくろうと祈りに勝る武器はないのです)

皆で韓国を祈ったらどうでしょう。そうすれば韓国に様々な現象が現れ、こういう問題も解決していくからです。(何なら私が祈りましょうか?詫びも入れようとしない、差し押さえまでしようとしている傲慢な国、韓国をです。しっかりとです)

どちらにしても、こういう時はもう少し政治家がしっかり(少々強引に)やってくれないと困りますよね。

自分たちに都合のいいことだけ強引に決めるのではなくです。

(ほんと「内弁慶か」と突っ込みたくなりますよね)

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1月 08 2019

祈りの効果

えーと、正月休みは終わったんですよね?

こちらは走っている車の量が正月とさほど変わらないので、よく分からないのです。

それでかどうか知りませんが、あちこちでチマチマ怒っている人が多いですね。怒っていてもしょうがないのにね。もう、こういう状況になってしまっているのですから。

今さら人のせいにしていたところでどうにもならないでしょう。これだけ車が減っているということは、もう相当危ないということだからです。

危ないことが次々に起きていなければこれだけ車は減らないでしょう。事実は事実です。それをどれだけ私のせいにしていたところで、その危なさは変わりません。

人のせいにするだけ無駄なのです。(私一人でこんなことやれっこないんだし)

しかし、そうはいってもこの辺りは責任転嫁の権化の人たちばかりです。(自分たちの罪は絶対に認めず)

だから私に八つ当たりして、怒っている人ばかりなのでしょうが、昨日でも神社でお参りしている人が歩いているとちょっかいをかけてきました。(人に嫌がらせしながらお参りしているようでは、お参りしている意味がありません。ほんと呆れます)それでいってやりました。

「おっちゃん、そんな意味のないことをしていても癌になって死ぬだけだぜ。ここに本当の神の教えを説いている者がいるんだから、こっちに頭を下げて、お賽銭でも寄付してくれないと救われないぜ。いつまでそんなことしているの。正法の世はドンドン深まっていくぜ。責任転嫁ばかりしていて滅びても知らないからな。責任転嫁ばかりしている心の汚い人たち。本当に滅びても元気で」とです。

あちこちで、そんなことをいって歩いていましたが、今のような状況を考えたらです。いつまでも同じ態度でいるのなら、そのような人たちはもう災いが現れてくるだけなのです。

この教えに帰依される以外、救われる道はないのです。

それがまだ分からない。本当に哀れな人たちばかりなのですが仕方がありません。そういうこの教えのすばらしさをいつまでたっても理解しようとしない人たちのために、もう少しこの教えのすばらしいところを書いておきましょう。

例えば、元旦の原宿(渋谷)の暴走事件の犯人など、車で人をはねるだけでなく(軽自動車で八人もはねたそうですが)灯油まで積んでいて、その灯油を高圧洗浄機でまくつもりだったそうですね。

この犯人は車ではねた人を殺そうとしていたそうですから、灯油を洗浄機でまいて人を焼き殺そうとでもしていたのでしょうか?

どちらにしても恐ろしい考えです。まさに悪魔の発想ですね。(この犯人は自分の部屋から、たびたび大声がきこえてきていたそうですから、その悪魔が来ていたのでしょう。完全に憑かれています)

しかし、このような悪魔の発想を持っている人であろうと、正しい神の祈りの前には変わらざるをえないのであり、このような人でも、神に祈りながらこの正法神理に従って正しい指導を行うならば改心させることは可能なのです。(時間はかかるでしょうが)

この正法神理の祈りで、犯罪者でも変えられるという具体例を正法誌から抜粋しておきましょう。

1987年、十二月号より抜粋。

<「あの人の心が変わってくれますように」という祈りは実現しない。それはその人の人格の侵害になるからである。

「あの人が私を好きになりますように」「夫が(妻が)こうなってくれますように」「子供がこうなってくれますように」このような祈りはくたびれ損になるのである。

なぜなら、こういう祈りは常識的にはよいように見えるが、実際は、神に波長が合わないのである。「あの人が(あるいは夫か妻)」と祈る時の心の中には、必ずその人の悪い状態が描かれているからである。例えば「子供をよくしてください」という時には「子供のこういうところが悪いから」という思いが必ずあるはずである。神の世界には本来「悪」はないのである。だから「悪」をありと認めて、それを神によくしてくださいと祈っても、神が悪を創造されたのではないから、悪をありと認めて祈る祈りは神に波長が合わないのである。

それならばどういう祈りをすればよいか。

「あの人は神の子である」「わが夫(妻)は神の子である」「わが子は神の子である」などという祈りをするのである。

昭和三十年二月、私が生長の家の本部講師として一番最初に行ったのが長野県であった。

(中  略)

菊池というパン屋さんに泊めていただいた。その時、菊池さんが三千二百円のパンを買って金を払わない男がいる。この男から売掛金をもらう方法はないでしょうかときかれた。今はパン一個が百円するが、その頃は一個十円の時代だから、三千円分のパンというと数が多い。

「あなたは神の子である。あなたはパン代をひっかけるような人ではない。あなたは完全である」という祈りをしなさいと教えた。

それから二ヶ月して菊池さんは警察から呼び出された。「警察に呼ばれるような悪いことをしたことはないが」と心配して行かれた。

すると一枚の写真を見せられて「この男はあなたの家の親戚か」といわれる。「違います」といったら「おかしいな、この男はあなたの家のパン代は払ったというが本当か」「はい、二ヶ月前にもらいました」その男はパン代を持って来た時に「どうしてもおじさんところのパン代だけは払っとかないと気持ちが落ち着かない」といって来たというのである。これが「念の感応」即ち祈りが通じたのである。

「この男がどうかしたんですか」ときいたら、電機屋、ふとん屋、呉服屋などから何十万と取り込み詐欺をやっていたというのである。

警察官がいうには「あんたんところの三千円のパン代くらい、どうということないのに、それを払ったというからおかしいんだよなあ、おかしなこともあるもんだな」と。

祈りによってもう返って来ないと思っていた貸した金が返って来たという人はほかにも多い>

この菊池さんという人は、園頭先生に教えられた祈りをすぐにされたのでしょう。そうしたら、その三千円分のパン代を払っていなかった男がそのパン代を持ってきた。

その後、警察から呼び出されて分かったことは、この男は多くの取り込み詐欺をしていた詐欺師であったということです。

しかし、そういう詐欺師でも、正しい祈りの前には考えを変えざるをえないのです。

その正しい祈りとは「この詐欺師を正しい人にしてください」などという祈りではなく「あなたは神の子である。神の子は完全である。神の子はよいことしかしないのである」という祈りであって、その人の悪を認めず、善しか思わないという祈りなのです。

そういう祈りをすると、その祈りをしている人に対し悪いことをしている人は、悪いことをしていることが恥ずかしくなって、抜粋した中に書かれてある「おじさんのところのパン代だけは払っとかないと気持ちが落ち着かない」という風になるのです。

こういう祈りをしながら、正しく指導していくのなら、どういう人も変わらない人はいないということです。

なぜなら、すべての人は神の子であるからです。

元が神の子なのですから(悪魔の子ではなくです。だから分かりやすくいうのなら、悪の心とは神の子である私たち人間の一時の気の迷いということです)神の心に従って正しい祈りと正しい指導をしていくのなら、どういう人であろうと最後には、その神の子に戻るということです。(もちろん、その人の悪は、その人だけではなく周りの影響を受けている場合も多いですから、その周りの人たち〔例えば親の影響など〕も同じように変えていかないといけませんが)

いい加減、この教えのすばらしさ、偉大さが分かりませんか?

こういうことが可能なのも(どういう悪人も改心させることが出来る)この教えがあるからこそなのです。(他の教えでは無理でしょう。こんなことはです)

どちらにしても今の考え方を変えずにいるなら危ないだけなのです。特にこの辺りはです。(ずいぶん神の業が〔個人的に〕出ているようですから)

もう、本当の神の教えを知らなければいけない時がきています。

その時を無視するなら滅びるしかないのです。

追伸…「あの人が私を好きになりますように」という祈りも実現しない、というのは少々残念ですね。(笑)

誰だって好かれたい人の一人や二人、いるはずだからです。(笑)

あの人が私を好きに…と祈るということは、私のことが好きではないということが前提となります。(つまり第一念がそういう思いであるということです)そういう前提ではそれは好きになってくれません。

第一念がその祈りを支配するからです。

しかし、そういう祈りをするよりもです。自分を好きになってほしい人がいるのなら、自分を磨くことです。(もちろん心をですよ)

そうして、心からいい女、いい男になれば、黙っていてもその人は自分を好きになってくれるでしょう。

そういうことは祈りで叶えるのではなく、自分の心の向上で叶えるものなのです。

益々、この教えをやらないといけないのではないでしょうか。この教えを実践し心が向上するなら、恋愛まで成就するからです。(笑)

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1月 06 2019

今年の危なさ

何度もいいますが、もったいないし危ないですよ。

このまま本当の神の教えを無視して、間違った信仰を続けるのはです。

昨日も書きましたが、どうも今年に入って変なのです。変というか、本当に危ないと感じるのです。今年は特にです。

それは熊本地震だけではなく、実は次のような奇妙なことも、この辺りでは今年に入って起きているからです。

それは奇妙といいましょうか、なんといいましょうか。実はこの近所には、私のことを目の敵にしている人が何人もいましてね。(どこかの会社のような会社ではなく個人の家です。自分のところに起きた悪いことをみな私のせいにして怒っている人たちです)前から家のすぐ近くのそういう人たちがことあるごとにガタガタでかい音を立てていたのです。

そのような責任転嫁の権化のような人たちが家の回りには何人もいたのですが、不思議なことに一月一日を境に急にうるさいのをやめたのです。

まるで打ち合わせでもしているかのように、急に静かになったのです。一月一日からです。

前日の十二月三十一日まではガタガタやっていたのです。それが翌日の一日には急にどこも静かになったのです。

その後、また怒り出してガタガタやりだしたのは、一月四日のことです。

一月四日からやたら怒っている人がいるのですが、一月四日はたしか病院が開く日ですよね。(大きな病院など三が日は休みで、四日の日から始まるところが多いですから)

ということは、一日の日に何か起きて四日の日に病院に行き、病院で何か面白くない結果が出たということも考えられます。

それでそういう態度を取っている人がいるのかもしれませんが、それはともかくです。

今年の一月一日から、この辺りの雰囲気が急に(また一段と)変わったのは事実であり(本当にわずか一日しか変わらないのに、一変に雰囲気が変わったのです。年が変わっただけでこうも変わるのかと驚いたんですが)それで私は今年は何か変だなと、何かこれまで以上に危ないのではないかなと、そう思うのです。

そうして仕事始めのところなど、凄い怒り方をしているところがあちこちにあります。(昨日、一昨日などそういうところがいくつもありました。どうせ正月休み中に何か起きたんでしょう)だから、今年は相当危ないのではないかと、天が年の変わり目を大きく意識しているのではないかと思えてならないのです。

今年、多くの者が考えを改めなければ(これまで以上の)凄まじい現象を現すとです。

どちらにしても、毎年起きる現象は激しくなってきているのです。間違った信仰をし続けていても何のご利益もありませんし、危険から守られることもありません。

このような状況で、この本当の神の教えを無視しているのは、もったいないし危ないだけなのです。

初詣に行って賽銭を投げて祈るくらいなら、こちらにその賽銭分を布施してくださり(といっても、十円や百円ではあまりに少ないのですが。〔苦笑〕)私たちに祈られた方がよほどご利益があります。

そうされてはどうでしょう。いつまでも間違った信仰をし続けていても危ないだけであるからです。

この教えなど信じて行えば行うだけ奇跡が起きてきます。もうやるべきなのではないですか?本当の神の教えの信仰をです。

特にこの辺りなど、おかしな病気になっている人が多そうです。そのおかしな病気もこの教えを実践するなら治ってしまうと思うからです。

とはいえです。

いくらこの教えが、祈ると奇跡が起きて病気が治るからと何でもかんでも祈ればいいのかといえば、もちろんそんなことはなく、病院に行かなければ治らない病気もありますし、本当は病院に行かなくてはいけないのに、それをしないで祈りだけで治そうとしても、それは限界があるのであって、医者(現代医学の力)と祈り(神の力)両方うまく使うのが正しいやり方なのであり、それも中道でないといけないのです。

実際にその教えの中に病気治しをうたっているある新興宗教で、ひどい病気になったにもかかわらず、祈ればその病気は治ると信じて、病院に行かず手遅れになった信者がたくさん出ているところもあるようです。

極端な考え方は間違いなのであって、現代医学と神への祈り、この両方を正しく使えてこそ、悪い病気もしっかり治せるということを知ってください。(祈りは、軽い病気の時とか〔これは医者に行かなくても治ってしまうことがあります〕または、病院に行ってもひどいとか、危ないとかいうくらいの時にすると効果的なのです。〔こういう時に祈ると神が力を貸してくださり、奇跡的に治ってしまう時があります〕それ以外の時にするのもかまいませんが、ただそのような時はあまり効果が現れないことがあります。わざわざ祈らなくても治るような病気なら天も自然にまかせるからです)

まあ、特別病気だけではありません。家内安全(これは家庭内が調和するという意味です)交通安全(これは本当に守られます)などなど、そこらの神社やお寺でうたわれているようなことは、この正法神理を実践するなら本当に実現しますし、それ以外の奇跡もいろいろ起きてきます。

奇跡も起きて、危ない現象からも守られる、本当に災いばかりがしょっちゅう起きている現代の日本には、ピッタリの教えではないでしょうか。(笑)

今年は元旦からおかしな事件も発生しています。(例の多くの人の中に車が突っ込んだ原宿暴走事件です。あそこも渋谷区ですよね。本当に渋谷はバカな事件ばかり起きます。〔ハロウィン騒動もそうですが〕渋谷区もバカな行事は早くやめないといけないのです。LGBTの人たちを支援するのではなく、正常に戻すという方に力をいれないといけないのです。〔それが神の心であるからです〕そうすれば、そのような事件は起きなくなるからです。人も自治体も同じなのです。間違ったことをしていれば間違った結果が現れてくるのです)

今年は例年以上に危ない年になるかもしれません。(日本にこれ以上危ないことが起きてきたら本当に滅びますね)そうであるなら、もうこれ以上、本当の神の教えを無視することは危険極まりないことであるのです。

別にこれまでのやり方をやめてしまえとか、変えろとかはいいません。(あまり極端なことをいってもすぐには出来ませんから)

これまで通りのやり方をしていてもかまいませんので、少しずつでも、この教えを実践されてはどうでしょう。

そうすれば、少しずつでもこの教えのよさが分かってくると思うからです。

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1月 05 2019

奇跡

前回のブログで、いま現在の高橋先生や園頭先生の弟子たちには、私たちと同じ奇跡は起きていないと書きましたが、それが本当であるという出来事を二、三書いておきましょう。

私が書いたことが嘘だと思われてもいけないからです。(嘘を書く者に奇跡は起きませんが)

まず、園頭先生の弟子だった人たちが集まっている、北村氏が主宰している教育研究会未来での出来事を書いておきます。

私は未来にいた時、ある研修会に参加したのですが、その研修会でのことです。

研修会の二日目だったと思いますが(未来の研修会は毎回、金、土、日の二泊三日で行われていました)午前中の研修が終わると、ある人の子供が熱を出したと騒ぎになりました。

風邪気味の小さな子供をつれてこの研修会に参加されていた人がいて、その風邪気味の子供の熱が午前中の研修会の間に上がってしまったようなのです。

その子供は、研修会場の一番後ろで小さなベットに寝かされていました。

周りの人たちが心配そうに寝かされている子供のベットをのぞき込んでいましたが、そこに北村氏が現れ、まあ、かわいそうにということで、光を入れてあげるということになったそうです。

そうして北村氏は、しばらくその寝ている子供の胸の辺りに手を当てて祈っていたようでした。(私もその現場を見ました。北村氏は子供に手を当てて下を向きジッと祈っていました)

しかし、そのあと、その子供の熱が下がったという話はきかなかったです。

その後の研修や翌日の研修でも、その子供のことは何もいわなかったし、帰り際まで私は熱を出した子供のことが気になっていたので「あの北村先生が光を入れた子は熱が下がったの?」と周りの人たちにきいていましたが、一人として「北村先生が光を入れたのであの子の熱が下がった」といった人はいませんでした。

結局、北村氏が祈っても、その熱を出していた子供の熱は下がらなかったのでしょう。もし、熱が下がったのなら、その研修会場で大騒ぎになっていたはずだからです。(「北村先生の祈りで熱が出ていた子供の熱が下がりました。奇跡です」などと吹聴する人がたくさん出てきてです。〔笑〕)

あとできいた話なんですが、その熱が出た子は、結局、熱が下がらなかったので、母親と一緒にそのあと帰ったということでした。

この未来は、主宰である北村氏が祈っても、風邪気味の熱が出た子の熱さえ下げられないのです。(私たちとえらい違いです。〔笑〕)

では、あとの人たちにそれ以上の奇跡が起きているはずもなく、未来の人たちが奇跡が起きました、というその奇跡は、例えば、太陽の回りに光りの輪が出来たり(雲の中にある氷の粒に太陽の光りが屈折して出来る自然現象)あるいはものごとが(珍しく)うまく行ったりすると、それを大袈裟に騒いで奇跡です、みたいなことをいっているだけで、まともな奇跡は一つも起きていないということです。(私たちに起きているようなです)

奇跡どころか、この未来の人たちはたくさん癌になる人が出ましたが、治った人など一人もいなかったし、リストラされる人、会社の取締役までなっていて急にクビになった人、仕事が暇で会社が潰れてしまった人、そうして子供を事故で亡くしてしまった人までいて、さながら不幸製造所のような感じでした。(本当に不幸になる人が多かったです)

そうして、高橋先生がつくられたGLAも、そのGLAの会員を何十年も続けているという人と話をしたことがありましたが、自分の周りに奇跡らしい奇跡は起きていないらしく、私が「高橋信次先生がいられた時のような奇跡が起きている人は一人もいないんですか?」ときくと、その人は「桂子先生には奇跡が起きていると思いますよ」と答える程度でした。

つまり、現在のGLAには奇跡らしい奇跡がまるで起きていない、と自らいっているようなものでした。(何十年も会員でいる人でさえ「起きていると思いますよ」という疑問系の答えしか出来ないのですから。現在のGLAは高橋信次先生が指導されていた時と違い、奇跡など全然起きていないようです。多分、GLA内では奇跡などという言葉は死語になっているのではないでしょうか。〔笑〕)

ここで簡単に奇跡、奇跡と書いていますが、しかし、ここに書いているような奇跡などどこも起きていないのです。

それは、高橋先生や園頭先生の弟子であった人たちだけではないでしょう。

今年も初詣に行った人はたくさんいると思いますが、その初詣に行った人たちに何か奇跡が起きているような人がいるのでしょうか?

まずいないでしょう。初詣に行って不思議な奇跡が起きているのなら、この時代(ネットがありますから)すぐに話題になるはずであるからです。

しかし、そういう話題は今のところ(そうしてこれまでも)出ていないようですし、このブログを見ている人たちはどうなのですか?

このブログを読んでいる人の中にも初詣に行った人はたくさんいると思います。

それでそのあと、何か奇跡が起きた人はいるのでしょうか?

例えば、初詣に行ったら急に癌がよくなったとか、ウナッシーさんのように四十度以上もあった熱が下がったとか、急に運がよくなりだしたとかです。

そんな人いないですよね。初詣に行く前も行った後も何も変わらない、そういう人ばかりなのではないでしょうか。

それとも初詣に行った年はメチャクチャ運がよかったが、いかない年はメチャクチャ運が悪かったとか、そういう違いのある人がいるのでしょうか?

いないでしょうね。初詣など行っても行かなくても同じだからです。結局、初詣など正しい信仰でも何でもないのですからやってもやらなくても同じことだからです。

このブログを見ている人でもそうなのです。(だから見ているだけではダメだといっているのです)見ていない人など(本当の神の教えを知らない人など)もっとダメでしょう。

しかし、この正しい信仰を行うなら、必ず、結果(奇跡)が現れてくるのです。やればやっただけお蔭があるのが正しい信仰であるからです。

だからといって、そのお蔭を先に求めてやる信仰は正しいものではありませんが(これが正しい信仰の難しいところなのです。〔先に報いを求めてやるのは信仰ではなく、ただの取引ですから〕心のあり方を間違うと正しい信仰をしていても、それは正しい信仰ではないからです)それはともかく、その正しい信仰がここにあるにもかかわらず、それを無視して、間違った信仰をし続けている。

皆さん方の頑なさには少々呆れているのですが、奇跡、奇跡と簡単にここに書いていますが、その奇跡は、そんなに簡単に起きることではありません。

しかし、その(他では)難しい奇跡が、ここでは(この信仰を行えば)簡単に起きてくるのです。

初詣などの間違った信仰をし続けているのなら、少しはこちらの信仰もしてみませんか?

そうすれば、本当の奇跡が起きてくるからです。

いつまでも間違った信仰を続けていても意味がありません。意味がないどころか、そのうちに罰が当たります。

間違った信仰は神の心に背いているからです。

本当の信仰を行ってこそ、意味も救いもあるのです。

本当の信仰に目覚めませんか?

そうしないと、今年は昨年以上に危なくなるからです。

(それは断言できます。年明けすぐの熊本の地震もそうですし、こちらに起きていることもそうです。〔この近所の皆さんはお分かりであると思いますが…〕すでに相当起きています。災いがです。早くこの教えに帰依されることです。そうしないと今年は本当に危ないからです)

追伸…やはり年明け最初の株価はだだ下がりだったようですね。(予想通りです)

株は下がるわ、大きな地震は起きるわ、今年は本当に春から縁起が悪いです。

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