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2月 04 2017

等しい力

ちょっと前回のブログで訂正するところがありますので書いておきます。

それは「子イルカが腹ばいで泳いでいた」という部分なんですが、あれは腹ばいではなく、腹を上に向けて泳いでいたでした。(腹ばいで腹を下に向けて泳いでいるのなら普通の泳ぎ方ですから。〔笑〕)

子イルカが、こちらを見ながら腹を上に向けて泳いでいたから珍しくて可愛かったということです。

そこは訂正しておきますが、このような愛嬌のある動物たちと違って、この辺りの人たちの私に対する怒りようといったらありません。(苦笑)

何をそんなに怒っているのでしょう。怒りたいのはこちらなのです。

何せ私の方が、そのような(怒りまくっている)人たちから一方的に嫌がらせを受けているからです。

勘違いしないでください。私が被害者で、そちらが加害者なのです。

私は一方的に嫌がらせを受けまくっているのです。それなのに何で、その嫌がらせをしている人たちがそんなに怒っているのですか?

どう考えも逆でしょう。

この辺りの人たちのやっていることは本当に何から何までおかしいのです。

何でもかんでも悪いことは私のせいにするわ、嫌がらせはするわ、それでも飽き足らず、何もしていない私に一方的に怒りまくりです。

どれだけ悪いことが起きているのか知りませんが、どう考えても自業自得でしょう。多くの人が、それだけ訳の分からないことをし続けているからです。(分かりませんか?自分たちのやっていることのおかしさがです)

それにしてももったいない話ですね。この辺り、そういう自分たちの間違った行いを正せばどれだけよいことが起きるか分からないからです。

それはこの辺りでたくさん起きている災いが教えているのです。

よく考えてみてください。

この辺り、これだけの災いが現れているということは、逆に考えれば、それだけの奇跡もまた現れるということです。

なぜなら力は一つではないからです。

一つの力が現れれば、必ずもう一つ、それに等しい力も現れて来るからです。(原因結果、作用反作用の法則をお忘れですか?)

ということは、この辺りでどれだけの災いが現れているのか知りませんが、そのような災いが現れていればいるだけ、それに等しい奇跡も現れるということになります。

法則は必ず作用するからです。

では、その災いが起きている分、奇跡もまた起きるということになりますが、何で起きないのでしょうか?

その多くの奇跡がです。

別に起きていないわけではありません。多くの災いと同じように多くの奇跡もまた起きているのです。

ただ、その奇跡の起き方が災いと違い一ヵ所に集中しています。それで奇跡が起きていると誰も気づかないのです。

災いは多くの人にばらけて起きている、奇跡は一人の人に集中して起きている、その差が、この辺りは災いばかりが起きていると多くの人が錯覚している理由なのです。

もちろん、その奇跡が集中して起きているのは私なのですが、災いに対する作用反作用の法則である奇跡の方が私にだけ集中しているものですから、多くの人がこの辺りは法則が作用していないように思っていますが、とんでもありません。

ちゃんと、原因結果、作用反作用の法則は作用しているのです。

だから心を正さないといけないと私はいっているのです。訳の分からないことをしていてはいけないといっているのです。

悪いことがそれだけ起きていれば、同じ分だけよいことも必ず起きるからです。それが原因結果、作用反作用の法則であるからです。

ではなぜ、この辺りにそれだけよいことも悪いこともたくさん起きるのか?

それは法が説かれている場所には、それだけ神のエネルギーが集中するからです。

それは釈尊が現れたインド、キリストが現れたイスラエルを見てもらえれば分かるはずです。

釈尊在世当時のインドはたくさんの奇跡が現れました。その奇跡は釈尊だけではなく多くの釈尊の弟子たちにも同じように現れたのです。

しかし、現在のインドには釈尊在世当時の奇跡など現れていません。法を説く人がいなくなったからです。

もちろんそれはキリスト在世当時のイスラエルも同じであり、キリストだけではなく、キリスト昇天後のキリストの弟子たちが起こした数々の奇跡は、多くの人が知っているはずですが、現在のイスラエルにそのような奇跡は起きていません。

やはり現在のイスラエルには法が存在しないからです。

そうして、そのような時には奇跡ばかりでなく大きな災いも起きているのです。

釈尊を殺そうとしたダイバー・ダッタ、キリストを裏切ったユダの末路の哀れさ、そうして、その当時ローマは、キリストを十字架にかけただけではなく、多くのキリストの弟子たちも迫害します。

その結果、火山が大噴火を起こしてローマは滅びることになるのです。

このように釈尊やキリストの在世当時から原因結果、作用反作用の法則は作用していたのであり、それは現在に至るも同じように作用しているのです。

だから私はいっているのです。

それだけ災いが起きているのなら、それだけの奇跡も起きますよとです。

しかし、奇跡が現れるには現れるだけの心にならないといけません。

そのような心になっているのは、少なくともこの辺りでは私だけだということです。

だから、私一人に奇跡が集中して起きているのです。

今、この辺りには神のエネルギーが集中して現れているからです。それは私が法を説いているからです。

しかし、せっかく現れた、その神のエネルギーを正しく現す(奇跡)のも、間違って現す(災い)のも、すべて本人の心次第なのです。

それでも災いが現れている人たちは心を入れ替えようとはしないのですか?

それはずいぶんもったいない話なのですね。(もうそれ以上いいようがありません。何をいってもきこうとしないからです)

追伸…どうもこの辺りの人たちは(法を説くことにより)せっかく現れている神のエネルギーを悪い方(災い)にしか使う気がないようです。

そうするとよい方(奇跡)のエネルギーがずいぶん余るということになります。(なんせ、災いを現す人はたくさんいますが、奇跡が現れるのは私一人ですから。〔苦笑〕)

他の地域の人で、このよいエネルギーを使いたい人がいるようなら連絡してください。

こちらは、これだけよい神のエネルギーが余っているのです。(何せ毎日私に奇跡が起きるくらいですから)私が祈れば、その神のエネルギーは祈った人に作用して必ず何らかの奇跡が現れると思うからです。(私の母が最近、体の調子がよくなかったんですが、私が祈ると急によくなりました。よいエネルギーがずいぶん余っていたから、そういう奇跡が起きたのですね)

よい方のエネルギーを私一人ではとても使いきれません。

下手なお寺やパワースポットなど行くより、私に頼んだ方がよほどよいことが起きます。

また何かある方は連絡してください。(メールでもなんでも結構ですから)こちらに現れているのは本物の神のエネルギーであるからです。

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2月 02 2017

命数(めいすう)

一昨日でしたか久しぶりに名古屋港水族館(名港水族館)に行ってきました。

最近、名港水族館のイルカに子供が生まれたようで、その子イルカを見たかったからです。

やっと見られました。(しばらく前まではしっかり公開されていませんでしたから)やはり可愛かったですね。

私が見ていると、母イルカの近くにいた子イルカが一頭で泳ぎ始め、最初はスイスイ泳いでいましたが、そのうちにクルっと腹ばいになって、今度は腹ばいで泳いでいます。

その仕草がまた可愛いのですが(子供のイルカだと何をやっても可愛いです。〔笑〕)しばらくそんな感じでゆっくり泳いでいましたが、そのうちに元気よく泳ぎ回り始めて、私の目の前でバシャバシャ飛び跳ね始めました。

子イルカが目の前で思いっきり跳ねているんですからね。驚きました。(笑)

そういう感じで、子イルカが狭いプールで凄い勢いで泳ぎ回り始めたものですから(大きいイルカも小さいイルカもやること一緒です。〔笑〕)これはやばいなと思って適当なところでその場を離れました。

子イルカが勢い余ってプールから飛び出てもいけないと思ったからです。(その場面もしっかり動画に撮りました。子イルカが水面から跳ねている場面などそうはないのではないでしょうか)

しかし、この可愛らしいイルカも水族館での寿命はわずか四~五年だといわれます。(このような子イルカはもう少し生きるのでしょうが)

野生では数十年(三十~五十年)生きるといわれているイルカが、水族館にいるとわずか数年の命だというのですから、ずいぶんはかない命であるといわざるを得ません。

しかしイルカは、自ら命を縮(ちぢ)めているわけではありませんが(水族館のようなストレスがかかるところにいるから寿命も短くなるのでしょうが)この辺りの人たちは、ずいぶん自らの命を縮めるようなことをしている人が多いようです。

昨日も歩いているとやたら怒って雨戸を閉めている家がありました。わざわざ私の方を見ながら(にらみながら)大きな音を立てて閉めているのです。(おっちゃんがです)

また悪いことでも起きたんでしょうが、しかし私は、その家の人を知らないだけでなく、そんな家など祈ったこともありません。

しかし、何か悪いことが起きると私のせいなのです。

そういうところがたくさんあります。本当に呆れますね。そのような人たちは自らの罪を私に擦り付けているだけだからです。(これだけでも大きな罪です。自分たちの心と行いが原因で起きている災いをみな私のせいにしているのですから)

そうして顔を見れば嫌がらせです。

心を救われていることには少しも感謝せず、散々嫌がらせをしているのは自分たちの方ではないですか。

そういう悪い行いを普段から平気でしていて、悪いことが起きたらそれを全部私のせいにしているのです。

これではよいことが起きるわけがありません。

それで悪いことが起きて怒っているようですが、怒るより先にまず自分たちの行いを考えてはどうでしょう。

法を説いている人に感謝できない間は(嫌がらせなどしている間は)災いは現れるのです。

自分たちの行いが間違っているからです。

そうして、これまでの行いの悪さもあります。(そんなにいいことばかりしていないでしょう。人の悪口だって平気でいっているだろうし)

そういう諸々の悪い行いが重なって、この辺りの人たちに悪いことが集中して起きているだけなのに、そういう自分たちの行いはまったく反省しないで、その自分たちの罪を全部私に擦り付けているのです。

これでは命数(寿命)が短くなる人も出て来るでしょう。

あまりにやっていることがひどいからです。(罪深いからです)

しかし、私だからこの程度ですんでいますが釈尊やキリストならこれくらいではすみません。釈尊やキリストに、もし私と同じようなことをしていたら、今頃この辺りの人たちの大半はあの世に引き上げられています。

それくらいの重い罪をこの辺りの人たちはすでに負っているということです。(だから、大人から子供まで恐ろしい病気になっているのです。自分たちの罪が重いからです)

法を説く人への罪はそれほど重いということですが、いい加減、自覚されませんか。

自分たちの犯した罪の重さをです。

法を説いている人をあまりにぞんざいに扱うなら、それ自体大きな罪になるのです。だから、これほどの現象が現れているのです。

自分たちの犯している罪があまりに大きいからです。

自分たちが、その法を説いている人の大事さを全然分かっていなかった、それが何よりの罪なのです。

この辺りに法を説く人の大事さを分かっている人が多かったのなら、今頃、この辺りの多くの人が救われ(法によって)その救われる人は全国に広がっていたはずです。

しかし、この辺りの人たちは、その法に逆らい、法を説いている私を潰そうとまでしたのです。

それはまともに神に逆らう行為でしかありません。

だから(それはそれは)恐ろしい現象が現れ始め、その現象がドンドン広がっているのです。未だにこの辺りの多くの人が神に逆らい続けてるからです。(私に嫌がらせをし続けているということはそういうことなのです)

自分たちのしていることが間違っているから災いが起きているのであり、正しいのであれば奇跡がちゃんと起きるのです。

それは私を見てもらえれば分かります。

このブログの最初にも書きましたが、いろいろな生き物の愛ある現象が、私にはそこら中で起きているのです。

正しい愛ある行いをしているのであれば、必ず愛ある現象は現れるからです。

しかし、その逆の現象が現れているということは、その逆の行いを自らがしているということであり、その自分たちに現れる現象が、何よりも自分たちの行いを現しているということです。

現れる現象に嘘はありません。それをどれだけ否定しようが事実は事実なのです。自分たちが間違っているから悪い現象が現れているのです。

愛ある奇跡が現れているのは私だけなのです。

私のいうことをきいてください。そうすれば愛ある現象が現れて来るからです。

追伸…どれだけ怒っても、もう災いが起きるだけであり、怒れば怒るほど、その災いはひどくなります。

自分たちのしている行いが間違っているからです。

もうその間違っていることを、いくら繰り返しても認めない人は認めないのでこれ以上書きませんが、では、よくなる方法だけ書いておきます。

私に感謝して布施でもしてください。この辺りの多くの人は私に心を救われているからです。

そうして、嫌がらせしている人も多いからです。

それ以外のことをいくらやっても、その起きている災いは止まりません。それ以外の行いで災いを止める方法はないのです。(心を救われた私に感謝もせず散々嫌がらせなどしていることが、この起きている災いの主な原因なのですから、まず私に心を救われたことを感謝し、嫌がらせしたことを反省し、そうして報恩の行為を行わなければ、この起きている災いが止まらないのは当たり前なのです)

そのような心と行いが自分を救い、そうして徳を積むことにもなるということを知ってください。

小、中学生も同じように布施しろとはいいませんが、少なくとも私に嫌がらせしたことを心から詫びないと、その罪は許されません。

どのような形でも結構です。少しくらいの反省した態度は取るべきでしょう。そうしないと、その罪はいつ現れるか分からないからです。

ソロソロ神の心に従われませんか?

ずいぶん天罰がくだり始めているようだからです。

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1月 31 2017

迷路

昨日もマァ、あちこちでずいぶん怒っている人がました。(工事現場でガンガンやっている人がいましたから。それもあちこちの)

いい加減、私のいうことをきいてはどうですか。そうしないと悪いことが起きっぱなしのところもあり(どこかの会社などもちろんそうですが〔今日も朝早くから怒っていました〕どこかの運転手の人たちやどこかの小、中学校の人たち等々)凄まじいことになるかもしれないからです。(どうします、そこらじゅうで癌になる人が続出し出したら。別に脅しでもなんでもありません。本当にやばいんでしょう。泣きそうな顔をした人もいるし)

ちょっとゾッとしますが、それくらいのことが起きかねませんよ。あまりに皆さん傲慢であるからです。

傲慢でしょう。誰一人、頭を下げようとしないんですから。

謙虚に自分が悪かったと頭を下げる人など一人としていません。悪いことが起きると、皆が皆、頭から悪いのはお前(私)のせいです。

それでは神は助けてくれません。神の心は謙虚さの中にこそあるからです。

だから、そんな責任転嫁をいくらしたところで何も変わらないのに(むしろ悪くなる一方なのに)いつまでたっても同じことをし続けているのです。

結局、この辺りの多くの人たちは、迷路に入り込んで出口が分からず、同じところを堂々巡りしている人たちと同じなのです。

同じところで同じ間違いを繰り返し、同じようなところをグルグル回って出口が分からず困りはて、それで人に八つ当たりしている、それが今のこの辺りの多くの人たちなのです。

そうですよね。多くの人がそのような(心の)迷路に入り込んで、実際はもうどうしていいのか分からないのです。

しかし、今さら泣き言をいうわけにもいかないので、あれもこれもすべて私のせいにして、そうして怒りたくっているのです。

そのような迷路に入り込んだのは自分たちのせいにもかかわらずです。

この辺り怒った顔をした人が多いのですが、しかし、実際はもう恐ろしくてたまらないのです。(その恐れている顔をごまかすための怒り顔でしかないのです)

この迷路はただの迷路ではないからです。

この迷路は、それはそれは恐ろしい迷路であって、迷っているだけではなく、おかしなところに行けば災いまで起きる、そのような迷路であるからです。

だから多くの人が、その恐ろしい迷路から出たくて仕方がないのですが、しかし、出られない。

あっちへ行っても災いが起き、こっちへ行っても災いが起きる。しかし、出口は見つからない、どうしようもないので、あとは人に当たるしかない、だから、そのような災いをすべて私のせいにして怒りたくっているのですが、そのような冷静さを欠いた考えが、その迷路から出られなくしている一番の原因なのであって、もう少し冷静になり考えるのであれば、その迷路からは抜け出せる方法はあるのです。

そういう時は、自分の発想を変えるとか、または、その迷路のことをよく知っている人にきくとかしてはどうでしょう。

そういう時に同じ考えのままでいては、その迷路からは出ることは永遠に出来ないからです。

発想を変えないことには、そのような迷路から抜け出ることは出来ないのです。

では、そうしたらどうでしょう。

もう自分の力だけでは、その迷路から出ることは出来ないと分かっているからです。

一変に変えなくてもいいのです。少しは自分も悪かったのではないかと思い、その悪いことの原因にしている者のいうこともきいてみるのです。(要はもう少し視野を広げるということです)

だって、悪いことが起きたことが、その者のせいであるのなら、その者が悪いことが起きた原因を知っているはずだし(そういうことになりますよね。その者が悪いことをしているのなら、その者はその悪いことが起きている原因を知っているはずです。そういうことがまったく分からず、それほど多くの悪いことを起こせるはずがないからです)では、その悪いことをしている者のいうことをきいていみるのも、一つの手なのではないのでしょうか。

それくらいの発想の転換でもなければ、それだけの迷路から出ることもなかなか困難であると思われるからです。

ずいぶん長い間、その迷路から出ることが出来ない人も多いのです。

そうであるなら、ここは一つ、敵と思っている者の意見もきいてみるのです。

死中に活です。

どちらにしても、このままでは災いが起きるのなら、あえてその災いを起こしていると思われる者のところに行き、その災いが起きている原因をきく。

別にその者のいうことがきくに堪えないと思うのであればきかなければいいのだし、よいと思えばすればいいのだし、その者のところに行っても、行かなくても、どっちみちこのままでは災いが起きるのですから(もう、そこらじゅうで起きているようですから。今の心のままではまず起きます)そうであるなら、そういう一番評判の悪い者のいうこともきいてみる、これも一つの手であると思うのです。

もしかしたら、そのような逆転の発想の中に、この難局を打開するための(複雑な迷路から出るための)策が隠されているかもしれないからです。

どちらにせよです。同じ考えのまま、同じことを繰り返していても何も変わりません。

そのような(心の)迷路から出るためには逆転の発想は非常に大事なことであると思われます。

そろそろ変わりませんか?

自分が変わらない限り、その迷路からは抜け出ることは出来ないからです。

追伸…アメリカは大騒ぎですね。(その影響で世界もですが)

今回のアメリカの新大統領が予想以上の出足であるからです。(いきなりここまでするとは凄まじいです。〔苦笑〕)

やはり高橋先生の予言(アメリカの没落)が現実味を帯びてきましたね。こんな傲慢なことを続けていたら、アメリカは世界から総スカンを食らうからです。

しかし、アメリカの没落は世界の混乱を意味します。

その高橋先生の予言が現実味を帯びてきた時に日本の片隅で神の光が輝き始めました。

この神の光が世界に拡がるようなら、たとえアメリカが没落しても世界は平和になるよう導かれて行きます。

しかし、この神の光が拡がらないようなら、世界はこれまで以上の混乱をきたし混迷して行きます。

さて、どうなりますやら、今の状況では何ともいいようがありませんね。

(まだまだ闇の力も強くて反発が凄まじいですから)

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1月 29 2017

なぜ自分の悪を認めないのか

この辺りの学区の人たち、何か知りませんがメチャクチャ怒っていますね。

小学生、中学生に何かありました?そうしてそれはみな私のせいなんでしょうか?

というのも、昨日など(一昨日もそうだったんですが)私が歩いていると、この辺りで外にいる人たちが皆やたら怒っていて必ず何かして来るのです。(わざとらしくドンとか、ガンとかでかい音を立てるのです)

そうかと思うと、その学区内にある公園で遊んでいた小学生たちが、私の顔を見たとたん逃げ出していったり、一昨日など夕方歩いているといつも見かける中学生を一人も見ませんでした。

怒っている人たちがいるのはともかく、そういう態度の小、中学生は解(げ)せません。(公園で遊んでいた小学生がこちらに向かって来るというのなら話も分かりますが〔嫌がらせしたくてです〕集団で逃げて行くということなどこれまでありませんでしたから)

だから、この学区の人たち(小、中学生)に何かあったのか?と書いたのです。

しかし、こういう小、中学生に仮にです。集団で(あるいは次々に)悪いことが起きていたとしても自業自得でしょう。

なぜなら私は、この辺りの小、中学生にどれだけ嫌がらせをされているのか分からないくらいだからです。

いってはいけませんが、私のようなことをもしされているのなら、まずそういう人たちはキレて、その小、中学生に手を出しているはずです。

それだけのひどいことをこの辺りの多くの小、中学生たちは私にしているのです。(きつい言い方をするなら、私に殺されても仕方ないようなことまでしていますよ。この辺りの小、中学生はね)

だから、それに比することが、そのような小、中学生たちに起きているのです。それも因果応報であるからです。

集団でヘラヘラ笑いながら私をバカにする、歩きながらわざとでかい音を立てていく、遠くにいるのに私の方まで走って来て嫌がらせしていく「バカ、アホ、ハゲ」とまで暴言を吐かれたこともあり、石まで投げられたこともあります。

そういうことを日常茶飯事にしていたのです。この辺りの小、中学生はです。

そういうことは悪いことではないのですか?

そういうことをし続けていて悪いことは起きませんか?

何で、そういうことをまったく問題にせず、私ばかりを悪いというのですか?

それはおかしいでしょう。

そういう一方的な見方ばかりしているから、そちらに(私を敵視している人たちに)一方的に悪いことばかりが起きているのです。

そんな偏った見方はないからです。

何でこの辺りの多くの人たちは私と話そうともしないのですか。一方的に怒って嫌がらせをしていくだけなんでしょう。

そういうやり方がすでに間違っていると思われないのでしょうか?

何で私と堂々と話す人が一人もいないんでしょう。よく話してみないと分からないでしょう。どちらがいいか悪いかなどです。

私は最近は辻説法でも対話を呼びかけています。私はいくらでも話をするとです。そちらが納得がいくまで話しましょうとです。しかし、一人としてその呼びかけに答えてくれる人はいないのです。

なんで一人も話そうとはしないのですか。自分たちがいい負けるのが怖いのでしょうか?

しかし、それは自分たちが間違っていると分かるということですから、よいことなのではないのですか?

どちらにしても、そのような大人たちの無責任な態度が子供たちに伝染して、そうして子供たちも無責任な態度を取ってしまうのではないでしょうか。

子供が無責任な態度を取るなら、その子供たちはどれだけ悪いことをするのか分からないのです。

子供は大人ほど分別がないからです。だから、どれだけ深い罪を負うか分からないということです。

子供が自分たちに責任があるような言い方をすると思いますか?絶対にしません。(そういう正直な子もいるのかもしれませんが少ないです)いろいろな嘘をついて自分がよいようにしかいわないのです。

そういうところでもまた子供は多くの罪をつくってしまうのです。平気で嘘をついて責任逃れをしてしまうからです。(それは大人も同じですが、子供ほど分別なく責任逃れをする人は少ないでしょう)

また、そのような(悪い)ことをしている子たちであるから、私が祈ると病気などするのであって、正直な子であるなら、そういう子に悪い現象は現れないのです。

私が祈って現れる現象はすべて天が行っているからです。天は悪いことをしていない人たちに悪い現象を現すことなど絶対にないからです。

そのような悪い現象が現れていることが、その子が悪いことをしているという何よりの証拠なのであり、その子が悪いことをしていないのであれば、その子に悪い現象は現れないのです。

申し訳ありませんが、もし私が祈り悪い現象が現れた子供がいるのであれば、その子が悪いことをしているのであり、もっというのなら親が悪かったということです。

なぜなら、その子に親の愛が満ちているのなら悪いことなど起きなかったからです。

その親の愛が、その子を守ったからです。(だから「子供に悪いことが起きた」などといっている親は「自分は子供に対し愛がありませんでした」といっているのと同じなのです)

また、親がその子に愛を注ぎ、しっかり愛が入った正しい教育をしていたのなら、その子は私に対し悪いことなどしなかったでしょう。

どちらにせよ、親の愛がもっと深ければその子は災いから守られたということです。

親の愛が深ければ、災いを現す原因を子供自らつくらなかったからです。

このように考えるのであれば、何から何まで自分たちが原因をつくっているのであり、正しい原因しか自分たちがつくっていないのなら、自分たちに悪いことが起きることはないのです。

すでに時代は変わっています。

これまでのように高橋先生、園頭先生のような如来が優しく法を説いて教えていられた時とは違い、間違ったことをすれば、次々に天罰がくだる、もうそのような時代になったのです。(多死社会)

もう甘い考えは捨てませんか?すでに、そういう厳しい時代になっているからです。

そういう厳しい時代になったということが自覚できれば、この法がどれだけ大事なものであるのかということも分かるはずです。

この法を実践することが、その災いから守られる一番の方法であるからです。

その証明はすでに私がしています。(多くの奇跡を現してです)

もうどれだけ責任転嫁して自分の悪を認めなくても、悪い人には次々に天罰がくだる、そういう時代になったのですから、その悪を認めようが認めまいが、そのような天罰を食らっている人こそ悪人であると目に見えて分かるのです。

その自分が悪いのを認めたくなくて、未だ多くの人は悪いことを責任転嫁していますが、そのような口だけでは通用しない時代にすでになっています。

では、心を正しませんか?

その心を正すことこそ、災いから逃れられる唯一の方法であるからです。

追伸…もう嘘は通用しません。嘘などついても次々に天罰がくだるだけだからです。

悪いことをしていたことを正直にいって自分が悪かったと反省されませんか?

そうすれば奇跡は起きるからです。

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1月 28 2017

人の意見に耳を貸さない不幸

この辺り、また一段と雰囲気が変です。(汗)

何かシャレにならないくらい怒っている人もいますが、本当に大丈夫ですか?

どれだけ怒って悪いことを私のせいにしていたところで、その災いは止まりません。

どうやったらその災いは止まるのか?それをまず考えてはどうでしょう。

そうしないと(早く災いを止めないと)危ない人たちがたくさんいそうだからです。

散々悪いことをしてきたのは自分たちなのです。

人の悪口やら愚痴やら何やらいってませんでしたか?人に対する意地悪などしたことありませんか?責任転嫁したり自分の罪を人に擦り付けたりしたことはありませんか?

そのようなことはすべて悪いことなのです。(それはお分かりですよね。まさか、こういうことをいいことだと思う人はいないと思います)

では、そういう悪いことを反省一つせずに続けているのなら、その人はずいぶん悪人ということになります。

表面上ではそれが分かりませんけどね。(そんなことはしていないという顔をしていればいいんですから。その人のことをよく知らない人たちはそういうことまでは分かりませんから)

しかし、このような人は心を観れば大悪人です。悪いことをまったく反省もせず平気で続けているからです。(もう心は真っ黒ですね)

そういう表面上では分からない、心の悪まで裁かれる時代になったのです。

だから多死社会になっているのです。そういう心に悪を秘めた人たちが次々に天罰を食らっているからです。

そういう心の悪さに加えて、この辺りの人たちは私に対するたび重なる嫌がらせです。

ただでさえ心が汚いところにもってきて、その心が汚い人たちが、心を救われた者に嫌がらせをしているのです。(心を救われたことにはまったく感謝せずです)

そういう(特に悪い)行いすれば、汚い心がよけい汚くなるのは当たり前のことでしょう。

だから、この辺りは悪いことが集中して起きているのです。

多くの人たちの行いが他の地域の人たち以上に悪いからです。

そのようなこれまでの自分たちの行いをまるで考えず、その(自分たちの)罪を全部私にかぶせて怒って嫌がらせなどしているから、よけい多くの災いがこの辺りに起きるのです。

罪の上に罪を重ねているからです。

もう何度も同じような説明をしていますが、いい加減理解されませんか。

私のいうことをです。(多くの人が、自分たちのしている罪深い行為を自分たちが気づいていないだけなのです)

私のいうことを理解しない限り、この辺りで起きている災いはひどくなることはあっても止まることはないのです。

現にひどくなっているんですよね。怒っている人ばかりでなく、ずいぶん引いている人も多いからです。(もうどこかの会社など別会社のようです)

自分たちが間違ったことをしているから悪いことが起きる、自分たちが正しいことをしているのなら悪いことは起きない。

これが基本なのです。

人は関係ないのです。

それを理解しない限り、自分たちに起きている災いは止まらないのです。そういう悪いことを人のせいにしていること自体、すでに間違っているからです。

間違った考えでいるのであれば悪いことは当然のように起きるからです。(善因善果、悪因悪果)

カンカンに怒っている人たちはともかく引いている人たちはどうなんでしょう。そういう人たちは本当によいのですか。

私の話をきかなくてです。

そんな悪いことを全部、私のせいにして感情的に怒っている人たちなどほっとけばいいのです。それだけ視野の狭い人たちもないからです。(悪いことが全部私のせいだなどありえないでしょう。〔もう少し冷静に考えてみてください〕そういう人たちがどれだけ自分本位か分かりませんか?)

そういう視野の狭い人たちに合わせていては不幸になることはあっても、幸せになることはないのです。

私のいうことをきいている人たちには次々に奇跡が起きています。それが何よりの私のいっていることが正しい証明なのです。

このような時代になりました。もう金儲けや遊びばかりに目が行くのではなく、起きている現象をもう少し真剣に観られたらどうでしょう。

その起きている現象にこそ真実が隠れているからです。

奇跡が起きているのは私だけなのです。その私のいうことをもう少しきかれてはどうですか?

そうすれば本当の幸せが訪れることになるからです。

追伸…今回、布施してくださりありがとうございました。

ホッとしました。またウナッシーさんに何かあってもいけないからです。

去年ウナッシーさんがけがをしたり寝込んだりしたのも、たぶん私に報恩の行為をされていなかったからです。

一昨年まではされていたのに、去年はそれをピタリとやめられました。もちろん、ご事情はあるにせよ、年に一度くらいの布施はされた方がよかったと思います。

それが法をきいている人の最低限の礼儀であるからです。

その礼儀を欠くのなら、当然気づきの現象は現れます。

だから早く気づけばいいのにとずっと思っていたのです。

しかし、そのことをはっきりいうわけにもいきません。(仮に私が「布施しなさい」とウナッシーさんにいって、それでいやいや布施されても、それでは気づきの現象は止まらないからです。法をきかせてもらってありがたいと心から感謝しての布施でないと、気づきの現象は止まらないからです)

そうして今年に入り、この前のスマホが急にバッテリーが上がったというコメントを見て、ますますまずいなと思って半分はらはらしていたのですが(何せこの辺り、もの凄いですから)昨日ですか、布施してもらえて、それでホッとしたと書いたのです。

マァ、はっきりとは書きませんでしたが、それらしい書き方は何度もしています。(布施しなさいみたいなです。〔苦笑〕)

それで今回仕方なくされたということではないと信じます。何度も書きますが、それでは気づきの現象は止まらないからです。

前のように毎月布施される、などということはしなくて結構ですが、せめて年に一度くらいは布施をされてはどうでしょう。

結局、感謝感謝といっているだけでは感謝にならないからです。報恩の行為が伴ってはじめて感謝したといえるからです。

また、そういうことをしない(法に対する感謝がない)ツケは必ずどこかで払わされます。それが早いか遅いか、それだけのことなのです。(この辺りの人たちはずいぶん早いです。法に対して報恩の行為どころか、嫌がらせをしているからです。それでは気づきの現象は次々に現れて来ます)

法を勉強すると誓われた以上、間違ったことをすれば、そのお返しは早くご自身に返ります。(私など悪いことをしたら、その日のうちに何か悪いことが返ってきます)

そのような現象がまた何よりの心の勉強になるのですが、それはご承知のうえ、これからも頑張ってください。

またよろしくお願い致します。ありがとうございました。

(すいません。他の人への示しもありまして、こういうよけいなことまで書いてしまいました。広い心でお許しください)

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