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1月 08 2016

法を伝える大事さ

今日も朝からお怒りです。(アーメン)

あまりに哀れで思わずキリスト教の祈りをしちゃいそうですが、どれだけ怒っても恐ろしい現象は止まりません。

心と行いの悪い人には天罰が次々に下る、そのような時代となったのです。(特に神に関わることへの悪いことは最悪です)もう時代遅れな態度(責任転嫁)はやめ、時代に即した行い(悔い改め)をするべきでしょう。

そうしなければ、そのような悪い行いを改めようとしないすべての人に天罰が下るまで、その現象は止まらないからです。

もう、どこに参拝しようが、どれだけお祓いしようが同じなのです。そのようなことはすべて間違いであったからです。

本当の信仰ではなかったのです。

間違った慣習、悪習は改めるべきでしょう。そうしなければ、日本のほとんどの人に天罰が下るからです。

しかし、それでもまだ日本はマシな方なのではないですか?

どれだけ宗教観が違っても、それで鉄砲玉や爆弾が飛んでくることはないからです。

そんなものがドンドン飛んできたら、それこそ神どころではなくなります。

ですから、そういう場所で神を叫ぶ人たちも、間違った神を信仰しているということです。

イランとサウジアラビアの宗教対立(というか、正確にいえばこれは宗派対立なんですから目も当てられませんが)もそうですし、IS(イスラム国)のテロなどもそうです。

すべて間違った信仰をしているから、そういうことになるのです。(というか、ISは宗教の名を借りたテロ集団にすぎませんが)

本当の神の教えを知るなら、このような悲惨な戦争も止めることが出来るのです。

イランやサウジのイスラム教が正しいのでしょうか?

何の奇跡も起きていないのにです。

つまりこの人たちは、両方の間違った宗教を(イスラム教のシーア派もスンニ派もどちらも間違いです)お互いに自分たちが正しいと主張しているだけなのです。

両方間違っているのに、その間違ったものをかけて戦争をするなど、これだけ空虚で愚かな行為もありません。

現在は、こういうあり得ないほどバカげたことを命懸けでしているのです。

だから、この真の神の教えを早く世界に拡げないといけないのです。

この教えが世界に拡がるなら、自分たちがいかに愚かなことをしているのか、自覚する人もたくさん出てくるからです。

そうすれば、今起きている悲惨な宗教戦争などなくなるのです。

そんな戦争をしている共々の国がすべて間違っていると分かるからです。

罰は、そのような人が加えるものではないと分かるからです。

罰とは(その人の心を観て)天が与えるものなのです。(本当はこの罰といういい方も違っているのですが…天罰とは、罰ではなく気づきの現象だからです)

それは釈尊、キリストを見ていただければ分かると思います。

このような方々が、自分たちと意見が違うからと戦争を起こされたでしょうか?

そういうことはしてはいません。釈尊やキリストと意見を異にし、裁かれた人はいますが(ダイバー・ダッタやユダなどです)その裁きはすべて天が行ったのです。

これはあれ程の奇跡を現したモーゼも同じなのです。モーゼが争いを起こされたような記述が聖書には出てきますが、あれは聖書が違っているのです。モーゼ自身の手で人に何かを下されたことはありません。みな天が行ったのです。

だからモーゼには次々に奇跡が起きたのです。説いている教えが(十戒などそうですが)正しかったからです。

しかし、イスラム教の創始者であるムハンマド(マホメット)は違います。

片手に聖書を、片手に剣を取って戦いましたが、この片手に剣を取って戦ったのは間違いであったのです。

ムハンマドは、七大天使の一人であるガブリエルから指導を受けていましたが、ムハンマドの器に問題があり、ガブリエルの指導をしっかり理解できなかったそうです。

それでムハンマドは、そのような教えを(片手に聖書を片手に剣を)説いたのですが、その創始者の教えが間違っていたことが今日のイスラム教の悲劇へとつながっているのです。(ただの戦争を聖戦などと称しています。こんなの完全な間違いなのです。人と人が争う戦争など、どこまで行っても戦争でしかないのです)

しかし、イスラム教は創始者であるムハンマドでさえ奇跡を起こしていません。それがムハンマドが正しい教えを説いていない何よりの証拠なのです。

釈尊の教えもキリストの教えも、そうしてモーゼの教えも、すべて一つの教えなのであり(ただ如来は、その生まれた〔肉体を持たれた〕時代に合わせた説き方をされています。それで多少のニュアンスの違いはありますが)その本当の神の教えを実践すれば、必ず奇跡は起きるのです。

今日あるユダヤ教や仏教やキリスト教は、後世の人たちが勝手な解釈でモーゼや釈尊やキリストの教えを曲げてしまった部分があり、それで、そのような偉大な方々の教えを勉強しても奇跡が起きなくなったのです。

正しい教えの中に間違った部分が混ざっているからです。その教えのすべてが正しくないと奇跡は起きないのです。

それを基準とするならば、この日本に出現した法こそが本当の神の教えなのであり(釈尊、キリスト、モーゼが説かれた唯一本当の神の教えなのであり)あとは他のどこの国の宗教も正しくないと分かるはずです。

この教えほどの奇跡が現れる宗教など他にはどこにもないからです。(ちょこちょこ小さな奇跡が現れる宗教はあるかもしれませんが、それはみな地獄霊が起こす不思議にすぎません。だいたい心をきれいにしようともしないで、何で奇跡が現れるのですか?心が汚いまま現れた奇跡などすべて地獄霊が現しているまやかしなのです)

この法を拡げなければいけない理由がお分かりでしょうか?

本当の神の教えを拡げるなら、自分たちが幸せになるだけではなく、世界の紛争まで収まるからです。

イランとサウジの対立だけではなく、宗教とは名ばかりの貧困や差別で出来ているISなどのテロ組織の紛争にせよです。

そのような人たちに(貧困や差別されている人たちに)次々に奇跡が起きたら、そのような人たちの心は変わらないでしょうか?

奇跡が次々に起きるということは、神が近くにいてくださるということが実感できるということです。(日本と違い)他国のような信仰深い人たちに、そのような奇跡が起きればこれ以上のエネルギーと励ましはないのです。

では、どんな貧困にも負けるか、どんなひどい差別などにも負けるか、という心が出てきて、今のように貧困や差別に不平不満ばかりいうのではなく、どのような貧困も、どのような差別も克服し(もちろん自分の努力で平和裏のうちにです)そこから世に出てくる人がたくさん出てくるのです。

法をその国に伝えるなら、その国に奇跡が起きます。奇跡が起きるということは、そこに神のエネルギーが現れるということなのです。

このような神のエネルギーを分配するということが、法を拡げるということなのです。

神のエネルギーが大きく世界に拡がるなら、多くの人が調和と安らぎのうちに、その困難な状況から脱して自分なりの幸せを手に入れることが出来るのです。

では、そこに戦争など起きるわけがありません。神の心に戦争などないからです。

神の心には愛と調和しかないからです。

戦争やいさかいなど起こすのは、そこに悪魔のエネルギー(悪魔の心)があるからです。だから、そのようなことが起きるのです。(だから現在は世界中に悪魔のエネルギーが分散されているということです)

この法を拡げることは、神のパワーを、神のエネルギーを分配することなのです。(意志や念もエネルギーですから)

その神のエネルギーを分配するなら、悪魔のエネルギーは必然的になくなっていくということです。(神のエネルギーの方が断然強いですから)

神のエネルギーが拡がるということは、それは即ち世界が平和になるということなのです。

だから、この法を(本当の神の教え、即ちそれは神のエネルギーそのものです)拡げなければいけないのです。

世界を平和にするのは、神のエネルギーを世界に拡げる以外、手はないからです。

少しはお分かりですか、この法を拡げることの大事さがです。

最初に書きましたが日本は甘えた環境にいるのです。(鉄砲玉や爆弾が飛んでくることはありませんから)

しかし、その甘えた環境でなければ悟れないこともあります。(鉄砲玉や爆弾が飛んでくるようなところでは、深く神の心を知ることは出来ません)

早く悟って伝えてください。

それが一番の自分の幸せであるからです。

(日本の人々は本当の幸せを知らないのです。自分個人の幸せだけが幸せだと思っています。しかし、本当の幸せとはそんな小さなものではないのです。多くの人の幸せもまた自分の幸せなのです。その人の幸せも自分の幸せであるということを知らないといけないのです。それを知らないと結局自分も不幸になるからです。「自分だけ良ければよい」という心は神の心にはないからです。神の心にないことをしていては幸せにはなれないのです)

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1月 07 2016

本当の信仰

昨日は庄内川に行ったんですが、冬は鳥たち以外、みな元気がありません。(魚もほとんど跳ねないし、カニなど顔も見せませんから。カニも冬眠するんでしょうか?)

多少の寂しさはありますが鳥たちは相変わらず元気です。そこは元気をもらえますね。

その庄内川の帰りのことです。

私が庄内川から帰ろうとすると、後ろからピタピタ足音がしてきました。夕方五時半頃だったのでもう回りは真っ暗です。

真っ暗な中、足音だけがピタピタ近づいて来るのです。(今日はホラー映画風ですね。〔笑〕)

「出たな地獄霊」と思い、振り向きざまにおもいっきり祈ったんですが、後ろからピタピタ足音を立てて走ってきたのはただの爺さんでした。(笑)

しかし、この爺さん妖気が漂っています。(オイオイ)

何かこの爺さん変なのです。私の後ろからやたら音を立ててきます。それで私が「爺ちゃん嫌がらせか、もう先も短いんだから地獄に堕ちるぜ」みたいな話をしながら、庄内川から出てきました。

そうして、歩いて帰りかけたのですが、しばらく歩いて後ろを振り返ると、なんとこの爺ちゃん、私の後をついてくるのです。

「何だこの爺ちゃん、嫌がらせする気満々じゃないか」と思い(どうりで妖気が漂っていたはずです)そこで立ち止まって辻説法を始めました。

この爺ちゃん私の方に歩いてきて「ハァ、何か」みたいなことをいってくるのですが、私は「独り言、独り言」といって、その爺ちゃんと話そうとはせず辻説法を続けました。(話したところで、どうせまともな受け答えはしないでしょうから)

先に行かせて、歩いて行く爺ちゃんの後ろをついて行きながら辻説法を続けました。

すると、最初は前を向いて、足を引きずりながら歩いていた爺ちゃんが(先に歩いていても、まだ嫌がらせは続けていました)段々、足を引きずるのをやめ、下を向いて歩いて行くようになりました。

少しは、私の辻説法がきいたようですが、その庄内川の帰り道、その爺ちゃんだけでなく、他にもやたら怒っている爺ちゃんがいました。(私が通るとガンガン音を立てるです)

何で爺ちゃんがこんなに怒っているんだろうと、最初は不思議でしたが、どうも昨日(一昨日もそうですが)書いたブログが原因だったようです。

あのようなブログを書けば年寄りは怒るだろうなと思ったからです。

これまでの信仰を真っ向から否定しているのです。

初詣にしても、お経を上げることにしても、仏像を拝むことにしても、そんなものはまったく意味がないと全否定しているのです。

それは年寄りは怒るでしょう。では、これまでやってきた信仰とは何だったのかと思ってです。

これまで頼ってきた神仏を、最後の最後で失ってしまうのですから、さぞショックでしょう。お察ししますが、しかし、怒ることではありません。

喜ばないといけないのです。逆によかったからです。

よかったのではないですか、死ぬ前にそのようなことが分かってです。間違った信仰を正しいと信じて死んで行けば、確実に地獄行きだったのです。

それが寸前のところで、その間違いに気づいたのです。(ギリギリセーフです)

これほどよかったことはないではないですか。間違わないですむからです。

お経を上げることも、仏像を拝むことも、仏壇に線香を上げ祈ることも、お寺や神社にお参りに行くことも、そのようなことは信仰ではなかったのです。

そのようなことをやるのは別にかまいませんが、やっても全然意味がないということを知るべきでしょう。

現に、そんなことをいくら続けても、何の奇跡も起きないからです。

それが、そういうことをしていても何の意味もないという何よりの証拠なのです。

はっきり書いておいた方がいいでしょう。特に年寄りは時間がありません。今はっきり分からせないと、ズルズル間違った信仰を続け、結局、死んで深い地獄に堕ちるということにもなりかねないからです。

私に起きている奇跡、そうして、私のいうことを聞いた人に起きている奇跡、それが証拠です。

私の説いている法こそ、正しい教えであり、それを実践することこそ本当の信仰であるのです。

これまでのようなエセ信仰を続けるのは自由ですが、そのようなエセ信仰を(エセ、エセって、完全に年寄りにケンカ売ってますね)続けながらでもいいですので、これまでの人生をもう一度振り返り、よく反省してみることです。

そのような反省が、死んだ後に自分自身を救うことになるからです。(生きている間でも救われると思いますよ。反省すれば性格が変わりますから)

何度も書きますが、これまでやってきた信仰と名のつくものは正しいものではありません。そんなこといくら続けても救われないのです。

お経を上げたり、仏像を拝んで(偶像崇拝)いる暇があるなら、これまでの人生をよく反省してみることです。

そのような反省を続け自分の心をきれいにしていくことこそ、本当の信仰であるからです。

(年寄りは、よほどの刺激を与えないと考えを変えません。〔何せ我が強いですから〕だから、これから間違いは間違いとはっきり書いておきます。年寄りは時間がない人が多いと思うからです。それは特別、年寄りだけではないかもしれません。現在の日本には、これだけ多くの天罰が下っているからです)

追伸…北朝鮮が水爆実験を行ったということで世界中が大騒ぎですね。

専門家が出てきて、あれこれ深読みしていますが、それほど深く考えてのことでしょうか?

あの若い指導者が後先考えず、いまだけ見て(半分)思い付きでやっているんではないでしょうか。

独裁が強くなればなるほど、視野は狭くなるからです。(だってどう考えても、今そんなことして北朝鮮が得になることなどないでしょう)

実験したのが水爆ではないのではないかとか、いろいろいわれていますが、どちらにしても北朝鮮がやばい爆弾を持っているのは確かなようです。

さて、どうしますかね。日本を含めた国際社会は。

視野の狭い独裁者が、やばい爆弾を持っていることほど危ない状況はありません。やけくそになりいつそれをぶっ放すか分からないからです。

どうされますか?人間だけで大丈夫なんでしょうか?もし、やり方を間違えたら地球が壊れるかもしれませんよ。何せ相手は原爆の数十倍、数百倍の水爆なんですから。

こういう時は神に頼るのが一番です。(それが一番安全な方法なのです)

国際社会で対策を練り、北朝鮮に圧力をかけるのは当然しなければいけませんが、そこで神に祈らないと、北朝鮮は何をするか分からないのです。(神の導きもなくそれをやると、どう転ぶか分からないのです。最悪核戦争になるかもしれません)

このようなことも神の導きかもしれません。最悪の事態を回避するためにも、北朝鮮の横にある日本で、本当の神の教えを拡げなければいけないのです。

もし、ここで日本に神の教えが拡がるなら、その神の光は北朝鮮にも届くからです。(そうすると神が北朝鮮を導いてくださるということです)

私一人がいくら祈っても、北朝鮮を動かすほどの光は放てませんが、もし、日本の多くの人が法に目覚め祈るなら(日本だけではなく、どこの国でもいいんですが)北朝鮮を動かすほどの神の光を放つことが出来るのです。

その光が届けば北朝鮮は正しく神に導かれることになります。

多くの人の正しい祈りが、北朝鮮を正しく導くのです。

核戦争を起こしたいのですか?

日本の人々が法に目覚めるなら、世界を救うことが出来るのです。(ということは、今のままだと非常にやばいということです)

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1月 06 2016

陋習(ろうしゅう)を破れ

しかし、新年二日目からすでに全開バリバリですね。(暴走族じゃないんですから。〔苦笑〕)

いつまで人のせいにして八つ当たりしているのでしょう。哀れなものです。

人のせいにいくらしたところで、困っているのは自分たちなのです。怒っていても仕方ないのではないでしょうか。

「恐ろしいことが起きているので助けてください」なのではないでしょうか。

それ以外もう救われる道はないと思うからです。(行ったのか行かなかったのか知りませんが、お参りやお祓いもまるで効果がなかったようです)

それほどお困りなら救われる方法を書いておきましょう。(私は慈悲深いですから)

その恐ろしい現象を止めたいのであれば、これまでやった嫌がらせなどの悪いことをよく反省することです。そうして、もうこれからは嫌がらせなどしませんと、神に誓われることです。

そうして、私に「うるさくしてすいませんでした」と謝りに来て(そういうことは、文句をいいに行くとちょこちょこしていますがうわべだけです。心から悪かったと思わないといけないのです)「いつもブログを読ませてもらっています」と感謝して布施されることです。(布施の金額ですか?もちろん多ければ多いほどいいです。〔笑〕)

それをされるなら私も「どうぞこの人たちをお救いください」と神に祈ります。

そうすれば、その災いは起きなくなるでしょう。私が祈ると何か奇跡が起きるからです。

他の人たちも同じだし(最近は運転手だけではなく、いろいろな会社の人たちまで変ですから)どこかの中学生たちも同じです。どれだけ私から逃げたところで神からは逃れられないのです。(すべて見通されています)

どこにいても、心が悪い限りは、恐ろしい現象は現れてきます。もう反省するしかないのです。

反省し布施されたらどうでしょう。そうすれば、その恐ろしい現象は止まると思うからです。(中学生や小学生まではいいですが。そのかわり小、中学生は心を入れ替えよく勉強することです)

もう本当の信仰をしないと危ない時代になったのです。偽の信仰をしていてはダメどころか、どんな悪いことが起きるか分からない時代となったのです。

だから、そのような偽の信仰をしている人たちに次々と災いが起きているのです。

それを皆さん方は、みな私のせいにして嫌がらせを続けているのです。

反省するのは当然のことなのではないでしょうか。

自分たちが悪かったにもかかわらず(偽の信仰をし続け、無神論を信じ神を神とも思わなかったのですから)その間違いを認めようとせず、その自分たちの間違いで起きてきた天罰を、みな私のせいにして、そのせいで起きてきた天罰まで私のせいにして、まだ嫌がらせをし続けているのです。

どれだけ罪を重ねるのですか?悪いのは最初からあなたたちの方であったのにです。

最初から自分たちが間違ったことをしていたのです。

無神論をいっている人は論外ですが、信仰をしているといっている人でも、私のような奇跡が起きる人がいたのでしょうか?(私以外で、私のように鳥や魚が寄って来る奇跡を現した人は見たことありませんが…)

熱心にお経を上げている人がいますが、それだけ熱心にお経を上げて、それで奇跡が起きたのですか?

一生懸命仏像を拝んでいる人がいますが、それで奇跡が起きたのでしょうか?

誰一人私と同じ奇跡など起きている人はいないではないですか。(私など毎日奇跡が起きています)

それなのに、どうして、そのような信仰がおかしいと思わなかったのですか?

自分の信仰に疑問一つ持たず、昔から、多くの人がそのようにしているから、それは正しい、ただそう思っていただけではないですか。

なんでそんな考え方が正しいのでしょうか?

それは思考停止というのであって、それは正しい考えではないのです。

普通であるなら、昔から信仰といわれているやり方をしていても、なにもよいことが起きない、では、この信仰といわれているやり方はおかしいのではないのか、このようなことが本当の信仰ではないのではないのかと疑問を持ち、正し信仰とは何かともっと考えないといけないのです。

しかし、そのような努力など一切しようとせず、ただ昔からこうしているから、このやり方でいいのだと、思考停止をしたまま、何も起きない(不幸が起きていることも多いようですが)信仰とは名ばかりのエセ信仰をし続けているのです。

それは悪いことではないのでしょうか?

神に背いていることにはならないのでしょうか?

多くの人々は、そのような神に背く行為を未だにし続けているのです。(自分の怠慢〔たいまん〕で偽の信仰をし続けているのですから、これだけ神に背く行為もありません)

これほど悪いことをし続けていて「自分が悪くない」など、どの口がいうのでしょう。とんでもありません。この日本の人々は、大変な罪をつくり続けているのです。(おまけに無神論の人も多いときています。もう目も当てられませんね)

だから、日本中でサイレンが響いて来たのです。(この前のウナッシーさんのコメントを見ると、静岡でもサイレンが聞こえているようですが)

日本中で神の業が次々に現れだしたのです。いつまでたっても神に背く行為を日本の人々が続けているからです。(この現象を、私一人のせいにしているというのですから、この辺りの人たち凄まじいですね)

もうこれまで通りの(間違った)ことをしていては、次々に病気になるのです。そういう時代となったのです。

それなのに、声を上げなくていいのですか?

病気になるのが分かっていて(神の業が現れることが分かっていて)それでもこれまで通りのことを続けていてよいのでしょうか?

私はよいとは思えません。気づいた人が声を上げるべきだと思います。

そうしないと、日本のどれだけ多くの人が恐ろしい病気にかかるか分からないからです。

これまでの陋習を破らないといけない時期に来ています。

もう何も意味がないことを続けていても、災いが起きるだけなのです。

それなのに何もしようとしないのですか?

それでは、そのような人もまた災いを受けることになるのです。

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1月 05 2016

反省の大事さ

今日から、この辺りの会社も仕事始めのところが多いようです。

朝方、少々うるさくしていましたが、今のところは静かですね。どこかの会社もです。(多少はやっていますけど。〔苦笑〕)

でかい塀もつくったことだし、少しは心も変えられたらどうでしょう。そうすれば災いも減ってくると思うからです。

災いばかりではなく奇跡を起こす方法は、そのように心を変えるしかないのです。

今年もたくさんの人が初詣に出かけているようですが、毎年、毎年、多くの人が初詣に出かけ「今年はよい年でありますように」とか「今年はよいことがありますように」とか祈っているのに、よい年であったためしがありません。(去年も異常気象やおかしな事件や事故などで多くの人が不幸になりました)

それだけ多くの人が毎年、年の初めに幸せを祈っているのです。そうであるなら、もっと不幸な人は減らないといけないはずですが、一向に不幸な人は減る気配がありません。

では、そのような祈りは意味がないのではないか、と思われないでしょうか。

もし、そのような祈りがきかれているのなら、これだけ多くの人が幸せを祈るんですから、もっと日本全体がよくなってもおかしくはありません。

しかし、よくなるどころか、特にここ数年は天変地変が激しくなって、災難を受ける人が増えているのです。

そのような天変地変が増えているということは、そのようなことは逆に神を怒らせているのではないですか?

もし、神に喜ばれているのなら、天変地変は減るはずだからです。

どうですか、何かおかしくないですか?

初詣は欠かさず行っているという人も多いのかもしれませんが、では、そういう人たちに何か奇跡でも起きたのでしょうか?

それだけ年の初めには、お寺や神社にお参りしているのなら、さぞ神や仏も喜ばれ、奇跡の一つや二つ起こしてくれてもよさそうなものですが、毎年、初詣に行っても、奇跡的なことが起きた人はほとんどいません。

それどころか不幸になった人もいるのです。(初詣の帰りに交通事故で死ぬ人もいるくらいですから)

多くの人が、それだけまじめに参詣しているのに、なぜ神仏は願いを叶えてくれないのでしょう?

願いを叶えてくれないどころか、そのような初詣に行ったばかりに不幸になる人もいるのです。

なぜ参詣している人たちが、かえって不幸になっているのでしょうか?

このブログを読んでいる人ならもうお分かりだと思います。

心を変えないからです。心を変えようとせず、祈っているから神仏は願いをきいてくれないのです。

むしろ、そのようなことをしている人たちを不幸にするのです。それがその人たちの気づきとなるからです。

考えてみてください。

心を変えようとせず、ただ祈っているだけということは、心が汚いまま、そのような都合のいい祈りをしているだけということになります。(まさか、自分の心がきれいだ、などと思っている人はいませんよね。何の奇跡も起きないのにです。心がきれいなら、釈尊やキリスト同様、奇跡が次々に現れてきます)

そのように祈っている人たちが、心が汚いということは神仏にはすぐに分かります。

そうであるなら、そのような自分の汚い心をきれいにもしないで、神仏に「よい年にしてくれ」とか「よいことを起こしてくれ」といくら祈っても、神仏は『まず先に自分の心をきれいにせよ』といわれないでしょうか?

それはこの世の人でも同じでしょう。

自分が悪いことばかりしているのに、それを直しもしないで、自分によいことをしてくれといったところで、誰もそんなことは聞いてくれません。

まず、お前が悪いことをやめろ、と誰でもいうはずです。

神仏もまったく同じなのです。

自分がやることをしっかりやっていないのに(まず自分を正す、自分の心をきれいにする。〔反省〕)神仏がそのような人の祈りをきくことはないのです。(ただし、これから反省すると誓って祈るのであれば、その祈りがきかれることもあります。それもすべて、その人の心次第なのです)

だから、多くの人が幸せを祈っても、その祈りがきかれないのです。多くの人が、自分の心が汚いまま祈っているからです。

ただの他力本願になっているからです。(こういうことを考えましても、他力本願で祈りがきかれるはずがないと分かります。そんな自分勝手な祈りもないからです)

だから、反省しないといけないと私はくどいほどいっているのです。反省しなければ、心はきれいにならないからです。

心のきれいな人ばかりで幸せの祈りをするなら、その願いは本当に叶うのです。

釈尊やキリストのような心の人が百人も千人もいて、そうして「今年はよいことがありますよに」と祈られたら、本当にその年はよいことが起きると思われないでしょうか?

釈尊が一人いるだけでも多くの奇跡が起きるのです。

では、そういう人が百人も千人もいるなら、どれだけ多くの奇跡が起きるか分かりません。

そういう心の人がたくさんいて「今年はよい年でありますように」と祈りば、その年は多くの奇跡が起き、本当によい年となるということです。

今のように、心を少しもきれいにせず、祈っていることの無意味さが少しはお分かりいただけるでしょうか。

多くの人は、そういう意味のないことをこれまで長々と続けて来たのです。

変わりませんか、今年からです。(「過ちては改めるに憚〔はばか〕ることなかれ」です。「過ちを改めざる、これを過ちという」です)

心のきれいな人が増えるのなら、今年は本当に、よいことが起きる年となります。

それには多くの人が自分の悪いところを反省する、それだけのことなのです。

それだけするなら本当によい年となるのです。

人のためではありません。自分のために反省するのです。

しかし、その自分でする反省は、結局、多くの人のためにもなるのです。

追伸…そういう反省を全然しようとしないから、今年も(去年や一昨年同様)やばい年になるのです。

小さいことをいつまで気にしているのですか?(この大宇宙から見たら、私たちの周りで起きていることなどどれも小さなことです)

そのような小さな心が災いを招いているのです。その災いは決して人のせいではありません。

自分が自分で、その災いを招いたのです。(自分の心が汚いばかりにです)

法を説いている者に嫌がらせなどもってのほかなのです。そんなことを続けているから、災いが起きるのです。

法を説く者に従った者にはちゃんと奇跡が起きています。(それもほんの一部従っただけでです)

法を説いている者によいことをされてはどうですか?

そうすれば、災いどころか、奇跡が次々に起きるようになるからです。

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1月 04 2016

心の向き

今日から仕事始めのところが多いのでしょうか?

しかし、この辺りの会社はまだ休みのところが多いですね。このままずっと休んでくれたら有難いのですが(ほんと、静かでいいです)そういうわけにもいかないでしょう。(笑)

仕事始めの前に、この辺りの会社の人たちは、今年は悪いことが起きませんようにと、お祓いにでも行った人が多いのではないでしょうか。(あまりにも悪いことが起き続けていると思うからです)

マァ、どちらに行かれてもそれは自由なのですが、ただ、どこに行ってお祓いをしても多分、今年も悪いことは起きると思います。

そんな無駄なお祓いなどされるより、心を入れ替え、これまでのことをよく反省し、私に布施などされてはどうでしょう。(このブログもよく読まれていることですし)

そうすれば恐ろしい災いも今年は起きることはないと思うからです。(心の向きが変わるからです)

それをされてはどうでしょう。それが一番の災いの起きない方法であるからです。

マァ、それこそいうだけ無駄ですかね。そういう無駄な話はこれくらいにして、今日から国会が始まるそうですね。(ずいぶん早いです)

参院選の話題が早くも新聞に出ていますが、今年から国会議員の方々も少々心を入れ替え、あまりくだらない議論を長々と続けるのは、なしにしてもらいたいものです。(例えば、細かいことになん癖つけてのけなしあいのようなです)

そういうことは時間の無駄でしかないからです。

国会での正しい議論を期待します。そのような正しい議論が続くのであれば、国会にも奇跡が起き、そのような政策を行えば日本にも奇跡が起きるからです。(もう、どこにでも、誰にでも奇跡が起きる時代となったからです)

この半年間の国会での議論を注視しましょう。

もしこの間、全然奇跡的なことが起きなければ、そんな国会議員はダメだということで(心が悪すぎです)今度の参院選を衆参ダブル選挙にしてもらい(安倍総理お願します)国会議員、総入れ替えみたいなことをしてもよいと思うからです。(総入れ替えは出来ないんでしょうが、大幅な入れ替えです。出来るだけ現職を落とすような票の入れ方を有権者がすればいいのです)

とにかくもう口でいいことをいうだけで、心が悪いような人が国会議員をやられていては国民が迷惑です。

これからは、自分たち有利の政策ばかりでなく、そのような国会議員の心まで有権者は観た方がいいでしょう。そうしなければ、心そっちのけで口でいいことをいっているだけの国会議員の地元などには、どんな災いが起きるか知れないからです。

そのような心が現れる時代となったからです。(だから、その議員の地元に奇跡が現れるようなら、そこの国会議員はよいということになります)

それだけ心の影響が強く現れる時代になったということですが、そういえば、去年の年末の紅白歌合戦は(二部制に移行してから)最低の視聴率だったそうですね。

国民的番組である紅白歌合戦がこれではいけないでしょう。なぜこうなったのかお分かりですか?

マンネリとか、歌手の顔ぶれとか、いろいろいわれているんでしょうが、やはり神への感謝が足りないからです。

去年の後半(十一月くらいからですが)奇跡的なことが起きた人が続出しました。

あれはなぜだかお分かりのはずです。そのような人たちはみな神に(そうして神がつくられたものに)感謝したからです。

そうしたら次々に奇跡が起きたのです。

では、紅白をつくる側も、そうして、その紅白に出る側もなぜそれをされなかったのですか?

それをされるのであれば(そのように心の向きが変わるだけで)何らかの奇跡が起き、視聴率も最低などということにはならなかったからです。

あの紅白の人たちが神に感謝され、そうして「神よ、どうぞ私たちを正しくお導きください」と祈ればよい案がたくさん出てきて、歌手の人たちにも奇跡的なことが起きて、異様な盛り上がりとなることも可能であったのです。

そのように祈るだけでも天が導いて下さるからです。

嘘ではありません。あの奇跡的なことが起きたスポーツ選手の人たちも、その程度のことしかやっていないと思うからです。(少し心を変える程度のことくらいしかです)

しかし、それでも奇跡的なことが続出したのです。

では誰であっても、少しそのような心になるだけで奇跡は起きると思われないでしょうか?

少し正しいことをするだけで十分奇跡は起きるのです。それだけ心を神に向けるということはよいことであるからです。

逆にいうなら、それだけ神にソッポを向いているということは不幸なことなのです。神から力をいただけないからです。

しかし、その神の方に心を向け、神の力を少しでもいただけるのであれば、それだけでもう奇跡的なことが起きるのです。それだけ神の力とは偉大であるからです。

ですから、もっと多くの人が神に頼ればいいのです。そうれば多くの人に奇跡が起き、幸福になれるからです。(ずいぶん低迷しているテレビ局もあるようですが、少し神に祈られたらどうですか?それだけでもよい兆しが現れてくるからです)

しかし、それもこれも自分の心をまず変えないといけないのです。心を変えないと神を思う心にはならないからです。(無神論のままでは神などとても思えませんから)

これくらい書けば、私が心のことをなぜこれほどいうのかお分かりいただけると思います。

心を神に向けるだけで奇跡は起き、そうして、その心をきれいにするなら、きれいにすればするだけ、その神の力は大きくいただけることになるからです。(だから、釈尊やキリストは、祈って大自然を動かしたり、様々な奇跡が現れたりしたのです。あのような偉大な方々は、心が完全に神の方を向いていて、そうして誰よりも心がきれいであったからです)

心の向き、そうして心をきれいにすることの大事さが、少しはお分かりいただけるでしょうか。

心の向きを少し変えるだけでも奇跡は起きます。

その心の正しい向きを教えているのが、この法なのです。

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