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1月 03 2016

功徳を積む

やっとひどい二日酔いも収まってきたようです。(苦笑)

こんなにひどい二日酔いをしたのは何十年ぶりでしょう。(さすがにもうそれほど飲みませんから)本当に年末年始はひどい目に遭いました。

説き足らない部分をほっといた私が悪いのですが(それにしても、もう少し優しく教えてほしいものです。〔笑〕)今年の目標はより多くの人から布施をもらうことです。(もちろん金額ではありません。それがこの世とあの世の違いです)

その目標が達成できないと、また今年の年末は何が起きるか分かりません。(怖)

出来たら早めにその目標は達成したいものです。(笑)

しかし、やっと神の存在に気づき始めた人も出てきたようです。(ようやくですが)では、布施の大事さも理解していただかねばいけないでしょう。

それが一番神が喜ぶことであり、また自分にとっても一番の功徳となるからです。

その布施の話ですが、去年の年末くらいでしたか、一千万円の寄付を福島かどこかにしたプロゴルファーがいたようですが(よいことを教えてくれた人には一銭も寄付しないんですね。〔苦笑〕)こういうことはもちろんよいことです。

よいことではありますが、これがもし売名という心が少しでもあるなら、その価値は下がります。

寄付をするのであれば、真から「困っている人のために」という心のみで行うことです。そうしなければ功徳は得られないからです。

そういう意味では、このように表に出さず、裏で寄付を行っている人もいることでしょう。そのような人こそ、真に功徳を積んでいる人といえるのです。

このような功徳を積むことを意味がないと思っている人もいるかもしれませんが、とんでもありません。

このよう功徳を積むことは、この世的にいえば、これ以上の投資はないのであり(しかも先に行けば確実に得をするです)株などに投資するより、よほどよいことであると自覚すべきなのです。

政府はずいぶん投資を勧めているようですが、株への投資などは、その株を勉強するために行うのであればよいのですが、株で儲けようとして投資するのであればやめておいた方がいいでしょう。

大してお金がない人が株をやり、一時は儲けることが出来ても、最終的には損をすることになるからです。(株は超金持ちしか儲からない、元々そのようにつくられているからです)

そんなものに投資するより、功徳を積まれた方がいいでしょう。そのような心の投資の方が確実に得をえることになるからです。(功徳を積むなら、その功徳は天に積まれて行きます。キリストは「天に蓄えられたものには盗人も近づかず、虫に破られることもない」といわれていました。だから功徳は絶対に減ることのない、増えていくばかりの投資であるのです。その功徳が後々自分を救うのです)

金を一生懸命稼ぐのもいいでしょう。しかし、金はあの世に持っては行けません。では、その金をどうするのですか?(明日死ぬかもしれないのにです)

何かあった時のためにためておく、確かにそのように貯金しておくのも大事なことです。しかし、必要以上に貯金などすれば、それは執着につながります。

自分の稼いだ金は自分の為だけに使う、自分で稼いだ金なのですから、それはご勝手にということですが、それではあまりに狭量なのではないでしょうか。

その自分で稼いだ金も、そのような稼ぐ場所があり、稼がせてくれる人がいて、そうして稼げるものであるからです。決して自分一人で稼げるものではないからです。

そうであるなら、その自分で稼いだ金を自分のためだけに使うというのは、考えが狭いのであって、その金の使い方が問題なのではないでしょうか。

自分で稼いだ金を、自分の為だけに使うのではなく、その一部でいいですから、人のために使う、そのようなことで功徳を積むことが出来るのであり、そのような心こそ、一番大切なことであり(生きている間はもちろんのことですが)自分が死んだ後、天上界に行ける道であるということです。

お経を上げたり、仏像を拝んだりすれば救われるのではなく、そのような功徳を積むことが一番自分が救われる道なのです。(そこはお間違いのないように。奇跡が起きている私がいうのですから間違いないでしょう)

その功徳を積むことが一番出来る方法が、法を説く人への布施なのです。(それは釈尊しかり、キリストしかりでしょう)

法を説く人が一番多くの人を救えるからです。だから、法を説く人に布施することが一番功徳を積むことになるのです。

現に私のブログを読み、心が救われた人はたくさんいるはずです。奇跡が起きた人もいるはずです。

それはすでに、そのような人たちを救っているということなのであり(もっというなら、災いが起きている人も救っているんですけどね。心の部分だけ観れば)そのような結果だけ見ても、これまでとは違うということは分かるはずです。(本当の神の教えを説く人と偽の教えを説いている人との違いはです。起きてくることがまったく違っているからです)

では、そのような結果に対する報恩の行為はしないといけないのであり、そのような法を説く人への報恩の行為は、そのまま自分の功徳を積むことにもなるというのですから、法を説く人への布施はこれ以上の得なことはないのです。(この世的にいえば、年末と年始の大安売りが一緒に来たみたいなものですから。〔笑〕)

もう少し考えを広げられてはどうでしょう。

そうすれば、望外の徳が得られることになるからです。

(また、災いを防ぐ手段にもなります。今年は去年以上に災いが現れるそうです。〔法に逆らっている人はです。この辺りの人相当やばいです〕功徳を積むことは、そのような災いからも身を守れるのです。怒ってばかりいないで、功徳を積まれたらどうでしょう。〔このブログを読むだけ読んでいるのですから〕)

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1月 02 2016

今年やらなければいけないこと

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今年は元日早々教えられました。今年やらなければいけないことをです。(ほんと、早いです。〔苦笑〕)

何か年末からおかしかったのです。

去年の年末に、白鳥公園に行くと、そこにいた親子と嫌がらせをした、してないでケンカになって、大きな声でいいあいになりました。(そういうことはたまにあるんですが。〔苦笑〕)その後、胃が痛くなってきて、その痛みが夕方まで取れませんでした。

何か変だなと思っていたのですが、大晦日には昼間にお茶をこぼしてべちょべちょになり、夜は夜で紅白歌合戦を観ながら、焼酎を飲んでいたのはいいんですが(水割りを週に一、二度くらい飲んでいますので)飲みすぎてしまって、その後(ゆく年くる年を見ていたくらいでしょうか)気持ち悪くなって、トイレでゲーゲー吐きまくりました。

今年は、除夜の鐘をトイレで吐きながら聞くという最悪のスタートを切ったのです。(笑)

「今年は出足最悪だな」と元日の昨日は思っていました。(あのウナッシーさんのコメントを書いている時も二日酔いで凄く気持ち悪かったです)

年末から正月にかけて悪いこと続きです。「去年なんか間違ったことしたっけ?」と去年のことを寝ながら振り返っていました。

あれだけ奇跡も起きて(災いも起きたんですけどね)それで間違ったこともないだろうと思っていたのですが、その時、フッとあることを思いだしたのです。

その思いだしたこととは、先月は毎月払っていた借金の返済を払い忘れていた、ということでした。

「アチャ、借金の返済まで忘れているよ。こりゃ本当に最悪だわ」と思っていたんですが、しかし、何かおかしいのです。

何がおかしいかって、この払い忘れた借金の返済のことです。

この借金の返済を、私はもう五年も六年も続けているのです。(昨日、今日始めたような返済ではありません)そうして、これまで一度も払い忘れたなどということはありませんでした。

ところが先月は、その返済をすっかり忘れていたのです。

いくらなんでもおかしいでしょう。これまで毎月、月末になれば借金の返済はしなければいけないと覚えていたのです。

少なくとも二十日過ぎれば必ず一度や二度、借金のことは思いだしていました。それが先月は逆で、二十日くらいまでは借金の返済を覚えていたのですが、二十日過ぎたらまったく忘れてしまっていたのです。

「こういうことがあるのか?」と益々不思議でした。

年も年だから物忘れが激しくなったのかな、とも思いましたが、どちらにしても、こうお金が入ってこないと借金の返済もままなりません。

体調は悪いし、借金の返済は忘れるし、お金も入ってくるあてはないし、何か今年は最悪のスタートだなと思っていました。

何で法の流布をやっていて、これだけスタートが悪いのか、と少し落ち込んでいたんですが、なぜ、このような悪いことが年末から年始にかけて立て続けに起きたのか?

その理由を、私はその夜に知ることになったのです。

二日酔いも昨日の晩にはだいぶよくなって、晩飯も少し食べました。(朝食と昼食は気持ち悪かったので抜いたのですが)

晩飯を食べたのは食べたんですが、まだ体調がよくありません。それで少し早めに寝たのですが、寝る前に少し祈ったのです。

「神よ、そして天上界の皆様方今年もよろしくお願いいたします」と今年初めてのしっかりとした祈りをしたのですが、その時でした。

そういう祈りをしたとたん、胸の辺りにぽっかりとある言葉が浮かんできたのです。

その言葉を知って、私になぜ年末から年始にかけて悪いことが続いたのか、そうしてこれまで毎月、払い続けていた借金を払い忘れたのか、その意味が分かりました。

それもすべて、天上界からの導きであったのです。

そのぽっかり浮かんできた言葉とは『布施をもらわないといけいない』ということでした。

私は、その言葉を知ってハッとしました。確かに私はこれまで布施をしっかりもらっていなかったからです。

だから、これだけ今も困っているのですが「そうか、それが悪かったのか」とその時初めて分かったのです。

私は去年まで、あまり布施のことばかり書いてもいけないと思い、それほど布施のことを書きませんでした。

しかし、たまに布施してくれということは書いているのですから、それくらい書いておけばそれで十分であり、そう書いているのに布施してくれないのは、それは布施してくれない人が百パーセント悪いのであって、こちらのせいではない、と思っていたのです。

ところが、そうではなかったのです。

毎日、このブログを読んでくれている人は百人近くいるのに、それなのに、布施してくれる人が一人か二人しかいないということは、それは伝える側に責任があるのであって、布施の大事さをしっかり説いていない、布施に対する説明不足であるということなのです。

その足りない部分を五年も六年も放置していて、それはむこうせいと思っているのは、ただの責任転嫁なのであり(私もやっていました、責任転嫁をです)その説き足りない部分を年末から年始にかけて教えられたのです。

だから年末から悪いことが続いたのであって、もっというなら、先月忘れた借金の返済もそうでしょう。

絶対に忘れないことを忘れていた(金に対するです)そのような順序をもらったのも、天上界が私の説き足らない部分を知らせるためであったのです。

それを、その浮かんできた言葉によって知ったのです。

よく考えてみれば、もう、法を説き始めて五年も六年もたつのです。そうして、天は私の求め(祈り)に応じて次々と奇跡を現してくれました。

それなのに、私は布施の一つもまともにもらえないのです。(去年でも布施をもらったのは、ウナッシーさんをはじめ賛助会員の方々と、電話で相談を受けた一人、二人の人からだけです)

それでは天も怒りますし、その布施をもらえないということは、私がダメになるだけではなく、そういう報恩の行為をしない人もダメになるのであって、そういう中途半端な法の伝え方をしていては、結局、法を知った人まで不幸になるのです。

そこが足りなかった、そのこれまで説き足りなかった部分を、今年の元日に知らされたということです。

ということで、今年は布施の大事さを、もっとしっかり伝えていこうと思っています。

布施する大事さをしっかり伝えないと、法を説いている私も、その法を聞いて奇跡が起きた人たちも結局、不幸になるからです。(お蔭だけもらって報恩の行為がないからです)

今年も初詣に行く人は多いのですが、そういうところでお賽銭を上げて「今年はよい年になりますように」といくら祈ってもお蔭などありません。

しかし、法を説いている人に布施するなら(布施しなくても奇跡が起きているのですから)確実にお蔭はあります。

今年の初めに一番よいことを実践されたらどうでしょう。(法を説いている人に布施することが一番よいことです。それは釈尊やキリストに布施することと同じだからです)

そうすれば、今年は本当によい年になるからです。

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12月 31 2015

本当の成長戦略

さて、今年も今日が最後となりました。

今年は(正確には今年もですが)災いばかりが起きている気がしていましたが(だから、今年の私が思った漢字は異常の「異」にしたのですが)最後にバタバタと奇跡的なことが連続して起こり(有名な人たちにですが)法の偉大さを改めて感じました。

やはり、この法が拡がれば、あちこちで奇跡が起き幸せな世の中が実現すると確信しました。

来年は多くの人に奇跡が起きる、そのような年にしたいものです。(ということは、幸せな人が増えるということですから)

しかし、もうこれからは「奇跡が起きないような人はダメ」といわれる時代になります。奇跡が起きるのが当たり前の時代となってくるのです。(法の世とはそのようなものです。神の世がこの世に実現するからです)

奇跡が起きないということは、それだけ心が汚いということなのですから、もうどれだけ口でよいことをいっても、その人にまったく奇跡的なことが起きていないのであれば「あの人は口だけだ」とか「口だけは達者だが、腹は悪い」とか思われ、信用されなくなります。

そのような時代が近いうちに来るのです。

というか、もう来ているのかもしれませんね。そういう奇跡を現す人たちがあちこちから出て来ているからです。

最低、自己最高くらいの成績は上げないといけません。本当に心が変わるのなら、これまでの(仕事や学業を含めた)成績など簡単に超えて行くくらいの能力は出せるからです。

これまでは最低の心でやって来ているのです。だから、これまでの自分たちが出している成績など自分の能力からみて最低のものでしかないのであって、法を知って、少し心がよい方に変わるだけですぐに成績などよくなります。

最低の心では、自分の能力などほとんど出せないからです。(だから、すべての人がまだまだ伸びる要素があるということです。年に関係なくです)

そう思うと、奇跡が起きないどころか、災いが起きている人たちの心など一体どれだけ悪いのでしょう。人として最低ですね。(また、こんなこと書くといじめられますが、本当のことですから)

早く、責任転嫁と傲慢な心を捨てられたらどうでしょう。少し神を思い感謝するだけで、奇跡的なことが起き出した人はたくさんいるからです。(人としてずいぶん差がありますね。〔苦笑〕)

よく考えてみてください。

この世で奇跡が次々に起こり、幸せになれるということは、死んだ後のあの世でも幸せになれるということなのです。(この世とあの世は連続していますから)

そうしてそれは、自分に縁のある人たちまで救うことになるのです。(生きている人も死んでいる人も含めてです)

そういう人が身近にいれば、何であの人あんなに奇跡的なことばかり起きるの、ということになり、その奇跡が起きている人のマネをする人や「何であなたにはそんなに奇跡が起きるのか」と聞きに来る人も増えるからです。(友達に〔または身内でもいいんですが〕奇跡が起きていれば、誰だってそれを聞きに行くでしょう)

この世で奇跡が起きる人が増えれば、その人たちに縁の深い地獄に堕ちている霊たちも、それを観て反省し、そのような人たちも救われて行くのです。

奇跡が起きる人が増えれば(この世とあの世を含めた)すべての人が救われて行くという「正の連鎖」が始まるのです。

よいことだらけなのではないですか?こうなるとほっといても世の中が(物心両面で)よくなって行くからです。

本当の成長戦略とはこういうことをいうのであり、女性の活用とかなんとか、一方を壊して(女性をみな社会に出したら家事や育児は誰がやるのですか?それでは家庭が壊れてしまいます)一方を成長させるなどというやり方は間違っているのです。

皆がよくならないと、本当の成長戦略ではないからです。(そうしないと一億総活躍社会にはなりませんし)

皆が能力を伸ばしたら、社会は黙っていても成長して行きます。女性をそれほど社会に活用させなくてもよいのではないでしょうか。

女性は女性としての本分である、家事育児をしっかりやってもらえればよいのではないでしょうか。そうすれば、これもまた黙っていても少子化問題も解決していくからです。

だから、本当の成長戦略をやりたいのであれば「法を拡げる」これをやらないといけないのです。法を拡げることこそが(どこも壊さない、すべての人が救われる)唯一の本当の成長戦略であるからです。(しかも物心両面で成長するです)

この法のよさが少しはお分かりいただけるでしょうか。(何度説明してもお分かりいただけないようですが。〔苦笑〕)

法はどこをどうとっても、よいことしか起きないのです。(もちろん災いも含めてです。そのような現象が現れることで、その人の心を向上させるからです)

この法のよさを多くの人が理解して、実践される人が増えれば、当然、奇跡も増えると思いますし(ということは災いが減るということです)自分の能力を伸ばす人もたくさん出てくるのです。

そうすると、来年の漢字は、奇跡の「奇」か、または(そういう奇跡が起きる人が増えれば、それは幸せになる人が増えるということですので)幸せの「幸」が選ばれるということになります。

そういう年にぜひ来年はしたいものです。

来年は心を成長させる年、奇跡をたくさん現す年、多くの人が、そのような実感を持ち行うならば、来年はこれまでとは劇的に変わり、この日本に多くの奇跡が現れることになるでしょう。

そのような年になることを願わずにはいられません。(もう災いはいらないでしょう。げっぷが出るほどいただきました。〔苦笑〕)

今年はありがとうございました。よい年をお迎えください。

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12月 30 2015

救われる人と救われない人

新しい年を迎える準備が着々と進んでいるようですね。

お寺や神社で、すす払いだの大掃除だのやっているのをニュースでよく見ます。

こういうの見ると年の瀬を実感するのですが、初詣の客(参拝者というより客といった方があっているような気がするんですが…ほとんど商売でしょう、こういうことは)を見込んでの準備といったところでしょうが、私は何もこのようなことを全否定するつもりはありません。

古いお寺や神社(このような場所は昔から遺る日本の文化の貴重な資料ですから)の維持管理費は当然かかると思いますし、墓の管理も必要でしょう。(日本は人の骨をそこらに捨てるわけにはいかないのですから)

だから、いろいろ経費がかかるので、お賽銭や寄付などしてはいけないとはいいませんが、そういうことと心の救いは別であるといっているのです。

そういうことは、そういうこととして一つの善の行為であることは確かですが、心をまったく変えようとせず、そのような行いだけしても、それで救われることはありません。

そのようなものは信仰ではないからです。

だからお蔭がなかったのです。多くの人が信仰をしていると思っているだけで、それは本当の信仰ではなかったからです。

何度も書きますが、信仰とは自分の心と行いを(よい方に)変えることであり、それが出来て初めて救われるのです。

例えば、自分が小さなことばかり気にしているようなら、小さなことなど気にしないようにしてみる。

自分が引っ込み思案であるなら、少し積極的に人前に出るようにしてみる。逆に、自分が出すぎていると感じたなら、少し控えめにしてみる。

自分が下らないことをいつまでも根に持つタイプであるなら、そのような根に持つ心をもっとさっぱりした心に変えてみる。物事を悪く悪く考えるタイプであるなら、物事をよい方よい方に考えるようにしてみる。

とにかく何でもいいのです。

少し自分を振り返り、そうして、もしかしてこのようなところは自分の悪いところかもしれないと、思えるところがあるのなら(まずあると思いますよ。普段奇跡が起きない人はです)それを変えてみることです。

そうすると、周りに起きることが変わってくるからです。

それでよいことが起きてきたのなら、自分が変えたことは間違いではなかったと確信し、そのような心をもっと進めるのです。すると、なおよいことが起きてくるのです。

そのようなことが即、実感できる、そのような時代となったからです。

そうなれば、それが本当の信仰であると実感できるわけです。お蔭がすぐに現れるからです。

これまではお経を上げたり、仏像を拝んだりするのが信仰であると思ってきたわけですが、そのようなことは本当の信仰ではなかったのです。

だからお蔭がなかったのです。本当の信仰をしていなかったからです。(だから先ほど書いた、お寺や神社などのお賽銭をあげてのお参りや寄付は、一つの善の行為ととらえるべきなのです。それが信仰ではないからです)

もちろん祈りや反省禅定はありますが、それを元に自分の心と行いを変えること、それが本当の信仰であったのです。

私など昨日は久しぶりに白鳥公園に行きました。(最近は庄内川ばかり行っていますので)

すると、横の堀川などにカモメやら他の水鳥やらたくさんいました。白鳥公園の中に池があるのですが、そこにもカモメがたくさんいます。

その池の方に歩いて行くと、その池にいたカモメたちが急に飛び上がり、私の周りを飛び交って近くに何羽も下りてきました。池の中に下りたカモメたちも大騒ぎしています。

久しぶりに私が行ってカモメたちが大喜びしているのがよく分かりました。

そこは動画に撮りましたので、そのようなカモメたちの態度が嘘ではないと分かっていただけると思いますが、そこらにいるカモメたちでもそうです。

心がきれいにな人が行けば、大喜びするのです。(もちろん、すずめなどの他の鳥たちも同じです)

本当に可愛いものですが、少し心を変えるだけで、このような愛ある光景がどこにでも現れるのです。

本当の信仰を多くの人がするのであればです。

それなのに周りにいる人はどうでしょう。その光景を無視しているか、怒っているかのどちらかなのです。(「怒るってどうよ」と思いますが。〔苦笑〕)

「何でお前ばかり」というねたみやひがみの心がありありと分かり、嫌がらせをしてくる人までいるのです。(動画を撮っていると、ゴホゴホ、ガハガハやってくる人がいます)

本当に情けない人たちです。そういうことをばかりしているから、私のようなことがいつまでたっても起きて来ないのであり、少し心を変えるなら、誰にでもこんな現象は現れてくるのです。

そういう時代となっているからです。

それなのに、そんなことは少しも知ろうとせず、ねたみひがみからの嫌がらせです。本当に進歩がありません。

本当の信仰をされてはどうでしょう。逆にされないと救われない時代ともなっているからです。(今日もサイレンがちょこちょこ聞こえてきます。昨日の白鳥公園の辺りでも聞こえていました)

少しずつでも自分の悪かったところを反省して、よい行いを実践されることです。そうすればいろいろな(小さな)奇跡が周りに起きてくるからです。

心が変われば変わるだけ、そのような奇跡が起きてくるのです。そうしてそのような奇跡が続くようになれば、いずれ大きな奇跡も起きてきます。

心を変えるだけでいいのです。それほど難しい話でもないのではないでしょうか。

もう今年も終わりです。

新しい年を迎えるにあたり、これまでの古い心は捨て、新しい心となって、新しいことを始めてみませんか?(それほどたいそうなことではありません。少し心を変える程度のことなのですから)

これからは、そのような人だけが救われて行くのです。

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12月 29 2015

対機説法(たいきせっぽう)

どこかの会社など日曜日(二十七日)から正月休みなのですね。

こちらは静かでいいのですが、やはり儲けている会社は違います。(何せ年末にでかい塀までつくるくらいですから、休みも長いです)

ゆっくりお休みください。その間に反省しないと来年どうなるか分かりませんし。(その休んでる間にも何が起きるか分かりませんし)

別に脅しているわけではありません。神の起こされる現象に正月休みは関係ありません。だからいっているのです。

そのような儲けている人たちとは違い、私のようにお金を全然儲けることが出来ない者は(苦笑)啓蒙活動を休むわけにはいきません。

だから、ブログを書いて祈り続けているのですが、私の(大きな)祈りもいつかはきかれる時がくるでしょう。(小さな祈りはよくきいてもらえますが)

釈尊は「あの世はあるのですか」と聞かれる人があると、ある人には「あの世はある」と答え、ある人には「ない」と答えていられました。

この部分だけ聞いて、釈尊はいっていることが違うとか、矛盾しているとか思うのは間違いで、釈尊はその人の心にあわせて法を説いていられたのです。

それで人によっていうことが違っていたのです。

心がある程度高い人で、そういうことが理解できると思われる人には、釈尊は「あの世はある」と本当のことを教えていられました。

しかし、心がまだそこまで育っていなくて、あの世のことなどとても信じることが出来ない、想像することすら出来ない、と思われる人には「あの世はない」と答えていられたのです。

まだ心が育っていないと思われる人には、どのように説明しても、あの世のことを理解することは出来ないからです。そのような人は、時を待たないと(心がもっと成長しないと)あの世を理解することは出来ないからです。

そういう人に無理にあの世のことを説明しても、ケンカになるだけです。それではかえって、そのように聞いてきた人の心を後退させてしまいます。

だから釈尊は、人によって説き方を変えていられたのです。

このような説き方を「対機説法」といいます。

ここ数日間は、私はかなりきついことを書きましたが(しかも女性ばかりにです)それは、そのように書いた人たちはそれを理解していただかねばいけない人たちであり、だから、あのような書き方をしたのです。

特に昨日書いた選手など、普通であれば金メダルだけに固執しても、悪いことではありません。(そういう選手はたくさんいるからです)

しかし、あの選手はそれではいけないのです。自分の心の器に比べ、そのような考えは小さすぎるからです。(だから、法を実践しようとしたら、急に調子が悪くなったのです。心と思いがあっていなかったからです)

この選手はもっと大きな考えを持たないといけないのです。そういう使命もあるからです。

だから、その選手にいっておきます。

次の大会までに、私の昨日いったことをよく反省出来ているのなら、その大会ではよい成績があげられるでしょう。(それこそ、この前、男子の選手が出した得点に匹敵するような奇跡も起きるかもしれません)

そのような心になれば天があなたに協力するからです。

しかし、よく反省出来ていないのであれば、今と同じような状態は続くでしょう。それはどれだけ練習しても同じなのです。

心が変わらないと、あなたはもうよくならないからです。

しかし、あなたなら、それくらいのことは出来るはずです。それだけの心は持っているはずだからです。

法の心に嘘や偽りはありません。

法に近い心になればなるだけ奇跡が起きるのです。それは私を見てくだされば分かると思います。

私だけではなく、男にはいくらでもそのような奇跡が起きている人がいます。(スポーツ選手から一般の人に至るまでです)女でも、そのような奇跡は起きるのであるとぜひ多くの人に見せてあげてください。

あなたなら出来ると思うからです。

次の大会楽しみにしております。頑張ってください。(これも対機説法です。この子ならやれると思って書いているのです。他の女子選手にもそのような候補はいます。その人たちも頑張ってください。とにかく男にしか奇跡が起きないなど差別でしょう。天はそんな差別はしません。それをぜひ証明して下さい)

奇跡はどこでも起こります。(だって地球自体が〔もっというならこの大宇宙すべてが〕すでに神につくられた神殿なのですから。場所など関係あるわけがありません)

奇跡を起こすも起こさないも、すべてその人の心次第なのです。

追伸…慰安婦問題が日韓で決着合意した、と新聞に大きく出ていますが、大丈夫なんでしょうか?

また蒸し返すのではないでしょうね。韓国は。(政権がかわったりなんかしたらです)

アメリカに裏判か何かもらうか、この問題を蒸し返したら、時の大統領の責任を問うとかの確約はとらないといけないでしょう。

そういうものが何もなくてやってしまうと、また同じことの繰り返しとなるからです。(だまされる方が悪いと平気で思っている国はたくさんありますから。総理のおわびと反省や日本軍の関与まで認めてしまって大丈夫ですか?こういうところを後でつかれるんじゃないですか?)

しかし、また韓国がこのような問題で日本をだますなら、もう韓国にもよいことは起きないでしょう。(昔からそういうことばかりやってますから。そういうことが裁かれる時代になっていますから)

本当に慰安婦問題がこれで終わりになることを願っています。

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