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6月 23 2015

反省

今日は書かせてもらってよいのでしょうか?

なにしろ前の会社の顔色をうかがいながら書かないといけません。本当に大変です。(昨日はやたらうるさかったですからね)

今日もこちょこちょやっていますが、音がずいぶん遠くで聞こえます。また何か起きたんでしょうか?

一昨日の日曜日の話です。

朝から雨が降っていました。その雨が私がブログを書いている最中は強く降り続け、そのブログを書き終わるとほぼ同時くらいにやんだのです。

その雨のお蔭で、日曜日は誰にも邪魔されず(日曜日は日曜日で、前のマンションの人たちやらが網戸をバシバシやってきますので)ブログを書けたのですが、あまりにタイミングがよかったものですから、私は「ブログを書いている最中は雨が降り続け、書き終わると同時に雨がやんだよ。凄いね。このブログが天に通じている証拠だね」みたいなことを得意げにいったのです。

そうしたら、その声を聞いていた前のマンションの二、三の人にバシバシやられたのですが、その声を聞いていたこの辺りの人も何人もいたはずです。

あれは偶然だったのでしょうか?それとも必然だったのでしょうか?

この辺りの人たちで、あのような現象を偶然と思う人の方がもう少ないと思いますが、いま考えると、まるで翌日の、このブログを書かせないことがいかに悪いことか、それを暗示したかのような出来事でありました。

天に通じているものを書かせなければ、当然そのようなことを行っている人たちは天罰を食らいます。だから食らったのではないですか、天罰をです。

なのに、それが私のせいですか?

まさに盗人猛々(ぬすっとたけだけ)しいとはこのことでしょう。悪いことをしているのはあなたたちの方なのです。

悪いことをしているから天罰を食らい、私は、悪いこともしていないしよいこともしているから奇跡が起きるのです。

何でこんな分かりやすいことを認めようとしないのか、本当に意味が分かりませんが、こういう場合は結果がすべてです。(結果が過程を教えています)

悪いことが起きてほしくなければ、悪いことはやめることです。

この辺りの人たちは結果しか見ませんが、その結果を見る見方が違っているのです。

悪いことが起きている方がよくて、悪いことが起きていない方が悪いと見ているのですから話になりません。そのような見方をする人たちはたぶん史上初でしょう。(悪いことをしている方に奇跡が起きて、悪いことをしていない方に災いが起きる、考えられない発想だと思うんですが…)

悪いことが起きている人が多いので、それ(悪いことが起きている方が悪い)を認めたら自分たちの悪いことまで認めないといけない。それを認めたくなくて、それでそのような強引な考えでいるというのであれば、あまりに不誠実でしょう。

そういうことをしているから名古屋はいいことが起きないのです。

反省されてはいかがでしょう。もうどちらが悪いかは火を見るよりも明らかであるからです。

自分たちはまじめに神を思っていましたか?ちょっと気に食わないからと、人の悪口をいったり嫌がらせなどをしなかったでしょうか?よいことをしてくれた人に感謝をしましたか?

そのくらいのこと、他の人でもやったりやらなかったりしているではないか、ではないのです。

名古屋の多くの人は法を知ったのです。法を知ったのであれば、一番最初に、そのようなことを反省しなければいけなかったのであり、そのような謙虚な心がなかったばかりに(傲慢な人が多かったばかりに)気づきの現象が次々に現れたということです。

病気やけがなどすべてそうですが、それは自分が反省しなければいけないという気づきの現象であり、意味もなく現れているのではないのです。必ず自分のどこかに反省すべき点があるから、そのような現象が現れたのであり、なければ現れません。

また、現在そのような現象が現れていない人でも、それは様々な理由があり(我が強かったり〔我が強い人は、そのような気づきの現象もなかなか現れないのです。自分の我がじゃまをして反省の機会を逃しているのです〕まだ反省の期間を与えられていたり)そのような心のままだといずれは反省させられるのです。

それは特別名古屋の人たちばかりではありません。すべての人にそれは現れるのです。(ただ早いか遅いかだけです。名古屋の人は法を知ったのでそれが早く現れた、それだけのことです。早く現れた方がいいでしょう。間違いを早く知ることになるからです)

名古屋の人々は法を知ったにもかかわらず(心が救われたにもかかわらず)まったく感謝しませんでした。そればかりか、法を教えてくれた人を悪者に仕立て上げ嫌がらせまで始めたのです。

そのような心と行いがいけなかったのに、それをまったく反省しようともせず(そのような心と行いのせいで起きてきた)天罰まで、その人のせいにして嫌がらせをし続けているのです。

これでどうして名古屋にいいことが起きるのでしょう。

こういう悪事をし続けていて、名古屋によいことが起きるわけがないのです。(あまりに名古屋の人、悪いという自覚がなさ過ぎです)

いつまでデタラメな噂を流し続けて私一人を悪者にしておくつもりですか?そんなことをしていても、最後に泣くのは、そのようなことをしている人たちなのです。

自分たちの心と行いを反省されてはどうでしょう。本当に悪いのは反省しようともしない名古屋の人たちだからです。

悪いことが起きている方が悪い、これは善悪を判断するうえでの基本なのです。

(また多数決でもありません。私が悪いという人が多いからと、だから私が悪いではないのです。それだけ〔知らずに〕悪いことをしている人が多いというだけのことです。何度もいいますが、こういう場合は結果がすべてを物語っているからです)

追伸…なんか毎回、同じようなことを書いている印象があるのですが、私の周りでは次々に現象が現れている人たちがいます。そういう人たちをほってもおけないので、同じようなブログになってしまうのですが、他の地域の人たちはそこはご容赦ください。

いずれは自分たちの参考になると思うからです。(たぶん名古屋と同じようなことがどこも起きてくると思うからです。現にサイレンなどあちこちでしだしたようですし)

先ほどもヘリの音がしていましたが、それにしてもあのヘリは一体いつまで飛んでくるつもりでしょうか?(昨日は庄内川の川岸をずっと歩いて探検していたのですが、昨日など十機くらい〔しかもいろいろなヘリが〕かわるがわる飛んで来ました)

それにどこにいても飛んできますし。(勘八峡に行った時も、木曽川や長良川に行った時も、どこに行った時でも飛んできました。本当に異常ですね。〔苦笑〕)

もう何年にもわたってですから、あれ莫大な費用がかかっていると思うんですが、何度もいいますが、その費用を少しこちらに回せないのでしょうか?

これほどの現象が毎日のように起きているのです。こんな教えは他にありません。

本当にこの教えを、一刻も早く世界に伝えないといけないと思うからです。(こんな名古屋で私一人がいっているような教えではありません。世界中の人が知らないといけない教えなのです)

このブログを読んでいる皆さんが、早くそれに気づいて動いてくれればいいんですが、一向に動こうとしません。(それどころか、逆らい続けているのですから呆れます)

どれだけ書いたら、どれだけ現象が現れたら、この教えの偉大さに気づくのでしょうか?

このブログを読んでいる人の罪は本当に大きいといわざるを得ません。

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6月 21 2015

神の教えと悪魔の噂

普段どれだけ取り繕っていても、結局、最後には(死ぬ時には)ボロが出るような、死ぬ時に死にたくないだの、まだ仕事がしたいだのいうような、未練タラタラの人生では確実に地獄行きなのですから、幸せな人生であった、そうして死ぬのもまた楽しみであると、死ぬ間際にバンザイが出来るくらいの人生であらねばならないのです。

今のままの人生でそれが出来ると思いますか?(百パーセント無理ですね)

だから、法をしっかり勉強しないといけないといっているのです。

すぐにでもやらなければ、そのような人生など送れないのだし、法を知ったところで、そういう人生を実践しないといけないのですから、法を知っただけで、そのような人生がすぐに送れるようになるわけでもないのだし、だから早くそれに気づいてくださいといっているのです。

現に法を知っている人はもう多いと思います。(このブログを読んでいる人もそこそこいるのだし、この近辺の人など、このブログの内容を知っている人も多いですから)

しかし、私のような奇跡が起きる人はいません。奇跡どころか、この辺りの人は災いが起きているのです。

法を知ってなぜ災いが起きるのでしょうか?

法を知っても何も実践しなければ何も起きませんが、この辺りの人たちは法を知るとともに間違った思想まで入れてしまい、間違った実践までしてしまったのです。

そこまでやってしまっては、いくら法を知っても(よいことをしても)災いが(悪いことが)起きるのは当然のことでしょう。(間違った思想とは、私が悪いという思想であり、間違った実践とは私に嫌がらせをしていることです)

法を知ると同時に、こういう間違った思想(怒りや憎しみ)も入れ、そうして間違った実践までしてしまうものですから、それで災いが起きているのです。

法を知っても、その法を説く者に、怒りや憎しみを持っているようではよいことは起きません。

この辺りの人は、釈尊やキリストに怒りや憎しみを持っているのと同じことをしているからです。釈尊やキリストに、怒りや憎しみを持っていてはいいことが起きるわけがありません。その心を反省しない限り、その人にいいこと(奇跡)が起きるわけがないのです。(天が味方しませんから)

いい加減自分たちの間違いに気づいたらどうでしょう。

昨日でもあんなブログを書いたものですから、怒っている人があちこちにいました。(それでも最近はそういう人も減りましたね)

しかし事実は事実です。ねたみやひがみ、狭い心のままでいるから、いつまでも不幸なことが起きるのです。

よく考えてみてください。

私のいうことを、そのまま聞いていた時は不幸な現象など起きていなかったのです。それどころか、神は存在し、来世もあるということを知って希望を持った人も多かったのです。(現に私は、あるお年寄りに希望が持てたといわれたことがあります)

しかし、私の悪い噂が拡まって、そうして私に嫌がらせを始める人が出始めてから(最初は市バス連中がブシュブシュ始めてからですが)あのサイレンは響くようになったのです。

私にみなが嫌がらせを始める前までは、あのようなサイレンは響いていなかったのです。(救急車のサイレンなど月に一、二度聞けばよい方でした)

しかし、私に嫌がらせをする人が増えてくると時を同じくして、あのサイレンも増えて行ったのです。(最近は嫌がらせをする人が減ったので、サイレンも減っていますが)

もし、あのサイレンの原因が私なら、私が嫌がらせを受ける前からサイレンはしていなければいけないし、最近のサイレンが減った理由も分かりません。

最近はサイレンを聞かない日もあるのではないですか。なぜ、サイレンを聞かない日があるのでしょう?私が嫌がらせを受けない日はないというのにです。

私は未だ嫌がらせを受け続けているのです。なぜ、サイレンを減らす必要があるのでしょう?私があのサイレンを起こしているというなら、私に対する嫌がらせがなくなるまであのサイレンを止めません。

しかし、現実には最近はサイレンを聞かない日もあるのです。それはなぜですか?

それに、自分に嫌がらせをして来た人を病気にした、というのならまだ話も分かりますが、自分が嫌がらせを受けているからとはいえ、その自分と全然関係ない人たちを次々に病気にしてそれが何になるのでしょう。

何でそんなことをするのですか?うさ晴らしですか?

しかし、それだけ危ないうさ晴らしもないでしょう。そんなことをすればするだけ自分が恨みを買うからです。

そんなことをしていたら(うさ晴らしで、自分と全然関係ない人を次々に病気にしていたとしたら)そこらじゅうで恨みを買います。こちらの命まで狙われるかもしれないのです。

そのような行為は、百害あって一利なしだと思うんですが、何でそんな自分にとって不利でしかないことを私はやり続けなければいけないのでしょう?

どう考えても、あのサイレンを私がやっていたとしたらマイナスにしかならないのです。

何で私が自分に何一つ益のないことを、これほど長くやり続けなければいけないのでしょうか?まったく意味が分かりませんね。

せっかく法を知っても、このようなデタラメな噂を信じ、怒りや憎しみまで入れてしまっては法を知った意味がないのです。

そのようなデタラメな噂は早く心から抜いてください。そうして法だけ心に入れて実践されれば奇跡が起きるのです。

デタラメな噂を信じ私を憎み続けたところで、それでどうなるのでしょう。人を憎めば憎むだけ、その憎しみは自分に返ってきます。その憎しみが自分に返って来れば当然自分に災いが起きるのです。

そうなったらどっちみち不幸になるのは自分自身ではないですか。そんな噂を信じ続けても損はしても何一つ得はないのです。

それどころか、そんな噂を信じたばかりに、自分たちが不幸になっているとまだ気づかないのでしょうか?

それが悪魔の噂の怖さなのです。人の心に怒りや憎しみを植え付けるのです。

そうすると、その怒りや憎しみはいずれ自分自身に返ってくるのです。そうなれば百人が百人不幸になります。

名古屋に不幸な人が続出しているのは、そのような悪魔の噂を信じたからなのです。

だから(よけいです)私のいうことを聞かないといけないといっているのです。

悪魔の噂などに心を汚された人は、その汚れはなかなか抜けないからです。その汚れをきれいにするには、心を神の光に満たすしかないからです。

その心を神の光に満たすことが出来るのは、この法しかないのです。だから、早くこの法を勉強した方がいいといっているのです。(だからこれは特に名古屋の人たちに対しいっているのです。相当の人が悪魔の噂に心を汚されているからです)

この法だけ信じていた時は、多くの人の心が救われたのです。

しかし、その後、悪魔の噂まで信じてしまった結果、名古屋の多くの人たちが不幸になりました。(信じなかった人たちはそうでもないのでしょうが、しかしそれでもです。周りが悪魔の噂を信じている人たちばかりです。その影響はかなりあると思います)

悪魔の噂を信じるだけでも人は不幸になるのです。それが名古屋で起きた現象ではっきり分かったのです。

それでもまだ、この神の教えを無視するつもりですか?

悪魔の噂など、そこらじゅうに蔓延(まんえん)しているというのにです。(心に悪影響を与えているものなどそこらじゅうにあるのです。多くの人はそれを知らないだけなのです。だから神の教えを知らないといけないのです。唯一心を浄化できるものだからです)

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6月 20 2015

愛と智慧と広い心

最近は、熊に襲われたりイノシシに襲われたりする事件なども多発しています。

しかし、昨日公開した動画を観てもらえれば分かりますように、動物たちは人のいうことをよく聞きますし(当然人の言葉もよく理解しています)愛想のいい態度も取ります。

基本的には、動物は人のことが好きなのです。

その人に愛があるなら、動物はその人から逃げたり襲ったりはしません。動物たちがそのような態度を取るのは、その人に愛が足りないからです。

動物をどうこういうより、まず自分たちの愛のなさ智慧のなさを反省されてはどうでしょうか。そのような愛と智慧がある人が増えれば、逆に不幸な動物たちは減って行くからです。(愛と智慧のある人がもっと増えれば、ペットを捨てる人も減るでしょうし、むやみに餌をやったりして、動物たちを必要以上に増やしたり、呼び込んだりすることもなくなるからです。私は餌などやらなくても、いくらでも動物たちは嬉しそうに寄って来ます)

鳥などが寄って来る私を見て、ひがんだりねたんだりしている人もいますが、そのような心を持つからますます愛も智慧もなくなるのであって、少しは見習ってはどうでしょう。そのような広い心があるなら、いずれは動物たちも寄ってくるようになるからです。

この辺りの人たちは反発ばかりしています。だからよいことが起きないのです。(そうして悪いことが起きたら私のせいです。〔責任転嫁〕ますます愛など出て来なくなります。それでは憎しみしか出て来ないでしょう…なんか愛とか智慧とか広い心とか、この辺りの人にあてつけのようなことばかり書いていますね。〔苦笑〕)

どこかの会社も今日は休みのようですが、せっかくの休みでも、何か恐ろしい病気が発症するのではないかと思ったら、気が気ではないでしょう。それでは休んでいても何も楽しくありません。(ブログにも書きましたが今週はもう朝からパワー全開でしたからね)

そういう人生が楽しいのでしょうか?

この人たちは愛もなければ智慧もない(何せ同じことばかりやっています。本当に智慧がありません)広い心もない典型のような人たちだと思いますが、これでは不幸にしかならないのです。

このような人たちが、仮に百まで生きたとしても何も楽しいことなどないからです。病気の心配ばかりしていなければいけないのです。そんな人生など一体何が楽しいのでしょうか。

愛もなければ智慧もない、広い心も持てないような人など楽しい人生を送れるわけがないのです。

しかしそれは特別この辺りの人だけではなく、誰にでもいえることなのではないでしょうか。

自分が、いつ恐ろしい病気になるのか分からないという不安は誰にでもあります。ただ他の人は、どこかの会社の連中よりは切実ではないということだけです。

そうであるなら、それは一時その不安を忘れているだけであって、常にそのような不安は心にあるわけですから、その不安を時々思いだしてそれで本当に楽しい人生が送れているのか、ということも考えなければいけないのではないでしょうか。

実際の多くの人は、ただ表面上ごまかしているだけで、そのような数々の不安を心に宿したまま、不幸な人生を歩んでいるということです。(死への恐怖はもちろんですが)

そのような人生が本当に楽しいのですか?

表面上楽しそうに見せているだけで、心の中では、いつ病気をするのか分からないとか、いつ不幸な事故に巻き込まれるのか分からないとか、死ぬのが怖いとか思っているわけです。

それでは偽善者のような生活ではないですか。もっと自分の心に正直になったらどうでしょう。

しかし、多くの人が自分の心に正直になったら、暗い人生しか送れなくなります。そうは自分の心に正直にもなれないでしょうね。(笑)

要は、その心の不安を取り除ければいいのであって、それには先ほどいいました、愛と智慧と広い心が必要なのであって、それが備わっているのなら、その不安の心はなくなり本当の楽しい人生が送れるということになります。

その愛と智慧と広い心がないから、その不安を取り除くことが出来ないのです。そのような心があれば、その不安を取り除くことが出来るのはこの法しかないとすぐに分かるからです。

つまり、本当の神の教えを学ぶ以外、その不安を取り除く方法はないということです。

現に、このブログを知って信じた結果、そういう心の不安が少なくなった人は多いと思います。

しかし、その不安がなくなったわけではありません。なぜ、なくならないのか?

それはこの教えを真剣に学ばないからです。

この教えを真剣に学ぶのであれば奇跡が体験できます。そのような奇跡を体験すればするだけ、そのような心の不安は解消されていくのです。

それはなぜか?

奇跡を体験するということは、それは即ち神の業を体験するということだからです。

神の業を体験するということは、それだけ神とかかわるということなのですから、その神とは愛と慈悲の塊の存在なのですから、その神とのかかわりが深まれば深まるほど、そのような神の愛と慈悲の力で浄化され、心の不安はなくなっていくのです。

私がいい例です。普通であれば、これだけ多くの人から嫌がらせを受ければ、鬱(うつ)になってもおかしくはありません。しかし、精神的にはいたって健康なのです。(心が健康でなければこれだけブログも書けません)

なぜ、普通でいられるのか?

神の愛が次々に周りに現れているからです。それだけの神の愛に接しているから普通でいられるのです。

私に嫌がらせをしてくる人たちは次々と不幸になり、外に行けば、動物たちがかわるがわる愛ある行いをしてきます。

別に、私に嫌がらせをしている人たちが不幸になることがいいとはいいませんが、神が依怙贔屓(えこひいき)をするわけがありません。

悪い現象が起きるのは起きる人に問題があるのであり、それを気づかなければいけないのであり、そのようなところにも神の愛を感じるのであり、外に行けば動物たちの嬉しそうな態度を見るだけで、そこにも神の愛を感じるのであって、そのような神の愛に癒され続けているのであれば、自分が持っている不安など段々なくなって行くのです。

すべて神が導いてくださる、そのような心が自然と大きくなって行くからです。

つまり、神の愛を感じることが増えれば増えるほど、不安な心はなくなって行くということです。不安より愛の心の方がはるかに勝るからです。

だから、神の愛を感じれば感じるほど不安はなくなって行くのです。神が自分を不幸にするはずはないと、段々思えるようになるからです。

毎日、不安を隠しつつ表面上だけ楽しそうな人生を送るのと、心から楽しい人生を送るのと、どちらが幸せなのでしょうか?

偽善のような人生はソロソロ卒業されてはいかがでしょう。

そのような人生を卒業するには、愛と智慧と広い心が必要なのです。

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6月 19 2015

動物の不思議31(庄内川、その他)

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6月 19 2015

動物の不思議32(荒子川公園)

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