12月 12 2014
二つの諺(ことわざ)
今日くらいに公開できますかね、あの動画は。(マァ、ホームページの会社次第ですけど)遅くとも来週初めには出来ると思いますが、その動画を観てもらえれば分かります。
私の回りに鳥や魚が喜んで寄ってくるということがです。(もう何回も公開していますので、理解される人はされるのでしょうが)
コウモリが、やたらこちらに向かって飛んでくる場面や、すずめやカモメが嬉しそうにこちらに飛んでくるところ、魚たちも「飛べよ」というと、小魚が一斉に跳ね出したり「顔を出せ」というと大きな鯉がスッと顔を出すような場面も撮れています。
そのような仕草は本当に可愛いものです。それはよく観ていただければ、その可愛らしさは伝わると思います。(前にも書きましたが、そういう仕草を見るとあの無表情な魚さえ可愛く思えます)
このような小動物たちが、何で私にはそのような態度を取るのでしょうか?
少なくとも皆さん方よりも私の方が愛があるからではないですか。
こういう現象が起きているのに、それは一切無視して悪いことは全部私のせい、この辺りの人たちはあまりに見方が偏っているのではないでしょうか。
昨日もサイレンをよく聞いたのですが、あのサイレンがみな私のせいというのであれば、多分、そのサイレンを鳴らして走っている救急車で運ばれていく人は、私の知らない人でしょう。そうであるなら、私は自分が知らない人まで病気にさせているということになります。
何で私が、自分の知らない人まで病気にさせる必要があるのでしょう。
病気にさせるなら、私に嫌がらせをして来た人を病気にさせます。(そういう人でピンピンしている人いくらでもいますが…)
縁もゆかりもない人を病気させてもいらぬ恨みを買うだけです。そういうことはまったく意味がないと(むしろマイナスの方がはるかに大きいと)思いますが、このサイレンをみな私のせいにしている人たちは、そこをどのように説明されるのですか?
私が一人で数百人も数千人も病気にさせているだの、自分が全然知らない人まで次々に病気にさせているだの、このようなことを考えるなら、はっきりいって、このサイレンをみな私のせいにしている人たちは、どう考えてもまともな発想とは思えないのです。
または、起きていることの意味を深く考えず、単にこれまで起きていないことが起きてきたから(それが自分たちのせいとは思いもしないものですから)他の誰かのせいにしているだけとしか思えないのです。
そういう発想はあまりに短絡的なのではないでしょうか。(普通では子供でもしないような発想を、この辺りの子供から大人までがしているのです)
また、そんな発想で、その原因にされている者はどうなるでしょう。多くの人から悪魔のように嫌われ、嫌がらせを受けるのです。(現在の私がそうですが)
これだけのことが起きていて、それをそんなに簡単にあいつのせいと決めつけ、犯人にしてしまうことが正しいことなのでしょうか?
このサイレンを私のせいにしている人たちは、どこをどうとっても正しいことをしているとは思えないのですが、そこはどう思われるのですか?
そこらじゅうで説法をしていますが、私に反論してくる人が一人もいません。これは結局、自分たちが悪い(または反論しても勝てない)と知っているから誰も反論してこないのではないのでしょうか。
だって、自分たちが正しいと自信を持っていえるなら、反論してくる人がたくさんいてもいいはずだからです。(私などただの高卒です。私に嫌がらせをして来た人で、よい大学を出ている人はたくさんいるはずです。〔何せ公務員までやってくるのですから〕では、私より頭がいい人はいくらでもいるのですから、自分たちが間違っていないと思っているなら反論などどれだけでもできるはずです)
しかし、一人としてそんな人はいないのです。私が歩いていて、嫌がらせをしていく人は、何百人、何千人といるのに「お前のこういうところが悪い」といった人は一人もいない、これはどういうことでなのしょうか?
怖くて反論できない、ということであれば、そんな怖い人に嫌がらせができるわけがありません。(やくざや右翼に嫌がらせをする人いませんから)
さほど怖いわけでもなく、私のいったことになにも反論しないというのであれば、それは自分たちが悪いと自分が知っているからです。
では、自分たちが悪かったと認めたらどうでしょうか。その方がよほど人としてまともであるからです。
『過ちては則ち改めるに憚ること勿れ』(あやまちてはすなわちあらためるにはばかることなかれ)という諺があります。
この諺は(知っている人も多いでしょうが)「過ちを犯したことに気づいたのであれば、体裁や対面などにとらわれずただちに改めよ」という意味です。
なぜ、気づいているのに改めようとしないのですか?
そのような人は、次のような諺があるということも知っているはずです。
『過ちて改めざる、これを過ちという』(あやまちてあらためざる、これをあやまちという)この諺は「過ちを犯したことに気づきながらも、それを改めようとしない、これこそ本当の過ちである」という意味です。
どちらが人として正しく、どちらが正しくないかは子供でも分かると思います。
皆さんはどちらの諺を実践されるのですか?
それでこれからの自分の行き先が決まるのです。(幸せな人生を送れるか、それとも不幸な人生しか送れないか、また、その先の天上界に往くか地獄界に往くかということまでです)



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