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4月 09 2014

地獄界③

同じく高橋信次先生のご著書「心の指針」より抜粋します。

<自分さえよければ、それで満足な者たちばかりです。

この地上にも慈悲のかけらもなく、自己中心の生活をしている者たちが多いのです。

他人の苦しみをみても、愛を与えぬばかりか、自己満足の餓鬼界に通じる憐れな人々です。

しかし彼らにも弱点はあったのです。

それはどんな地獄霊でも、心からの慈悲と愛の行為、つまり、彼らのために自分の身を供養する、という勇気には勝てないということでした。

今にも飛びかかろうとしていた老婆でさえ、耳元までさけていたあの赤い大きな口が、普通人のそれに変わり、慈悲の心がよみがえり、顔の相までおだやかになってしまっています。

心の作用が最も敏感に変化する様子は、この地上界の比ではないことを思い知らされたのでした。

ヤクザ風の、いわゆる兄ニーたちも同じでした。

「あなたたちは、なぜこんなに厳しい餓鬼界に堕ちているのか知っていますか」

私は、彼らのひるんだスキにそう問いかけました。

すると老婆は、正座に座り直し、うす汚い畳に両手をついてこういいました。

「貴方のようなお方にお会いしたことはありません。しかも体から光を出しておられます。それも、この体を食べよ、といわれたときに、貴方の体から輝くばかりの光があふれ出てまいりました。今までは、こいつを食べてやろうとすれば、誰も逃げ出し、やっとつかまえて食べてみても腹一杯にはなりませんでした。貴方様は、私たちに驚かぬばかりか、やさしい言葉で話されます。私たちは優しい言葉に一番弱いのです。どうぞ、私たちを許してください」

老婆をはじめ、ここの住人たちの心にも、仏性がよみがえって来たのでした。>

この地獄界(餓鬼界)は、愛の心も慈悲の心もなく、自分さえよければいい、と思っていた人たちが行く世界で、そのような者たちばかりがひとところに集まり、このような自己中心的な生活を続けているのです。

そうして、このような心の者たちの行き着く先は、何も食べるものがない世界であり、そのような世界であるため、人を殺して食べ(それも自分たちの仲間をです)それでも腹が満腹になることはないため、次々に人を殺しては食べ、それでも満足することなく、自分がこのような心ではいけないと悟るまで、永遠に人を殺しては食べ、食べては殺しということを繰り返すのです。(あの世に死はありません。食われた人間は、またしばらくするとよみがえり、また同じ恐怖を味わうのです)

このような世界だけでなく、地獄界には無間、畜生、修羅、などの世界があり、また、そのような世界の中でも細かく分かれており、地獄に堕ちる人は、その自分の心に一番あった世界に堕ちていくのです。

例えば、この世でけんかばかりして、怒りの心ばかり持っていた人は修羅界に堕ちて、周りの人とけんかを繰り返し、そうして最後は血みどろの殺し合いまで繰り広げ、そのような生活を自分が悪いと気づくまで、永遠に繰り返すということです。

この世は、ほどほどのところで止まりますが(周りの仲裁などもあってです)地獄界は止まることはありません。とことんまで行ってしまうのです。(止める人がいないからです。誰も愛の心も慈悲の心もないからです)

つまり、どの地獄界であろうと、この世で起きる最悪の出来事まで起きてしまうのが地獄界であり、だから、地獄界などに堕ちると、どれだけそれが浅い地獄であれ、大変な苦しみを味わうことになるのです。(例えば、口げんかばかりして地獄に堕ちた人は、とことん口げんかをし続けるということになりますし、やたらめったら怒って、物に当たってでかい音を立てていた人が地獄に堕ちれば〔こういう人この近辺にたくさんいます。今日も朝から激しくやっていますが、昨日は静かだったのに、この連日の極端な変わりよう…一体何が起きているんでしょう?〕そのでかい音が耳元でガンガンして、自分がなした行為が悪いと悟るまで、頭にガンガン響くようなでかい音に悩まされ続けるということです…教えてあげました極端な人たちのために〔笑〕)

究極の世界(もちろん悪い方のです)それが地獄界であり、そんな簡単に地獄に行くのも仕方ない、などと思える世界ではないのです。

先ほどの、高橋先生の本の中にあった餓鬼界の人々でも、あの場所は村になっていたのであり、ということは、あのような鬼婆がいて、自分の家の者を殺して食らう者たちが、あの村にはまだたくさんいるのであり、あの村の人々全員が、そのような食い合い、殺し合いをしているということなのです。

そう考えるだけでゾッとしませんか?あの村には楽しく話せる場もなければ、そのような仲間もいないのです。他の家に逃げても、そこでもまた殺し合いをしているのですから、どこに逃げても一緒です。

そのような中で、自分が悪いと悟るまで生活をしなければいけないのです。

そのような中で、反省の心など出てくるでしょうか?また、如来が救いに来てくれるなど、めったにないことであり、自分たちが自分で悪いところに気づいて反省するまで、そのような世界から抜け出ることは出来ないのです。

地獄界とは、ことほどさように苦しい世界であり、それはこの世の比ではありません。

この世で、何も神の心(仏性)に気づこうとせずに、この世を終えれば、まずほとんどの人が地獄界に堕ちねばなりません。

多くの人が、あまりに無駄な時間を過ごしているのではないでしょうか。

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4月 08 2014

地獄界②

同じく高橋信次先生のご著書「心の指針」より抜粋します。

<私は老婆の眼をそらし、座卓のはじに座りました。

老婆の右隣のヤクザ風の男三人が、私の顔をジロッとにらみ、その中の一人が、

「オッ、新参者が来たな、これは肉付きのいい、うまそうな餌物がとびこんで来たものだ」

「お前たちのような三下に、いちばんうまい、尻の肉などやれるもんか。勝手な真似をしたら承知しないよ」

三十九位になる男を老婆がにらみつけ、そういいました。

「俺たちにも片腕くらいくれよ」

「うるさい。私がいいというまでひっこんでろ」

どうやら、ここの連中は私を食べようという算段です。

老婆は、どこにどう隠し持っていたのか、出刃包丁を皆の目の前に差し出し、座卓の上に思いっきり突き刺すと、

「さあ、片腕を出しな」

大声をあげ、私にそう迫るのでした。

私は心の動揺を押さえ、はっきりといいました。

「私の体が欲しいのならあげてもいい。ひもじい思いをしている君たちだ。私の体を食べて生きられるならそれもいいだろう。しかし私を食べる前に、私のいうことを聞いてもらいたい」

「どうせお前は私たちに食べられる運命だ。いいたいことがあるならいってみな」

私が黙って周囲を見回していると、

「逃げようとしたって無駄なこったあ。さあ、観念して、とっととしゃべりな」

老婆は髪をふり乱して大きな口をいっぱいにあけて、がなりたてました。

「こいつを逃がさないように、一人は戸口のところで見張れ」

老婆にいわれて、若い一人が土間におりながら、

「俺にも分け前くれよ」

「何いってんだい。お前から食べようと思っていたのに。お前はこの男がまぎれこんで来たから助かったんだ。つべこべいうな。お前のような肉付きの悪いやつより、こっちの方が脂が乗っていらあー。お前も逃げたら承知しないよ」

老婆の形相は鬼気迫るそれであり、映画や芝居に出てくる鬼婆といってもいいが、しかしこれは現実であり、その恐ろしさたるや想像を越えたものです。

老婆を見た瞬間は、ハッとしましたが、彼らのあさましい態度や心の動きを観察していると、この場の恐ろしさも消えて、むしろ、彼らが哀れにさえなりました。

私は、私の肉体が食べられる前に話をしようと思いましたが、彼らに神理の話をしたところで、聞く耳を持たないものはうけつけません。

そこで腕でも尻でもいい、食べたいなら食べてもらおう、と思いました。

「あなたたちに、良い話でもしてきかそうと思ったが、話をするのも勿体ない。私の肉体を食べて腹が一杯になったら、ゆっくりと話そう。さあ、食べてくれ」

私はこういい、老婆に近寄っていくと、老婆はどうしたわけか、座ったまま後ずさりして、私から離れていくのです。

いかつい目をしたヤクザ風の男の前に、私の腕を差し出し、さあどうぞというと、この男も、後に下がって、びっくりしています。

耳元までさけた老婆の口は、もうこのときには普通の人のそれに変わっていました。

「あなたたちは腹がすいているのだろう。さあ食べなさい。なぜおどろいているのか。遠慮しないでいいのだ。腹が一杯になるまで食べたらいい」

彼らは、私の態度に、あっ気にとられ、何もいえません。

餓鬼界に堕ちている地獄霊たちには、他人に身を供養しようなどと思う者は、一人もいないのです。>

追伸…ずいぶん恐ろしい現象が、立て続けに起きているところがあるようです。(ほんと雰囲気が全然変わりました。やってることもかなり腰が引けています)

それでも無理して邪魔しているようですが、同じ態度を取り続ければ、同じ現象が次々に現れてきます。詫びを入れるなら、助かるチャンスがありますがどうされますか?

詫びを入れたい人は、早々に詫びを入れてください。そうしないと、その起きている恐ろしい現象、どこまで深く大きく拡がるか分からないからです。

反省されるなら、急がれた方がいいでしょう。

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4月 07 2014

地獄界①

前回書きましたが、私たちは明日死ぬかもしれません。(縁起でもありませんが)いつあの世に行ってもいいように、あの世のことも少しは知って(思い出して)おかないといけません。

いろいろ恐ろしい現象が、現れているところもあるようですし(大変ですね、恐ろしい現象ばかり起きて。すいません、すでに聞いています。あなたたちに恐ろしい現象が起きていることを。あまりに人の邪魔ばかりしているからです。それがどれだけ悪いことか分からなければ、もっと起きるそうです。気をつけてくださいね)今の心のままでは、大勢の人が地獄に堕ちることになります。

天上界だけではなく、せっかくですから、地獄界も高橋先生の本から抜粋しておきましょう。

「心の指針」より抜粋します。

<  ある地獄界への旅

生きている人間があの世に行くというと、ふつうは常人扱いされないでしょう。人によっては、あいつは頭がおかしいのとちがうか、ということになるでしょう。

私もかつてはそのように思っていました。それも五年ほど前までは……。

片寄りのない中道の物差しで、自分の心の在り方と行動をしっかり反省し、丸い豊かな心の状態に己を浄化すると、こういうことが可能になってきます。

あの世に行けない、つまり心と肉体の分離が出来ないのは、肉体に心と魂が執着を持っているために不可能になっているのです。

うらみ、ねたみ、そしり、怒り、情欲、足ることを忘れた欲望、思いやりがない、その他もろもろの執着の想念が、こうしたことを不可能にしてしまいます。

そこで、こうした執着を善なる己に嘘のつけない心でその歪みを修正し、瞑想すると、あの世に自由に往き来することが出来るようになります。

また、心が丸く、調和されてくると、自分の周辺が柔らかい黄金色のオーラー(後光)で包まれてきます。

私が、地獄を見に行くときは、守護霊の不空三蔵に、そのことを心の中で依頼します。

しばらく瞑想していると、私の肉体舟に小さな振動が起こり、船頭さんである自分の意識が抜けていきます。すると、瞑想している肉体舟の前に、すっぽり出ているもう一人の自分がいます。

そのときの気持ちは、すっかり落ち着いており、こだわりも、恐ろしさもなく、心の中は平和です。心の中にスモッグがなく、神の光に満たされているので、少しの不安も動揺も起きないのです。

船頭である自分の意識・魂ともう一人の肉体舟には劇場のスポット・ライトを浴びているように神の慈愛の光が与えられています。

また、そのスポット・ライトの光のドームは、この世とあの世を結んでいる通路といえます。

(中   略)

さて、肉体から抜け出したもう一人の私は、明るいドームから段々と薄暗い中を下っていきました。

ちょうど、エレベーターに乗って、何千メートルもの谷底に降りて行くような気持ちです。

着いた場所は、陰気で底冷えがし、大地はジメジメして、まことに感触が悪いところです。

樹木は薄黒く、緑の葉にも生気がありません。

小さな村の入口に立った私は、ボンヤリと浮かんでいる家の前に行き、中の様子をのぞいてみました。

家の中から小さなほの暗い光が外に漏れています。灯はランプでした。

障子は破れ、気持ちの悪いほど陰気臭い雰囲気です。

障子に映る人影からすると、ここに住んでいる住人は一人や二人ではなく、大勢いるようです。

私は思い切って、

「今晩はー、今晩はー」

と、声をかけてみました。

すると、明治時代の車夫のような、薄汚れた木綿の紺の仕事着をつけた、頭は角刈りの主人風の男が、建てつけの悪い戸をあけました。

角刈りの男は、見なれぬ私をジロジロにらんでいましたが、あごで会釈し、家の中にはいれと促します。

男はひと言もしゃべりません。

通された部屋は十二畳ほどでした。

中央に大きな座卓が置かれ、床の間の正面のところに、口が耳元までさけた老婆が座っています。

髪は白く、バサバサ。眼はランランと異様に光り、この世では、とうてい見ることの出来ない風態の老婆でした。

『とんでもないところに来てしまった』

案内された私は、そう思いました。>

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4月 06 2014

天上界

最近のすずめは度が過ぎていますね。

私が歩いていると、ジージージージーとか、やたらでかい声でピーピー鳴いてます。とても普通のすずめの鳴き方とは思えませんが、あれだけ騒がれると目立って仕方ありません。(ただでさえ目立っているのに)もう少し静かに出来ないものでしょうか。(そんなことここに書いても仕方ないんですが)

昨日でもひどかったです。道を歩いていると、そこかしこですずめがそんな鳴き方をしていて、中には、私の歩いている近くに飛んできて、ピーピー鳴いているすずめもいます。少し歩いて、ある神社で座って休んでいたら、もうその神社の境内、すずめが飛び回り、ジージー、ピーピー鳴き出して大騒ぎになりました。

一昨日は公園に座っていて、そのようなことになりましたが、ここまですずめに好かれてもねぇ。(苦笑)私が外に出たら、人やすずめにかまわれ、心休まる時がありません。たまには落ち着いて散歩したいものです。(でも、人と違いすずめにかまわれる方は、まだ心が和みますけどね、嫌がらせされているわけではないですから〔笑〕)

釈尊が説法されていた時は、そんなすずめや動物も聞きに来ていたといわれます。(多くの人々と一緒に、鳥や動物たちも釈尊の説法を聞いていたといわれますが、その時はすずめもこれほど騒がなかったでしょう〔笑〕)

明後日(四月八日)は、その釈尊が生まれられた日だといわれています。釈尊の説法を聞いて実践すると、死後どんな世界にいくことになるのか、少し高橋先生の本から抜粋してみましょう。

「人間・釈迦」より抜粋します。

<もう夜も遅いので、これからの計画は明朝にしようと思い、ゴーダマは横になろうとした。

と、そのときであった。ゴーダマの体が、妙に動き出すのであった。

宇宙即我の悟りを体験をした、あの時の経験に似ていた。

軽く、体が動き、しばらくすると、もう一人の自分が、肉体から抜け出していた。

肉体から抜け出したゴーダマは、光明のドームの中にあった。そのドームの中を、こんどは、物凄いスピードで、上昇をはじめていた。

ドームをのり切ると、視界がひらけ、新緑に匂う、美しい芝生の、スロープのきいた丘の頂に、ゴーダマは立っていた。

肉体舟のゴーダマはピパラの大木の根元で休んでいる。

目もさめるような緑の丘は、地上界では見ることのできない景観であった。丘陵は雄大なスロープを伴って、幾重にも連なっている。遠望には森の一角が見える。その森の緑も、鮮やかに色づき、黒ずんだり白けてもいない。芝生の色も、グリーン一色であり、足で踏みつけることが、なんとなく気になるほど、生きているという感じなのである。

上を見ると、太陽が黄金色に輝いている。地上のそれは、赤々とした灼熱の炎を思わせるが、実在の太陽は、安らぎとゆるやかな光を放っている。

ゴーダマは思わず、

「オー」

と、感嘆の声をはなった。

そうして、しばらくの間、身じろぎもせず、その太陽に心を奪われた。

太陽をみつめていると、かつて自分が、この太陽の下で、長い年月を送ったことが、走馬灯のように思い出され、なつかしさと、邂逅との入り混じった感情が、ゴーダマの五体を、ゆさぶり続けた。

しばらくそうしていると、いつの間にか、何人かの人影が、ゴーダマの周囲に立っていた。旧友知己に会ったような感じだが、その中の誰かが、どうぞこちらへ、といわんばかりに、ゴーダマに会釈している。どの顔も、明るい、肌が、透きとおるように美しい。

ゴーダマは、いわれるままに、彼らにしたがった。>

釈尊(ゴーダマ)は、悟りを開かれたすぐ後に天上界に昇られ(幽体離脱して)そこで天上界の人々に説法をされるのですが、その天上界に昇られて、これから天上界の人々に説法をされる場面を、高橋先生の本から抜粋しました。

この釈尊が説法された場所は、天上界の菩薩界というところであり、その菩薩界に天上界の多くの如来や菩薩たちが集まって、釈尊の説法を聞かれたそうです。

天上界は、この世の初夏のような陽気のところで、空には霊太陽がやわらかな黄金色の光を放って、この世では見たことがないほど壮大で美しい大自然が広がる場所であり(それでいて、超近代的な設備も菩薩界にはあるそうですが)そのような場所で多くの人々(霊たち)が生活し、心の修行をしているのです。

私たちが、やがて帰るべき場所とは、このようなところでありますが、しかし、それは、先ほども書きましたように、釈尊の法をよく勉強し、実践した人が帰れる場所であり、その法を無視したり、逆らったりしている人たちがいけるような場所ではありません。

この世でも、法を勉強するとしないで差がつくのです。(一方は災いが起き、一方には奇跡が起きる)死後の世界での差は、それこそ天と地ほど違ってきます。(本当に天と地の差がつきます。一方は天上界に昇り、一方は地獄界に堕ちるのですから)

この法を無視したり、私に嫌がらせしたりしている場合ではないと思いますが、本当に皆さんのんびりしていますね。(明日死ぬかもしれないのにです)

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4月 05 2014

神の業に逆らう愚かさ

昨日はやはり荒れた天気なったようです。関東では突風や大雨、ヒョウまで降ったところがあり、東北や北海道も、大雨や吹雪になったところもあったようです。(宮城も凄い雨が降ったようですが、大丈夫でしょうか)

今日明日も各地、大雨や大雪に注意が必要とのことですが、まったく異常現象が止まりません。

これだけ起こされても、それでも心を変えようとはしないのです。多くの人のその心の頑なさ、何が恐ろしいかって、それが一番恐ろしいですね。

昨日は東京も荒れた天気になったようですが、昨日の話ではありませんが、東京の人はずいぶんプライドが高いと聞きます。

名古屋の田舎者が何をいっとるか、と一笑に付すのではなく、少しは聞かれてはどうでしょうか、その田舎者の意見をです。

私は田舎者なだけではなく学歴もありません。(何せ、バカな高校出ているだけですから)しかし、そのような学歴にせよ、住んでる場所にせよ、皆それぞれ、自分の使命役割に合わせて、そのような道を自分で決めて生まれてきているから、そのような立場なだけであり、それで人の優劣が決まるものではありません。

釈尊やキリストの弟子たちは、田舎者や無学の者も多かったのです。しかし、法を知って多くの人々を救いました。(余談ですが、前に書きました、ペテロの過去世を持つ、元東大総長でありました矢内原忠雄氏は、キリストの弟子のペテロであった時代、自分が無学であったため、法の流布にずいぶん苦労されたそうです。それで今回はしっかり勉強してこようと、日本に生まれて東大の総長にまでなられたそうです。このように、勉強をしっかりする目的で生まれてきた人は、東大やら京大やらいって、勉強を通して自分の魂を磨くために、そのような道を進まれるのであり、運動では運動、また勉強も運動もそこそこで、と決めてきた人は、そのような道を通って魂を磨いていくのです。いい大学に行くか行かないかは、その人の決めてきた使命の違いでそうなっているだけであり、学歴と人の価値とは何の関係もないのです)

法を行じれば救われ、無視すれば、現在のように次々に災いが起きてきます。東京はプライドの高い人が多いというのであれば、日本で一番頭のいい(物分りのいい)人たちが集まっているのでしょう。

では、他の地域の人が理解できなくても、この法の価値を一番はじめに理解できるのは、東京の人たちということになるはずです。(それだけこの法は価値のあるものだからです)

その東京の人たちの優秀さ、ぜひ見せていただきたいものです。

いつまでも同じことをしていると、私のような田舎者に「東京の人たちも、いつまで同じこと繰り返しているんだろう、バカじゃないのか」とバカにされます。

私のような無学の田舎者にバカにされては、東京の人たちの沽券にかかわるでしょう。では、早くご理解ください。今の日本の最悪の状況を脱する唯一の方法をです。(もちろん、法を行じるしかないということです)

それで東京は東京としてです。名古屋の人もワンパターンですね。

今日も朝から、このブログを書くのを邪魔してる会社はある、そこら歩いていれば、バスやトラックはブシュブシュやってくる(マァ、前より減るのは減りましたが)会社の横を通ればでかい音を立てられる、前から歩いてくる人は「ゴホゴホ」セキをしだす人はいる、ザッと足で音を立てていく人はいる、遠くから私をにらんでいる人はいる、私の顔を見たとたん、凄くいやな顔をしてわざとらしく避ける人はいる、本当に皆さん同じことやっています。(笑)

昨日でも金山に行ったら、そんなことする人が一杯いました。(もはや不動の人気ですね、私も)

前から歩いてきたジイさんが、私の顔を見るなり「ゴホゴホ」やりだしたので「同じことばかりやってるなぁ、少し考え方変えるだけで奇跡が起きるのに、本当に残念」と私がいうと、なんとそのジイさんがすれ違いざま「いやだね」といったのです。

私が何かいっても、あんまりいい返す人いないですからね、ちょっと驚きましたが「じゃあ名古屋中に病人が溢れることになるけど、それでもいいんかい」と言い返すと、それには答えず無視して歩いていきます。

まったく議論になりません。逆らうだけ逆らい、では、こうなってもいいのか、こうなったらどうするのか、と聞いても、自分たちに都合の悪いことは一切答えようとしないのです。これでは話しにならないでしょう。

そちらから、先ほど書いたような嫌がらせを私に散々してくるから、私は祈ったり、いろいろいっているだけであって、何もしてこない人には何もしません。

それに、嫌がらせをしてくる人は、私に文句があるから、そのようなことをしてくるんでしょうから、何か文句があるならはっきりいえばいいのです。

先ほどのような「いやだね」とか「うるせえ」とか「問題ばかり起こして何をいっとるか」とか、私のやっていることに逆らっているだけという文句は、何人かの人にいわれたことがありますが、それはただ逆らっているだけで、まったく中身がありません。文句というか意見らしい意見は、誰からもいわれたことがありません。

名古屋には、私より頭のいい人や、宗教を私以上にやっている人はたくさんいるでしょう。それなのに、誰一人私に意見らしい意見をいう人はいないのです。(そういう人たちも、私のことを知っているということは、ある大きな宗教団体の信者や坊さんからも嫌がらせを受けたことで、その事実が分かります)

では、自分たちの方が間違っていると自ら認めていることになりますが、そのように判断してよろしいのでしょうか?(自分たちが間違っていると認めているから、意見をいわない〔いえない〕んでしょう)

自分たちが間違っていると認めるのであれば、早く私のいうことを聞いて、反省してください。そうしないと、この名古屋で起きているサイレンは止まらないからです。(昨夜もよく聞こえてきました)

同じことを繰り返していては、同じことが起き続けるだけです。ソロソロ態度を変えられてはどうでしょうか?そうしないと、名古屋中で病人が溢れるという事態になります。(これいいすぎでも何でもありませんよね。名古屋の人なら、そのようなことも想像できると思います)

意地やプライドだけで、私に逆らい続けても何もいいことありません。もうこのような状況が一年半も続いているのです。いい加減、現実は現実として受け入れるべきでしょう。自分たちが間違っているからこのような状況になっていると。(それを認めざるを得ないと思いますが、このような状況では)

名古屋が変わらなければ、日本も変わりません。何でも地元発などということはいいものです。

最近は、名古屋発やら愛知県発やら、そういうものがあまりにないからと、大村知事がフットサルのワールドカップの開催地に、愛知県が立候補することを決められたようですが、それはそれで結構ですが、日本だけでなく、いずれは世界を救うことになる法の流布を、この名古屋発で行わないで、一体何を行おうというのでしょうか。(これ以上のものはありません)

少し考えを変えるだけで、名古屋に奇跡が起き始めるのです。では、やってみてはどうでしょうか?

東京の人たちの鼻を明かせるのはもうこれしかありません。名古屋発、世界を救う法の流布を行うより、名古屋発展の道はないのです。(現実にそうでしょう、これだけ毎日、人が救急車で運ばれているのです。これでは名古屋が落ちていくことはあっても、発展しようがありません)

もう小さなことにこだわっている場合ではありません。そうして、自分たちの罪をいつまでも責任転嫁している場合でもありません。

すでに、神の御業はそこかしこに現れ、神の意識が支配する世界が日本に出来つつあります。

それにいつまでも逆らい続けているのは、愚かなこと以外の何ものでもないのです。

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