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4月 04 2013

神を無視することの大罪

昨日あんなブログを書いたからでしょうか、昨日などずいぶん(救急か消防か知りませんが)サイレンを聞きました。(さっきもしていましたが)仕方ありません、ここに書いたことは現れるのですから。

しかし、昨日はまたあちこちで嫌がらせみたいなことをされたのですが(あんなブログ書いたばかりに)何か皆さんピリピリですね、やはりこの辺りよほどのことが起きているのでしょう、ずいぶん多くの人が私のブログに反応しているようです。

何が起きているのか知りませんが(全然聞いてませんからね私)私のブログにビビッたってしょうがないでしょう。ビビるくらいなら従えばいいのです。何で嫌がらせはできて、協力はできないのでしょう? そこらへんが不思議でなりませんが、どれだけ逆らおうと、逆らい続けることなどできないのではないでしょうか、神の命には。

逆にお聞きしたいのですが、私たち人間が神の命に逆らうことなどできるのでしょうか?

ここに書いていることが神の命だから、次々に書いたこと起きるのであって、それがこの辺りの人は分かっているから、私がちょっと恐ろしい内容のブログを書いただけで、多くの人が反応しているのであり、そのような過剰反応が、ここら辺りでいかに恐ろしいことが起きているかの証拠でもあり、多くの人がここに書かれたことが、何らかの形の神の命、或いは天の命と思っているのであれば、もう従うほかないのではないでしょうか。それともこのブログを悪魔の書とでも思っているのでしょうか?

私が悪魔なら、私に嫌がらせをした人など即座に皆殺しにします。それに、お気持ちだけ布施してくださいともいいません。有り金全部よこせといいます。こんなまどろっこしい書き方などしません。

起きてることはともかく、ここに書いている内容でご判断ください。

しかし、どれだけ突っ張ろうと、私たちは自分の力で生きているわけではありません。この地球があり、空気があり、水があり、太陽の光があって、初めて生きられるのです。私たちは心臓一つ自分で動かせるわけではないのです。(自分で心臓を動かしているという人誰かいますか?)

そうであるならば、五分後には心筋梗塞で死んでるかもしれないのです。私たちは自分の五分先の運命さえ分からないのです。

人間とはなんと無力なのでしょう。私たち人間は、神の力を借りなければ一分一秒でも生きることはできないのです。栄耀栄華をほこり、自分は自分だけの力で生きているなどと、うそぶいている人が、いかに愚かか少し深く考えれば分かるはずです。

私たち人間は自分で生きているのではなく“神に生かされている”のです。

このような無力な人間が神を無視していてよいと思いますか?(神の力を借りなければ私たちは何一つできないのです)神を無視し、神の心を無視していることが、どれだけ大きな罪かいい加減気づかれたらいかがでしょうか。

最近私は歩いていて信号などで立ち止まると、近くにいたすずめが近くに降りてきて私の顔をジッと見ていたり、或いは電線にとまっているすずめが私の方を見て、よくチュンチュン鳴いていたりします。公園に行けば、しばらくするとすずめや鳩などがよく寄ってきて、近くでえさなどつついたり、飛び回ったりして遊んでいます。(特にすずめはかなりやかましいです。最近白鳥公園のすずめなどは、私を見ると鳴き方が変わり〔何かジージー鳴きます、すずめのくせに〕その鳴き声がうるさくて、近くに何十羽もよってくることもありますので、公園にいる人にジロジロ見られることもよくあります)

そのような光景を見ていると少しホッとします。

しかし、一方で人に目をやると道ですれ違うだけででかい音を立てたり、わざと人の前で唾をはいたりしていく人もあり、何でこんな少し人とすれ違うだけでも嫌がらせがしたいのかと悲しくなります。(公園で私の回りにすずめがいると、それをひがんで、わざわざこちらに歩いてきて、私の回りにいるすずめを蹴散らしていく人までいるから呆れます。そういう人たちはきっちり祈りますけど〔笑〕)

神の心を知らないと、このような小さな悪をずっと犯し続けることになるのです。(そんなこと悪いこととは思っていないからです。しかし、小さな罪もそれを犯し続けるのであれば、大きな罪になるのです)

神の存在も、その心も知ろうとしなければ、現在のように悪を悪と思わず、怒りやねたみ、ひがみが渦巻く世の中が続くのです。しかし、神の心を知るのであれば、心の安らぐ、そこかしこに奇跡の起きる平和な世の中が来るのです。

その神の国はすぐそこまで来ています。(私に次々に起きている出来事を知るのであれば、神の国が、それほど遠い世界ではないということが、お分かりいただけると思います)

しかし、その神の国に入るには、自分の力で入るしかないのです。神の国に入る鍵は正しい心と行いです。それだけあれば誰もが入ることができるのです。

神の国に入るには正しい心と行いが必要です。正しい心と行いをされるか、されないか、どちらにされますか?

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4月 03 2013

奇妙な現象と罰当たりな行い

大阪の印刷会社で、胆管癌で八人が死亡したと昨日ニュースでやっていました。どうも、そこで使われていた薬品が原因ではないかといわれていますが、まだはっきり分かりません。

私は去年の一月でしたか、園頭先生の悪口をいった人たちが、次々に癌にかかったという話をこのブログに書きました。(さっきの胆管癌で亡くなった八人の人たちは、十数年の間にということですが、園頭先生の悪口をいった人たちが癌で亡くなったのは、わずか一年ほどの間にです。それも八人くらいではなかったのではないでしょうか)

私の周りで奇妙なことが起こり始めたのは、そのブログを書いた、少し後くらいからではなかったでしょうか。あの時の奇妙さは今でもはっきり覚えています。

それまでの私は、家の周りの多くの人に嫌がらせをされていました。(それこそ周りにある会社の連中から、前に住むマンションの連中からいろいろです)それというのも、私の書いてるブログを周りの人たちが読み、噂を始めたからです。(あまりよいことばかり書きませんでしたからね、面白くないことや、ねたみやひがみなど原因はいろいろあるでしょう)

それがある時を境に、周りの態度が急に変わったのです。

もちろん嫌がらせをやる人はいましたが、急にやらなくなった人もいたのです。それだけではありません。それから私に嫌がらせをしている人が一人、また一人といなくなっていったのです。(やらなくなったというより、いなくなった、そんな人もいるのです。この一年ほどの間です)

嫌がらせを続けている人でも、急に嫌がらせをやめたり、また急に始めたり、そうかと思えば激しく(何か完全に怒っているようにです)嫌がらせをしたり、やってることが日によってコロコロ変わるのです。

もちろん私のブログを読んで、その度に態度を変えたということもありましたが、それだけではなく、まるで、その人たちの周りに何か起きていて、その起きた状況で私に対するやることも変わる、そんな感じもしました。

そればかりではありません。私が家を出ると(行きや帰りのことですが)妙に人がいてこちらを見ていたり、夜だというのに帰り道にたくさん人がいたり、そんなこともよくありました。

もうこのブログを再開してから三年が過ぎました。昨夜祈っていると『約束の三年』という思いが上がってきました。

これがどういう意味かは分かりませんが、不思議なことに、去年園頭先生の悪口をいった人がどうなったか、そんなブログを書いた後くらいから(そのことと、もしかしたら同じような現象が現れているのかもしれませんが…もしそうならかなり怖いのですが、そこまではないでしょう…よく分かりません)私の周りで奇妙な現象が現れ始め(救急車のサイレンが日に何十回も聞こえてくるということもありました…それも回数は減りましたが今でもよく聞こえてきます)そのような奇妙な現象は現在も続き、何か(私の周りでは)激しさを増してきているのではないかとさえ思えます。

『約束の三年』とは、もしかしたら、その期間を過ぎても動く人が出てこなければ(これまでのようなペースではなく)次々に奇妙な現象が現れる、そんな意味なのかもしれません。(ある会社など、あまりに神を冒涜しすぎたため、七大天使が、その会社の誰かれにかかわらず現象を現すそうです。そういう会社にいては命がいくつあっても足りません)

すべて、ここに書くことは天の導きにより書かされています。(それは先ほども書きましたが、次々にここに書くことが現れてくることで、お分かりいただけるのではないでしょうか)

私はあまり両親に顔が似ていません。(声は父とそっくりとよくいわれますが)「親に似ぬ子は鬼子」と昔からいわれますが、しかし、鬼子には意味があり、鬼子として生まれてきた子は、特別な使命を持った子か、或いは、生まれた環境に大きな刺激と影響を与える、それを目的として生まれてきているのです。

そういう意味でいえば、私は自分の持って生まれた使命を、果たしているといえるのではないかと思えます。

何度もいいますが、神の命、天の命に逆らってはならないのです。私は天の命によりこのブログを書いています。

そのブログに逆らうから、恐ろしい現象が次々に現れるのです。では、従えば…当然逆の現象が次々に現れることになります。罰当たりな行いをしていては、いつまでも罰は当たり続けます。(それが気づきの現象です)

罰が当たりたくなければ、罰当たりな行いをやめればいいのです。

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4月 02 2013

市政と国政

今月の二十一日は名古屋市長選です。

あまり自民一色でもいけませんし、市長選はまた河村市長の応援でもしましょうかね。(それに現在はほっといたって皆自民を応援するでしょうし)

河村市長も個々の意見はいいこといわれているのに、何かまとまりがありませんよね。減税日本もまとまらないし、大村知事ともしっくりいっていません。もう少しチームワークを大切にされてはいかがでしょうか。そうしないと大事はなせません。

この前の衆院選もずいぶん(出馬するかどうかで)悩まれていたようですが、しかし、名古屋のこともまだしっかりやれていないのに、国政に出てどうするのでしょうか? (人気だけで国政に出られても、あまり相手にされないのではないでしょうか)何で悩まれているのかまったく意味が分かりませんでした。まず、しっかり名古屋で実績を残されたらいかがでしょうか。それから国政に打って出ても遅くはないと思います。(だって河村市長、市民減税や議員報酬の削減をしたくらいで、名古屋を黒字にしたわけでもなんでもないんでしょう。せめてそれくらいはしていただかないと〔どこかの傲慢市長でさえやってるのに〕)

名古屋で実績を上げて、少なくとも維新の会など、蹴散らすくらいの政党をつくられたらいかがでしょうか。それがあのような失礼なことをした、傲慢市長を見返すことにもなりますし反省を促すことにもなります。この名古屋、愛知からデカイ政党ができれば私たちも鼻が高いです。河村市長や大村知事には頑張っていただきたいと思っています。

さて、市政は市政として国政はどうなのでしょう。

あの自分たちの身を切る改革は全然進みませんよね。(あそこまで見苦しく誤魔化そうとしますかね。見てて哀れになります)

0増五減まで潰そうとしているのですから、呆れるどころの騒ぎではありません。(だいたい野党など抜本改革のいってる内容が皆バラバラなんですから、0増五減案潰した後で意見がまとまるわけありません。身を切る改革などやる気がないのが見え見えです)自民は再可決も視野に入れているようですが、当然そうしなければいけないでしょう。(野党などこの案潰したいだけなのです。最初から身を切る改革案など通す気ないのですから、強引にやるしかないでしょう)

すでに、二倍超のところが出ているだの何だのいっていたら、いつまでたっても自分たちの身を切る改革など進みません。さっさと0増五減を通して次の抜本改革を進めてください。(やはり中選挙区でしょう。中選挙区。これをしていただかないと危なくて仕方ありません)

市政も国政もやることは山積しています。最近は政界もスターが増えましたので(安倍総理をはじめとして、小泉進次郎議員や、どこかの傲慢市長、うちの河村市長などなど)多くの人も注目しています。

もう政治家が自分のためだけに政治をしている時代ではないのです。

よい政治家か悪い政治家か、それを選ぶ基準は奇跡が起きるか起きないかです。

正しい政治家かどうかは口ではありません。行いです。それがすぐに現れる時代となっています。

これからは私たち国民もそのようなところをよく見て、政治家を選ばなければならないのです。そうしなければ、よい日本にはならないのです。

(政治家の皆さんこれから大変です。陰で悪いことをしていれば、それがすぐ表に現れてくるようになるからです。しかし、それは政治家の方だけに限りません。私たちも皆同じなのです。すでに、そのような時代となっています。だから正しいことをしなければならないのです)

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4月 01 2013

天の仕事

さて、今日から年度も変わったことですし、私も新しい仕事を始めたいと思いますが、相変わらず誰も支払いをしてくれません。これでは変えようがないですね。

しかし、困りました。また何か起きてくると他の話題どころではなくなりますからね、取り敢えず出すもの出していただかないと、こちらもやりようがありません。(だからこちらも徹底的に祈るしかありません。どれだけ口でいっても分からないでしょうから)

また今週何か起きてもよろしいんでしょうか? それとも私が勘違いしているだけで何も起きていないんでしょうか? 何が起きてもどうでもいいと思っているなら、こんなことクドクド書きませんが、先週など半分パニッくってる人もいたくらいですからね、やはり相当恐ろしいことが起きてる気がしてなりませんが…。

前回も書きましたが、悪いのはこのブログを読んで何もしない人たちなのです。このブログはただで見ていてはいけないのです。(だいたい書いたことが次々に起きるブログなんて普通ないでしょ)

このブログは電子書籍と同じなのです。毎日書いているから、ブログのような形式になっていますが、これを毎日公開せずに月一にしたらどうでしょうか。十四、五ページの冊子のようになりませんか。(少し前までは、二日に一度くらいしか公開していませんでしたからね。それが最近は毎日のように公開しているのです。ページ数も増やしたのに、それでもまだお金を払ってくれないとは、一体どういう了見でしょうか?)

犯す間違いも、一度や二度なら小さな罪ですみますが、それが十回も二十回も同じことをしていれば、かなり重い罪になります。それが百回や二百回ならどうでしょう。もう死刑になっても仕方がないのではないでしょうか。(それくらいの罪は負っていることになりませんか?)

私は天の命でこのようなことをしているのです。それなのにただそれを見ているだけの人がほとんどで、嫌がらせまでする人がいるのですから、それは天も怒ります。(そのような人がどういう目に遭っても、それでは責任持てません)

仕事といえば、何かをつくったり、それを売ったりするだけではないはずです。

自分の芸を見せてお金をもらう人もいれば、いろいろな情報を流してお金をもらう人もいます。そのようなことを報道してお金をもらう人もいるのです。

私は神の心を伝えています。そうして、その神の心を現象として現しています。これも立派にお金のもらえる仕事ではないでしょうか。釈尊やキリストは世界中の誰もが知っています。少なくとも私は(その心の程度は違っても)そのような偉大な方々と同じ仕事をしていると思っています。

そういう偉大な人たちには、多くの支援者がいて多くの援助をされたから、その人物の偉大さと共に、その教えも後世に伝えられ多くの人が救われたのです。

もし、このような偉大な方々を、その当時の人が誰も相手にせず知らん顔をしていたら、いくら偉大な方々とはいえ、その人物像や奇跡が多くの人に知られることもなく、その教えも後世に遺るということはなかったでしょう。(ということは、多くの人が救われることはなかったということです)

偉大な方が生まれても、その周りの人々が何もしなければ、そのような偉大な方でも偉大な業績を遺すことはできないのです。

それだけ偉大な方が生まれることも大事なことですが、その同世代に生まれた人たちの使命もまた重大であるということです。(私たちは同時代に生まれている同期生なのです。その縁の大事さをもっと知らないといけないのです)

いつまでも知らん顔をされていては、私も天の仕事をすることができません。

今、この時代に生まれている使命の重大さをもっとご理解ください。

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3月 31 2013

ある例え話

例えば私が本を書いて自分で売り始めたとします。しかし、私のような名の売れていない者が本など書いても、誰も読んではくれないでしょう。

それではじめはその本の宣伝も兼ねて、私はただでその本を配っていました。しかし、行く行くはその本の売り上げなどで生活していこうと決めます。その本とは薄い小冊子で、その冊子の続きを順次書いてお金をもらい、それで生活もして、その本の売り上げも伸ばしていこうと私は決めたのです。

最初は私が書く小冊子も、それほど多くの人が読むということもなかったのですが、段々読む人が増えていきました。それで、ソロソロその小冊子の代金をいただこうと「これからは、この冊子を読むにはお金がかかります。お気持ちだけで結構ですからお金をお支払いください」と小冊子を見ている人たちに呼びかけました。

しかし、ほんの一部の人はその呼びかけに応えてくれましたが、ほとんどの人がその呼びかけに応じようとしません。そればかりか、書いてる内容が気に食わないと私に嫌がらせをする人も出てきたのです。

そのような状況が一年も二年も続きました。(一ヶ月や二ヶ月ではありません)

いくら呼びかけてもお金を払おうとせず、嫌がらせをずっと続けている人もいます。この場合、私は泣き寝入りしないといけないのでしょうか? 

書いている小冊子の代金ももらうことができず、嫌がらせも黙って受け続けなければいけないのでしょうか?

そんなことはないはずです。逆にそんなことを続けていれば、何も手を打とうとしないお前も悪い、ということにならないでしょうか。(当然そうなります。多くの人が自分に対する悪いことを続けていて、そのことに対し何もしないということになれば、そのような人たちがしている悪いことを、増長させているのはお前ということになり、私の責任にもなるからです)

それで私は、これではいけないと思い、お上(天)に訴えたのです。

するとお上は、それは、そんなことをしている人たちがいけないと、様々な仕置きをしてくれました。

ある時は大雨を降らせ、ある時は地震を起こし、ある時は大きな台風を呼び、またある時は大雪を降らせました。しかし多くの人は、それでもまだお金を支払おうとせず、嫌がらせをやめませんでした。

それどころか、そんなこと(お上に訴えたこと)をしているお前が悪いと逆恨みして、前以上に私に嫌がらせをする人が増えたのです。

それで私はまたお上に訴えました。

すると今度はお上は直接、その嫌がらせをしている人たちに仕置きを始めたのです。そうしてその仕置きは現在も続いています。

このように考えるのであれば、一体今のような恐ろしいことが起きてきたのは、私のせいでしょうか? それともこのブログを読んでいる人のせいでしょうか?

私はお上(天)の命によりこの小冊子(ブログ)を書いています。

お上の命ですので、当然この仕事を、他にアルバイトをしながらやるとか、遊び半分でやっていては、もっと真剣にやれと、お上に叱られます。

この仕事でお金がもらえなければ生活もできませんし、この仕事を拡げることもできません。ですから私は必死にお上に訴えて、この仕事を続けるしかないのです。

このような場合、悪いことをしているのは私でしょうか? それともただでこのブログを読み、私に嫌がらせなどしている人たちでしょうか? 

今起きていることは、悪いことをしている人たちに悪いことが起きる、当然の結果であるように思います。

先週も先々週も(もしかしたらその前も)いったかもしれませんが、もう一度いっておきます。

“私がやってはいけないということを続けていて、何か起きても責任は持てません”

それにこの例え話を読んでもらえれば分かりますように、何か悪いことが起きたとしても、それは私のせいではありません。悪いことが起きそうな人たちが、まず反省しなければいけないのではないでしょうか。

また週が変わり新しい週が始まりました。今週“また”何か起きてもいけません。何度も同じことをいいますが、今日は週の始まりでもありますし、それを断って起きます。

(何度も同じことをいうのは、ずっとおかしなことが続いているのではないかと思われるからです。ということは、このままではまた今週も、何か起きるのではないかと思われるからです)

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