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2月 13 2013

危ない国への対処

北朝鮮が核実験を行ったようです。

北朝鮮の核実験の水準も高くなってきているようで、先のミサイル発射の件ともども、周りの国々に対する危険度はかなり増したようです。

どちらにしても北朝鮮のような、かなり疲弊した国がすぐ横に位置し、しかもその国が原爆を持てば、日本など危なくて仕方ありません。原爆を落とされる心配だけでなく、北朝鮮で原爆の暴発事故でも起きれば、まともに日本にも影響するからです。

六カ国協議などやり、アメリカや中国がどれだけ自制を求めても、まるで効き目がありません。日本も独自で制裁を検討しているそうですが、もちろんそれはやらなくてはいけないと思いますが、あまりやりすぎて北朝鮮が破れかぶれとなり、原爆をぶっ放されたら(当然狙うわ東京や大阪などの主要都市でしょうから。しかも一発とは限りませんし)日本は終わってしまいます。

中国ともども北朝鮮の対応にも、これからは慎重な上にも慎重さが求められますね。

科学の発達で便利さは増しましたが、同じように危険度も増しているのですから皮肉なものです。

では、科学の発達などなかった方がよかったのではないか、とも思えますがそうではありません。科学の発達に比べ、心の発達がそれについていっていない、というのが現状だからです。

だってそうでしょう。子供にナイフなど持たせれば危なくて仕方ありませんが(人をそれで傷つけたり、自分自身でそのナイフで怪我をしたり)大人が持てば有効利用できます。(何か物を切ったり削ったり)

要はそれを有効利用できるかどうかの問題なのです。どれほど危険なものでも、それを正しく使えるかどうか、それも心の勉強なのです。

それはともかく、現状、北朝鮮や中国などの核を持っている危ない国が横にある以上、日本はどう対処すればいいのか? ということです。

まさか、どこかよそに引っ越すわけにもいきませんし、それにどこにいこうと、そのような危ない国はあります。今の状況を受け入れ何とかするしかないでしょう。

そこで、前の話の繰り返しになりますが、外交は外交としてしっかりやっていただかねばいけませんが、国民の命をどう守るかということです。

ミサイル防衛などいわれていますが、何せすぐ横の国ですからね。ミサイルを撃たれたら、あっという間に日本に着弾するでしょう。(それに北朝鮮など不意打ちが得意です。気づかないうちにミサイルを発射されたらそれで終わりです)

ではどうするのか? ということですが、これも何度もいっていますが、この日本に法を復活させるしかない、ということです。

高橋先生は「日本は正法があるから守られる」といわれておりました。しかし、現在日本に正法(法)はありません。従って今、北朝鮮にミサイルを撃たれたら、日本にまともに命中します。が、日本に法が復活すれば、日本は神に守られることになりますので、仮に北朝鮮がミサイルを撃ったとしても、それが日本に命中することはありません。(多くの人が法を学び実践するのであれば、そのような人たちから光が出てまいります。その神の光が日本全体を覆い、それがバリヤーとなって日本は守られるのです。それは園頭先生が戦場で、敵の真っ只中で禅定し、神の光が自分を覆うことにより、敵の弾丸や爆弾が一発も自分に当たらなかったという事実が、それを証明しています。神の光の中に、人を殺そうとする弾丸や爆弾は入ってこれないのです)

それに多くの人が法を学び実践するのであれば、その祈りはきかれることになります。(ということは北朝鮮をどうとでもコントロールできることになります。できますよね、そこに大災害を起こすことも、または多くの人を病気にさせることもできるのです。そんなことがあちこちで起きてきたら、北朝鮮も核開発どころではなくなります。法を多くの人が勉強するということは、精神面だけでなく、物質的な面でも世界を救うのです)

また近所で何か起きたようですね。(ということは前述したことの証明となります)申し訳ありませんが、もう心を変えようとしなければ問答無用です。(何を書いても皆さん納得されませんから)

それでもまだ法を勉強しませんか?

追伸…あれっ、何か加藤さん怒ってるんじゃないの?(何で怒ってるか全然意味分かりませんが???)今こちらは大変な状況なのです。(神の御業が次々に現れてきて…ほんと命懸けです)わけの分からないことで怒ってる場合じゃないのです。あまり怒るようなら、この恐ろしい状況がそちらでも始まりますよ。

東京の皆さん、何か恐ろしい現象が現れだしたらそれは皆加藤さんのせいです(涙)気をつけてください。

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2月 12 2013

法を拡げることの大切さ

最近はいろいろなことが起きて、世の中が変わりつつあるように感じますが、世の多くの人々の心はなかなか変わらないようです。

そういえば、例の体罰問題で自殺した生徒が出た学校の生徒が、ずいぶん嫌がらせを受けているそうですがなぜでしょうか? 

いじめで自殺した生徒が出た学校の生徒が嫌がらせを受ける、というならまだ話も分かりますが、何で体罰で自殺した生徒が出た学校の生徒が嫌がらせを受けているんでしょうか? 体罰で自殺した生徒は学校の先生と問題があったのであって、その学校の他の生徒は関係ないはずでしょう。それなのになぜ、その学校の生徒は嫌がらせを受けているのでしょう?

まったく意味が分かりませんが、どちらにしても、あの傲慢市長が、八つ当たりで必要以上のことをしてしまったために起きていることです。傲慢市長に責任を取ってもらうほかありませんね。

なんなら私が嫌がらせを受けている生徒たちに、そういう嫌がらせする人たちにはどういう思いで、どういう祈りをすればいいのか教えましょうか。そうすれば大阪もいろいろなことが起きてきて、わけの分からない嫌がらせをする連中も、反省せざるを得ない状況になります。名古屋のように…。(アレッなってませんか?)

あの傲慢市長ともども、皆で祈ってとっちめてやるというのはどうでしょう。そういうこともしないと世の中変わりません。

それには一にも二にも、この法を拡げるしかないのですが、この状況ではどうしようもありませんね。誰も協力してくれないのですから。

それにしても、これだけいろいろ起きてて、まだ誰も何もしようとしないのですから呆れますね。(他の地域の人も対岸の火事ですか…そういうこともいっていられなくなると思うんですが)しかし、ここまでこの世のことだけに執着しますかね、何でこれだけのことが起きていて、少しは神のことも思えないんでしょうか?(本当にこれだけ神に不誠実な人たちも珍しいです)

まったく不思議で仕方ありませんが、このまま帰ったら皆さん、ど叱られますよ「何でこれほどのチャンスにしっかり勉強してこなかったのか」と。(実在界には自分の縁に繋がる方たくさんみえますから)

この世のことばかりいっていてもいけないし、どこかのおかしな宗教のように、あの世のことばかりいっていてもいけません。

この世に肉体を持って修行しているのですから、この世のことを主にいうのは当然のことですが、あの世のことをぜんぜん無視してしまっては、この世に生まれた本当の目的が分からなくなります。

人の嫌がることや間違ったことをしていれば、死んだら地獄に堕ちなければいけない、ということは、それは事実としてあるのですし、すべて自分のしたことは自分自身にいずれは帰ってくるのですから(釈尊がいわれた“因果応報”ですが、もちろんこれは法です)やはり、そんなことをしていれば自分が損をするのですから、そんなことはやらない方がいいし、そのようなもろもろのことがすべてわかるのが、如来の言葉(それはすなわち神の心)である法なのです。

私がここに書いていることが法であり、それを実証するような現象が次々に起きています。

ここに書かれた法に、逆らうから恐ろしいことが現象として起きてくるのであって、素直に従うのであれば奇跡が起きるのです。

この法が全世界に拡がらないと本当の平和にはなりません。それにはまず、この日本に法が拡がらないと、世界には拡がりません。

今私のブログを読んでる人の使命の重要さを知ってください。

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2月 11 2013

有り難い現象

これまで書きましたように、有り難いの本当の意味は、有ることが非常に難しい、有り得ない、非常に珍しい、という意味で有り難いというのであって、そういう意味では、何か人から物をもらった時などに、有り難いなどという言葉を使うと、それは、あなたから物をもらうことは、非常に珍しいとか、有り得ない、などという意味になってしまいますので、逆に失礼ではないかと思えますが、それは気持ちの問題なのですから、感謝の心を言葉に表してそのようにいうのであれば、特別問題はないでしょう。

しかし、現在の日本には、その有り難い現象が次々に起きています。

人がこの世に生まれて、成長したら学校に行き、学校を卒業したら社会人となって会社で働き、結婚し子供をつくって、年老いて死んでそれで終わり、などという思いは大間違いなのであって、人はあの世(実在界)から、それぞれ使命を持って生まれてきているのであり、この世に出れば、その使命を果たすために家庭、学校、社会などの生活の場があり、その中で自分の心を磨いていくことにより、自分の本当のやるべきことを悟り、自分の使命を果たせるよう仕組まれているのです。

そうして、その使命を果たした後は(死んだ後は)またあの世(実在界)に戻り、その実在界で生活をしながら心の修行をして、またこの世(現象界)に生まれて使命を果たしながら自分の心を磨く、あの世実在界と、この世現象界を永遠に輪廻する魂なのです。(それは、巨大な神の光から別れた光の存在、という意味です)

それに気づかなければならないような、有り難い現象が今次々に起きています。先ほども何度もサイレンが(あれは消防車のようでしたが)していましたが、もう毎日何度も私の住んでる辺りでは、救急車や消防車のサイレンがしているのです。これはどう説明していいか分からない、神の御業が現れている、としかいいようがない現象といわざるを得ません。

そうでなければ、これだけ多くのサイレンが聞こえてくるわけはありませんし、普通、これだけ毎日のように、しかも日に何度も、救急車や消防車のサイレンが聞こえるなどということがあるのでしょうか? 

私は五十年生きてきて、これだけ何度も毎日のように救急車や消防車のサイレンを、連続して聞くなどということはありません。それこそ生まれてこのかた経験したことがないような現象が、今起きているように感じます。(先ほどのサイレンは、家のすぐ近くのタクシー会社が火事になり、消防だけでなく救急車でも何人か人も運ばれたそうです。母が聞いてきました)

もう、このような現象をおまえのせいとか、誰かが悪いとかいっていても仕方ないでしょう。それほどの大きな現象が、この辺りでは次々に起きているのです。決して大げさな言い方ではありません。というより、あまりに毎日あちこちからサイレンが聞こえてきますので、起きてる現象が大きすぎて何が起きてるのか把握できないのです。

神は存在し、その神の命を受けた偉大な力を持つ、光の大指導霊も天上界には存在します。

そのような偉大な方々の命は、多くの人が、この法を勉強し実践するということです。

どれだけ、それを拒み私を嫌い嫌がらせしようと、この恐ろしい現象が収まることはありません。なぜなら、実在界でしてきた約束を破り悪いことをしているのは、皆さん方の方だからです。(私はそれを一生懸命伝えているだけだからです)神の命、天の命には決して逆らってはならないのです。もっと従順に敬虔にならなければいけないのです。

敬虔な人が増えた時、初めてこの現象は収まります。

人のせいや責任転嫁ばかりしているのではなく、もう、いい加減そのことに気づかなければいけないのです。

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2月 10 2013

如来を知り法を知ることの困難さ

前回のブログの続きをもう少し書きますが、例えば釈尊の時代やキリストの時代を考えてみてください。

釈尊やキリストと同時代に生まれていても、釈尊やキリストを本物の如来と考えていなかった人もいましたし、釈尊やキリストから離れた場所に生まれた人など、釈尊やキリストを知らずに一生を終えた人もいたのです。

たとえ如来と同時代に生まれても、如来がこの世に生まれたことを知らず、また、その有り難い法や奇跡を知るチャンスがあっても、知ろうとしなかった人がいくらでもいたのです。それほど、この世で如来と出会い、その法を聞くことは難しいことなのです。(よほど条件が合わないと、如来や、その説かれた法に出会うことはないのです。前に私は、如来の法と出会うことの難しさを「一眼の亀の浮木の穴」という題でこのブログに書いたことがあります)

しかるに、このブログを読んでる皆さん方は、パソコンを起動させて、このブログを読むだけで法が分かり、奇跡まで体験しているのです。(そこらじゅうで現象が起きていますので)おまけに私が、本物の如来は高橋先生と園頭先生だと、このブログに書いたものですから、本物の如来も誰か分かるわけです。(ということは、両先生の書かれた本を読めば、如来の法もすぐ分かるということになります)

釈尊やキリストの在世当時など、釈尊やキリストが本物の如来と分かっても、その法を聞くだけでも大変だったのです。

もちろん当時はパソコンなどありません。ビデオやテープもなければ法を知っている人もいません。法を知るには直接如来とお会いし聞くしかなかったのです。その直接如来とお会いすることも、遠方にいるなら、如来のいられる場所まで行くのに何日もかかりました。(当時は飛行機や電車などの乗り物はありません。歩いていったのですから)行く途中には危険な場所もたくさんあり、当時は法を聞くだけでも命がけだったのです。

しかし、如来と同時代に生まれた者たちは、如来と同時代にこの世に生を得た以上、如来とお出会いし、その法を聞くことは、やらなければならない最低限の使命であるし、その有り難さを自分自身で悟り行わなければならなかったのです。

それほど有り難い(有ることが難しい)ことを、簡単に知ることができて、奇跡(現象)など体験できる人は、ほんの一握りの人なのに、それも体験できて、そんな自分の永い輪廻転生の間に、数回あるかどうか分からないような奇跡の体験を、連続でしていて、それでも感謝の心を持たず、不平不満ばかりいっているのですから、それは神も怒ります。

現在のように、恐ろしい現象が次々に起きてきても仕方がない、ある意味、当然の結果であるといえるのです。

このブログを読んでる皆さん、信じられないような不遜なことをしているのです。永い輪廻の歴史を見ても、これだけ不遜な人たちが固まって地上に出ているなど、反対の意味で奇跡なのです。(奇跡的な鈍さという意味です)

あまりに今起きてることの重大さ有り難さを、多くの人が理解されていないのではないでしょうか。

こういう体験は何事にもかえがたいのです。そういう奇跡の体験をしているのに、それがあまりに簡単にできてしまっているため、その価値が分からないのです。

現在の皆さんが異常な態度(ちょとこれまでの歴史では考えられないような態度)をとり続けているため、異常な現象が起き続けています。(昨日もサイレンよく響いていました)

異常な現象を収めるには、異常な態度を改めるしかありません。神に対し、もう少し謙虚で従順な態度をとられたらいかがでしょうか。

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2月 09 2013

貴重な体験

昨日あんなブログを書いたら、ずいぶん昨日はサイレンが響いてましたね(救急車か消防車か知りませんけど)今日も朝からサイレンがあちこちでしています。どうやら次々に現象が起き始めたようです。

皆さんしれっと仕事していますが(内心は分かりませんが)よろしいんですかね、このままほっといて。

ここに書くことを、信じたくなければ信じなければいいし、やりたくなければやらなければいいのですが、状況が状況です、神の心を知る努力を少しはされてはいかがでしょうか。

いつまでたっても人に嫌がらせしているだけでは、何も変わらないでしょう。(むしろ状況悪くなる一方です)私がいなければ、この世以外のことも理解できなかったのですから、少しは感謝され、感謝の心を表されてはいかがでしょうか。そうすればもっといい現象が起きてくるのに、逆の思いばかり持ち逆のことばかりしているから、こんなおかしな現象ばかり起きるのです。

私は、よく人に向けて祈りますが、しかし私は、その人のためになる祈りしかしていません。(そういう祈りをしないとこちらも危ないからです)もし私に祈られて、おかしな現象が出た人がいたとしたら、それはその人が悪いのです。その人の心がよければ、私に祈られれば、その人に悪い現象が出るはずがないからです。私はその人の幸せを祈っているからです。その人がよくなるよう祈っているからです。

それで悪い現象がその人に現れるようなら、よほどその人の心が悪いということになります。しかし、どんな現象がその人に現れようと、私に祈られ何か現象が起きるのであれば、それはその人の心にとってはプラスになるということです。どういう現象が現れようとです。だから私には何も起きないのです。すべてその人のためにやっていることだからです。(私が祈り、たとえその人に悪い現象が起きても、人は何度も輪廻を繰り返している魂なのですから、この人生で私に祈られて何か起きたと本人が自覚すれば、これほどの学習はないのです。そんな体験、自分の永い輪廻転生の過程でも、そうは体験できることではないからです。人に祈られて自分に何か起きるなどという体験、そうできるものでもないでしょう)

いずれにしましても、私が祈って何か起きていると、自覚している人が多いのであれば(多いでしょうね、だから私に嫌がらせする人が多いのでしょうし)それはすばらしい体験をしているのです。(祈って、その現象が目の前に現れるなどの体験、普通はできないでしょう。それは永い輪廻転生の過程でも同じなのです)

如来クラスの者と同時代に生まれなければ、できない体験を多くの人はしているのです。(それがどれだけ貴重な体験かは後で分かります)

もう少し現在起きていることの有り難さを理解されてはいかがでしょうか。

今起きている現象は、その言葉どうり“有り難い”(有ることがあまりない、めったにない、非常に珍しい、という、有ること難し、という意味)現象であるのです。

その自覚を多くの人がもてた時、奇跡が起き始めるのです。

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