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2月 28 2012

正しい性のあり方④

正しい性のあり方の大体の基準は書いたつもりですが、少しはお分かりいただけたでしょうか?(あまりに世相と離れすぎていますかね)

しかし、昔から残っている教えのどこを探しても、現在言われているような“男女平等”“男女同権”などという思想はありません。(もちろんフリーセックスのような思想もです)

男は男の分を知り、女は女の分を知って、それを尽くす、そうすることが神の心に叶うことであり、正しい人の道である、ということです。

当然ではありますが、正しい人の道を進まないと、人は進歩向上していきません。

男女平等、同権などといわれ、個人の自由がこれほど強調されていなかった、戦前の日本などは、大家族が当たり前でした。その大家族に若い嫁が一人で嫁いできて、その十人も十五人もいる家族を一人で切り盛りしている、ということもよくありました。

ところは現在はどうでしょうか、核家族が増え、若い夫婦二人だけで家庭を持ち、子供一人できただけで、もうその若い嫁が育児ノイローゼになり、家事育児がまったくできないでいる、という話をよく聞きます。

昔は(洗濯機やら掃除機やら便利なものが何もなかった時代です)女一人で十人も十五人もの家族の面倒を見れた同じ女性が、現在は夫や子供一人の面倒すらまともに見れないのです。

なぜでしょうか?

現在のような男と女が平等だ、同権だと言いあっていては何も進歩しないということです。個人の自由を尊重したところで、一人では何もできないということです。何もできないどころか退歩してしまうということです。男女平等、同権という思想が間違っているのです。

昔は、小さい子には旅をさせろとか、若い時の苦労は買ってでもしろとか、言われていましたし、また、女の子なども、小さいころから家事や育児の手伝いをさせ、将来のお婿さんのために女の体は大切にしなさい、という教育もされていました。

ところが現在では、このようなことが言われなくなり、そのような家庭での教育もされなくなりました。そうして出てきた思想が自由、平等であり、男女平等、同権思想でした。

そんな思想のせいで、子供は何をしても自由だ、だからそんな子供に苦労をさせてはいけない(過保護)小さい子に家事育児など手伝わせてもいけない(これで多くの女性が家事育児を学ぶ実践の場〔家庭〕を失ったのです)学校の先生と生徒は平等だから叩くような指導があってはいけない(口で言うだけで分かる子供がどれくらいいるのでしょう)夫婦は平等で同権なのだから、家庭のことはすべて半々に分けて、互いに平等に行わなければいけない、性も自由だ等々…このようなことをしていて、人は本当に大切なもの(愛や調和)が学べるのでしょうか?

足して二で割ったような平等論に加え、何でもかんでも自由(だから自分の体をどう使おうが自由だ)を主張していて、そんな世界で何が学べるのでしょう?(わがままになるだけではないでしょうか)こんな世界に平和と安らぎなどあるわけがないのです。過度の自由、平等など混乱と無秩序しか生まないのです。そんな世界では人は成長していかないのです。

相手を思いやるということがあまりに少ないのです。自分が愛をもらうことばかり考えたり、あるいは自分がこうしたのであるから、あなたもこうしなさい、では愛があるとは言えないでしょう。相手に愛を与える、また、相手には相手の立場があるのですから、その相手の立場も考え、少しのしぐさで、その相手の気持ちを知りそれを思いやる、それが本当の愛であり、こうしたからそちらもこうしろでは、それはただの取引です。

とはいえ、もちろんしてもらったのなら、そのお返しをするのは同然の行為であり、それをしないのもやはり愛がないといわざるをえません。

どちらにしても現在の日本は、愛が少なく、欲望ばかりが渦を巻いているように思えます。

そのような現在の日本を見ていると、ソドムとゴモラの町が思い浮かびます。ソドムとゴモラの町は、快楽と、はてしなく続く肉欲と同時にすべての欲が絡み合っていました。まさにそれは地獄のそれに等しく、悲しく壮絶な光景であったのです。

そこに七大天使である、ミカエル、ガブリエル、ラファエルの三人が現れます。(他にウリエル、サリエル、ラグエル、パニュエルの四人の方がいられます)

ソドムとゴモラの住人は、その七大天使である三人に危害を加えようとしますが、その時、この三人の大天使から強烈な光が四方に広がり、そのまぶしさに周りの人々の目が潰れます。(この光は光子体〔霊体〕の光だったといいます)

そうして、このソドムとゴモラの町は廃墟となるのです。

ソドムとゴモラの町が廃墟となったのも、その町に住む人々の心がそのようにしたのであり、決して七大天使のせいではありませんでした。

現在の日本もこのソドムとゴモラの町同様、廃墟になりつつあります。(数々起きる異常現象で)

そのような状況になりつつあるのも、もちろん日本に住む人々の心がそのようにしているのですが、ソドムとゴモラの町と同じような状況が日本に現れている、ということであるならば、もしかした日本のどこかに、七大天使の誰かが、肉体を持って生まれているのかもしれません。

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2月 26 2012

正しい性のあり方③

では、正しい性のあり方とはどのようなものなのか、ということですが、それは前に書いたことがありますが、正しい目的(お互いの愛情を確かめ合い)と人(自分の妻または夫)と時と所を得て行うものが、正しい性行為であり、正しい性行為を行うのであれば、それはお互いに相手のことを思いやり(愛情を確かめ合うのですから、当たり前の話です)男は自分勝手にやるだけやって終わるのでなしに、また女もマグロ状態ではだめで、お互いによくなるよう努めなければならないのです。

キリスト教では次のように教えています。

「妻たる者よ、その夫に服(したが)へ、これ主にある者のなすべきことなり。

夫たる者よ、その妻を愛せよ、苦きをもて之をあしらふな」(コロサイ書)

「夫はその分を妻に尽くし、妻もまた夫に然(しか)すべし。妻は己が身を支配する権をもたず、これを持つ者は夫なり。

かくの如く、夫も己が身を支配する権をもたず、これを持つ者は妻なり」(コリント前書)

妻が夫に従うことは、キリストを信じキリストに従わんとする者が当然為さなければならないことであります。(キリストを信じない人はいないと思います。では、キリスト教の教えの正しい部分は信じられた方がいいと思います)キリストに従うとは、キリストは天なる神の子であることと、神を敬うことを教えられたのでありますから、妻が夫に従うということは、それがそのまま神の道を行うことであり、神を信じて敬い、かつ礼拝するということにもなるのです。

夫もまた妻を愛するということが、そのまま神を信じ愛することになるのですから、夫も自分勝手な行動で妻を悩ませたり、苦しみを与えたりしないようにしなければならないのです。

夫は夫のなすべき分を尽くすということが、同時に妻を愛するということになるのであり、妻もまた、妻に与えられた役割を十分に果たすことが、夫を愛するということになるのです。(ということは、夫の仕事が忙しくてこちらにかまってくれない、などという文句は妻は言ってはいけないのであるし、最近は男が育児休暇などとって家庭のことをやっていますが、やはり、男には男のするべき分があるのですから、その分をしっかり果たすこと〔社会貢献〕が本当の意味で妻を愛するということになるのです)

「妻は己が身を支配する権をもたず、これを持つ者は夫なり」

と書かれてあります。ということは、妻が自分の体を自分のものだと思い、夫の心を無視して自分勝手に振舞ってはならないということであり、妻の体をどのように支配し動かすかは、その権利を持っている者は夫なのですから、妻は自分の体を動かす時に、夫の心に添うよう、夫の心を満足させるように動かなければならないのです。妻自身の行動が、夫の心を苦しめるようであってはならないのです。

最近は格差婚というものも話題になっていますが(例えば超売れっ子の女優と漫才師の結婚とか)だいたい離婚しています。その理由がまた似たようなもので、だんなの浮気ということが多いようですが、世間では浮気をした男が悪いということになります。

しかし、では、このだんなに浮気された有名女優は、ここに書いてあることを知っていたのでしょうか?(妻は己が身を支配する権を持たず、これを持つ者は夫なり)まず、知らないでしょう、ということは世間でチヤホヤされるままに、夫にも(自分の方が収入も多いし、世間の注目度もまるで違いますので)横柄な態度を取っていたのではないのでしょうか。

自分の体は自分のものだと考え、自分の体だから自分の自由にすればいいのであって、夫の言うことに一々自分の体を使うべきではない、夫の言うままに体を動かしてはならないと考えていたのではないでしょうか。(キリストの教えとはまるで逆です)

離婚の理由で一番多いのは「性格の不一致」だといわれますが、これは要するに「性生活の不一致」ということが多いのです。

夫の要求に対し妻が応じないのです。このような格差婚の場合、妻のプライドは山のように高いでしょう。そんなプライドの高い妻が、自分よりはるかに下に見ている夫の要求を素直に受け入れるでしょうか?まず、ないでしょうね、よほど機嫌のいい時や欲求不満の時くらいなら受け入れるでしょうが、それ以外では夫に自分の体を自由に触らせることなどありえないでしょう。

となれば、横にいい女が寝ていても、その女に手を出せないのです。夫はヘビの生殺し状態です。男にとってこれほど辛い状況はありません。だんなは必然的によそに女をつくるということにならないでしょうか?

世間では浮気をした男が悪いということになり、実際に自分が浮気をしたのだから「自分が悪い」と言わざるを得なかった、男の辛さ悲しさが私には感じられてなりません。

こう書けば、それは男の身勝手で、あなたが男だから男の味方をしているだけだろう、と言われそうですが、しかし、では、なぜこのような格差婚で別れる理由が“夫の浮気”というものが多いのでしょうか?

格差婚ばかりではありません、ドメスティク・バイオレンスなども昨今はずいぶん言われるようになりましたが、いわゆる我が強くて素直でない妻に、では夫はどう対処すればいいのでしょう?

そんな妻に口で何か言っても聞くわけありません。(というか逆に言いこめられてしまいます)夫が浮気したり、妻に暴力を振るったりするのは、その心の奥に妻に対する不満と、それに気づいてもっと自分を愛してほしい、という男の気持ちがあるのです。

このようなことを書けば、それは男の甘えだなんだと言われる人もありますが、しかし、夫婦が愛情を確かめ合うのは性生活が主なのです。その性生活を拒否されたら、自分は妻から愛されていないのではないか、と夫は感じるのです。(現実に妻に性行為を拒否されると仕事も何もやる気がなくなる、という話を私は何人もの男性から聞いたことがあります)それに性生活は(女は心の奥に神を宿しているのですから)神のエネルギーを妻からもらえることにもなりますので、エネルギーの補給という意味でも、男にとっては非常に大事なことなのです。その性生活で妻が男の言うがままに、それ以上に積極的に尽くしてもらえれば、男は力もわき、また、妻は自分を自分が思っている以上に愛してくれている、という確認もでき(これでまた男はやる気をだします)夫が妻を愛する心も倍化します。

それほど愛する妻が家にいて外に女をつくれる男がいるのでしょうか?そんな愛する妻に暴力を振るえる男がいるのでしょうか?

はっきり言いまして、そんな男は一人もいないのです。夫に浮気されたり暴力を振るわれたりする妻は、やはり夫に対する愛が足りなのです。逆に言えば、浮気をしたり暴力を振るったりする夫でも、女が愛を出すのであれば、その女の愛の力の前には、そのような男の悪い部分も浄化されよくなるということです。女の愛はそれほど偉大な力がありどんな男をも癒すのです。

フランスの古い諺(ことわざ)に「昼は賢婦であっても、夜は娼婦であれ」というものがあります。(日本にも「時には娼婦のように」という歌がありますが)別に娼婦だと思う必要もありませんが、夫の要求には妻は素直に従うことです。「妻の体を支配する権を持つ者は夫」なのですから、夫の言うままに妻は夫に体をまかせるべきでしょう。それが妻が夫を愛している証となり、そうすることで神のエネルギーが循環し、夫もやる気を出し、そのような愛ある家庭に奇跡が起きるのです。(私が前回、結婚前の女性は身持ちが固い方がいいと、わざわざことわったのは結婚後の女性は〔もちろん夫に対してだけですが〕夫の要求には素直に従い体を開いた方がいいからです。同じく将来結婚する人のために女性は体を大事にした方がいいといったのも、その女性の体は自分のものであって自分のものでないからです)

性生活が正しくなければ夫婦は一体になれません。それだけ正しい性のあり方は大事なことなのです。

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2月 24 2012

正しい性のあり方②

こうした理想の感情移入は、人間は神の子であるとの自覚から起きてくるものですが、心理学者たちは神と霊の存在を否定していますので、それを単なる潜在意識からくる、としか言わないのです。人間が理想を求めるのは、人間の霊(たましい)そのものが神の意識を持つ神の子であるからです。

ですから私たちは、その神の心を現す恋愛をしなければならないのであるし、その神の心を現す正しい恋愛とは、自分の人格を高め、教養知識を高め、理想の人間を目指して、人間性の向上を自覚し、その向上をお互いが認め合うものがそうなのであり、そいうものを一切無視し、すぐ性欲に結びつくようなものは恋愛ではなく、ただの欲望のはけ口にしか過ぎないのです。

性の結合をスポーツのようにいい、ずいぶん軽く見ている人もいますが、性の結合とは、神が天地を創造された創造原理の人間的表現であるのですから、それだけの尊厳と重みがあり、そんなに誰とでも気軽にできるような軽いものではないのです。夫婦の縁を持ち、夫婦となった者同士に許された、夫婦にだけ認められた、お互いの愛情を確かめ合い、また子孫を残すという、神の心を現す神聖な行為であり、めったやたらにやってしまってはならないのです。(そのために人間は神から理性というものが与えられているのです。やりたいからやる、では動物とかわらないのであるし、理性を持って自制するところは自制しないと、万物の霊長としての使命も果たせないのです)

釈尊もキリストも生命の本源である神仏に帰一することも忘れ、肉体的、物質的欲望のみを求める人間を、親の存在を忘れてさまよう放蕩息子にたとえられました。

だから、特に女性は純潔を守るということは大事なことであり(前回もなぜ男が処女に憧れるのかを書きましたが)純潔を守り、結婚した男性にしか体を許さない女性は、それがそのまま神の心の表れとなり、そのような女性に神の心が表れるので、世の多くの男性はそのような女性に憧れるのです。

このように書けば、それは考え方が古いだの何だの言われますが、では、世の男性に、たくさんの男を知っている女性と、純潔を守る女性とどちらの女性がいいのか、と聞けば、百人が百人(マァ例外はあるかもしれませんが)純潔を守る女性がいいと言うでしょうし、では、何で純潔を守る女性の方がいいのかと聞けば、男性により答えはまちまちであっても、やはり純潔を守る女性に神の心を見るからです。

現代の思想が思想ですので、男を知っていようがいまいが関係ない、という言い方をし、何かたくさん男を知っている女の方が、いいような言い方をする人もいますが、口ではそんな言い方をしても、では、本当にそう思っている男が実際多いのかと言えば、ほとんどの男の心の中は、そんな(たくさん男を知っているような)女には嫌悪感を感じ軽蔑しているのです。それはそのような女が神の心とは反対のことをしているから、ほとんどすべての男はそう感じているのです。(精神とは神の精と書きます。一人一人の心にはその神の精が宿っているのですから、神の心を表していない人に嫌悪感を感じるのは当たり前のことです)

ですから昨今のように、何か何時までも処女であってはいけないという風潮は間違いであり、女性の純潔は非常に大事なものであり、女性は純潔を守った方が神の心を現しているのですから、貞節な女性として男からの信頼も得、また好意も寄せられるのです。(それだけ男以上に女性の体は大事なのです)仮に男を知っていたとしても、それを世間で言うことは、自分で、私は淫らなバカ女です、と言っていることと同じであり、そんな風に世間で思われるのであれば、それはその人は自業自得で仕方がない話ですが、そのような人を嫁にもらう男性はやはり辛いでしょう。

自分が結婚する気があるならば、将来自分の夫となる男性のことも考え(なぜ、結婚する相手のことを考えて自分の体を大事にしなければならないか、それは次回詳しく書きます)少々好きになったくらいで、簡単に自分の体を男性に開くのは間違いであるし(また性関係を持ったばかりに、起きないでいい悲劇も起きることがあります)そんなことを平気で世間で言うことも間違いであるし、また、結婚すると決めた人がいたとしても、どうせ、結婚するからということで体を開くのも間違いであるし(先ほども書きましたが性行為は夫婦にだけ許された神聖な行為だからです。また女性が簡単に体を開いてしまうと、やはり男は他の男にも簡単に体を許すのではないかと考えます。結婚前の女性は身持ちが硬い方がいいのです)最近はできちゃった婚が流行のようですが、こんな性行為を軽く見て、順序も何もないやり方が正しいはずありません。間違った順序で間違ったことを行えば、仮に最後は結婚したとしても、その間違った分の償いはしなければなりません。

正しい順序を経て正しく行うことが正しいことなのです。(そうして初めて神の祝福が得られるのです)それを無視して行う性行為は、やはり神を冒涜していると言わざるを得ません。

しかし、昨今の風潮が風潮です。間違いを犯してしまったものを、いまさら戻すということもできませんので、間違いを犯したと自覚したならば、それは本人自身が間違いを犯してしまったことを神に詫び、そうして二度と同じ間違いは犯さないと神に誓うのであれば、その罪は許されます。(昔はそうであったが、今はそうではないのでそれでいい、と軽く考えている人もいますが、間違いを反省しないと罪は罪のまま残ってしまいます。間違いを間違いと認めて、そうして反省した時、初めてその罪は許されるのです)

一番悪いのは、そのような懺悔も反省もなく神の心を理解しようともせず(神の借り物である)肉体を自分のものと思い込み、いつまでも間違いを続けることです。性の間違いを、何時までも間違いと認めず、同じようなことをしているのであれば、それでは動物と同じで、そこには進歩も向上もありません。そのようなことを続けているのであれば、最後には不幸になることを知らなければならないでしょう。

人の体を見てください、目は二つ、ついていて、耳も二つ、ついています。しかし、口は一つしかありません。なぜでしょうか。人の体は、二つあるものはよく働くため(よく見て、よく聞くという意味です…手や足も二本づつついています、これもよく動かせという意味です)一つしかないものは余計なことをしないため(余計なことを喋るなという意味です)そのようにつくられているのです。

男も女も性器は一つしかありません。これは余計なことをするなということです。男の性器を“マラ”ともいいます。このマラとは、釈尊が在世当時のインドで悪魔のことをマラーといいました。それが語源で、やはり男もやたらめったら性器を使えば、それは悪魔のそれとなり、夫婦となった妻にだけ使えば、それは“珍宝”となって新しい生命を生み出すのです。

男の性器は外側に女の性器は内側につくられています。そのようにつくられているのであれば、女性はその内側のものをやたら外に見せてはならないのであるし、内側のものを内に秘め、それを夫にしか見せない貞節な妻に男は神を見るのです。(だから女を、おかみ〔神〕さん、奥さん、と呼ぶのです。それは女性の心の奥に、神の心が内在されているから、そう呼ぶのです)

大自然同様、人の体も、私たち人間の正しい生き方を教えています。

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2月 22 2012

正しい性のあり方①

先週一週間ブログを書きませんでしたが、しかし、その間だけでも地震やら大雪やら観測史上最低気温やらノロウイルスの集団感染やら出て、相変わらず異常現象は収まっていません。

ブログのネタには困りませんが、やはり世の人々の考えをよほど変えないと、この異常現象は収まりませんね。あまりはっきり書くのもどうかと思っていましたが、性の問題を無視して私たち人間は成り立たないのでありますし、その性の問題を正しく説かれたのは(神の心からして、という意味です)園頭先生お一人でもあるのだし、その弟子の私がはっきり正しい性のあり方を書かないで、では誰がそれを書くのかとも思い書くことにします。

現在の世の中の性の乱れを見るにつけ、それをそのままほっておいてはいけないと思いますし、現在やっているような性教育をされては(避妊のためコンドームを使いましょうとか、エイズ予防のためコンドームを使いましょう、とかいう類のものです)性の乱れを助長はしても、正しくはならないとも思い、私も、もう五十を過ぎたのであるから、ソロソロそのような話をしてもよいのではあるまいかとも思って、ここに正しい性とはどうあるべきなのか、その基準を書いておきたいと思います。(先週の週刊ポストにも世界の性教育の特集が載っていましたが、どこの国も似たり寄ったりで神の心を教えていません。あれではダメです)

どうしても性の問題を書くのであれば女性の心が中心となります。女性の方々には、少々きつい書き方になるかもしれませんが、それはご容赦ください。

まず始めに、よく「自分の体をどう使おうが、自分の勝手だ」と言われる人がいます。

その考えがすでに間違っていますので、その考えのどこに間違いがあるのか、それから書きたいと思います。

自分の体と言われますが、ではなんでそんな自分の体が、自分の自由にならないのでしょうか?

自由になると思っていられる方が多いと思いますが、腕や足は一定の方向には動きますが、逆方向には動きません。(腕や足を反対方向に曲げようとしたら骨が折れてしまいます)髪を伸ばしたり縮めたりすることもできませんし、心臓を止めたり動かしたりすることもできません。それに年をとりたくないと思っても年はとっていくのであるし、死にたくないと思っても心臓が止まれば死にます。

よく考えれば、自分の体など何一つ自由にならないのです。(一定方向には自由に動かせますが、一定方向にしか動かせないというのであれば、それは逆に不自由なのではないでしょうか)

そんな自分の自由にならない体が、本当に自分の体といえるのでしょうか?よくよく考えてみれば、すべて人はコントロールされていると考えられないでしょうか。(たとえば寿命などでもそうですが人によって皆違います。自殺により早く死ぬことはできても、二百年も三百年も生きようとしても、あるいは永遠の命を得たいと思っても無理です。ということは、人は自分の寿命さえ自分では決められないのです)

自分の寿命さえ自分で決められない、そんな他からコントロールされているような体が、自分のもののはずはないのであって、ではこの体は誰のものなのでしょうか?

すべてそれは神のものなのです。つまり私たちはこの肉体さえも神からの借り物であって、神から借り物であるならば、自分勝手に使ってはならないということです。やはり、この肉体を使って、神の心を世に現さなければならないということなのです。(この世のすべてのものは神からの借り物であり、神の心をこの世に現すための道具なのです。だから、神の心を知らないと、その道具の扱い方を間違ってしまうので、不幸なことが起きるということになります)

その神からの借り物である自分の肉体を「自分の体をどう使おうが、自分の勝手だ」とは、どの口が言うのでしょうか。それはあまりに事実を知らない、愚かな発言としか言いようがないのではないでしょうか。

だから、自分の肉体を自分の欲望のままに使ってはならないのです。男女の愛とは決して性欲だけの愛ではないからです。(というか性欲だけでは愛とは言いません)

性欲とは、性的快感を得んがために、お互い抱擁し、体を接触して、肉体的官能的興奮を得んとするものであり、だから性欲だけの性行為は、相手が異性でありさえすれば、相手がどんな相手であろうと相手の人格など無視して行えるのです。

これに反し、本当に純粋な恋愛とは、相手との性行為を考えない、もし肉体的に接触による性行為を考えると、そのことだけで自分を卑しい存在だと考えるほど純化された「美的感情」であり、自分の魂と相手との魂とが完全に融合し、一体となった神秘的感覚であるのです。

本当の男女の愛とは、そのような純粋で神秘的感覚を持ったものなのです。

そのような心を持つのであれば、相手の顔が、目が、鼻が、口元が、体全体が「美」そのものとなります。その人を遠くから見ているだけで、相手のそばにいれば尚のこと、ましてちょっと言葉を交わすだけで、無限の喜びを感ずるようになります。

恋をする人は自分自身の理想を相手に移入しますが(男が〔特に好きな女性には〕処女を求めるのは、男はその処女の中に神聖さ感じ、それに憧れます。その憧れ神聖さを自分のものにしたい、という心があるから、男は処女を求めるのです)その理想の相手と、自分もその女性から思われたい「全世界で私が一番愛するのはあなたです」「他のどの男性よりもあなたと一緒にいることが幸せです」と言われたいと思い、そのためには自分の人格を高め、教養知識を深め、その女性の理想の男性となれるよう努力します。

女性もまた男性に対して、男性からそのように言われ、そのように思われたいと思います。

そのようにして、自分の人間性の向上を自覚し、その向上をお互いに認め合えるような恋愛は正しい恋愛ですが、恋愛と言う言葉によって、それがすぐ性欲に結びつき、お互いの人間性の向上など認められず、むしろその反対に低下、低卑の感情が伴うのならば、それは正し恋愛とは言えず、恋愛と言う言葉によって偽装された単なる野合にしか過ぎないのです。

(いろいろ忙しいんだから、朝も早くから〔というか真夜中でしょ〕見なければいいのに…と思うのですが〔笑〕)

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2月 20 2012

恩師への追悼

平成十一年二月二十日、偉大な方が逝かれた。

その方は命を賭けて神理の道を進まれた。

自分以外の全ての人が神理を捨て他の道へ進もうとした時も、その方は神理を守りその道を進まれた。そして、神理を聞きたいという人が一人でもあれば、その方はどんな所へでも出向き神理を語った。どれほど疲れていようが、どれほど自分の体の調子を崩していようが、神理を聞きたいという人があるならば、どんな遠い道のりも一人いかれた。

そんな正しい道を一人進まれるその方に、多くの人が共鳴し弟子となられた。しかし、その弟子となられた人たちも、ある人は師の説く神理を十分理解することができず師に背いた。またある人は師からその地区の担当者を命ぜられると、とたんに増上慢になり自分の師より偉くなって師を裏切った。

師がどれほど分かりやすくその神理を説いても、師の神理を正しく理解する人は少なかった。

師は人の心が分かっていたため、間違った心で神理を聞いている多くの人たちの心を観て、どれほど切なく悲しい思いをされたことであろうか……。

しかし、師はそのような思いをされながらも、辛抱強く教え続け一人でも多くの人が神理を正しく理解され、幸せな生活をしていかれることを願った。

だが、多くの人が師の教えを理解することができず師のもとを去る。

師はそのような人たちの心を悲しまれた。そして、師の神理伝道の道は思うように拡がっていかなかった。師は知らず知らずのうちに焦り無理を続けていられた。

師は大変我慢強い方であった。自分の体がどんなに悪くても、周りに痛いとか疲れたとか弱音を吐く方ではなかった。そのため、師の体がそれほど悪くなっていると理解する人は少なかった。

ある時など、自分の体の調子がかなり悪いにもかかわらず、弟子の皆が楽しみにしているからと、弟子とともにインドに旅行され完全に体調を崩された。帰国された時は危篤の一歩手前という状態であったが、周りの弟子たちに心配かけたくない一心で、自分の家に帰るまでは普通に笑いながら歩いて帰ってこられ、周りに弟子たちがいなくなったその途端、足が一歩も動かなくなり即病院に直行されたこともあった。

体が衰弱し病院で点滴を受けているにもかかわらず、自分の講演があるからと医者や家族が止めるのも聞かず、それを振り切って弟子たちの待つ講演会場に行かれたこともあった。

そんなことが一度や二度あったということではない。何度もあったのである。

師はもう八十になろうかというご高齢であった。周りの弟子たちにそんな素振りを一切見せなかったが、そんな高齢の方がそれだけ無理を重ねていたのである。体を壊さないほうがどうかしている。

師の肉体は完全に限界をこえていた。師は自分の精神力だけで、神理伝道の使命感だけで、肉体を維持しているという状態であったのである。

そんな無理を続ける師についに肉体の限界が来た。もう精神力だけではどうにもならないほど、師の肉体は消耗しきっていたのである。

師の肉体の限界はいきなりやってきた。それは平成八年の三月、朝普通に起き一件電話をかけられた師は、まったくいつもと変わりがなかった。だが、その数十分後、奥さんが師を呼びに行かれた時、すでに師は倒れていられ、それから立ち上がられることはなかった。師の体はまったく自由がきかなくなり、寝たきりの状態になってしまわれたのである。

その後、師について勉強していた人たちは大分裂を起こす。師が倒れられると、それまで先生、先生と言っていた人たちが、自分勝手な考えで師であった人を批判した。神理伝道のため自分の肉体など二の次にして、全国を周っていた師の苦労など少しも理解していない人たちがである。

そのような人たちは現在教えてもらっている先生が、もし倒れられたとしても、きっと同じことを言い出すのではあるまいか。自分たちが師と比べ一体どれだけ命懸けで神理を伝道したというのであろう。少し常識を持っている人ならば、誰がそれだけ頑張られた師を批判することができるのか、そんな資格のある人など一人もいないのである。

師は寝たきりになられ話すことが不自由になられても、三年間頑張られた。

三年間も寝たきりで、周りにいろいろなことを言う人が集まれば、少しはその考えを変えられた時期もあったかもしれない。だが、だからといって、そのことをとやかく言えるだけの資格がある人がいるのであろうか。

ご高齢でもあり、こんな病気になれば、普通の人ならば顔や手などシワや染みだらけになるはずなのに、師は逝かれるまでシワや染みなど一つもできられなかった。寝たきりであるので体の節々が痛んでいて当然なのに、師は痛そうな顔も辛そうな素振りも見せられなかった。

そして、もう目を開けるのも手を上げられるのも辛いはずなのに、師は見舞い客があると必ず手を上げられ握手された。それがどれだけ自分自身にとって辛い行為であったことであろうか。だが、見舞い客にそんな素振りなどまったく見せられなかった。

普通であればそんな病気になれば、病状は悪化の一途を辿るはずなのに、師の病状は悪くなることはなかった。ただ肉体が徐々に弱っていった。若い人でも三年も寝たきりであれば肉体は衰える。

師は肉体が衰え、これ以上肉体にとどまれなくなった時、静かに逝かれた。

師は最後の最後まで弱音を吐くことなく、泰然自若として最期の時を迎え、静かに昇天されたのである。

師は最後まで立派であった。医者もその生命力、精神力には驚いていた。

師は寝たきりになられた三年間、最後の修行をされたのである。これだけ最後の最後まで立派であった方を、とやかくいう資格のある人はいない。

せめて最後に静かに逝かれた師に感謝と追悼の意を表すのは、人として当然のことではあるまいか。

平成十一年三月一日 鹿児島より帰って

少々長くなりましたが、私はこの追悼文を園頭先生の故郷である鹿児島より帰ってきた時に書きました。(この追悼文は拙著「宇宙即我 悟りへの道」の、おわりに、に書いてあります)

園頭先生が亡くなられた一週間後、私は一人、先生の生まれ故郷である鹿児島に行き、先生が小さな頃、歩かれたであろう場所を周りながら先生を偲びました。

この頃、私の周りの人たちは園頭先生の悪口ばかり言い、園頭先生の名前を出すことさえ、はばかられるような状況でした。(それで私は追悼文の中に園頭先生の名前を書かなかったのです)

しかし、いずれ園頭先生が、どれだけ偉大な方であったかということは分かることになります。(園頭先生のバカ弟子たちの愚かさもです)

今日はその園頭広周先生が、この世に出生され、また去られた日でもあります。

この二月二十日という日は、私にとって特別な日であり、また園頭先生が説かれた法を正しく伝えているのか、ということを改めて思う日でもあります。

少しでも師の思いを継ぐことができれば、私が思うのはそれのみです。

(先週は、いろいろ教えられ自分がこれから何をするかを知りました。しかし、やれるかどうかは分かりませんけど〔笑〕)

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