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3月 31 2010

釈尊出世の予言の検証⑤

日本ではあまり知られておりませんが、アメリカやヨーロッパの心霊研究者が、霊能者といわれる人が本物か偽者か見分ける方法として、常識的にやっている“交叉証明”(こうさしょうめい)というものがあります。

たとえば、私は過去でイエス・キリストであったという人がいたとします。するとそれを証明するため、その人と全く面識がない数人の霊能者を呼び、霊視させます。その霊能者たちが皆その人はキリストであった、と認めれば本物と認められますが、異を唱える霊能者がいれば、その人は本物とは認められません。簡単に言うなら私は霊能者である、という人を、その人と全く関係がない第三者の同じ霊能者の人たちに霊視させ、同じ答えを出せば、その人を本物の霊能者と認める、という方法です。

アメリカやヨーロッパでは、この交叉証明がなされていない人を霊能者とは認めていません。もちろん、どこの国でも同じでしょうが、私は何々の神だ、このような霊能者だ、と勝手に自称して人を集めている偽者はいます。しかし、交叉証明がされてなければほとんどの人が、そんな人など相手にしないのです。

ところが日本でこの交叉証明を行っている霊能者は、この高橋信次先生以外いません。

日本にはたくさんの霊能者といわれる人がいます。やれ、私は釈迦大如来の生まれ変わりだ、イエス・キリストの生まれ変わりだ、うちの教祖様は釈迦、キリスト以上の方だ、神だ、仏だ言いたい放題言っておりますが、そのような人たちは、ただ単に自称しているに過ぎないのです。アメリカやヨーロッパの人たちからすれば、日本の霊能者で本物と認められる人は、交叉証明がされている高橋信次先生以外いないのです。

日本の人たちは、この交叉証明というものを知らないため、おかしな宗教や霊能者にだまされる人が多いのです。日本は無神論者が多く、共産圏以外で無神論を言う国など日本以外にありません。世界中の国が神を認めているのに、日本だけが神を認めていないということは、それだけ日本人の信仰は遅れているということであり、交叉証明がされていない霊能者が、これだけ、のさばれるのも、その一つの証拠といえます。

神など存在せず、科学で証明できるものが全て正しい、といったほうが現在の日本では多くの人に認められますが、そんなことを世界で言えば「私は神のことを何も知らないばかです」といっているようなものなのです。

日本人は、そのような無神論の人が多く、信仰的にはかなり遅れています。だから、このようなことを書いても、すぐ否定し(というか笑われ)、また頭から信じようとしない人も多いと思いますが、事実であるのであえて書きます。

高橋信次先生が釈尊であられた方でした。

それは高橋先生が残されたビデオを見ても分かります。高橋先生が壇上に上られた方に光をあて、古代インド語で語りかけられると、光を当てられた方の顔が見る見るくずれ涙があふれてきます。そして、高橋先生と同じような言葉をしゃべり高橋先生をみて、感極まったように「ブッダー」と大声で叫ぶのです。そういう人が何十人もビデオに映っているのです。この人たちが全て役者で、全部芝居であったとでもいうのでしょうか。

そんなことありえませんし、高橋先生の言葉や、あるいはこの涙を流しながら話している人たちの言葉が、あきらかにどこかの国の言葉であり、また非常に感動しているという思いが、こちらにも伝わってくるのです。

釈尊がインドで「やがて私の法はマンデャ・ディシャ(中国)に伝わり、ジャブドウバーのケントマティーに伝わるだろう。私はそのとき、多くの弟子たちと共にまた生まれ変わって、この道を説こう」と言われた予言が、二千五百年の時を経てここに実現したのです。

釈尊が予言されたとおり、釈尊が説かれた仏法はインドから中国に伝わり、日本に伝わりました。そうしてこの日本に高橋信次先生が現れたことにより、数々の奇跡が起こったのです。その奇跡の一つが、多くの人の過去世を思い出させるというもので、これは聖書の使徒言行録の2に書かれていたことと、同じ現象が日本に起こったのでした。

本物の如来がこの世に出世されると、一つの証明としてこのような奇跡の現象が起きます。キリストの時代もそうであり、モーゼの時代もそうでした。このような現象を天が起こすか、モーゼやキリストが起こすか、の違いがあるだけです。高橋先生の光により、過去世を思い出した多くの人の中には、釈尊の弟子でありましたシャリー・プトラーやアサジ、アナン、ウパリ、ラフラ、マイトレーヤーといった人たちもおり、ジャブドウバーがこの日本であったと言うことが証明されました。

そして、釈尊であられた方が、今回高橋信次という名で日本に現れたことにより、史上空前にして(おそらく)絶後であろうという大奇跡が表されます。

それが“悟り”を文字で表す、という考えられない奇跡でした。

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3月 30 2010

釈尊出世の予言の検証④

高橋先生がつくられ主宰されたGLA(現在あるGLAは違います)は他の宗教団体にはない、不思議な現象をすることで有名でした。

特別、宗教団体に限ったことでもありませんが、どのような団体が講演会など主催しましても、その講演内容はさほど変わらないと思います。その団体の先生が講演され、あとは質疑応答くらいのものでしょう。

ところがGLAが主催する講演会は、講演や質疑応答が終わったあと、必ず現象という不思議なことを行いました。

現象とは、高橋先生の講演が終わり少し休憩したあと、高橋先生があらためて壇上にこられ壇上から、講演を聞きに来ている人に呼びかけます。そうして高橋先生から指名された何人かが、壇上に上がり、その人たちが高橋先生から光を受けると、いきなり異言を語りだし涙を流しながら懐かしがるのです。そのような不思議な光景が、講演会のたびに行われました。高橋先生から指名を受けて壇上に上がった人は、高橋先生の知り合いの方から、全く知らない人までさまざまだったといいます。

この高橋先生が行われた現象とはどういうものだったのでしょう。それは前にブログに書いたこともある、輪廻転生の証明でした。それを高橋先生はご自分の霊能力で行いました。高橋先生が壇上に上がられた人に光(その光とは高橋先生の手のひらから出ているようでした)を当てると、その人の心の奥にある過去世(過去の人生)の記憶が甦り、当時のことを当時の言葉で語る、というものでした。この輪廻転生の証明をGLAでは“霊道をひらく”といっておりました。

この現象を芝居だの、でたらめなことをしゃべっているだの、いう人もいましたが、もし高橋先生たちがでたらめなことをしているとしたら、この現象をビデオでとり、そのビデオが何十本も残っているというのはおかしな話です。この現象のビデオはGLAで販売もされていて(もちろん私も持っていますが)多くの人が、このビデオを見ています。そんないい加減なものを多くの人に堂々と売るでしょうか?しかも、この現象といわれた輪廻転生の証明は、日本各地で何千、何万という人の前で行われました。

私は高橋先生のビデオを何十本も見ていますが、同じ人も出ておりますが、一度しか顔を見なかった人もたくさんいて、その人たちが異言を語り、その一度しか顔を見なかった人の中には、ちゃんと異言を語れなかった人もいて、とても芝居をしているようには見えませんでした。いろいろな場所で、いろいろな人を相手に、しかも何千、何万という人の前で、そんなに簡単に芝居をしたり、いい加減なことをしゃべったりできるのでしょうか?この異言を語る人たちは古代のインド、イスラエル、中国あるいはギリシャといろいろな国の言葉で語っています。そして、この古代語を語る人たちは言葉を語っているばかりではなく、当時の歌や踊りまで披露し専門家も驚くほどだったといいます。

私も、高橋先生が古代の中国語で語っている場面がありましたので、その高橋先生が語っている古代中国語を、二人の中国人に聞いてもらったことがあります。一人の中国人は何を語っているのか全く分からないといっておりましたが、もう一人の中国人が面白いことを言いました。この人(高橋先生)の言っている言葉は、私には分からないが、聞き覚えがあるといいます。それは自分の友達に台湾人がいて、その子は台湾のかなり田舎のほうに家があり、その子が地元の子と話していた話し言葉にそっくりだというのです。その台湾の子の家のあるあたりの言葉に、非常によくにているというのです。

この話を聞く限り、高橋先生はなんらかの言葉をしゃべっている、と考えられます。もし高橋先生がでたらめな言葉をしゃべっているとしたら、二人の中国人に高橋先生の言葉はまったく分からなかったでしょうし、聞き覚えがある言葉とも思えなかったはずです。(高橋先生が話している古代中国語は、今から千四百年ほど前のものと言われておりましたので、現代の中国人に通じないのも、無理のない話しですが)

高橋先生の話していた古代の中国語が、台湾の田舎のほうの言葉ににているということでありましたら、やはり昔の中国の言葉であるということも、あながちないとはいえません。中国と台湾なら場所的にも非常に近く、その当時(隋から唐の時代)、古代の中国語を台湾の人たちは使っていたかもしれませんし、あるいは台湾の一部の人たちが当時の中国語を使っていたのかも知れません。はっきり分かりませんが、当時の隋や唐の勢力範囲は非常に大きく、当然その当時の台湾も何らかの影響は受けていたと思われます。当時の言葉が、いまだに台湾の田舎に残っていたとしても、さほど不思議ではありませんし、それが古代の中国の言葉といわれても、考えられないこともありません。というより、このようなことを考えましても高橋先生が行い、今もたくさん残っている現象のビデオは、当時の歴史を物語る歴史的大発見になるかもしれないのです。

高橋先生から光を受けて異言を語った多くの人は、それが自分が生きていた過去の言葉である、ということを知り過去の人生も知ることになりました。そして高橋先生の存命中、何十人という人が霊道をひらいたのですが、その霊道をひらいた人の多くが、高橋先生をブッダと呼んでいました。

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3月 29 2010

釈尊出世の予言の検証③

高橋先生の著書「心に法ありて」より抜粋します。

<ジャブドーバー

ある方からこんな質問が来たので今回はそれに答えることにしよう。

質問の要旨は、ゴーダマ・ブッダは、なぜ日本を再生の地としたか、どうしてアメリカや他国を選ばなかったか、というのである。

一口でいえば、仏教ーーー正法が伝えられやすいからであった。

二千五百有余年前に釈迦は、ジャブドーバー(東方の国)の、ケントマティー(都会)において、ふたたび正法流布を行うと弟子たちに宣言した。

どうしてこのような宣言になったかというと、今日の世界事情がどのように動き、人類の意識がどうかわっていくか、ということが、ブッダには理解されていたからである。まずこのことが第一点。

第二点は、正法を再興する場合の地理的条件が加味されたのである。世界の交流がはじまったのは、せいぜいここ百年ぐらいの間である。それまではごく一部の要人、商人を除いては、ほとんど他国との交渉を持つことがなかった。また持てなかった。正法が流布されていくには、言語や地理的条件が当然考慮されてくる。仏教がインドからチベットに、そして中国に伝わり、日本に渡って来たのも、こうした環境的理由があって、必然の過程を通ってきたのである。

第三点は、正法を理解するにはそれを受け入れる基礎的土壌が必要である。伝統や風習が異なり、ものの考え方に大きなへだたりがある場合は、正法を突然持ち込んでも、これを咀嚼するのにかなりの時間が要るだろう。

しかし、日本における仏教の歴史は古く、そして伝教大師が法華経を中国から持ち込むことによって、仏教は定着したのである。その後、仏教は形を変え、他力にかわっていったが、形だけとはいえ仏教が日本人の生活の中にとけこんだことは事実であり、正法の真意を伝えるのに、理解しやすい条件を生み出している。一方また、日本人の勤勉さ、進取の気性、他国の文化を受け入れる柔軟な素質などは、今日の経済発展なり、科学や文化の進歩を見れば釈然としてくるであろう。

このように、正法を流布するという前提で、日本という国が選ばれ、今日、具体的な活動となっているのであり、そうして、ここにくるまでには、現象界の状況が絶えず見守られ、実在界で計画されてきた。それゆえ、ブッダの公約は、必然の形をとって現在に至っているわけである。

第三者から見るとアメリカやヨーロッパでも、と思われるのであろうが、右の事情を参酌すればおのずと理解されてくるであろう。

正法流布は、こうした計画性の下に進められてきている。>

この高橋先生の本の中に、釈尊は日本を再生の地としたことと、その理由が書かれてあります。

キリストもそうですが、ブッダと呼ばれる方々は人の現在過去未来はもちろん、この世界のことも一瞬で見通してしまいます。観自在菩薩といわれる所以ですが、釈尊は二千五百年後の日本がどのようになっているのか、すでに知っていました。当然その国民性や地理的条件も加味され必然の形をとって、二千五百年後ジャブドウバー(東方の国)のケントマティー(都会)に生まれ法を説くという予言をされたのです。

二千五百年前といえば、神武天皇が日本を建国される前のことですので、釈尊がジャブドウバーのケントマティー(東の国の都会)という言い方をされたのも、仕方がなかったといえますが、注目すべきは、この釈尊が言われたジャブドウバーが、日本であったと分かったのはなぜかということです。

それは高橋先生がいられたからでした。(その理由は後述するとして)

高橋先生のおかげで釈尊が再生された国が日本と分かり、それで高橋先生の周りにいた誰かが、高橋先生に「釈尊はなぜ日本を再生の地にされたのですか、アメリカやヨーロッパではいけなかったのですか」という質問をされ、それが上記のような答えとなったと思われます。

では、なぜジャブドウバーが日本で、そこに釈尊が再生されたと分かったのでしょう? それには次のような理由がありました。

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3月 26 2010

スポーツ選手の心

今年もプロ野球が開幕しました。私がメンタルアドバイスに出てくるプロ野球選手を知って、早いものでもう三年ほどたちます。少なくとも、そのプロ野球選手は私が気を留めるようになってから、コンスタントによい成績を上げているようです。その前までは、いつ首になってもおかしくないような成績(失礼)だったのですが、見違えるようになりました。今年はケチな目標など立てず、三冠王くらい狙ってほしいものです。常に感謝の心を持ち、心穏やかに平常心でバッターボックスに入れば、やれないことではないと思います。しかしその選手、守備に少し問題があり、特に送球ミスが多いようですが、ボールをとって投げるときにボールに感謝して投げていないのでしょうか?せっかく送ったアドバイスも、聞いてもらえないとなると残念ですが、いずれにしても今年も頑張ってほしいと思っています。

それに引き換え、私が名刺を渡した女子プロゴルファーの二選手は、調子がいまいちよくなさそうで、女子プロゴルフもシーズンに入っているのですが、その選手達の成績はパッとしません。地元出身の選手なので「とりあえず地元の子優先で応援しないとまずいだろう」と名刺を渡しましたが、名刺を渡した選手が調子がよくないのは気になります。

特に片方の選手など去年から調子が悪く、今年もまだ調子の悪いのが続いているようです。この二選手は若い選手ですが、すでにトーナメントで優勝経験もあり、いくつかのスポンサーもついているトッププロです。それだけ素質もあり練習もし、ちゃんとしたトレーナーもついているはずなのに、スランプが長く続くのはどうしたわけでしょう? マァ、私ならそんな調子の悪い選手の調子を戻すことなど簡単にできますが……なにせ日本一のプロ野球のピッチャーの調子を上げた男ですから(笑) それはともかく、技術的なスランプといっても、それは体が迷っているのではなく、心に迷いがあるのですから、心を変えてみるのもスランプ脱出の一つの手であると思います。

最近のスポーツ選手はレベルが上がっているからと、やたら練習している選手がいますが、体には体の法則があり、それをこえてまで練習すれば体を壊します。科学的に練習しているので大丈夫といっても、相変わらず故障する選手は多くいます。現在のプロスポーツ選手のほとんどが、体のどこかに故障を抱えているといいます。そんなに体を壊すまで練習しないと通用しないのでしょうか?練習することは大事なことですが、そんなに練習してもまだトップになれない人たちなど、体を壊し損ということになります。

私は技術的なことは分かりませんが、これだけはいえます。心のあり方を変えればもっと成績が上がる、と。

スポーツ選手、特にトップレベルの選手など、周りにいいコーチやトレーナーがたくさんいると思いますが、その人たちは技術を教えるだけなのです。コーチが昔の名選手で、試合のときのメンタル面も教えてもらえるという人もいますが、それは、そのコーチの体験談であり、技術、体力が違う自分に当てはまるかどうかは分かりません。そのような体験談を聞くのは大事なことですし、技術、体力面を指導するコーチももちろん必要ですが、心の面を指導するコーチも必要なのです。技術面と心の面は車の両輪であり、この二つがそろって初めて最高の走りができるのです。自分自身最高の力が出せるのです。

メンタル面を専門に指導しているコーチもいる、といわれるかもしれませんが、それならそのメンタル面を指導するコーチが、私が最初にプロ野球選手に言ったような、心穏やかにバッターボックスに入れ、という言い方をされるでしょうか?心穏やかにバッターボックスに入って、相手ピッチャーが投げてきたボールが打てるか、と怒鳴られるのが関の山でしょう。

たとえば剣の世界を考えてみてください。剣豪やら名人やら言われる人は、たしかに殺気ムンムンで強そうです。では、達人といわれる人はどうでしょう。達人の境地は心静かに、まさに明鏡止水の心境であり、そのような心から達人の技が繰り出されるのです。“達人の境地に入る”という言い方はしますが“名人の境地に入る”という言い方はしません。名人の心から闘争心がなくなり、心静かに常に平常心でことに挑むことができたとき、名人が達人の境地に達するのです。

要は、闘争心や勝ちたい勝ちたいという心ばかり持っていた人が、心穏やかに常に平常心でことに挑むことができれば、それだけでワンランク実力がアップするということです。

私は、それプラス感謝の心を持て、といっているのです。するとどうなるか……奇跡が起きます。あまり奇跡を望む心ばかりあってもいけませんが、心が変われば、それだけで結果が変わってきます。よい結果を出すのも悪い結果を出すのも自分の心次第です。

何度も言いますが、心の偉大性をもっと知ってください。

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3月 26 2010

釈尊出世の予言の検証②

弥勒三部経というお経に弥勒菩薩のことが書かれてあります。この弥勒菩薩といわれる方は「仏嗣弥勒」(ぶつしみろく)やら「未来仏」やらいわれ、釈尊の後継者のように言われておりますが、そんなことはありません。

弥勒菩薩とは釈尊の弟子でありましたマイトレーヤーのことで、この方は釈尊が予言されたことを記録として書き残しました。マイトレーヤーは釈尊が言われた予言を書き残しただけであり、マイトレーヤー自身が予言して、それを書き残したわけではなかったのですが、後世になると未来仏などといわれ釈尊の後継者として、弥勒信仰が盛んになっていきます。

この弥勒信仰の中に「末法になって仏法が分からなくなると、また、誰かが現れて仏法を説く」という言い伝えがあり、末法の世とは如来が亡くなられて“五箇の五百歳”の後のことであるといわれています。

五個の五百歳説とは次のようなものです。

第一の五百歳 解脱堅固(げだつけんご)

          釈尊の正法が正しく伝えられる時代

第二の五百歳 禅定堅固(ぜんじょうけんご)

          禅定・瞑想によって悟りを開くということが確実に守られている時代

この二つの時代を「正法一千年」といいます。

第三の五百歳 読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)

          お経を写し少しでも多く読誦し聞けば救われると信ずる時代

第四の五百歳 多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)

          お寺や塔を建てると救われると信ずる時代

この二つの時代を「像法一千年」といいます。

第五の五百歳 闘諍言訟、白法隠没(とうじょうげんしょう、びゃくほういんもつ)の末法

          正法が全く分からなくなって、信仰している者同志が言い争って、悪事

          横行する時代

この第五の五百歳すなわち釈尊入滅後、二千五百年たつと末法となり、再び正法を説くため如来が現れる、といわれているのです。

マイトレーヤー(弥勒菩薩)は、釈尊の予言を書き残した人です。その釈尊の予言を書き残した弥勒を信仰している、弥勒信仰の中に末法の世になると再び如来が現れる、ということと、それが二千五百年後のことである、という言い伝えが伝わっているのは、非常に信憑性があると思います。

つまり、この言い伝えの根拠として、そのような予言を釈尊はされ、それを弥勒が書き残し、現在そのような言い伝えが残っている、と考えられないこともないからです。

この弥勒信仰の中の、釈尊入滅二千五百年後、末法となり再び如来が現れ法を説く、という言い伝えは釈尊が言われた予言だったのでしょうか、それともただのうわさにすぎないのでしょうか。

釈尊入滅後二千五百年とはちょうど現代にあたります。現代は末法の世なのでしょうか?少なくとも正法の時代でないことだけは確かです。世の中に如来が説いた法が正しく伝わっているわけでもなければ、禅定や瞑想をして悟られた人がたくさん出てきているわけでもないからです。

世の中にはたくさんの宗教がありますが、これだけたくさんの宗教があるのに、世を憂いて自殺する人は年間三万人を超え、治安は悪くなる一方です。社会が悪いの政治が悪いのいろいろ言われますが、これだけ多くある宗教団体は一体何をしているのでしょう。世を憂いている人を救い、悪を犯そうとしている人を善に導く、これが宗教の本質なのではないでしょうか。たくさんの宗教があるのに、世の中が一向によくなっていかず悪いほうに向かっているのはなぜでしょう。

答えは簡単です。現代は末法の世だからです。末法の世になれば如来の法以外救われる道がないからです。これだけたくさんの宗教があっても、救われる人がたくさん出てこないのは、既成の宗教では末法の世の人々を救えないからです。

現代が末法の世というなら、如来はこの世に出てきていられるのでしょうか?釈尊がいわれたジャブドウバーに生まれ変わる、という予言は成就されたのでしょうか?

高橋先生の本に次のようなことが書かれています。

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