>>ブログトップへ

4月 06 2010

絹の心①

この頃は殺伐とした事件が多く、体の調子もまだあまりよくないので気も滅入ります。このような世の中をよい方向に持っていくには、男がどうにかするというよりも、やはり女性の愛の心が重要になってくると思います。

私の師でありました園頭広周先生は、女性の気持ちを実によく分かっていられる方でした。園頭先生のご著書には多くの女性が書かれてありますが、その中で私が一番心に残っている女性を次に紹介したいと思います。

それは園頭先生の本に書かれている、名随筆家で参議院議員もされた森田たまさんの『絹の随筆』の話を紹介されたところです。

園頭広周先生著「正法と人生の原点」より抜粋します。

<   「絹の心」

日本の絹の美しさを、日本の女の心としたい……。新春の床掛けに何か一ふでとたのまれて、あれやこれやと思いまどっているうちに、ふっとこんな文句(絹の心)が浮かんだ。

むかしから、女の肌の美しさを羽二重にたとえることがよくあった。きめが細かく、すべすべして、ひやりと冷たい感触の中に、やがてほのぼのと絹のあたたかみがかよってくる。……(以下この文の真意を私なりに書く)

深窓に育ったその人は、今まで一度もご飯を炊いたこともなく、弁当というものもつくったことがなかった。主人が出勤したあと戸棚の中におかずを発見した。弁当に入れ忘れたのである。夫は弁当をもらって会社に行って、ひらいてみたらご飯ばかりでおかずが入っていなかった。おむすびでも梅干は入っている。ご飯ばかりの弁当は、彼にとっても生まれてはじめての経験で、腹が立つよりなんとなくおかしかった。

家へ帰ってみると、若い妻は瞼を赤く泣きはらして出てきた。「ごめんなさい、おかずを入れるの忘れちゃったの」

彼女はおひるのご飯をたった一人で、おかずなしで食べたのである。

「ご飯だけ食べるのってとてもつらいものね。お湯をかけて流し込んだけど、それでものどにつかえるような気がして、一ぜんがやっとだったわ。ごめんなさい」

自分の落ち度をすなおに認めて、自分の罰を自分に科したこの新妻の、やさしくもきびしい心情には、どんな夫でも心をうたれるであろう。彼女はその後もしばしば間の抜けたことをしたけれども、そのたびに、「ごめんなさい、すいません」と、やさしく詫びるのであった。それだけに夫の愛情はますます深まっていった。

さて、あなた方は、もし夫の弁当のおかずを入れ忘れてしまったことに気づかれたら、この新妻のように、「あの人にだけおかずなしの弁当を食べていただくのは申し訳ない、すまないことをした」と、自分もお昼はおかずなしでご飯だけ食べるというようなことをされるであろうか。

「ああ、忘れたわ、わたしまたへまやったわ」とは思っても、自分の失敗を自分に科して、また夫の身になって、ご飯だけ食べるというようなことは絶対されないのではなかろうか。

「どこか食堂へでも行って、適当に食べているさ」といって、のんびりおかずをそろえて食べられるにちがいない。そうしたからといって何も悪いことではない。むしろそうするのが当たり前だと多くの人はいうに違いない。そうしたからといって誰が咎めるわけでもない。事実、夫は、「ご飯だけ食べられるか」といって外で食べたかもしれない。ここで大事なことは、事実がどうであったかということではなく、その新妻の、夫を思う心のやさしさ、自分の失敗をすなおに認めるその心のすなおさ、それが夫の心を限りなく感動させるのである。

頭のいい女の人は、この新妻を気の利かない馬鹿な女だと、きっと思うであろう。しかし、人生を幸福にするのは、夫と妻との間に通う限りなくやさしい理解と思いやりであることは間違いない。学問をした頭のいい女が男から嫌われるのは、知識を誇るばかりで、そうしたやさしい理解と思いやりがないからである。>

0コメント

4月 05 2010

神と仏と悪魔

日本では神と仏というと神仏という言葉もあって、同じように考えてる人が多いように見受けられます。しかし、神は神であり仏は仏で同じではありません。

神とは高橋先生の悟りのところでも説明しましたが、この世界の始まる前から存在し、この大宇宙をつくり、その中にある全てのものをつくられ現在に至るまで生かし続けていられる“全知全能の神”であり、仏とは神の心を最もよく知り、神と等しい能力を有し、それを縦横に駆使し多くの人を救う同じ人間なのです。

モーゼ、キリスト、釈尊が仏といわれる方々で、高橋信次先生もそうです。モーゼやキリストあるいは高橋先生は人間の上であり、ゴットの神ではありません。聖書の中にもモーゼやキリストが神とは書かれてありませんし、当然高橋先生も、ご著書の中に自分のことを神などとは書かれていません。

ところが、世の中にはずいぶん神と呼ばれる人が多いようです。ある教団の教祖などは自分は創造主だと酒を飲みながら、自分の教団の信者たちに言いまわったそうです。ずいぶん遠慮のない神ですが、ご自身で神といわれるなら星の一つでもつくって、神であることを証明していただきたいものです、大宇宙をつくられた神ならそんなことは造作もないことでしょう。

人が神になることはできません。私たちは神につくられた神の子であり(特別キリストだけが神の子ではありません)、神の子が神に取って代わることなどできるはずがないのです。しかし、巷には自分のことを神という人や、神がかりという言葉もあって、教団の教祖やその信者が、お経を上げていると人が代わったようになり、わけの分からない予言や不思議なことをやりだし暴れだす、という光景をテレビで何度か見たことがあります。

あれは本当に神がかかってきているのでしょうか、あの雰囲気や異常な態度を見ますと、芝居をしているのでなければ、神が憑いたというより、魔が憑いたようにしか見えませんが。

出口王仁三郎氏の本にも書かれておりますが、悪魔(地獄霊)は存在します。聖書にキリストが悪魔に憑かれた人を祓う場面がたくさん出てきますが、当時のキリストやその弟子たちはすごい霊眼をもっていたため、悪魔に憑かれた人が悪魔と二重写しのようにまともにみえていました。この当時、悪魔に憑かれた人がたくさんいたのです。

科学万能といわれる現代においても、それは同じです。現在の科学は検知でき実験でき再現性のあるものしか信じません。したがって霊の世界(意識界)の天使や悪魔の存在を認めようとしません。(一部の科学者は認めていますが)しかし、多重人格や殺人などを犯し、神が私の前に立ち、あの人を殺せと命令され殺した、などという人を、一概に精神異常で片付けてしまっていいのでしょうか。このような人は現在もたくさんいます。先ほどの自分のことを神と言ったり、神がかかってきた人もそうですが、突拍子もないことを言い、異常な行動をとる人は、やはり異常なものが憑いていると思って間違いないでしょう。神などではなく悪魔が憑いているのです。

仮に、その自分を神という人や神がかかってきた人が、予言をし、不思議な力があったにせよ、それは神の力ではなく、悪魔の力なのです。残念ですが、悪魔も不思議な力をもっています。しかしそれは、仏の力と違い最後にはその人を不幸の道へと導きます。不思議な力だけにとらわれず、よくよく、その人の人格を見定めなければなりません。

そして一番大事なことは、その人が法を説いているかどうかです。しかし、多くの人は、その肝心の法を知らないため簡単にだまされます。ブッダの法が全く広がらず、わけの分からない、おかしな宗教にだまされ不幸になっている人が、たくさんいるのがそのよい証拠です。

この世で法(ブッダの語った言葉)を知り、それを実践するということは簡単なことではないのです。しかし、法を知らなければ、知らず知らずのうちに悪を犯し魔の虜となってしまいます。この太古より伝えられ続けている悪魔は、異次元の世界に確実に存在します。悪魔に打ち勝つには法を知って実践し、自分自身を光で満たさなければなりません。光に満たされた人に悪魔はよってこれないのです。悪魔が近寄ってくるのは、その悪魔と同通する心を持っているからであり、そのような心の人に悪魔が憑きます。悪魔を近寄らせたくなければ、法を実践し心をきれいにするしかありません。

今の発展途上の科学を信じ、悪魔など存在しない、と否定してしまうことは非常に危険なことなのです。霊の世界が、この世にどれほどの影響を与えているのか、いずれわかることになります。

神と仏と悪魔の存在をよく知ってください。

0コメント

4月 02 2010

スポーツ選手の心②

病院を退院して二ヶ月ほどたちましたが、まだ足の痛みは引かず、歩くのも不自由な状態です。歩くのもままならず、やることもないので、ブログを書く時間が与えられたと思い、ブログを書いています。

日本のプロ野球は開幕しましたが、そろそろ海の向こうの大リーグも開幕ですね。「あるプロ野球選手との出来事」にでてきた投手も、今年は頑張って去年以上の成績を上げてほしいと思っています。

この投手が日本で投げているとき、私はあまりいい印象を持っていませんでした。というのもエースであるのに、完投もあまりしませんでしたし(もちろん近年の話ですが)契約更改のときも、よくもめてる印象がありました。プロだから金額にこだわるといわれても、別に金儲けのプロではなく野球のプロなのだから、野球の優れた技術を見せてくれればいいのに、と思っていました。少し金に執着が強いのではないか、とも思っていました。

しかし、「あるプロ野球選手との出来事」の中に書いておきましたが、あのような熱いピッチングをしてくれるとは、おおいに驚き見直しました。その投手は、あの三球三振ばかり狙いにいった試合のあとも、大事な試合が数試合控えておりました。

その後、その投手が先発した試合を二試合ほどテレビで見ましたが、あの三球三振ばかり狙いに行った試合と比べ、なんと頼りなかったことか。速球を全く投げず、ゆるいボールでコースを狙うばかりのピッチングでした。見てるこちらはヒヤヒヤで「もう少し気合入れて投げろよ」と思いながら見ておりました。

しかし、後々考えてみますと、あの年この投手は、もう速球が投げられなくなっていたのではないでしょうか。野球シーズン終盤で大事な試合が続くというのに、三球三振ばかり狙う(当然すべて全力投球しなければなりません)という、漫画でもありえないピッチングをしようとしたばかりに、その後の試合では、速い球を投げようにも、投げられなくなっていたのではないか、私はフッとそう思いました。

この投手は肩に故障があると聞いたことがあります。故障があるのにシーズン終盤で、でたらめなピッチングをしたのです、あとの試合で速い球を投げようにも、肩がいうことをきかなくなっていたのでしょう……プロとして失格ですね、プロ野球も終盤でまだまだ大事な試合が続くというのに、そのチームのエースが、あとの試合のことなど考えず無茶なピッチングをしたのだから……という人もあるでしょう。

しかし、私はそうは思いません。先ほどもいいましたが、プロ野球の選手は金儲けのプロではなく野球のプロなのです。ならば意気に感じて腕も折れよとばかりに、後先のことを考えず、がむしゃらなピッチングを、男なら一生に一度や二度やってもかまわないと思います。

肩に故障があるのです。無茶なピッチングをして、それで投手生命が終わるのなら、それが自分の投手としての寿命だったのでしょう。それはそれで仕方がない。そのようなことも考えない、この投手のような気迫あるプレーを見せてくれる選手が増えれば、プロ野球人気も、もっと上がってくることでしょう。しかし、プロで何億も稼いでる投手が、そんなピッチング、そうはできるものではありません。こういう気迫あるピッチングができたのも、本人の心意気だと思います。だからこそ外国に行っても頑張ってほしいと思っています。

それに比べ、私が去年球場に行って少し話した投手は生意気で、気分が悪くなりました。この投手はテレビカメラの前では、ずいぶん腰の低そうな態度を取っておりますが、実際はあんなものか、とあきれました。この投手、去年はよい成績を上げ、今年もかなり周りは期待しておりますが、今年はよい成績を上げることはないでしょう。

外面をどれだけよくしても、心が悪ければ何もなりません。心が自分の運命をきめます。有名な人ほど、謙虚な心を忘れてはなりません。まして、テレビカメラの前や周りにたくさん人がいるときだけ謙虚に振舞っても、そんな二重人格のような性格では、かえって罪をつくるだけです。自分の心を変えなくてはよい運命もめぐってきません。

よい運命を進むのも悪い運命を進むのも、自分の心次第です。

0コメント

4月 02 2010

釈尊出世の予言の検証⑦

高橋信次先生著「人間・釈迦」より抜粋します。

<この大宇宙は神によってつくられた。

 大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の大意識だけが、そこにあった。

 神は、その意識の中で意思を持たれた。

 大宇宙の創造は、神の意思によってはじまった。

 意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。

 意識界の宇宙はその意思をもって物質界の宇宙を動かし、

 そうしてこの二つの世界は、光と影という相関関係を通して、

 永遠の調和を目的とすることになった。

 神の意識は、永遠の調和をめざし、そうして、二つの世界にあって、

 調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。

 人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意思を受け継ぐ

 万物の霊長として産声をあげた。

 人間の誕生は、意識界という実在の宇宙に、まず姿を現した。

 そうして、神の意思である調和をめざす神の子として、物質界に

 降り立ったのである。物質界に降り立った最初の人間を、地上の眼で

 みるならば、大地の一隅に、忽然と物質化されたといえるだろう。

 人間以外の動物、植物、鉱物も、こうしたプロセスを経て、大地に姿を

 現わした。

 こうして、あらゆる生命物質は、実在界(意識界)と現象界(地上)の間を、

輪廻することになった。 …………。>

高橋信次先生の悟りを文字で表した部分はまだまだ続きますが、高橋先生が悟りを開かれ分かられたことのはじめに、大宇宙のはじまりと、それ以前に何があったのか、ということが書かれてあります。

“この大宇宙は神によってつくられた” しかし、この大宇宙がつくられる前には“光明”という神の大意識がそこにありました。

この“光明”という神の大意識とはどのようなものなのでしょう?

私たちの住んでいる地球は、太陽系の中の一つの星にしかすぎません。宇宙には平均二百万光年(一光年とは光の速さで一年間走り続ける距離で、キロにすると九兆四千六百億キロで二百万光年というと、九兆四千六百億キロ×二百万ということになります)の距離を置いて、数千億個の銀河系と同じような星雲が存在していると考えられています。その中の一つが我々の住む地球が存在している銀河系で、銀河系の直径が約十万光年で厚さが数千光年の円盤状をしていて、この銀河系の中だけでも約二千億個の恒星(こうせい)があります。(恒星とは自分で光を発している星で、恒星の周りを回転している星を遊星(ゆうせい)といい、地球、火星、木星などは太陽という自分で光を発している恒星の光を受けて太陽の周りを回っているので、太陽の遊星といいます。遊星の周りにある星を衛星(えいせい)といい、月は地球の衛星といいます。)太陽以外で地球に一番近い恒星は、ケンタウルス座のプロキシマ星で、地球からその星までの距離は四・二二光年(約四十兆キロ)です。

このようなことを考えましても、この大宇宙がどれほど広大であるのか、それこそ無限の広さといっても過言ではなく、そればかりか、この広大な大宇宙にある無数の星が秩序整然として、一定の速度で自転、公転している不思議さ、この大宇宙ができる前からあり、この大宇宙を発生せしめ、現在に至るまで動かし続けている、不思議な超巨大生命エネルギー、それは大宇宙だけでなく我々人間も含め、全てのものをつくらしめた偉大なる意思を持たれた巨大な光の存在であり、その意思を持つ巨大な光の存在は、盲目的なでたらめな意思を持っているのではなく、我々が及びもつかない広く深い知性を持たれた存在なのです。

大宇宙ができる前から存在し続けている、超巨大意識と無限の生命エネルギーをもつ光明とは、やはり“全知全能の神”というしかほかに呼びようがなく、この広大な大宇宙、そして大宇宙を動かし続けている不思議なエネルギーを知るとき、人は、その神の存在を認めないわけにはいかないのではないでしょうか。

高橋信次先生が悟られ、それを文書として書かれた中には、神の存在、大宇宙の始まり、輪廻転生、意識界と物質界、地球の歴史など、今まで謎であったことがいろいろ書かれてありますが、この中に書かれてある大部分が科学でも裏づけがとれ、その正しさが分かります。

今まで謎であった大宇宙の始まりと、大宇宙ができる前には一体何があったのか? それを高橋信次先生が悟りを文字で表したことで、知ることができました。

“悟りを文字で表す”この一点だけとっても、高橋先生が過去お釈迦様であった、ということが理解できますが、高橋先生のお人柄や起こされた数々の奇跡の現象、それを知るならば、この高橋信次という方が、どれだけ偉大な方であったか分かられると思います。

これから高橋信次先生がどのような方であったのか、ということも書いていきたいと思っています。

0コメント

4月 01 2010

釈尊出世の予言の検証⑥

今まで悟りの境地といえば、無の境地になること、無我の境地になること、無念無想ということが言われ、その悟りの意味がはっきり語られることはありませんでした。辞書など見ましても、悟りとは「迷妄を去って真理を会得すること。また、その真理」ということが書いてあり、その真理の意味が何であるかということは書いてありません。

日本の名僧、高僧あるいは宗教の教祖と言われる方々におきましても、悟りとは、無の境地になること無念無想などという答えしか出てこず、悟りの意味をはっきり語った人はいませんでした。

この事実は何を意味しているのでしょう……それは、ここ数百年(もちろん現在ある人たちも含め)の間にでてこられた名僧、高僧、宗教家と言われる人たちの中に悟りを開いた人がいなかった、ということです。悟りを開いた人がいなかったから、悟りの意味をはっきり語れる人がいなかったのです。

考えてみてください、悟りとは無の境地になることである、としたり顔で言われる坊さんがいますが、無の境地とはどういう意味でしょう。無とは何も考えないということでしょうか?何も考えないとは、何も考えないということを考えていることですし、それも考えないということは、何も考えないということも考えないという考えでしょうし、実際に何も考えないということは、何も考えないということを考えている一つの考えであり、何も考えないということは現実には不可能で、人は常に何がしか考えているのです。

よく分からないのは、このような無の境地と悟りの境地がどうしたら結びつくのか、ということです。悟りとは真理を知るということにもなるのですから、無の境地にいくらなっても、真理が分かることにはならないのではないでしょうか。それとも無の境地を深く知れば真理が分かってくるとでもいうのでしょうか。そうはならないということを歴史が証明しています。先ほどもいいましたが、悟りを無の境地とか無念無想とかいった人で、悟りの意味を語った人が一人もいないということが、その事実を物語っています。

今までの数十、数百年の間、悟りというものを考えた人の中で、悟りの境地というものが無の境地やら無我の境地といわれることに、疑問を持つ人が誰もいなかったのか、不思議でなりません。あるいは、疑問を持つ人もいたかもしれませんが、そのような疑問を持った人も、悟りの本当の意味を知ることなく、亡くなっていかれたということになります。

しかし、人類の悲願(少なくとも私はそう思います)であり、全ての人が最終的に辿り着かなければならない究極の境地である、悟り(宇宙即我)の境地の意味が、史上初めて文字として表されました。人類の歴史上ありえなかったことが、現代に起こったのです。

それは過去インドで、ゴーダマ・シッタルダー釈迦牟尼仏として法を説かれた魂が、日本に高橋信次という名で現れたことにより、起こることになった大奇跡であったのです。

0コメント

« Prev - Next »


あなたは人目の訪問者です。