6月
29
2009
宇宙即我とは悟りの境地をいいます。これまでは悟りの境地といえば、無の境地である、
とか無我の境地である、とかいわれてきましたが、そう言い続きてきた名僧、高僧、宗教
家の方々が、悟りの意味も悟りの境地も実は分かっていなかった、ということが高橋信次
先生の出現により、明らかになりました。
悟りとは、無の境地だの無我の境地(こういう境地をはっきり説明できる人がいるのか疑
問ですが)だのという、意味の分からないものではなく、具体的に本に書かれたのは、高
橋先生が、はじめてのことでした。
高橋先生の著書で、ゴーダマ・ブッダ(釈尊)のことを書いていられる「人間・釈迦」より、
悟りの部分の書かれたところを抜粋してみます。
<反省の瞑想は、静まりかえったウルヴェラの森と同じように、時の過ぎるのを知らなか
った。
瞑想を解き、眼をあけると、もう東の空が白みかかっていた。一夜は何事もなく、一瞬のう
ちに通りすぎていった。
が、再びまぶたを閉じ、瞑想に入ろうとして、ふと、自分に気付くと、座している己の体が、
次第に大きくなっているのであった。ゴーダマを雨露から守っていたピパラの大木を抜け
て、ガヤ・ダナが眼下に見えてくるのであった。
ゴーダマの意識は刻々と拡大していった。地球が次第に遠のいていく。単に遠のいていく
というのではなく、その地上が身近に感じながら、遠のいていくのであった。いうなれば距
離の遠近ではなく、現実の拡大なのである。己の意識が地上から離れていきながら、それ
でいてピパラの木も、ウルヴェラも、ガヤ・ダナも、現実の感覚と少しも変わらず、スグ眼の
前にあるという感じなのである。
意識の拡大はテンポを早めた。
暁の明星が足下に見えた。もう一人のゴーダマは小さな粒のように、はるか下方に座して
いた。
ゴーダマは、宇宙大にひろがり、宇宙が自分の意識の中に入っていくのだった。
全ヨジャーナー(三千大世界)が美しい星とともに、ゴーダマの眼前に、くりひろげられてい
るのであった。
何もかも美しい。生命の躍動が、手に取るように感じられてくる。あの森も、あの河も、町も、
地球も、明星も、天体の星々も、神の偉大なる意思の下に、息づいている。まるで光明に
満ちた大パノラマを見ているようであった。見ているようでいながら、ゴーダマの肌に、生き
とし生けるものの呼吸が、ジカに感じられてくる。大パノラマは、そのままゴーダマの意識の
なかで、動いているのであった。
遂に、悟りをひらいた。
三十六年間につくり出した不調和な暗い心、想念の曇りが、この瞬間において、光明と化し
たのであった。
ゴーダマは念願を果たした。大宇宙の意識と同体となったのであった。
大宇宙の意識と同体となると、森羅万象の生い立ち、宇宙と人間、神の存在、人間の在り
方、魂の転生輪廻などが、一瞬のうちに、明らかになるのであった。>
霊の存在を認めないと、この悟りの境地は分かりませんが、心に曇りがなくなると肉体で
はなく、霊体(もう一人の自分であり、この世の死とはこの霊体が肉体と離れることをいい
ます)が拡大をはじめます。すると宇宙が自分の中に入り地球が足下に見えます。この
ような境地になりますと、大宇宙の星々から地球に存在しているすべてのものが、神の光
に包まれ、生命が宿っているということがジカに感じられ、光明に満ちた大パノラマが眼前
に繰り広げられます。すると神の存在、森羅万象、人間の在り方、魂の輪廻転生などが、
一瞬で理解されます。このような境地を悟りの境地といいます。
無の境地や無我の境地とはずいぶん違いますが、この宇宙即我の境地は何も高橋先生
がはじめてなられた、ということではなく、ずーと、ずーと大昔の話ですが、過去の日本に
生まれた方で、同じ境地になられた方がいたようです。
ちゃんとした記録があるわけではありませんが、私の師であった園頭先生が読まれた「天
之御柱伝」という本の中に、「正座して背筋を伸ばして真直ぐに座る。座っている両膝の間
から下を見ると、はるか下に地球が小さくくるくる回転している。………すると、神の呼吸と
自分の呼吸とが一体となる。」ということが書かれてあり、これは自分が体験した(園頭先
生も宇宙即我を体験しております)境地と同じだと、直感されたそうです。
昔からいわれている悟りの境地とは「宇宙即我」の境地のことをいいます。
仏陀の法を知るならば、いつか分かりませんが、この宇宙即我の境地に到達することに
なります。しかし、私達すべての人間は、この宇宙即我の境地に到達するため生まれてき
ているのです。異論のある人もいるでしょうが、生まれ変わり、死に変わりしているうちに、
異論のある方も、やがてそれが分かるようになっていきます。
宇宙即我の境地とは我々すべての人間が、最終的に辿り着かなければならない、究極の
境地なのです。
6月25日の仏陀が亡くなられた日のことを、深く知っていただいた、あなたにいっておきま
す。よい結果がでたこと心より祝福致します。あなたは今のように、謙虚で素直な心を忘れ
ず、仏陀の法を知られるならば、あなたは偉大な記録を残すことになります。どうぞ、これ
からも今の心を忘れず精進していっていただきたいと思います。
6月
26
2009
大海の中より、千年に一度しか浮かんでこない片目の亀がおりました。その亀は手足が
なくヒレもありません。そして、この亀は腹が焼けた鉄のごとく熱く、甲羅は雪山のように
冷たいのです。この亀が昼夜願うのは、熱い腹を冷やし冷たい甲羅を温めることでした。
赤栴檀(あかせんだん)という聖木があるのですが、この栴檀こそ唯一この片目の亀の
腹を冷やすことができる木でした。しかし、この亀が、赤栴檀の聖木にであうのは非常に
難しい話でした。
なにしろこの片目の亀は、大海の中より千年に一度しか浮かんでこず、海は広大です。
凡木にであえることはあるかもしれませんが、聖木に出会うことはほとんどありません。
それに仮に聖木にであったとしても、その聖木がちょうど亀が乗りやすい木で、しかも、
その木に亀がすっぽり入れる穴があいてないと、日の光で甲羅を温め腹を聖木で冷や
すということができません。聖木にあいてる穴が、大きければ亀はストンとそのまま海に
落ち底に沈み、また上がってくるのに千年かかり、小さければ穴に入ることはできません。
聖木にあいてる穴が、大きくても小さくてもだめで、ちょうど亀が入れる大きさでないとだ
めなのです。そして、そのような聖木が仮に亀の前を流れていったとしても、その聖木が
片目の亀の眼の見えない方を流れていけば、亀は聖木に気づくことはありません。
はたして、この片目の亀は聖木にであうことができるのでしょうか?
これは仏様の法に、であうことの難しさを示した説話ですが、この片目の亀が聖木にであ
うより、仏陀の法にであうのは難しいのです。
イエス・キリストがイスラエルに出られて、二千年の月日が流れました。その間、多くの名
僧、高僧、宗教家といわれた方々が出てこられましたが、キリストほどの奇跡を起こし、
福音を説かれた方はいません。
仏陀と呼ばれる方は、数千年に一度しかこの世に出世されず、しかも同じ時代に生れても
その方に気づかず、一生を終える人も多いのです。キリストの時代キリストを救世主と信じ
た人がどれほどいたでしょう?もし、ほとんどの人がキリストを本当の救世主と信じ、キリ
ストの説かれた福音を実践していたならば、キリストが十字架にかかることはありませんで
した。ほとんどの人は、キリストの奇跡を見てその奇跡に驚き、祭り上げたにすぎません。
それは、エルサレムにキリストが入った時に、あれほど熱狂した民衆が、手のひらを返した
ように十字架にかけた、その事実を見てもよくわかります。あの時代、ほとんどの人がキり
ストを救世主とは見ていなかったのです。
しかし、二千年たった現在キリストは救世主であったと世界の人が認めています。
本当の歴史というものは百年~二百年たたないと分からないのです。
現在の日本に仏陀が出世され、その法はかろうじて残っています。高橋信次先生が仏陀
であったということは、科学が発達することにより分かってきます。それは、科学が発達す
ればするほど、高橋先生が説かれた法を裏付けてくれるからです。
科学で裏付けが取れない宗教の教えなど、本当の教えではありません。なぜなら宗教と
科学は一致しなければならないからです。キリストの教えも、釈尊の教えも科学と一致し
ます。ただ、キリストの時代も釈尊の時代も科学が発達していなかったため、それが分か
らなかっただけです。
仏陀が説く法とは、神がこの世をつくられた時からあり、そして、科学がまだ到達すること
ができない、最新の科学でもあるのです。
仏陀の法に巡り合うのは、片目の亀が聖木にであうことより難しいのです。もし、その法に
巡り合い実践することができたのなら、生きている間はもちろんのこと、死んだその先まで
救われることになります。
仏陀の法に巡り合う難しさ、大事さを知ってください。
6月
25
2009
釈尊のことをインド当時仏陀(ブッダ)と呼んでいました。これは悟られた人という意味
だと伝えられていますが、もちろんそういう意味もありますが、仏陀の本当の意味は、
『宇宙創造の神と一体となり、その神の意志を誤ることなく伝える力を持たれた方』
ということであり、釈尊が出世される前にも、やはりこの仏陀と呼ばれる方は現れ、多くの
衆生を善導していかれたのであります。釈尊以前でいえばエジプトに出世されたモーゼ、
ギリシャに出世されたゼウスと言われた方がそれであり、釈尊以後ではイスラエルに出世
されたイエス・キリストがそうです。
1976年6月25日高橋信次先生が亡くなられました。今日は高橋先生の33回目の命日
です。
私はこの方の本を読み、この方こそ本物だと確信し、この方の教えを学びたいと思いまし
たが、その時はすでに高橋先生は亡くなられた後で、お目にかかる機会はありませんで
した。
私が高橋先生の本を読んで、一番衝撃を受けたのが“悟り”を文字で現わした部分です。
これは、キリストやモーゼと言われた方でも、できえなかったことでした。
高橋信次著「人間・釈迦」より抜粋
この大宇宙は神によってつくられた。
大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。
神は、その意識の中で意思をもたれた。
大宇宙の創造は、神の意思によってはじまった。
意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。
意識界の宇宙はその意思をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこの二つの世界は、
光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。
神の意識は、永遠の調和を目指し、そうして、二つの世界にあって、調和の要である中
道という法秩序の中に住まわれることになった。
人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意思を受け継ぐ万物の霊長として
産声をあげた。
………。
この高橋先生が書かれた、悟りを文字で現わした部分はまだまだ続きますが、この中には
宇宙が始まる前には、光明という神の大意識があり、そこから神は意思をもたれ意識界の
宇宙と物質界の二つの大宇宙を創造し、神の意識から別れた人間をつくり、人間の輪廻転
生や、これまでの地球の歴史などが書かれてあるのですが、私はこの悟りの部分を呼ん
だ時の感動は今でも忘れられません。
こういうことが想像で書けるとはとても思えませんでしたし、あとあと色々勉強していくと、高
橋先生の悟りの部分は、ほとんど科学でも裏付けがとれることも分かりました。
この大宇宙に、人間以外の特別な超大意識(神)が存在すると、一部の科学者はすでに認
めて(もちろんほんの一部の科学者ですが)いますし、この世は三次元だけでなく、四次元
以降多次元の世界があるということも、アメリカなどでは、論文で発表している科学者もい
ます。輪廻転生は日本でも研究中ですし、高橋先生が書かれた悟りの部分は、ほとんど現
在の科学で裏付けがとれているのです。
ずいぶん不思議な話ですね。最近の科学でやっと分かり始めた事実が、30数年も前にす
でに本に書かれていたとは?
不思議でもなんでもありません。この方も仏陀と呼ばれる方であったからです。私が前に
書いた日本に出世された如来とは、この方であったからです。
もし、そんな馬鹿なと思われる方がいたらお聞きしたいのですが、世の名僧、高僧といわれ
る方で、悟りをこのように文字で現わした人がいましたか、と。
そのような方々は悟りとは、無我の境地になることである、無の心になることである、無念無
想などと、お題目のように言っておりますが、無我の境地とか無の心とかいうものは、どうい
う意味でしょう?無とは何も考えないということでしょうか?何も考えないというのは、何も考
えないということを考えていることでしょうし、そういうことも考えないのであれば、ボーとして
いるのが悟りの境地といっても、さほど間違いでもないように思いますが、どうなのでしょう。
悟りとは、そのような境地ではありません。悟りとは、この世のすべてが一瞬で分かり、自分
の心を完全にコントロールでき、宇宙と自分は一体であるということを自覚する、これを悟り
の境地(宇宙即我・うちゅうそくわれ)というのです。
高橋信次先生の悟りの部分を読んでもらえれば分かると思いますが、悟りとは、無念無想
ではなく有念有想なのです。
高橋信次先生が日本に出世されたことで、はじめて“悟り”が文字で現わされました。それは
空前にして絶後の大偉業であったのです。
6月
24
2009
釈尊の教えは旧約聖書同様、最初は口から口に伝えられる口伝でした。その教えが
文字に書かれるようになったのは、釈尊が亡くなられて、二~三百年ほど後のことで、
それから七百年くらいまでの間に書かれたものが、現在のお経であり仏典です。
釈尊が亡くなられると、それまで黙っていた者が、急に私は釈尊からこのように聞いた、
あのように聞いた、と言い始め、それが本当の神理と混ざり現在まで残されている、お経
や仏典になっていきました。このように聞いた、あのように聞いた、と勝手なことを言いだ
した代表格が、文殊と普賢です。
シャリー・プトラー(舎利弗)は釈尊の右腕として、時には釈尊のかわりに説法をし、
多くの人に釈尊の正法神理をより分かりやすく伝え、そうして智慧第一と称されました。
ところが現在では、智慧といえば「三人よれば文殊の智慧」といわれるように、釈尊の弟
子の中で、十大弟子でもなかった文殊が、智慧の菩薩といわれるようになっています。
この文殊の話がでてくるのが「維摩経」で、維摩という大商人が病気になり、釈尊が十大
弟子を見舞いにやろうとしますが、十大弟子は皆この維摩にやり込められたことがあるた
め辞退します。そうして最後に登場するのが文殊で、文殊が智慧をつかって維摩をやり込
め、あの十大弟子でもかなわなかった維摩でさえ、文殊の智慧にはかなわなかった、と
いうことで「文殊の智慧」といわれるようになります。
しかし、これはまったくの創作で維摩という人物は実在しません。
それに文殊という人は、釈尊が生きていられた時は、釈尊の弟子というだけで高弟でも
なんでもなく、ただの目立ちたがり屋にすぎませんでした。
ところがこの目立ちたがり屋の文殊が、釈尊が亡くなられた後「年をとったあの人達(十大
弟子や他の釈尊の高弟達)はどう言っているか知らないが、私は釈尊からこのように聞い
たのです」と騒いで回ったことが、人から人へと伝えられていって、釈尊滅後数百年もす
ると、文殊が適当に語ったことまで真実のように伝わり、維摩経のような小説の教えまで
つくられていきました。
本来なら「三人よれば舎利弗の智慧」というのが正しいのであり、文殊など後世に名を残す
人物などではないのです。
釈尊の弟子というだけで、適当に語ったことまで周りの人々は信じ込んでしまい、後々まで
伝えられてしまう、このような目立ちたがり屋の罪は極めて重いのです。
そうして、この文殊と同じような目立ちたがり屋だったのが普賢です。普賢も「あの年取った
人達は、釈尊のようになりたいと懸命に禅定をしているが、あんな禅定のやり方で悟れる
わけがない。私は禅定はこのように教えられた」と、勝手なことを言いまわり、それが伝えら
れていって、数百年後には法華経の最後にでてくる「観普賢菩薩行法経」というお経にまで
なっていきます。
普賢も釈尊の教えを聞いていたのですから、釈尊とまったく違うことを言ったわけではなか
ったのですが、しかし、普賢も文殊と同じように釈尊の高弟だったわけでもなく、ただの目立
ちたがり屋の弟子にすぎませんでした。同じ釈尊の弟子で同じように釈尊の教えを聞いて
も、シャリー・プトラーや他の十大弟子が伝える禅定と、普賢の伝える禅定では自ずと差が
ありました。当然、普賢の伝える禅定の方が未熟であったのですが、普賢は十大弟子をけ
なしておいて、自分の話をしたから「普賢は偉い」ということになり、釈尊在世当時にはまっ
たくたいしたことがなかった、普賢まで評価を受けるようになっていき「観普賢菩薩行法経」
という、お経まで後の時代につくられることになってしまいました。
しかし、文殊も普賢も釈尊の弟子の時代には、まったくたいしたことがない未熟者であり、
それが、もっと上の釈尊の右腕とまで言われたシャリー・プトラーや他の十大弟子より、
評価を得ているのはまことに遺憾で、逆にいえば当時の人々が、このようないいかげん
な連中の言葉までも、釈尊の正法として聞いてしまい現在まで、その教えが残っている
ということに恐ろしさを感じますが、それでも、そのような間違った教えばかりでなく、今日
残っているような形で、釈尊の教えである仏教が残ってきたのは、シャリー・プトラーが
生前に理論的にまとめていたものが中心になっています。
シャリー・プトラーは釈尊の教えを一瞬で理解することができました。だからこそ四十五年
間にわたり、正法神理を説かれた釈尊の多くの言葉を、より分かりやすく衆生に語り、まと
めることができたのです。
現在は釈尊の右腕といわれたシャリー・プトラーより、間違ったことを勝手に言いまわった
文殊や普賢の方が有名で評価を受けていますが、それは大きな間違いであり、シャリー・
プトラーがいたからこそ、曲がりなりにも今日まで仏教は伝えられ、それによって多くの人
が救われていくことになりました。
釈尊の偉大さは、その右腕であったシャリー・プトラーが存在したことにより、多くの人々に
伝えられました。それは釈尊とともに、シャリー・プトラーもまた偉大なる人物であったから
です。
6月
23
2009
お釈迦様(釈尊)の物語は、よく見たり聞いたりしますが、釈尊の右腕といわれ釈迦教
団で筆頭の弟子といわれていた、シャリー・プトラー(舎利弗)の話はあまり聞きません。
このシャリー・プトラーを中心にして、釈尊やその弟子達の話を書いてみます。
インドで35歳で悟りを開かれた釈尊は、多くの人々に神の教えである正法神理(しょう
ほうしんり)を伝えます。しかし、釈尊在世中、釈尊の教えを広めるためには、釈尊一人
では限界がありました。そのため釈尊から直接教えを聞いた弟子達が、それぞれ地方
に散って説法をしていました。
釈尊の弟子達は、その当時あらゆる階層から集まってきていて、最高のバラモンの教え
を学びつくした者から、まったく無学の奴隷階級の者まで、その教養の程度も最高から
最低まで様々でありました。この当時(現在でもそうですが)インドでは身分制度である
カースト制度の影響が非常に強く、最高のバラモンから最下層である奴隷まで、同じよ
うに修行をしている教団などありませんでした。しかし、釈尊は人がつくった身分制度など
認めず、誰にでも平等に教えを説いていました。
釈尊の弟子達は、悟りを開くという目的は一つであっても、弟子達個人の能力にはやはり
差があり、釈尊が正法を弟子達に対して説く説き方も、弟子達の受け取り方もまちまちで
ありました。しかし、釈尊はあえて弟子達の思想や言語を統一しようとはされず、弟子達
は各自の能力と置かれた環境と境遇に、ふさわしい修行をしていました。
後の人々が、釈尊の十大弟子と尊称をもって呼ぶようになる人達でも、かなりの差があっ
たようです。
釈尊の右腕と呼ばれて弟子の筆頭にあげられるシャリー・プトラーは、当時貴族の家に
生まれ、バラモン教もアサンジャという師の教えも学びつくし、わずか16歳でその名声は
近隣に鳴り響いていた天才でした。そういう人物が釈尊の弟子になり、その教えを受けま
した。するとシャリー・プトラーは、たちまちのうちに釈尊の教えを理解し、釈尊が一言神
理を説けば、その言葉にどういう意味があるのか、それをより深く掘り下げ、多くの人によ
り分かりやすく、語れる力をもたれた方でありました。どれだけ智慧があるのか、その智慧
の深さが分かりませんでした。中国に釈尊の神理が伝わった時、シャリー・プトラーが「智
慧第一」と称された所以です。
それに対して、同じく十大弟子の中で「持律第一」と呼ばれたウパリは、理髪師でありまし
た。当時のインドでは、理髪師はあまり高い階層ではなく、自分で教えを学ぼうと思っても
学べる教えも限られていました。ウパリはウパリで、自分で学んできたものの上に釈尊の
教えを聞きました。
必然的にシャリー・プトラーとウパリでは、釈尊の教えを聞いても、受け取り方に相違が
生じます。また他の弟子達の間にも個人個人の神理の理解度により、同じ神理を聞いて
も、自然に受け取り方が違い説き方も違っていました。
はっきりいえば、シャリー・プトラーのように、小さいころからバラモンの教えなどを学び、
それらのものをすべて学びつくした天才が、釈尊の教えを伝えるならば、釈尊の教えは
正しく伝わりますが、あまり学んでいない者が釈尊の教えを伝えても、正しく伝わる部分
もあるが、正しく伝わらない部分もある、ということです。
これが分からなかったため、後の人々は歪められた部分のある、釈尊の正法神理とその
物語を信じていくことになったのです。
釈尊とその弟子達の正しい物語を、これから何回かに分けて、書いていきたいと思います。