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2014年9月

9月 25 2014

主婦業の偉大さ

台風十六号から変わった温帯低気圧の影響で、各地で大雨になりました。

名古屋も未明から、ずいぶん激しい雨が降ったようで、名古屋駅の地下鉄に雨水が流れ込んで浸水し、一部の地下鉄が運転見合わせで、いつ復旧するかめどが立たないそうです。(名古屋駅の地下鉄ですからね、また混乱しますね)

今年は、このような大雨の被害が本当に多いんですが、昨日はそのような大雨被害ばかりか、福島で震度4の地震が続けて起きて、肝を冷やしました。

法もなければ愛もない、そのような国には本当にろくなことが起きません。それをいつ気づかれるのでしょうか。

このような災いばかり日本は起きていますが、愛のないところに災いは起きます。ですから、昨日の家庭内で愛をもらっていないという話を、もう少し書いておきましょう。

ある人が自分の家に帰ってきました。すると「お帰りなさい」と出迎えたのは子供たちでした。

いつもは妻が出迎えるのに、今日は子供たちです。

そうすると、その家に帰ってきた、その子たちの父であるその人の第一声は「お母さんどこ行った?」と聞くのです。

これは子供たちも同じでしょう。学校から家に帰ってきて、母以外の人が出迎えた場合、その子たちの第一声は必ず「お母さんどこ行った?」なのです。

母親は、少し近所の用事で出ていただけかもしれないし、食事の用意をしていて足らないものが出たから、それを近所のスーパーに買いに行っていただけかもしれない。

その後、すぐに母親が帰ってきても「お母さんどこ行ってたの」と子供たちに聞かれるわ、夫は不機嫌になるわで、一々干渉され「あなたたちのためにやっているんでしょう」と、その家の主婦は怒るかもしれませんが、しかし、そういうことで怒ってはならないのです。

その前にその家の主婦は、なぜ家に帰ってきた夫や子供たちが、自分がいない時の第一声が「お母さんどこ行った?」なのか、その意味をよく知るべきなのです。

なぜ夫や子供たちが家に妻(母)がいないと、その第一声が「お母さんどこ行った?」なのか?

それは女が家にいると心が安らぐからです。

家に帰ってきて妻(母)の声が聞こえると、帰ってきた夫や子供たちは「ホッ」として、それだけで心が安らぐのです。その安らぎを求めて家族は家に帰ってくるのに、その時、妻がいないと寂しさや不安が心をよぎり、それでいなかった妻が帰ってくると(本当はうれしいのですが)夫は「お前どこに行っていたんだ」と不機嫌になるし、子供は「どこに行っていたの」と一々聞くのです。

妻(母)がいなかった寂しさ、不安をまぎらわしたいがためにです。

そのような夫や子供の心を知ろうともしないで「一々干渉されて息が詰まる」と、それで外に働きに行ってしまう主婦もいるようですが、これでは妻としても母としても失格なのであり、昨日私がいった愛がない家庭とはこのような家庭をいうのです。(こういう家庭が最近は多いのではないでしょうか)

しかし、このような毎日の何でもないことでも、実はそこに愛の心が隠れているのであり、そのような愛を毎日もらった子供と、そのような愛をもらっていない子供(たとえば両親が共働きで、かぎっ子だった子など…最近かぎっ子っていわないですか?)では、成長した時に心に愛を持っているか、いないか大きく変わってくるのです。(当然、心に愛がたくさん入っている子の方がよい人生を送れることになります)

例えば、今回最悪の結果になった神戸の誘拐事件でも、あの容疑者は毎日のように酒を飲んで酔っぱらっていたといわれます。

あれなど心に愛が入っていない典型のような症状で、心に愛がないので素面(しらふ)でいると寂しくて仕方ないのです。その寂しさを酒でまぎらわしていたのですが、その心のすきに悪魔が入り込み、そうして今回のような、小さな子供をさらって殺し切断するという悪魔の所業を平気で行ったのです。(まだ自分がしたと認めていないので、はっきり犯人とはいえませんが)

結局、主婦が(家にいるかいないか)そのような小さな愛を少しづつでも出せるか出せないか、それだけでも、人一人の成長に大きくかかわってくるものなのであり、それだけ家庭内の母が出す愛、妻が出す愛とは大事なものなのです。

簡単な例を上げましたが、主婦業とは家事育児をただやればいい、というわけではなく、そのような生活の中で、自分にしか出せないを愛を夫と子供に出し尽くす、それが本当の主婦業であり、それを戦前の女性の多くは普通に行ってきたのです。

だから、家族が十人いようと十五人いようと(戦前は大家族でしたから)今のように洗濯機やら掃除機やらない時代であっても、その大家族を一人で面倒を見ることが出来たのであるし、そのような大家族で育った子供たちも、みな立派に育ったのです。

そのような母の愛をいっぱいもらっていたからです。

現在は、その戦前に比べどれほど物質的に豊かになったでしょう。しかし、心的にはどれくらい貧困になったか分かりません。現在の母親は、たった一人の子供さえしっかり育てることが出来ないのです。その一人の子供で育児ノイローゼなる人もいるからです。

それもこれも、心に愛がなくなったため起きる不幸なのです。

先ほどのような凶悪な事件だけでなく、自分の子供に食事を与えず餓死させてしまう親もいます。パチンコに夢中になり、車の中に置き去りにした子供を熱中症で死なす親もいます。このようなことすべて、愛がないから起きることなのです。

このようなことが戦前に起きていたでしょうか?食事ができなくて餓死するということはあったかもしれませんが、子供を平気で餓死させる親や、子供をほっておいて熱中症で死なせる親などいなかったように思います。(最近ですもんね。こういう事件が起き出したのも)

戦前の主婦業こそ、本当の愛ある主婦業であったからです。だから多くの人が愛ある人に育ったのです。

それを社会、共産主義者が、戦前の女性は虐げられていたと、家に縛り付けられていたと、専業主婦がさも悪いことであったかのようにいいまわったのです。

その結果、現在のようにまともな主婦業が全くできない女性が増加し、愛ある人が減り、治安も悪化し、国力も落ちるという惨憺たることになっているのです。(結局、元である家庭を壊されたら〔まともな主婦業ができない女性が増えれば家庭は壊れます〕当然社会生活もおかしくなります。だから、その元の家庭を、愛ある家庭に変えないと社会生活もまともにならないということになります)

しかし、戦前の女性は別に虐げられていたわけでも(そういう部分がゼロだったとはいいませんが、そういう部分は戦後改善されているはずです)家庭に縛り付けられていたわけでもなく、女としての本当の使命を役割を果たしていただけなのです。(ほとんどの女性は、そのような主婦業を通し自分の心を磨くよう使命を持って生まれているからです)

この世に愛を復活させるには、まず家庭内での本当の母の愛、妻の愛を復活させないとできないのです。

それには片手間に主婦業をやられても困るので、それで私は「仕事を望む女性ばかりでなく、専業主婦を望む人にも、もっと支援をしないといけないでしょう」といっているのです。

しかし、主婦業とは、現在の多くの人が思っているような軽いものでも、女性を縛り付けるものでもありません。すべての人を生み育てる偉大な仕事なのです。(私たちは、そのような主婦の下で皆育って来たのです。それこそ総理大臣から、私のような一般の者までです)

何でそんな偉大な仕事を軽く見るのですか?

現代の主婦業を軽く見る、まず、そのような思想を改めなければいけないのです。

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9月 24 2014

女性の在り方

昨夜は(少々ビールを飲みましたので)酔ってバカなコメントを書いてしまいました。(笑)

しかし、バカなコメントととはいえ出生率が低下している日本で、私もその改善に少しでも貢献したいとの意図からです。(ホンマかいな〔笑〕)

どこに自分の才能が眠っているか分かりません。(それは男性女性ともにです)自信のある男性陣は(別に女性でも結構ですが)コメントを送られてはどうでしょうか?

しかし、その出生率が低下している日本で、いま盛んに安倍総理がいわれている女性に対する政策は解せません。

何であんな政策を掲げているんでしょうか?

その解せない政策とは、もちろんあの「2020年までに指導的地位にある女性の比率を三十パーセントに引き上げる」というあれです。

いくら総理が、そのような目標を掲げても、その肝心の女性たちが子育てとの両立は難しいとか、指導的立場に立ちたくないとかいっているんですから、そういう声を無視して、そのような目標を掲げてもあまり意味がないと思いますが、とりあえず、女性の社会進出を促さないと、世界に恰好がつかないということでのパフォーマンスですか?

それなら結構ですが、あまり女性の指導的地位の向上を促されても、肝心の女性たちが乗り気ではありません。

それに先ほど書きました、女性を社会に出して、では、子育てはどうするの?という問題も出てきます。家庭がおろそかになっては、その働く女性たちも困ります。

仕事と家庭、どちらを優先するかは、女性たちが決めればいいことなのですから、政府が口を出す問題ではないのではないでしょうか。

女性があまり社会進出を目指したくないのも分かります。なぜなら、ほとんどの女性が力を発揮する場は家庭であるからです。(それを多くの日本の女性は知っているのでしょう。それだけ世界と比べれば日本の女性は健全であるということです)

だから「女性の能力が発揮できる環境を整える」と総理がいわれるのであれば、それこそ、家事育児がしっかりできる環境を整えた方がよいのではないでしょうか。

その家庭こそが本当の女性の能力が発揮できる場であるからです。

それを分かっていて、総理も立場上とりあえず、パフォーマンスでやっていられるのであればよいのですが、そんなことを本気でやられたら日本がバラバラになってしまいます。パフォーマンスもほどほどに願いたいものです。

だいたい、女性自身が指導的立場に立ちたくないとか、子育ての方が大事だといっているのに、何でその声を無視して(仕事の能力があるとかなんとかいって)仕事を無理やりやらせるんでしょうか?

そのようにいわれる女性も、仕事より、家事育児の方が、よほど能力があるかもしれないではないですか。何でそっちの能力は伸ばそうとせず、仕事の能力ばかりにとらわれるのでしょう。それこそ決めつけなんじゃないですか?

決めつけはいけないんでしょう。(そういう女性の社会進出を促している社会、共産主義の人たちは、特にそういう言葉がお好きなはずですが)

何度もいいますが、そういう働く女性が家事や育児をいい加減にして、家庭がうまくいかなくなったら、それこそ(本来仕事をしっかりしてもらわなければいけない)夫の能力は発揮できなくなる、子供はまともに育たなくなる、そうして家庭崩壊ということにもなりかねないのです。

夫婦間もそうですが、子供の育て方を間違ったら取り返しがつかないのです。その責任は誰がとってくれるんでしょうか?(誰もとってくれません。自分たちでとるしかないのです)

だから、私たちの生活の元の元である家庭内の調和はより大事なことであり、その次に社会生活があるのであって、その順番を間違えてはならないのであり、だから、その家庭の調和を担う女性の役割は、家庭の中で特に重要であると私はいっているのです。

男も女も働いて、そうして家庭内も半々でといったところで、得手不得手があります。男性で家事や育児が得意人も少ないでしょう。その家事や育児が得意な人はやはり女性でしょう。(というか役割です)

では得意な分野で得意なことをやってもらうのが、それこそ一番力を発揮する場であるのだし、それが適材適所ということで、一番いいことなのではないですか?

その女性の得意分野の家庭という場を、現在の世相は、あまりに低く見すぎているのではないでしょうか。

だから、女性の社会進出を促すなどという話が出てくるのであり、家事、育児などというと、何かついでのように考え、それは夫婦半々でやればいいとか、軽く考えてしまうのですが、とんでもありません。

私たちのエネルギーの源はその家庭にあるのであり、外にあるのではないのです。

その家庭の家事育児を軽く考えたがため、働かない若者やストーカーや危険ドラッグなどに、手を出す若者たちが増えたのではないでしょうか。

現在の家庭には愛も調和もないところが多いからです。家庭での育児教育もしっかりやらないところが多いからです。

このようなことは、ただ形だけの家事や育児ではできないことなのです。

お手伝いさんに来てもらい、掃除や洗濯、料理や子供の世話など頼んでも、出来ることはできますが、そのお手伝いさんに愛をもらおうとしても無理です。家庭内を調和してもらおうとしても無理です。もちろん子供の教育をしっかりしてもらおうとしても無理です。

そのようなことは夫婦であり、その子の親である人たちがやらないとできないことだからです。(親子の愛や夫婦の調和を人からもらうことが出来ますか?出来るわけがありません。親子の愛は本当の親であり子でないと出てこないですし、夫婦の調和は本当の夫婦でないとできないからです)

そのように目には見えませんが、家庭内の愛や調和という一番大事な部分を、おろそかにしてきたつけが、現在の世の中に現れているのであり、その一番大事な家庭での愛を忘れてしまった結果が、最近多発している悲惨な事件の数々なのです。(あの神戸の誘拐事件でも最悪の結果になりそうですが、小さい子供を誘拐し平気で殺害できるこのような事件など、心に愛がない最たるものです。そのように愛がない人が増えたのも、家庭内で愛をしっかりもらっていないからです。決して個人の性格うんぬんだけではないのです)

家庭の家事育児を、おろそかにしては絶対にいけないのであり、そんなことを続けていれば結局国益を損なうことになるのです。(そうですよね、こんな事件が続発したら国益どころではなくなります。危なくて仕方ないのですから)

私は女性の社会進出を促す政策も反対なら、女性を指導的地位に引き上げる政策も反対です。逆に家事育児に専念してもらう政策の方が、よほど良いからです。よほど国益になるからです。

社会に出て会社の幹部になり仕事をもっとしたい、という女性はそれはそれで結構ですが(そのような人たちのために環境を整える、というのはそれはやってもらえれば結構ですが)社会に出るより、家事育児が大事と思われる女性たちには、それこそ、それがよくできる環境を整えることも必要なのではないでしょうか。(そうしないと不公平ですもんね)

本当の女性の役割は、その家事育児にあるからです。

どれだけ世界がそうでも間違いは間違いです。古い新しいではなく正しいか正しくないかなのです。

現在の世界の女性に対する在り方は間違いです。(男女平等、同権、女性の社会的地位の向上)なぜならそのような女性の在り方など、釈尊もキリストも教えていられないからです。

釈尊やキリストは、女は家事育児をしっかりせよ、夫婦は一体となれ、と教えていられるのです。(ということは、それがすなわち神の御心です)

釈尊やキリストの教えを学んでいる人たちが(世界はキリスト教を学ぶ人が多いですし、日本は仏教信者が多いのですから)女性の部分だけ、その釈尊やキリストの教えに背くというのはいかがなものでしょう。

その背いている部分が、現在の多くの不幸を巻き起こしていると思えてなりません。

女性の在り方をもう一度考え直されてはどうでしょうか。

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9月 23 2014

法を知ることの大事さ

最近、認知症の行方不明者が増えているようで、NHKのニュースでよくやっています。

うちの父も認知症でしたので他人事ではありません。父も二度ほど、どこかに行ってしまった時がありましたが、幸いすぐに見つかりました。

しかし、五年も十年も行方不明になっている人もいるというのに、自治体が認知症であっても個人保護の条例があり、勝手に個人の情報を出せないということで(本人確認が必要なようです)自治体に問い合わせても、保護された時期や性別や推定年齢をいうくらいで、後のことは教えてくれないそうですね。

ちょっと信じられませんね。(何が信じられないかって、自治体がそのような判断しかしないことがです)健康な人ならともかく相手は病人です。警察だけでは手が回らない部分があるのですから、やはり自治体も積極的に協力すべきでしょう。(家族の身になれば心配でたまらないのですから)

法律と人命ではどちらを優先させるのでしょうか?

いくら自治体とはいえ、少しくらいの融通をきかせ認知症の家族が、行方不明となって困っているという人から連絡が入ったのであれば、やはりそれらしい人のことは、ちゃんと教えるべきではないかと思います。(だって認知症の人は自分では判断ができないんですからね。自治体の人が、代わりにやってあげるなど当たり前のことだと思いますが)

それに個人情報保護条例は例外(明らかに本人の利益になる時は、個人の情報を公開してもいい)があるんですから、それは大いに活用すべきであると思います。(静岡県などやってるそうですもんね)

どちらにしても機械がやっているのではなく、人がやっていることです。人としての愛があるなら、自治体とはいえもう少し融通をきかすべきでしょう。

しかし、このようなことでもです。法を知っていれば救われるのです。

現に私の父がそうでした。一度目に父がいなくなった時、その時はさすがに動揺し祈るのを忘れていましたが(その時は、翌日の早朝四時頃に父が警察に連れられて帰ってきました。その後、父がビールを飲みだして大変でした)二度目にいなくなった時は祈りました。

そうしたら、その日の晩の七時くらいに警察から父を保護しているとの電話が入り、すぐに迎えに行って事なきを得たのです。(その日は父も静かだったような気がします)

法を知っているなら、認知症の人が家族にいて仮に行方不明になっても、すぐに見つかることになるのです。天がそのように導いてくださるからです。

とにかく法を知っているなら、仮に悪いことが起きても、その後よい方によい方に導かれ、結局事なきを得るということになります。

だから法を知らないといけないし、多くの人が法を知るのであれば、それは大いに国益にかなうことになるのです。

だってそうでしょう。多くの人が法を知るのならまず天変地変がなくなります。(マァ、すぐになくならないかもしれませんが、ぐっと減るのだけは確かです)

それに家族に不幸があっても、すぐにその後、先ほどのような幸運が来るんですから、結局その方がよかったということになります。(一つ経験を積んだんですから。そういう体験をすることで自分も成長します)

それに、基本的に法を知っていれば幸福にしかなりません。(不幸があっても、それがすぐ解決し、よかったよかったで終わるんですから、結局それは幸福です)だから、家族も幸せであり、そのような幸せな家族から愛をもらって、男の仕事はよけいはかどるということになりますので、社会も成長するということになり、国も繁栄します。(天啓が次々に降りてよい案もたくさん出てきますので)

それに外交も物質を一とするから揉めるのであって、心を一とするなら、揉めることはないのです。

つまり同じ信仰を持つなら、外交も揉めないということです。互いに譲り合うからです。国益の奪い合いは結局損なのです。(仮に物を多く取っても相手国の恨みを買います。そうするとどこかでそのお返しをされるからです)

だから法が出た国は(如来が出世された国は)その法をその国の人々がよく知って、世界に伝えないといけないといっているのです。

そうしないと真の世界平和は来ないからです。真の世界平和は法(本当の神の教え)の拡がりとともにやってくるのです。

もし、今すぐ多くの人がこの法を知って心を変えるのであれば、いま近づいている台風十六号(フィリピンや台湾に大雨を降らせましたが)の被害さえ小さくすることが出来るのです。

そのような奇跡がすぐにでも起きるのです。(嘘ではありません。あの「地震の巣」といわれている茨木県南部でも、あの風力発電所をなくしてしまえば地震は起きなくなります。私がいっていることが嘘か本当か、一度試してみてはどうですか、どうせ大して発電していないんでしょう)

とにかく、法が出た国が法を勉強し実践しないということが、一番の災いを呼んでいるのです。(それも世界的にです)

では、まずその国が改めなければいけないのではないでしょうか。自分たちの行いをです。

一にも二にもまず法を知ること、そこから幸福の道は始まります。だから多くの人がこの法を勉強してもらうしかないのです。

それが天の命でもあるからです。

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9月 22 2014

法を理解しないデメリット

台風十六号が迫っていますね。

この台風、大して強くも大きくもないので日本に来ないだろうと思いましたが、確実に上陸しそうです。フィリピンや台湾など見ても分かるとおり、この台風、秋雨前線と相まって異常な雨をもたらしているからです。

そういう異常な(雨を降らせる)台風なら勢力は弱くても上陸させるでしょう。そうしないと日本の皆さんは、いつまでたっても何も気づこうとしないからです。(それでも、天の意志に気づこうとしないんですからすさまじいです)

また大雨になるんですかね。今年も北海道から沖縄まで、各地まんべんなく大雨の被害を受けています。これでまた大雨が降ると致命傷になりかねない地域もあります。(広島とか、北海道とか)

これ以上、私のいうことを無視するのはやめたらどうでしょう。

そうしないと日本全体が致命傷を負うかもしれません。それだけ如来が出世された国が、如来が説かれた法を無視するのは悪いことだからです。

法を理解しないと平気で天の意志に逆らいます。そうなるとよけい恐ろしい現象が現されるということになります。

北海道にメガソーラーを建設するなら、原発を建設した方がいいのです。その方が異常気象が起きなくなるからです。どれだけ太陽光パネルを設置しても、異常気象で壊されたら何もなりません。(そこに竜巻とか起こされたら一発で終わりです)

それより、そのようなことを起こされないものをつくった方がいいのです。

原発事故の検証が終わっていないだの、原発は事故を起こした時のデメリットが計り知れないだの、だから自然エネルギーを伸ばせというのでしょうが、その自然エネルギーを行っているところに異常気象が起きているのです。(茨木や北海道など)

そればかりか、脱原発を唱えているだけのところにも異常気象が起きています。(この前の選挙戦〔衆議院だったか参議院だったか忘れましたが〕の間中、自民党以外の候補が脱原発を唱えていたものですから、異様な天気になりました。そのことは、逐一このブログに書きましたので覚えている人も多いと思います)

そうであるなら「自然エネルギーはまずい」といい加減分かりそうなものですが、それを分かる人がいないのです。法を理解している人がいないからです。だから、そういうことがまずいと分からないのです。

これはこの辺りの人も同じで、前の会社など今日も完全に様子がおかしいのですが(かなり何か起きてると思いますよ、私にまともに嫌がらせができなくなっているんですから)それでもまだ(それとなく、たまに切れたように)でかい音を立てています。

どれだけ悪いことが起きても、それでも自分たちがそういうことをしているから悪い、とは思わないのです。(認めたくないだけかもしれませんが)

この辺りの人たちも法を理解しようとしないからです。私のブログは読んでいるくせに、読んでいるだけで、理解しようとも実践しようとも思わないからです。

だから悪いことばかり起きるのです。(それを全部私のせいにしていますが)

この辺りの人もそうですが、それ以外の地域の人でもそうです。

法を知っているのに理解しない、これほどのデメリットがあるでしょうか。

その法を理解しようとしないために、自分たちに悪いことは起こる、異常気象は起こる、そういう悪いことがどれだけ起きていても、それでもまだ自分のやり方を変えようとしない、するとまた悪いことや異常気象が起きてきて、自分たちがドンドン不幸になる、それを繰り返しているのです。(まさに災いの連鎖です。私からしたらゾッとします)

よく考えてみれば、これほどのデメリットもないわけです。

だってそうでしょう。この法を理解して、やり方を変えるのであれば、それで奇跡が起き異常気象も収まるのです。

それだけで天と地ほどの違いになるではないですか。

それが嘘ではないということは、このブログに繰り返し書いています。

私くらい奇跡が起きている人が他にいるのでしょうか?私が、くどいくらい自分に起きていることを書いているのは、皆さんとの違いを強調したいためです。

「法を知っているのと知らないのとでは、これくらい起きることが違うのですよ」ということを、知ってもらいたいためだけです。(それをいつまでたっても理解していただけませんが)

このように考えれば、法をいつまでも理解しようとしないデメリットは、一体どれくらいになるのか想像もつかないくらいです。

何度も書きますが、この法を理解し実践してくれる人が増えれば、それだけでです。それだけで異常気象が減るのです。それだけでもどれくらいのメリットになるか分からないのです。

そうではないですか。これだけ異常気象が起きてきたら、何をやってもすぐに元の木阿弥になってしまいます。それどころか(ひどい災害が起きれば)マイナスの方が大きくなってしまうのです。

こんな異常気象が続けば、日本の復活など永遠に望めません。(それどころか終〔しま〕いには滅亡します)

今やっている防災、減災では大して効果がないということは、このブログを読んでいる人たちは皆知っているはずです。

それが本当の防災、減災ではないからです。本当の防災、減災は法を知ることだからです。

どれだけこのブログを無視しようと、その無視している間は災いは止まりません。それだけの罪を皆さんがつくっているからです。(それをこの辺りの人は皆私のせいにしています。一体どれだけ罪をつくれば気がすむんでしょうか)

この法を理解し実践してください。

災いを止めるのに、それ以外の方法はないからです。

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9月 21 2014

愛を持って生きる

昨日は、また中川運河を通ったので運河近くまで下りていきました。

国道一号線にかかる昭和橋の角に派出所があるのですが、その派出所と昭和橋の間に階段がつくってあって、下の中川運河まで下りていけるのです。

そこを下りていって運河を見ると、少し離れたところでさざ波が立っていました。そのさざ波の塊が、あちこちにあり、ずいぶん遠くの方までのびています。

あそこに魚がいることは分かっていましたので、そちらに向かって「オイ元気か」と叫びました。二、三度叫ぶと、その塊のいくつかがこちらに近づいて来ました。

私がいることが分かると、そのさざ波の塊の中にいる魚があっちでもこっちでも跳ねています。

結局そのさざ波(魚の集団)は、私から数メートルの辺りで止まっていましたが、すぐ近くで小魚が何匹も跳ねていましたから、何匹かの魚は、私の目の前の辺りにまで来ていたと思うんですが、いかんせん水が汚くて魚影が全く見えません。(あの辺りは特に汚いのです)

魚が跳ねないといるかどうか分からないのです。(ほんと水が真っ黒ですからね)

それで私が「もっとこの水をきれいにしてやるからな」と運河に向かって話しかけると、とたんに一匹の小魚が跳ねました。

この魚たちだけでなく、鳥など含めたすべての生き物は人の言葉が分かるようです。(あるいは心を読んでいるのかもしれませんが)

そのような動物たちを、どうせこちらのいうことなど分からないだろうと、バカにして見ている人も多いと思いますが、とんでもありません。人の言葉どころか動物たちは人の心まで読んでいるのかもしれないのです。

「動物など本能で動いているだけで何も分からない」そのように思っている人の無知さを、逆に動物たちは笑っているのかもしれません。

犬や猫や鳥たちを見ているだけで可愛い、と思う時がよくあるのではないでしょうか。そのように思える、そのような動物たちは、すでに私たち人間に愛を与えてくれているのです。(だから可愛いと思うのです)

では、私たち人間も、もう少し動物たちに愛を与えてもいいのではないでしょうか。

この愛を与えるということを、餌を与えるということと勘違いしている人もいますが、そこらにいる生き物に、何でもかんでも餌を与えればいいというものではありません。(人が餌を与えなくても、害虫や木の実などを食べて、生きていける生き物もたくさんいるからです)そこは節度を持っていただきたいものです。

私は餌など与えたことは一度もありませんが、鳥でも魚でもいくらでも寄って来ます。

動物たちに愛をかければ、その愛を動物たちはちゃんと返してくれます。要は心の問題なのです。(これは動物だけでなく植物でも同じですけどね)

その人の心に愛があるかないか、それだけなのです。

昨日も中川運河で魚たちに愛をもらった後、このようなことがありました。

私が歩いていると、また高校生数人と道で会いました。(ちょうど、この前の女子高校生三人と会ったくらいの場所でです。今度は男子高校生でしたがその高校の生徒でしょう)

私の前を歩いていた数人の高校生の一人が、歩きながらいきなりザッと足で音を立てました。得意の嫌がらせでしょう。

それで私が後ろから「オイオイ鳥も寄ってこないくせに、そんなに善人ずらすんなよ。何で悪人に鳥が寄ってきて善人に鳥が寄っていかないんだ。どっちが善人か悪人かは鳥が教えているだろう」というと、前の数人の高校生が少し固まったようでした。

そうして歩いていると堀川に差し掛かったものですから、私は、その堀川沿いを曲がって川に沿って歩き出しました。その高校生たちはまっすぐ(その堀川を渡り)歩いて行きます。

曲がってすぐに堀川に呼びかけました。「お前ら元気か」とです。

するとあちこちで魚が跳ねだしました。私の近くで少々大きな魚が跳ねたものですから、私はその魚に向かい「お前元気だな」と声をかけると、その同じ魚が二度、三度と跳ねるのです。

私の声が完全に分かっているようでした。それで堀川を渡っていたその高校生たちに「よう、こんな奇跡が起きているんだから、お前らも見て行けよ」と声をかけたんですが、私の声を一切無視し、その高校生たちは堀川を見ようともせず歩いて行きます。

そのような高校生たちに「こんなことが悪人に起きるか?鳥だけでなく魚まで教えているだろう。誰が善人かをよ」「お前らの学校のブーちゃんに、この前しっかり話といたから(この前の女子高校生三人組です。〔笑〕)よく聞いといてくれよ」と声をかけました。

その声に反応し、少しこちらを見た高校生もいましたが、ほとんど私のいうことを無視して自分たちで話をしながら、高校生たちは頑なにこちらを見ようとせずに歩いて行ました。

が、しかし、バシャバシャ魚が跳ねる水音は嫌でも耳に入ってきます。

川を渡りきる最後に一人、二人の高校生が堀川を見ていました。(「気になるんなら最初から見ろよ」といいたくなりました。〔笑〕)

このような奇跡が、目の前で起きているというのに、それでも私を無視しているのです。

哀れというしかありませんね。一体何を思って私のいうことを無視しているのでしょう。私が大悪人だから、そんな奴のいうことが聞けるかということでしょうか?

しかし、それは自分で確認したわけではなく、単に人の噂を信じたにすぎません。自分が確認していないんですから、それが事実がどうかは分からないし、このような現象が目の前で起きているのです。

では、その噂の人が本当に悪人かどうかは、自分で判断できるのではないでしょうか。

愛があるから鳥でも魚でも寄ってきて、このような奇跡が起きるのです。

それとも、魔力でこんなことをしているとでも思っているのでしょうか?残念ではありますが、悪魔の力では不思議なこと(病気を治したり、飛び跳ねたり、スプーンを曲げたりする人が驚くようなこと)や不幸なことは起こせても、この生き物が喜んで寄ってくるという、愛ある奇跡は起こせないのです。

悪魔の力では絶対に起きないことが、現実に目の前で起きているのです。

このような事実が目の前で展開している以上、残念ではありますが、この辺りの多くの人が思っているような大悪人では、私はなくて、そのように思っている人の方がよほど大悪人なのです。

そうではないですか?だってそういう人は鳥や魚が寄って来ないんでしょう。では、よほど愛がないということになり、それでは悪人といわれても仕方ないのではないでしょうか。

悪人だから、たった一人の者を平気で悪人に仕立て上げることもできるし、その一人の者によってたかって嫌がらせができるのです。

もし、その人が愛がある善人なら、どういう理由にせよ、一人の者によってたかって嫌がらせなどできないし(かわいそうという心が先に来てです)たった一人の者がそれほどの悪を犯しているとも考えません。

愛があるなら、少しは自分にも悪いところがあるのではないかと、あるいは他に理由もあるのではないかと考えるはずです。

自分に愛がないから、一方的に一人の者を悪者に出来るのですし、よく分からないのに、一人の者に平気で濡れ衣を着せることも出来るのです。

こういう人を、悪人とはいわないなら他になんというのでしょうか?(今日も平気でバシバシやっていますが、そのようにやっているその人が、このブログをしっかり読んでいるのです。これ善人のやることでしょうか?)

普通の人より愛を持っている人に悪人はいません。そのような愛の心が少ない人ほどよほど悪人なのです。

本当の善人は誰で、悪人は誰なのでしょう。

どれだけ口でうまいことをいようと、それは周りの現象に現れるのです。

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