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2015年6月

6月 25 2015

原因・結果の法則

しかし、呆れましたね。

何に呆れたかってどこかの会社の連中にです。昨日どこかの会社の連中が、仕事にかこつけてこれまでやってきた悪事が全部ばれたのです。それで呆れているのです。

昨日もまたこの連中、朝から烈火のごとく怒って仕事をしていました。(物を叩き付けたりしてでかい音を立ててです)次々に自分たちに現象が現れるので、それが全部私のせいということで怒っているようでした。

もう、このような態度は何年にもわたって続けられているのです。(何か起きていない時でもそういう態度を取っているのですから、変わらないといえば変わらないのですが、何か起きた時の方がやること極端です)

しかし、そのような態度は私がここでブログなど書いているから、そのパソコンの音がうるさくて、それで迷惑してやっている、自分たちは被害者である、あくまでそのような立場であったようです。(周りもそのように見ているふしがあるようです。私が加害者でどこかの会社は被害者であるとです)

ところが昨日のことです。私の家の前で若い者が(高校生か大学生くらいだと思います)二人でボール遊びを始めたのです。声を出したりボールをつく音がわりと大きく響いていました。

私はこんな音を立てたら、さぞどこかの会社の連中(何せ、その会社のすぐ近くでそんなことをしているのですから)怒るだろうな、これはまたでかい音が響くぞ、と思っていました。

そうしたらです。私の意に反し、その会社の連中うるさいどころか、静かになったのです。それまででかい音を立てていたのが、ピタリとやみ静かに仕事をしているではありませんか。

私は「ハァ?」と思いました。

「何だこの連中、音がうるさいと怒るんじゃなかったのか」

私は不思議だったのでいくつか声をかけてみました。「お前ら、こんなでかい音を立てているのに怒らないのか」「お前ら(パソコンの)カチャをうるさがっているのに、ボールの音はうるさくないのか」いろいろいいましたが、ほとんど反応しません。(いつもなら烈火のごとく怒り物を投げつけるはずなのにです)

それで分かりました。この会社になぜこれほど災いが起き始めたのかがです。

この会社の連中、私のパソコンの音がうるさくて怒っていたわけではなかったのです。単に私に嫌がらせがしたかった、それだけだったのです。

それがそのよう態度で分かったのです。

そうではないでしょうか。この会社の連中はパソコンのあんな小さな音でも気にするのです。それがボールをつく音などもっと大きいのに、その音がしてきたら怒るどころか、全然気にも留めずに静かに仕事をしだしたのです。

そうして私がどんなに冷かしても、その態度を変えませんでした。

ということは、そんなボールの音がそれほど気になるわけではないということになります。

ボールをつくような大きな音が気にならないのですから、それよりもっと小さなパソコンの音が気になるわけがありません。

大して気にならないパソコンの音を、さも気にするそぶりで、これまででかい音を立て続けてきたそのわけは、単に私に嫌がらせがしたかっただけでしょう。

何かと私が気に食わなかったからです。(マァ、ここまでくると、いろんな理由があるのでしょうが)

前から、そのような態度は見受けられました。大きな工事の音が響いていた時も、近くで家を建てていた時、その大工が立てる大きな音にも、まったく反応せず妙に静かだったのです。

それまでは静かに仕事をしているのに、そういう人たちがいなくなると、またでかい音を立て始めるのです。(ということは音など立てずとも仕事はできるということです)

だから前からおかしいと思っていたのですが、昨日の若い連中のボール遊びでそれがよく分かりました。

この会社の連中が、これまで出してきた大きな音は、単に私に嫌がらせがしたかっただけであり、大勢で一人の者を、よってたかっていじめている集団いじめだったのであり、仕事でもなんでもなかったのです。(だからでかい音は全部嫌がらせです)

仕事で、でかい音が立てられるのをいいことに、この連中がこれまでやっていたことは、その仕事にかこつけた、周りも巻き込んでの個人に対する集団嫌がらせにすぎなかったのです。

だから、この連中にこれだけ立て続けに災いが起こり始めたのです。それだけの悪いことをこの連中はもう何年も前からしていたからです。

そうして、その災いさえ利用してなお私に嫌がらせをし続けているのです。

この災いはあいつのせいと、それを全部私のせいにしてです。そうして被害者ずらして、だからこういうことをするのも仕方がないと、自分たちのやっている嫌がらせを正当化して周りから同情を買っているのです。

そうなったのは私のせいでもなんでもなく、ただ自分たちが悪かっただけなのにです。

この人たちは、五年もの間、一人の者に対し嫌がらせをし続けているのです。そうしてその嫌がらせの仕方は回りにどれだけ迷惑をかけてもお構いなしです。

そうして、そのような悪事をし続けていたため、起きて来た天罰まで嫌がらせしている者のせいにして、自分たちは被害者ずらして、未だそのような嫌がらせをし続けているのです。

これだけ悪いことをし続けている人たちもそうはいません。だから、その悪さに匹敵する天罰が起こり始めたのです。(その起きている災いがどれだけのものか私には分かりませんが、その災いと同じくらい悪いことをあなた方はしているということです)

原因・結果の法則(善因善果 悪因悪果)に間違いはありません。

自分たちに災いが起きてきた理由は自分たちにあるのです。

(今日は高橋先生が昇天された日です。そんな日に、自分たちの悪事が全部ばらされたのもまた高橋先生のお導きではないかとも思えます。反省する最後のチャンスかもしれませんね)

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6月 24 2015

神の業が現れた時の対処の仕方

荒れた天気が続いているようですね。

昨日も、関東などで局地的大雨になったところが相次いで、激しいカミナリや冠水被害、停電まで起こしてしまったところまであるそうです。

今日もまだ荒れた天気に注意が必要とのことですが、日本各地も荒れていますが相変わらずこちらも荒れています。本当に荒れた現象には注意が必要ですね。

毎回この話題なんですが、こうも朝からアピールされてはね。(また何か起きたようですが)無視も出来ませんし、そうはいっても何をいっても聞かないんですから、もう書きようがないといえばないんですが、一体どうするつもりなんでしょうか?

どれだけ怒っても、その現象は止まらないんですから、怒る以外のことをすればいいのに、いつまでたっても怒っているだけです。

では、怒り続けていてはどうでしょう。多分最後の一人までその現象は現れると思うからです。

神の業が現れているんですから、その神に頭を下げる気にならない限り、その神の業は止まりません。

怒りたいのであれば、どうぞ好きなだけ怒っていてください。その現象はずっと止まらないからです。

私など、何か悪いことが起きたら即、神に詫びを入れます。早いですよ。

私は何か悪いことをしたらすぐに現象が現れます。その現象に対し、怒ろうものならもっとひどい現象が現れるのは目に見えています。(怒ったことないので分からないんですが、多分そうだと思います。だいたい怒ることなど出来ないでしょう。神の業が現れているのですから)

だから即、反省するのですが、そうすると悪い現象はピタリと止まります。

それが悪い現象を止める唯一の方法なのですから、どうやったら怒るなどという発想が出てくるのか、まったく意味が分かりませんね。(これは体験談ですので、これ以上正しいものはないと思います)

私が悪いことをした場合、前にも書きましたが、この世でひどい目に遭ったこともあれば、あの世、地獄界に連れて行かれてひどい目に遭わされたこともあります。そんなことをされたら、もうそれだけでげんなりです。

即、反省しますね。

しかし、何度もひどい目に遭わされて、それでも反省しない人たちはよほど神経が太いんでしょう。普通は、そんなことを一度でも起こされたら(精神的にも肉体的にも)かなりこたえるからです。

しかし、そんな無反省な態度を続けていれば地獄行きは決定的です。それでもそういう態度をし続けるのですか?地獄は苦しいところですよ。

私も二回ほど連れて行かれましたが(同じ場所にです)その地獄界は、暗い洞穴の中に虫がびっしり張り付いているという気持ちの悪い場所でした。

その虫たちが、体にはい上がってくるのですからそれだけでもたまりませんが、そのような場所で、カエルを食わされるという異常なことまでさせられました。(おいしそうなパンに見えたので食べたら、それがカエルであったのです)

そのようなことが、夢ではなく実体験で起こるのですからゾッとしますが(実際は夢で観たのですが、あまりにリアルでとても夢とは思えませんでした。気持ち悪くて二~三日食欲がなかったくらいですから)このような気持ちの悪い世界から、火炎地獄のような苦しい世界(放火などした人はこういう地獄に堕ちて行くそうです)血の池地獄などもあるそうですから(業の深い女の人たちなど気を付けてください。あまりに我が強いとこのような地獄界に堕ちて行きます)地獄界もいろいろな世界に分かれているようです。

我が強ければ強いほど、死後に行く世界は深く厳しい地獄界です。

少しは、聞く耳をもつとか、反省ということを知っておいた方がいいでしょう。そういう素直な心がなければ、そのような苦しい地獄界から抜け出ることは出来ないからです。

追伸…こういう話ばかりだと気が重たくなるばかりです。少し違う話も書いておきますが、女子サッカーのなでしこジャパンが太陽の回りに虹が出来る(パワーという現象だそうですが)現象に遭遇したということで、縁起がいいと喜んでいたとニュースでやっていました。(この現象、どこかの宗教ですと「奇跡です。奇跡が起きました」と大騒ぎになるのですが。〔笑〕)

実は私も、この前の月曜日にブログを書かなかった時に行った庄内川で、同じ現象に遭遇したのです。

上を見ると太陽の回りに虹のような輪っかが出来ていました。

珍しいなと思い私も動画に撮ったんですが(あまりきれいに映らなかったので消してしまいましたが)その夜(翌日でしたっけ?)同じことが、なでしこジャパンにも起きていたとニュースで知って、まったく違う場所なのに(なでしこはカナダかどっかですよね)同じ時期に同じことが起きるとは、偶然とはいえ不思議なものだなあと感心ました。

このように私は、どこに行っても何か奇跡的なことが起きています。(もちろん魚や鳥たちもたくさん寄って来ましたし)

常に災いが起きている人たちとはずいぶん違いますが、ところで、なでしこジャパンにかけて少し女性のことも書きますが、前に私は、妻は夫の(女は男の)心が分からないといけないと書いたことがありますが、女が男の心を分かりすぎてもまたいけないのかもしれません。

最近、そういう気もしてきました。いろいろ体験することは大事なことですね。(笑)

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6月 23 2015

反省

今日は書かせてもらってよいのでしょうか?

なにしろ前の会社の顔色をうかがいながら書かないといけません。本当に大変です。(昨日はやたらうるさかったですからね)

今日もこちょこちょやっていますが、音がずいぶん遠くで聞こえます。また何か起きたんでしょうか?

一昨日の日曜日の話です。

朝から雨が降っていました。その雨が私がブログを書いている最中は強く降り続け、そのブログを書き終わるとほぼ同時くらいにやんだのです。

その雨のお蔭で、日曜日は誰にも邪魔されず(日曜日は日曜日で、前のマンションの人たちやらが網戸をバシバシやってきますので)ブログを書けたのですが、あまりにタイミングがよかったものですから、私は「ブログを書いている最中は雨が降り続け、書き終わると同時に雨がやんだよ。凄いね。このブログが天に通じている証拠だね」みたいなことを得意げにいったのです。

そうしたら、その声を聞いていた前のマンションの二、三の人にバシバシやられたのですが、その声を聞いていたこの辺りの人も何人もいたはずです。

あれは偶然だったのでしょうか?それとも必然だったのでしょうか?

この辺りの人たちで、あのような現象を偶然と思う人の方がもう少ないと思いますが、いま考えると、まるで翌日の、このブログを書かせないことがいかに悪いことか、それを暗示したかのような出来事でありました。

天に通じているものを書かせなければ、当然そのようなことを行っている人たちは天罰を食らいます。だから食らったのではないですか、天罰をです。

なのに、それが私のせいですか?

まさに盗人猛々(ぬすっとたけだけ)しいとはこのことでしょう。悪いことをしているのはあなたたちの方なのです。

悪いことをしているから天罰を食らい、私は、悪いこともしていないしよいこともしているから奇跡が起きるのです。

何でこんな分かりやすいことを認めようとしないのか、本当に意味が分かりませんが、こういう場合は結果がすべてです。(結果が過程を教えています)

悪いことが起きてほしくなければ、悪いことはやめることです。

この辺りの人たちは結果しか見ませんが、その結果を見る見方が違っているのです。

悪いことが起きている方がよくて、悪いことが起きていない方が悪いと見ているのですから話になりません。そのような見方をする人たちはたぶん史上初でしょう。(悪いことをしている方に奇跡が起きて、悪いことをしていない方に災いが起きる、考えられない発想だと思うんですが…)

悪いことが起きている人が多いので、それ(悪いことが起きている方が悪い)を認めたら自分たちの悪いことまで認めないといけない。それを認めたくなくて、それでそのような強引な考えでいるというのであれば、あまりに不誠実でしょう。

そういうことをしているから名古屋はいいことが起きないのです。

反省されてはいかがでしょう。もうどちらが悪いかは火を見るよりも明らかであるからです。

自分たちはまじめに神を思っていましたか?ちょっと気に食わないからと、人の悪口をいったり嫌がらせなどをしなかったでしょうか?よいことをしてくれた人に感謝をしましたか?

そのくらいのこと、他の人でもやったりやらなかったりしているではないか、ではないのです。

名古屋の多くの人は法を知ったのです。法を知ったのであれば、一番最初に、そのようなことを反省しなければいけなかったのであり、そのような謙虚な心がなかったばかりに(傲慢な人が多かったばかりに)気づきの現象が次々に現れたということです。

病気やけがなどすべてそうですが、それは自分が反省しなければいけないという気づきの現象であり、意味もなく現れているのではないのです。必ず自分のどこかに反省すべき点があるから、そのような現象が現れたのであり、なければ現れません。

また、現在そのような現象が現れていない人でも、それは様々な理由があり(我が強かったり〔我が強い人は、そのような気づきの現象もなかなか現れないのです。自分の我がじゃまをして反省の機会を逃しているのです〕まだ反省の期間を与えられていたり)そのような心のままだといずれは反省させられるのです。

それは特別名古屋の人たちばかりではありません。すべての人にそれは現れるのです。(ただ早いか遅いかだけです。名古屋の人は法を知ったのでそれが早く現れた、それだけのことです。早く現れた方がいいでしょう。間違いを早く知ることになるからです)

名古屋の人々は法を知ったにもかかわらず(心が救われたにもかかわらず)まったく感謝しませんでした。そればかりか、法を教えてくれた人を悪者に仕立て上げ嫌がらせまで始めたのです。

そのような心と行いがいけなかったのに、それをまったく反省しようともせず(そのような心と行いのせいで起きてきた)天罰まで、その人のせいにして嫌がらせをし続けているのです。

これでどうして名古屋にいいことが起きるのでしょう。

こういう悪事をし続けていて、名古屋によいことが起きるわけがないのです。(あまりに名古屋の人、悪いという自覚がなさ過ぎです)

いつまでデタラメな噂を流し続けて私一人を悪者にしておくつもりですか?そんなことをしていても、最後に泣くのは、そのようなことをしている人たちなのです。

自分たちの心と行いを反省されてはどうでしょう。本当に悪いのは反省しようともしない名古屋の人たちだからです。

悪いことが起きている方が悪い、これは善悪を判断するうえでの基本なのです。

(また多数決でもありません。私が悪いという人が多いからと、だから私が悪いではないのです。それだけ〔知らずに〕悪いことをしている人が多いというだけのことです。何度もいいますが、こういう場合は結果がすべてを物語っているからです)

追伸…なんか毎回、同じようなことを書いている印象があるのですが、私の周りでは次々に現象が現れている人たちがいます。そういう人たちをほってもおけないので、同じようなブログになってしまうのですが、他の地域の人たちはそこはご容赦ください。

いずれは自分たちの参考になると思うからです。(たぶん名古屋と同じようなことがどこも起きてくると思うからです。現にサイレンなどあちこちでしだしたようですし)

先ほどもヘリの音がしていましたが、それにしてもあのヘリは一体いつまで飛んでくるつもりでしょうか?(昨日は庄内川の川岸をずっと歩いて探検していたのですが、昨日など十機くらい〔しかもいろいろなヘリが〕かわるがわる飛んで来ました)

それにどこにいても飛んできますし。(勘八峡に行った時も、木曽川や長良川に行った時も、どこに行った時でも飛んできました。本当に異常ですね。〔苦笑〕)

もう何年にもわたってですから、あれ莫大な費用がかかっていると思うんですが、何度もいいますが、その費用を少しこちらに回せないのでしょうか?

これほどの現象が毎日のように起きているのです。こんな教えは他にありません。

本当にこの教えを、一刻も早く世界に伝えないといけないと思うからです。(こんな名古屋で私一人がいっているような教えではありません。世界中の人が知らないといけない教えなのです)

このブログを読んでいる皆さんが、早くそれに気づいて動いてくれればいいんですが、一向に動こうとしません。(それどころか、逆らい続けているのですから呆れます)

どれだけ書いたら、どれだけ現象が現れたら、この教えの偉大さに気づくのでしょうか?

このブログを読んでいる人の罪は本当に大きいといわざるを得ません。

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6月 21 2015

神の教えと悪魔の噂

普段どれだけ取り繕っていても、結局、最後には(死ぬ時には)ボロが出るような、死ぬ時に死にたくないだの、まだ仕事がしたいだのいうような、未練タラタラの人生では確実に地獄行きなのですから、幸せな人生であった、そうして死ぬのもまた楽しみであると、死ぬ間際にバンザイが出来るくらいの人生であらねばならないのです。

今のままの人生でそれが出来ると思いますか?(百パーセント無理ですね)

だから、法をしっかり勉強しないといけないといっているのです。

すぐにでもやらなければ、そのような人生など送れないのだし、法を知ったところで、そういう人生を実践しないといけないのですから、法を知っただけで、そのような人生がすぐに送れるようになるわけでもないのだし、だから早くそれに気づいてくださいといっているのです。

現に法を知っている人はもう多いと思います。(このブログを読んでいる人もそこそこいるのだし、この近辺の人など、このブログの内容を知っている人も多いですから)

しかし、私のような奇跡が起きる人はいません。奇跡どころか、この辺りの人は災いが起きているのです。

法を知ってなぜ災いが起きるのでしょうか?

法を知っても何も実践しなければ何も起きませんが、この辺りの人たちは法を知るとともに間違った思想まで入れてしまい、間違った実践までしてしまったのです。

そこまでやってしまっては、いくら法を知っても(よいことをしても)災いが(悪いことが)起きるのは当然のことでしょう。(間違った思想とは、私が悪いという思想であり、間違った実践とは私に嫌がらせをしていることです)

法を知ると同時に、こういう間違った思想(怒りや憎しみ)も入れ、そうして間違った実践までしてしまうものですから、それで災いが起きているのです。

法を知っても、その法を説く者に、怒りや憎しみを持っているようではよいことは起きません。

この辺りの人は、釈尊やキリストに怒りや憎しみを持っているのと同じことをしているからです。釈尊やキリストに、怒りや憎しみを持っていてはいいことが起きるわけがありません。その心を反省しない限り、その人にいいこと(奇跡)が起きるわけがないのです。(天が味方しませんから)

いい加減自分たちの間違いに気づいたらどうでしょう。

昨日でもあんなブログを書いたものですから、怒っている人があちこちにいました。(それでも最近はそういう人も減りましたね)

しかし事実は事実です。ねたみやひがみ、狭い心のままでいるから、いつまでも不幸なことが起きるのです。

よく考えてみてください。

私のいうことを、そのまま聞いていた時は不幸な現象など起きていなかったのです。それどころか、神は存在し、来世もあるということを知って希望を持った人も多かったのです。(現に私は、あるお年寄りに希望が持てたといわれたことがあります)

しかし、私の悪い噂が拡まって、そうして私に嫌がらせを始める人が出始めてから(最初は市バス連中がブシュブシュ始めてからですが)あのサイレンは響くようになったのです。

私にみなが嫌がらせを始める前までは、あのようなサイレンは響いていなかったのです。(救急車のサイレンなど月に一、二度聞けばよい方でした)

しかし、私に嫌がらせをする人が増えてくると時を同じくして、あのサイレンも増えて行ったのです。(最近は嫌がらせをする人が減ったので、サイレンも減っていますが)

もし、あのサイレンの原因が私なら、私が嫌がらせを受ける前からサイレンはしていなければいけないし、最近のサイレンが減った理由も分かりません。

最近はサイレンを聞かない日もあるのではないですか。なぜ、サイレンを聞かない日があるのでしょう?私が嫌がらせを受けない日はないというのにです。

私は未だ嫌がらせを受け続けているのです。なぜ、サイレンを減らす必要があるのでしょう?私があのサイレンを起こしているというなら、私に対する嫌がらせがなくなるまであのサイレンを止めません。

しかし、現実には最近はサイレンを聞かない日もあるのです。それはなぜですか?

それに、自分に嫌がらせをして来た人を病気にした、というのならまだ話も分かりますが、自分が嫌がらせを受けているからとはいえ、その自分と全然関係ない人たちを次々に病気にしてそれが何になるのでしょう。

何でそんなことをするのですか?うさ晴らしですか?

しかし、それだけ危ないうさ晴らしもないでしょう。そんなことをすればするだけ自分が恨みを買うからです。

そんなことをしていたら(うさ晴らしで、自分と全然関係ない人を次々に病気にしていたとしたら)そこらじゅうで恨みを買います。こちらの命まで狙われるかもしれないのです。

そのような行為は、百害あって一利なしだと思うんですが、何でそんな自分にとって不利でしかないことを私はやり続けなければいけないのでしょう?

どう考えても、あのサイレンを私がやっていたとしたらマイナスにしかならないのです。

何で私が自分に何一つ益のないことを、これほど長くやり続けなければいけないのでしょうか?まったく意味が分かりませんね。

せっかく法を知っても、このようなデタラメな噂を信じ、怒りや憎しみまで入れてしまっては法を知った意味がないのです。

そのようなデタラメな噂は早く心から抜いてください。そうして法だけ心に入れて実践されれば奇跡が起きるのです。

デタラメな噂を信じ私を憎み続けたところで、それでどうなるのでしょう。人を憎めば憎むだけ、その憎しみは自分に返ってきます。その憎しみが自分に返って来れば当然自分に災いが起きるのです。

そうなったらどっちみち不幸になるのは自分自身ではないですか。そんな噂を信じ続けても損はしても何一つ得はないのです。

それどころか、そんな噂を信じたばかりに、自分たちが不幸になっているとまだ気づかないのでしょうか?

それが悪魔の噂の怖さなのです。人の心に怒りや憎しみを植え付けるのです。

そうすると、その怒りや憎しみはいずれ自分自身に返ってくるのです。そうなれば百人が百人不幸になります。

名古屋に不幸な人が続出しているのは、そのような悪魔の噂を信じたからなのです。

だから(よけいです)私のいうことを聞かないといけないといっているのです。

悪魔の噂などに心を汚された人は、その汚れはなかなか抜けないからです。その汚れをきれいにするには、心を神の光に満たすしかないからです。

その心を神の光に満たすことが出来るのは、この法しかないのです。だから、早くこの法を勉強した方がいいといっているのです。(だからこれは特に名古屋の人たちに対しいっているのです。相当の人が悪魔の噂に心を汚されているからです)

この法だけ信じていた時は、多くの人の心が救われたのです。

しかし、その後、悪魔の噂まで信じてしまった結果、名古屋の多くの人たちが不幸になりました。(信じなかった人たちはそうでもないのでしょうが、しかしそれでもです。周りが悪魔の噂を信じている人たちばかりです。その影響はかなりあると思います)

悪魔の噂を信じるだけでも人は不幸になるのです。それが名古屋で起きた現象ではっきり分かったのです。

それでもまだ、この神の教えを無視するつもりですか?

悪魔の噂など、そこらじゅうに蔓延(まんえん)しているというのにです。(心に悪影響を与えているものなどそこらじゅうにあるのです。多くの人はそれを知らないだけなのです。だから神の教えを知らないといけないのです。唯一心を浄化できるものだからです)

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6月 20 2015

愛と智慧と広い心

最近は、熊に襲われたりイノシシに襲われたりする事件なども多発しています。

しかし、昨日公開した動画を観てもらえれば分かりますように、動物たちは人のいうことをよく聞きますし(当然人の言葉もよく理解しています)愛想のいい態度も取ります。

基本的には、動物は人のことが好きなのです。

その人に愛があるなら、動物はその人から逃げたり襲ったりはしません。動物たちがそのような態度を取るのは、その人に愛が足りないからです。

動物をどうこういうより、まず自分たちの愛のなさ智慧のなさを反省されてはどうでしょうか。そのような愛と智慧がある人が増えれば、逆に不幸な動物たちは減って行くからです。(愛と智慧のある人がもっと増えれば、ペットを捨てる人も減るでしょうし、むやみに餌をやったりして、動物たちを必要以上に増やしたり、呼び込んだりすることもなくなるからです。私は餌などやらなくても、いくらでも動物たちは嬉しそうに寄って来ます)

鳥などが寄って来る私を見て、ひがんだりねたんだりしている人もいますが、そのような心を持つからますます愛も智慧もなくなるのであって、少しは見習ってはどうでしょう。そのような広い心があるなら、いずれは動物たちも寄ってくるようになるからです。

この辺りの人たちは反発ばかりしています。だからよいことが起きないのです。(そうして悪いことが起きたら私のせいです。〔責任転嫁〕ますます愛など出て来なくなります。それでは憎しみしか出て来ないでしょう…なんか愛とか智慧とか広い心とか、この辺りの人にあてつけのようなことばかり書いていますね。〔苦笑〕)

どこかの会社も今日は休みのようですが、せっかくの休みでも、何か恐ろしい病気が発症するのではないかと思ったら、気が気ではないでしょう。それでは休んでいても何も楽しくありません。(ブログにも書きましたが今週はもう朝からパワー全開でしたからね)

そういう人生が楽しいのでしょうか?

この人たちは愛もなければ智慧もない(何せ同じことばかりやっています。本当に智慧がありません)広い心もない典型のような人たちだと思いますが、これでは不幸にしかならないのです。

このような人たちが、仮に百まで生きたとしても何も楽しいことなどないからです。病気の心配ばかりしていなければいけないのです。そんな人生など一体何が楽しいのでしょうか。

愛もなければ智慧もない、広い心も持てないような人など楽しい人生を送れるわけがないのです。

しかしそれは特別この辺りの人だけではなく、誰にでもいえることなのではないでしょうか。

自分が、いつ恐ろしい病気になるのか分からないという不安は誰にでもあります。ただ他の人は、どこかの会社の連中よりは切実ではないということだけです。

そうであるなら、それは一時その不安を忘れているだけであって、常にそのような不安は心にあるわけですから、その不安を時々思いだしてそれで本当に楽しい人生が送れているのか、ということも考えなければいけないのではないでしょうか。

実際の多くの人は、ただ表面上ごまかしているだけで、そのような数々の不安を心に宿したまま、不幸な人生を歩んでいるということです。(死への恐怖はもちろんですが)

そのような人生が本当に楽しいのですか?

表面上楽しそうに見せているだけで、心の中では、いつ病気をするのか分からないとか、いつ不幸な事故に巻き込まれるのか分からないとか、死ぬのが怖いとか思っているわけです。

それでは偽善者のような生活ではないですか。もっと自分の心に正直になったらどうでしょう。

しかし、多くの人が自分の心に正直になったら、暗い人生しか送れなくなります。そうは自分の心に正直にもなれないでしょうね。(笑)

要は、その心の不安を取り除ければいいのであって、それには先ほどいいました、愛と智慧と広い心が必要なのであって、それが備わっているのなら、その不安の心はなくなり本当の楽しい人生が送れるということになります。

その愛と智慧と広い心がないから、その不安を取り除くことが出来ないのです。そのような心があれば、その不安を取り除くことが出来るのはこの法しかないとすぐに分かるからです。

つまり、本当の神の教えを学ぶ以外、その不安を取り除く方法はないということです。

現に、このブログを知って信じた結果、そういう心の不安が少なくなった人は多いと思います。

しかし、その不安がなくなったわけではありません。なぜ、なくならないのか?

それはこの教えを真剣に学ばないからです。

この教えを真剣に学ぶのであれば奇跡が体験できます。そのような奇跡を体験すればするだけ、そのような心の不安は解消されていくのです。

それはなぜか?

奇跡を体験するということは、それは即ち神の業を体験するということだからです。

神の業を体験するということは、それだけ神とかかわるということなのですから、その神とは愛と慈悲の塊の存在なのですから、その神とのかかわりが深まれば深まるほど、そのような神の愛と慈悲の力で浄化され、心の不安はなくなっていくのです。

私がいい例です。普通であれば、これだけ多くの人から嫌がらせを受ければ、鬱(うつ)になってもおかしくはありません。しかし、精神的にはいたって健康なのです。(心が健康でなければこれだけブログも書けません)

なぜ、普通でいられるのか?

神の愛が次々に周りに現れているからです。それだけの神の愛に接しているから普通でいられるのです。

私に嫌がらせをしてくる人たちは次々と不幸になり、外に行けば、動物たちがかわるがわる愛ある行いをしてきます。

別に、私に嫌がらせをしている人たちが不幸になることがいいとはいいませんが、神が依怙贔屓(えこひいき)をするわけがありません。

悪い現象が起きるのは起きる人に問題があるのであり、それを気づかなければいけないのであり、そのようなところにも神の愛を感じるのであり、外に行けば動物たちの嬉しそうな態度を見るだけで、そこにも神の愛を感じるのであって、そのような神の愛に癒され続けているのであれば、自分が持っている不安など段々なくなって行くのです。

すべて神が導いてくださる、そのような心が自然と大きくなって行くからです。

つまり、神の愛を感じることが増えれば増えるほど、不安な心はなくなって行くということです。不安より愛の心の方がはるかに勝るからです。

だから、神の愛を感じれば感じるほど不安はなくなって行くのです。神が自分を不幸にするはずはないと、段々思えるようになるからです。

毎日、不安を隠しつつ表面上だけ楽しそうな人生を送るのと、心から楽しい人生を送るのと、どちらが幸せなのでしょうか?

偽善のような人生はソロソロ卒業されてはいかがでしょう。

そのような人生を卒業するには、愛と智慧と広い心が必要なのです。

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